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2005年03月20日

マタイ27・11-54 (2005/3/20受難の主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 教会の暦では、この週の木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度、3日間かけて、キリストの受難・死から復活のいのちへ、という過越(パスカ)を記念します。毎年この中の聖金曜日の典礼でヨハネ福音書からの受難朗読が行われます。一方、主日のミサのサイクルでも、キリストの生涯の主な出来事を記念していくので、復活の主日の前の週の日曜日に、イエスの受難を記念することになっています。受難の主日には3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書からの受難朗読が行われます(今年はマタイ。長い形としてマタイ26・14~27・66を読むこともできます)。
 なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。

【福音のヒント】

 (1) マタイの受難物語は、マルコ福音書の受難物語を基にしていて、そこにいくつかの独自の伝承を加えたものです。この箇所で、マタイが付け加えた伝承は、10節のピラトの妻からの伝言、24-25節のピラトと民衆のやりとり、さらに51-53節で神殿の垂れ幕が裂けた後の出来事です。10、24-25節では、イエスが無罪であること、イエスの死の責任はローマ人であるピラトにではなく、むしろユダヤ人にあることが強調されているようです。そこには、マタイ福音書が書かれたころのユダヤ教との対立、ローマ帝国によるキリスト教迫害(ローマ帝国と敵対しない配慮が必要だった)などの事情が反映しているのかもしれません。なお、イエスの裁判はイエスの殺害を正当化するために行われたもので、裁判からはイエスがなぜ死刑にならなければならなかったかは見えてきません。イエスは裁判で自分を神の子であると言ったから死に定められたのではなく、イエスのこれまでの活動とメッセージ全体が当時のユダヤ人指導者たちの目に危険なものと映ったから死に追いやられていったのです(51-53節については後述します)。

 (2) 40-43節で十字架につけられたイエスをののしる人々の言葉「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」は、マルコ福音書よりもくわしくなっています。この言葉は、イエスの宣教活動に先立つ荒れ野での誘惑のことばを思い出させます。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4・6)
 自分の身を守ることは一般的には悪いことではないはずです。しかし、ここで問題なのは、それがこの場合には人を神から引き離す誘惑であるからです。イエスは自分を神から引き離す誘惑を拒否しました。最後の苦しみの中でもそうしたのです。ただ「悪いことをするかしないか」という面だけで誘惑を考えるのではなく、「わたしたちを神から引き離そうとするものは何か」と考えると、自分の問題としての誘惑が見えてくるのではないでしょうか。

 (3) また、イエスをののしった人々のこの言葉は、詩編22をも思い出させます。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」(9節) マタイの受難物語の背景には、この詩編があります(マルコもそうですが)。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」も詩編22の冒頭のことばです。「くじを引いてその服を分け合い」(マタイ27・35)は、詩編22・18-19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」を思い出させます。
 詩編22は苦しみのどん底からの祈りですが、単に苦しみの叫びでは終わりません。苦しみの中からの祈りは、次第に賛美と感謝に変わっていきます。それは「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)と確信しているからです。この詩編はイエスの時代まで、何世代にも渡って苦しみのどん底にいる人々によって歌い継がれ、イエスの後にも、多くの人がこの詩を自分の祈りとして歌い続けてきました。イエスはその一員だと言ったらよいでしょうか。
 マタイは、イエスの十字架を神からも見捨てられたような悲惨な死であるというだけでなく、そこに、徹底して苦しむすべての人とつながりを生き、同時に神に従って生きる姿を見ていると言ったらよいでしょう。苦しみの中にあるときに、神から離れ、人からも孤立してしまうのか、それとも、苦しみの中で、神につながり、人とつながって生きるのか、それはわたしたちにとっても大きなテーマなのではないでしょうか。

 (4) 51節の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」はマルコ福音書も伝える話です。神と人とを隔てているものが取り払われることを暗示しているようです。51b-53節「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」は、マタイ福音書だけが伝える不思議な話です。確かに言えることは、イエスの復活がイエス個人だけに意味のあることではなかったということを、この出来事が指し示していることでしょう。イエスの受難だけでなく、復活にもすべての人との連帯性があるのです。復活とは、神とのきずなの完成であり、同時に人とのきずなの完成です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と約束されるイエスは、わたしたちが死に臨むときも、死を超えてさえも、つねに共にいてくださるかたです。ここにわたしたちの希望があるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2005年03月20日 15:48

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