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2005年02月27日

ヨハネ4・5‐42 (2005/2/27四旬節第3主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 古代から伝わる洗礼志願者のための朗読箇所は、ヨハネ4章(サマリアの女)、9章(生まれつきの盲人のいやし)、11章(ラザロのよみがえり)です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。現在の朗読配分では、この3箇所がA年(今年)の四旬節第3、第4、第5主日に読まれます(なお、ここでは、『聖書と典礼』の短い朗読ではなく、伝統的な長い朗読に基づいて話を進めます)。

【福音のヒント】

 (1) ヨハネ福音書を読むときに、物語は単なる出来事の報告ではないことに注意すべきでしょう。ヨハネは一つ一つの出来事をとおしてイエスとはどういう方であるかが現れる、という見方をしています。この箇所では、この出来事をとおして「イエスこそがいのちの水の与え主である」ことが現されるのです。それは2000年前のどこかの誰かの物語ではなく、「復活して今も生きている神の子キリスト」であるイエスとわたしたちとの出会いに気づかせるための物語だと言ってもよいでしょう。

 (2) 福音の舞台はサマリアの町です。サマリアは、紀元前10世紀にイスラエルの王国が分裂したとき、北王国の中心になった地方です。エルサレムを中心とする南のユダ王国と対立し、ゲリジム山に独自の聖所を持ち、後にサマリア人として民族的にもユダヤ人と分かれてしまいました。この物語の背景には、こういう民族間の「壁」があります。エルサレムか、ゲリジム山か、礼拝の場所の問題は、ユダヤ人とサマリア人を隔てる大きな問題でした。
 もう1つの壁は、男女の間の「壁」です。当時の社会では、男性と女性は対等な人間同士として関わることはできないと考えられていました。女性は男性の性的欲望の対象であり、だからこそ距離を設けて守られるべき存在と見られていました。道端で男性が見知らぬ女性に声をかけ、立ち話をするということは考えられなかったのです。だから、この女性も弟子たちもイエスが彼女に声をかけ、彼女と話していることに驚いたわけです(9節、27節)。
 さらに、この女性と町の普通の人々との間の「壁」。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節) 彼女はイエスにこう言いあてられます。罪びとというよりも、男運に恵まれず、つらい思いを繰り返し、心が深く傷ついている女性というべきでしょうか。この町での彼女の評判は決して良くなかったでしょう。当時、水汲みは女性の仕事でした。女たちは朝や夕方に水汲みに集まり、そこでさまざまな情報交換(井戸端会議)をしたのです。「正午ごろ」(6節)水を汲みに来たこの女性は、他の女性たちと顔を合わせたくなかったのではないかと考えられます。

 (3) イエスはどのようにこれらの「壁」を乗り越えていったのでしょうか。
 イエスは自らも疲れ、渇く者として彼女に出会いました。「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」(6節)と言われますが、きょうの箇所の直前に、イエスの活動が誤解され、ユダヤに留まることができなくなったという記事があります(1-4節)。イエスの疲れには、人々の無理解によるダメージという面も含まれているのかもしれません。だとすれば、イエスの姿は、人とのつながりを失っていたこの女性の苦しみと通じ合います。
 水はいのちのシンボルです。「生きた水」(10、11節)は、ヨハネ7・37-39では「聖霊」のことを意味していますが、ここでは「人を真に生かすもの」と考えればよいでしょう。彼女に対して、イエスは一方的に「わたしがいのちの水を与えよう」と言うのではありません。まず、イエスのほうが「水を飲ませてください」(7節)と言います。イエスの彼女との関わり方には、「あなたも渇くし、わたしも渇く」という連帯性が感じられるのではないでしょうか。この連帯性の中で、男性と女性の間の壁、ユダヤ人とサマリア人の間の壁、評判のよい人と悪い人の間の壁が乗り越えられるのではないでしょうか。「霊と真理による礼拝」(23,24節) 霊は「神からの力」であり、真理は「イエスにおいて現されたこと」だと言えるでしょうか。ただあまり難しく考えず、単純に「真心をもって」と受け取ってもよいのかもしれません。ここにも人と人とを隔てる壁を乗り越えるものを見いだすことができるでしょう。

 (4) 「水を飲ませてください」についてラルシュのジャン・バニエはこう言っています。「イエスは彼女に目を留め、『水を飲ませてください』と語りかけました。つまり、『あなたにお願いがあります』と伝えたのです。これは、『私のために何かしてほしい(あなたが必要だ)』とこちらから願って近づいていった本当にすばらしい出会いです。・・・・本当に人を愛するとは、何かをしてあげることではありません。何かをしてあげて、人を傷つけ、潰してしまうことは実に簡単です。一生懸命にお世話をしながら、『あなたは自分ではできないでしょう』と、その人の無力さを見せつけてしまうこともあるからです。人を愛するとは、その人自身の美しさを自分で発見させ、見せてあげることだと思います。その人の存在する場所を作ってあげることです。あなたは大切な人であり、あなたには価値があると、その人自身に示してあげることです」(『心貧しき者の幸い』あめんどう刊。40-41ページ)

 (5) 27節から、帰ってきた弟子たちとの間で、ミッション(派遣・使命)の話になります。弟子たちは自分たちで食物を手に入れてきましたが、イエスは別なところに弟子たちの目を向けさせます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」(34節) イエスを生かすものは、神のミッションを生きることなのです。そして「刈り入れ」について語り始めます。ヨハネ4章の中での「刈り入れ」とは心に傷を負った女性とサマリアの町の人々とイエスとの間に心が通じたということでしょう。目の前でもうすでに神の働きが実現している、わたしたちもそれに気づくことができるでしょうか。

投稿者 ct : 15:37 | コメント (0)

2005年02月20日

マタイ17・1‐9 (2005/2/20四旬節第2主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 古代からの伝統に従い、四旬節第2主日の福音では毎年「イエスの変容」の場面が読まれます。今年はマタイ福音書です。山の上でイエスの姿が光り輝いた、この変容の出来事は、ただ単に「偶然ある時、イエスの栄光の姿が表された」のではなく、「イエスが受難と死をとおって受けられる栄光の姿が前もって示された」という出来事です。ここに「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節全体の根本的なテーマが示されているのです。
 四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」とつながっています。

【福音のヒント】

 (1) きょうの箇所の始めにある「六日の後」ということば(マタイ17・1。朗読聖書では省かれている)は、直前の出来事との関連を感じさせます。この箇所の前にあるのは、ペトロの信仰告白と最初の受難予告です。マタイ16・21「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」変容の出来事は、この受難予告と密接につながっています。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」(マタイ17・9)もそのことを暗示しています。16章の終わりにあるのが「ことばによる受難予告」だとしたら、17章は「出来事による受難予告」と言ってもよいほどです。この出来事は、イエスが受難と死をとおって受ける栄光の姿を弟子たちに垣間見させ、イエスに従うように弟子たちを励ますための出来事だったと言ったらよいでしょう。
 モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとモーセ、エリヤが話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9・31)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきをいっそう明確にしています。

 (2) ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょうか。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。
 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう。聖書の中では、目に見えない神がそこにいてくださる、というしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40・34-38参照)。
 雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マタイ3・17)。この言葉の背景にはイザヤ42・1の「主の僕(しもべ)」についての言葉があると言われます。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難の道を歩み始めますが、そのときに再び同じ声が聞こえます。この受難の道も神の子、主の僕としての道であることが示されるのです。
 そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18・15参照)。受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。
 受難の道を行くイエスに従っていくこと、これがきょうの福音の呼びかけです。しかし、実際には、この弟子たちはこれほど大きなイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。わたしたちはどうでしょうか。イエスについていけるという自信は誰にもないかもしれません。

 (3) 「イエスが苦しみと死をとおって復活のいのちに移られたこと」を「主の過越(すぎこし)」といいます(ギリシャ語の「パスカ」という言葉もよく使われます)。もともとイスラエルの民のエジプト脱出の祝いが「過越祭(パスカ)」でしたが、イエスが十字架にかかって死に三日目に復活したのはこの過越祭のころ(春分の日の後の満月のころ)であり、イエスの死と復活を祝う新しい「過越祭(パスカ)」をキリスト者も祝うようになりました。
 きょうの変容の出来事を「未来の栄光があるのだから今の苦しみに耐える」というだけではなく、「苦しみと死から喜びといのちに変えられていく歩み」という過越のイメージで捉えてみてはどうでしょうか。
 隷属から自由へ。悲しみから喜びへ。絶望から希望へ。闇から光へ。死からいのちへ。
 あるいはまた、孤立から連帯へ。疑いから信頼へ。憎しみから愛へ。
 わたしたちの中にも、このような「過越」の体験があるのではないでしょうか。もしもわたしたちが、自分の人生の物語を「過越の物語」として受け取ることができたとするならば、そこに、イエスを死からいのちへと移してくださった神の力強い働きを感じることができるでしょう。そのときにわたしたちは、イエスのあとを歩み、イエスとともに歩んでいることになるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 15:26 | コメント (0)

2005年02月13日

マタイ4・1‐11 (2005/2/13四旬節第1主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 洗礼は、キリストの死と復活にあずかり、新たないのちに生きはじめることを表す秘跡なので、古代の教会では復活祭に行われていました。また、復活祭に洗礼を受ける人の最終的な準備のための特別な期間が徐々に形作られていきました。これが四旬節の起こりです。
 時代とともに、四旬節はただ洗礼志願者のための季節というだけでなく、キリスト者全体がキリストの死と復活にふさわしくあずかるための期間と受け取られるようになりました。
 「四旬節」ということばは40日間を意味します。これはもともと断食の日数でした(伝統的に日曜日を除いて復活祭前の40日を数えるので、灰の水曜日からが四旬節となります)。四旬節には、断食に象徴される回心=主に立ち返ること、さらに具体的に「祈り、節制、愛の行い」が強く勧められています。
 この日の福音では、四旬節の原型である、イエスの荒れ野での誘惑の場面が読まれます。今年はマタイですが、先週までの年間主日の流れから離れて、もう一度、イエスの活動の出発点に立ち戻ります。ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされ、「神の子」として示されたイエスは、同じ聖霊によって荒れ野に導かれ、悪魔と対決しますが、その中で「イエスの神の子としての道」が明らかにされていくのです。

【福音のヒント】

 (1) 40という数は聖書の中では、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。何よりも紀元前13世紀、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に入るまでの「40年間の荒れ野の旅」が思い出されます。きょうの福音の箇所全体は、この荒れ野の40年の体験をもとにしています。

 (2) 荒れ野は水や食べ物が欠乏している場所で、一般的に言えば生きるのに厳しい場所です。しかし、イスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。荒れ野は、ぎりぎりの生活の中で、神から与えられたわずかなものを、皆が分かち合う場でした。約束の地に入り、定住して農耕生活を始めると、人は倉を建てて作物を貯えるようになります。そのとき、自分の貯えに頼り、神を忘れる危険が生じます。豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はさらに貧しくなる、ということも起こります。そこから振り返ったときに、あの荒れ野の中にこそ、神との生き生きとした交わりがあり、人と人とが分かち合い、助け合う生活があったことに気づくのです。

 (3) 「悪魔がイエスを誘惑する」というのは分かりにくいかもしれません。聖書の中で「悪」とは神から離れることであり、人間を神から引き離そうとする力の根源にあるものが、人格化されて「悪魔」と呼ばれるようになったのだと考えればよいでしょう。
 「石をパンにしてみろ」は物質的なものによって満たされようとする誘惑だと言えるでしょうか。「神殿の屋根から飛び降りよ」は自分の身の安全を確保しようとする誘惑だと言ってもよいでしょう。このことばは、イエスが生涯の最後に十字架の上で受けた誘惑、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27・40)によく似ています。「国と繁栄を与える」は、この世の富と権力を手に入れようとする誘惑でしょう。「サタン、引き下がれ」は受難を予告したイエスをとがめたペトロに向かって言われたことば(マタイ16・23)と同じです。ここでもイエスの受難の道との関連が暗示されています。これらの誘惑を退けることを通して、イエスの道とはどのような道であるかが示されるのです。
 ただし、モノや安全を手に入れようとすることのすべてが悪の誘惑とは言えないかもしれません。イエスは5つのパンでおおぜいの群集を満たし、多くの病人をいやしたと伝えられています。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全が必要です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味では、これらを悪と決め付けることはできません。問題は、神との関係を見失ってそれらを求めること、それらを求めるあまり、神との、隣人との親しい交わりを失ってしまうことだと言えるのではないでしょうか。

 (4) イエスの悪魔への答えは、すべて申命記の引用です。申命記の大部分は、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」というかたちを取っています。
 イエスの答え「人はパンだけでなく・・・」は申命記8・3の引用です。荒れ野の旅の途中、イスラエルの民に与えられた「マナ」について語ることばです。マナが与えられたのは、人がマナによって生きることを教えるためでなく、神によって生きるものであることを教えるためであった、というのです。7節の「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6・16の引用です。ここでは出エジプト記17章のマサ(メリバ)での出来事が思い起こされます。イスラエルの民が、荒れ野でのどが渇き、神とモーセに不平を言う場面です。10節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6・13の引用です。これは、民が約束の地で定住生活を始め、家を建て、豊かな食物で満腹となり、周辺民族の他の神々にひかれるようなことがあってはならない、という警告の中で語られることばです。

 (5) 四旬節のテーマは自分を荒れ野に置いてみることだ、と言えるかもしれません。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみるのです。生きるのにぎりぎりのところだからこそ、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟たちとの連帯を思うのです。わたしたちにとっての荒れ野とは?

投稿者 ct : 15:18 | コメント (0)

2005年02月06日

マタイ5・13‐16 (2005/2/6年間第5主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 マタイ福音書5~7章のいわゆる「山上の説教」の中で、冒頭の「八つの幸い」に続いて語られることばです。イエスはガリラヤの丘の上で、群集と弟子たちに向けてこれらのことばを語られました。もちろん特定の弟子だけでなく、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(4・24)であった群集もこのことばを聞いていたのです(7・28参照)。
 マタイ福音書でイエスの活動の歩みを追っていく今年の年間主日ですが、今週の水曜日から四旬節になり、この流れは中断してしまいます。年間主日の流れに戻るのは、6月5日の年間第10主日(マタイ9・9‐13)です。祭日と重なるなどの理由で4つの主日が消えてしまうので、山上の説教の多くの部分は読まれないままです。それではあまりにも残念ですから、先週と今週の福音を手がかりに、ぜひ一人でゆっくり味わってみてください。

【福音のヒント】

 (1) イエスが決して「地の塩になれ」「世の光になれ」と言っていないことに注意しましょう。塩でない者に向かって無理して塩味を出せとか、光でない者に向かって無理して輝けといっているのではないのです。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とイエスは断定します。そして、塩なのだから塩味を出すのは当然であり、光なのだから周囲を照らすのは当然だと言っているのです。

 (2) しかし、本当にわたしたちは自分を「地の塩」「世の光」と感じられるでしょうか。このことばはわたしたち以上に、2000年前にガリラヤの丘の上でこのことばを聞いていた人にとって、信じられないようなことばだったでしょう。イエスの弟子と言ってもみな漁師で、「無学な普通の人」(使徒言行録4・13)でした。周りにいた群衆は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4・23)だったのです。社会的に見ればたいして立派ではなく、多くは何の役に立たない、律法の基準からすれば罪びとに近い人々、いてもいなくてもよい人。しかし、その人々にイエスはこういうのです。イエスは何の根拠も示しません。あなたに何ができるからとか、他の人よりも優れているから、ではないのです。神から見れば、無条件に、あなたがたの一人一人がかけがえのない大切な塩であり、すばらしい光なのだ、というのです。これが福音です。問題は、この福音をわたしたちが本気で受け取れるかどうかです。

 (3) 「おまえはダメだ」「おまえなんかいてもいなくてもいい」「おまえがどうなろうが関係ない」そういうメッセージが、わたしたちの社会の中で、職場や学校で、もしかしたら夫婦や親子の間でさえ飛び交っている現実があります。わたしたちの周りの、どれほど多くの人が「あなたがたは地の塩、世の光である」というメッセージを必要としているでしょうか。イエスは2000年前の人々にどうやってこのメッセージを伝えたのでしょうか。わたしたちはどうやって伝えることができるのでしょうか。

 (4) 塩は食べ物に味付けをするだけでなく、腐敗を防ぐ大切なものだと受け取ればよいでしょう。「塩に塩気がなくなる」とはどういうことでしょうか。当時の塩は精製が不十分で、腐敗してダメになってしまうことがあった、とも言われます。しかしやはり本来、塩が塩でなくなることはありえない、と考えたらよいと思います。13節のイエスのことばは、「塩が塩味を失うことはないはずだ」ということを強調しているのでしょう。
 「山の上にある町」(14節)は、天のエルサレム、終末的な神の都のイメージかもしれません(黙示録21・1-22・5参照)。「エルサレム」と言っても、もちろん現実のある地名の話ではなく、象徴的な表現です。神の救いに満たされた状態、それは、神と人とが一つに結ばれ、人と人とが愛によって結ばれる状態です。あまりにもわたしたちの社会の現実とは程遠いと感じられるでしょうか。確かに、現実にはどこにもそんな町は見えません。今は信仰の目をとおしてしか見えないと言ってもよいでしょう。しかし、「山の上にある町は隠れることができない」いつか必ず現れる、それが新約聖書の希望です。
 16節の「立派な(カロス)」は、直訳では単に「良い」(「美しい、役に立つ」という意味での実際的な「良さ」を表すことば)です。「あなたがたは光だ」というメッセージを本気で受け取ったときから、わたしたちの人生は輝き始めます。わたしたちのことばと行動が、何かしら違ったものになります。これが「良い行い」です。神がわたしたちを光としてくださったからこそ、それが可能なのです。だから、「良い行い」であがめられる(栄光を与えられる=直訳)のは、その行いをした人間ではなく「天の父」なのです。こんなふうに、自分にではなく神に栄光が帰される喜びを感じることがありますか。

 (5) 山上の説教にはたくさんの命令があります。イエスは神の御心にかなうことがなんであるかをはっきりと示しています。その中には非常に厳しく、人間には実行困難と感じられるようなものも少なくありません。敵を愛しなさい、情欲をもって女を見てはいけない、一切誓ってはならない、などなど。しかし、だからこそ、そのすべてに先立って「福音」があることは大切です。この福音は「八つの幸い」の中では「天の国(バシレイア)はあなたがたのものである」ということ、すなわち「神は決してあなたがたを見捨ててはいない。神が王(バシレウス)としてあなたがたを救ってくださる」ということでした。きょうの箇所もまさに「福音」として受け取るべき箇所です。
 山上の説教を読むとき、あらゆる掟や命令の前に、次のことばを補って読んでみてください。「神はあなたを愛してくださっている。だから~」「神はあなたを地の塩、世の光と見ていてくださる。だから~」「あなたはもうゆるされて、神の子とされているのだ。だから~」

投稿者 ct : 15:14 | コメント (0)