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2005年03月27日
マタイ28・1-10 (2005/3/27復活の主日)
【教会暦と聖書の流れ】
復活の主日のミサには「復活徹夜祭」と「日中のミサ」、「夕刻のミサ」があります。古代ユダヤの日付は日没と共に変わることになっていましたが、イエスは死んで三日目、今で言えば土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に復活したと考えられ、古代から主の過越(イエスが死からいのちへ移られたこと)の祝いは夜中に行われていました。光の祭儀や大人の洗礼・堅信を行って主の過越を祝う復活徹夜祭は復活祭のメインのミサだと言えるでしょう。
ここにあげたマタイ福音書の箇所はこの徹夜祭のミサの中で読まれる福音で、日中のミサでも読むことができます。日中のミサの固有の箇所は毎年同じヨハネ福音書20・1-9ですが、今回はマタイを取り上げます(なお、夕刻のミサではルカ24・13-35が読まれます)。
【福音のヒント】
(1) 「安息日」は今でいうと金曜日の日没から土曜日の日没までの一日を指します。土曜日の日没から始まる次の一日が「週の初めの日」でした。
マルコ福音書ではイエスの墓にいたのは「若者」ですが、マタイでは「地震」とともに「主の天使」が現れます。マタイはここに神の大きな働きがあり、ここで告げられる言葉はまさに神のことばであることを明確に示そうとしているようです。
(2) マルコでは女性たちが墓に着いたとき、すでに墓の入り口をふさいでいた石は取り除けてありましたから、その入り口を通って復活したイエスが墓から出て行ったような印象があります。しかし、マタイでは彼女たちが墓に行った瞬間に墓が開きます。マタイで墓の入り口が開かれるのは、イエスが墓を出て行くためではなく、女性の弟子たちに空の墓を見せるためだと言うことができるでしょう。イエスの「復活」とは、死んだ人が生き返ったというレベルの話ではなく、イエスが死に打ち勝ち、神の永遠のいのちを生きる方となったことを表すことばです。復活のいのちとは、時間・空間の制約を越えたいのちなのです。その意味では、物理的に墓の入り口が開かれている必要も、イエスの遺体がなくなっている必要もないと言えるでしょう。これらの出来事は、復活そのものの証拠というよりも、イエスが復活したということを弟子たちに悟らせるためのしるしなのです。
(3) 「マグダラのマリアともう一人のマリア」はマタイ27・51にも登場し、そこではイエスの埋葬を見守っています。さらにその前の27・56ではイエスの十字架を見守っていた女性たちの名として「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」の名前が挙げられています。男の弟子たちが逮捕されたイエスを見捨てて逃げ去ったのに、最後までイエスについていった女性の弟子たちの姿は印象的です。ヨハネ20章の空の墓の場面ではマグダラのマリア一人だけが登場しますが、マタイやマルコ、ルカはこれらの場面すべてに複数の女弟子が立ち合っていたことを伝えています。一人の証言よりも複数の証人による証言のほうが確かだと考えられていたからでしょうか。あるいは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18・20)というイエスの約束を思い出すこともできるでしょう。
さらに、きょうの箇所で「もう一人のマリア」と呼ばれているマリアをわたし自身のことだと考えてみると、福音はもっと身近に感じられるようになるかもしれません。
(4) 福音書が伝える、復活したイエスに出会った弟子たちの物語は、2000年前に起こった一回限りの出来事というだけでなく、今もわたしたちの中で起こっている、わたしたちとイエスとの出会いの物語として読むとよいでしょう。
見張りをしていた人たちは地震と天使の出現に「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(4節)のですが、二人の女性も同様だったかもしれません。天使は彼女たちに「恐れることはない」(5節)と語りかけますが、この命令形は現在していることを禁じる命令の形で、「恐れることをやめよ」という意味です。天使のことばを聞いた女性たちは「恐れながらも大いに喜び」ました。この時点では「喜び」と「恐れ」が同居しています。彼女たちが本当に恐れから解放されるのはイエスに出会ったときです。イエスは「おはよう」と語りかけましたが、このことばは直訳では「喜べ」です(一般的なあいさつの言葉でもあるので「おはよう」と訳されています)。さらにイエスは彼女たちに天使と同じ言葉で「恐れることはない」(10節)と言います。この出会いが、彼女たちを根本から変えるのです。
わたしたちの中にもさまざまなことに対する恐れがあります。時としてわたしたちは恐れに囚われて身動きできなくなっているかもしれません。「恐れ」から解放されて「喜び」に満たされていく体験、そして凍り付いていたわたしたちの心が動き始める体験、そういう体験が復活(過越)の体験だと言ってもよいのでしょう。
(5) きょうの箇所は確かに出現(死んだイエスとの再会)の物語を含んでいますが、天使もイエスも、この後にもっと重要な出現が起こることを予告します。「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。マタイ福音書のクライマックスは16-20節のガリラヤの山での出現で、きょうの箇所はそこに向かう前段階に過ぎないとも言えます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20) マタイ福音書が伝えようとする復活のイエスは、目に見えないが、いつもわたしたちと共にいてくださるイエスなのです。ところでガリラヤの山と言えば、マタイ福音書では5-7章の山上の説教も思い出されます。復活のイエスはきょうもわたしたちに「幸い」の福音を語りかけ、みことばをもってわたしたちを導いているとも言えるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2005年03月27日 15:51
コメント
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投稿者 にゃん : 2011年12月10日 13:13
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