« マタイ5・1‐12a (2005/1/30年間第4主日) | メイン | マタイ4・1‐11 (2005/2/13四旬節第1主日) »

2005年02月06日

マタイ5・13‐16 (2005/2/6年間第5主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 マタイ福音書5~7章のいわゆる「山上の説教」の中で、冒頭の「八つの幸い」に続いて語られることばです。イエスはガリラヤの丘の上で、群集と弟子たちに向けてこれらのことばを語られました。もちろん特定の弟子だけでなく、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(4・24)であった群集もこのことばを聞いていたのです(7・28参照)。
 マタイ福音書でイエスの活動の歩みを追っていく今年の年間主日ですが、今週の水曜日から四旬節になり、この流れは中断してしまいます。年間主日の流れに戻るのは、6月5日の年間第10主日(マタイ9・9‐13)です。祭日と重なるなどの理由で4つの主日が消えてしまうので、山上の説教の多くの部分は読まれないままです。それではあまりにも残念ですから、先週と今週の福音を手がかりに、ぜひ一人でゆっくり味わってみてください。

【福音のヒント】

 (1) イエスが決して「地の塩になれ」「世の光になれ」と言っていないことに注意しましょう。塩でない者に向かって無理して塩味を出せとか、光でない者に向かって無理して輝けといっているのではないのです。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とイエスは断定します。そして、塩なのだから塩味を出すのは当然であり、光なのだから周囲を照らすのは当然だと言っているのです。

 (2) しかし、本当にわたしたちは自分を「地の塩」「世の光」と感じられるでしょうか。このことばはわたしたち以上に、2000年前にガリラヤの丘の上でこのことばを聞いていた人にとって、信じられないようなことばだったでしょう。イエスの弟子と言ってもみな漁師で、「無学な普通の人」(使徒言行録4・13)でした。周りにいた群衆は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4・23)だったのです。社会的に見ればたいして立派ではなく、多くは何の役に立たない、律法の基準からすれば罪びとに近い人々、いてもいなくてもよい人。しかし、その人々にイエスはこういうのです。イエスは何の根拠も示しません。あなたに何ができるからとか、他の人よりも優れているから、ではないのです。神から見れば、無条件に、あなたがたの一人一人がかけがえのない大切な塩であり、すばらしい光なのだ、というのです。これが福音です。問題は、この福音をわたしたちが本気で受け取れるかどうかです。

 (3) 「おまえはダメだ」「おまえなんかいてもいなくてもいい」「おまえがどうなろうが関係ない」そういうメッセージが、わたしたちの社会の中で、職場や学校で、もしかしたら夫婦や親子の間でさえ飛び交っている現実があります。わたしたちの周りの、どれほど多くの人が「あなたがたは地の塩、世の光である」というメッセージを必要としているでしょうか。イエスは2000年前の人々にどうやってこのメッセージを伝えたのでしょうか。わたしたちはどうやって伝えることができるのでしょうか。

 (4) 塩は食べ物に味付けをするだけでなく、腐敗を防ぐ大切なものだと受け取ればよいでしょう。「塩に塩気がなくなる」とはどういうことでしょうか。当時の塩は精製が不十分で、腐敗してダメになってしまうことがあった、とも言われます。しかしやはり本来、塩が塩でなくなることはありえない、と考えたらよいと思います。13節のイエスのことばは、「塩が塩味を失うことはないはずだ」ということを強調しているのでしょう。
 「山の上にある町」(14節)は、天のエルサレム、終末的な神の都のイメージかもしれません(黙示録21・1-22・5参照)。「エルサレム」と言っても、もちろん現実のある地名の話ではなく、象徴的な表現です。神の救いに満たされた状態、それは、神と人とが一つに結ばれ、人と人とが愛によって結ばれる状態です。あまりにもわたしたちの社会の現実とは程遠いと感じられるでしょうか。確かに、現実にはどこにもそんな町は見えません。今は信仰の目をとおしてしか見えないと言ってもよいでしょう。しかし、「山の上にある町は隠れることができない」いつか必ず現れる、それが新約聖書の希望です。
 16節の「立派な(カロス)」は、直訳では単に「良い」(「美しい、役に立つ」という意味での実際的な「良さ」を表すことば)です。「あなたがたは光だ」というメッセージを本気で受け取ったときから、わたしたちの人生は輝き始めます。わたしたちのことばと行動が、何かしら違ったものになります。これが「良い行い」です。神がわたしたちを光としてくださったからこそ、それが可能なのです。だから、「良い行い」であがめられる(栄光を与えられる=直訳)のは、その行いをした人間ではなく「天の父」なのです。こんなふうに、自分にではなく神に栄光が帰される喜びを感じることがありますか。

 (5) 山上の説教にはたくさんの命令があります。イエスは神の御心にかなうことがなんであるかをはっきりと示しています。その中には非常に厳しく、人間には実行困難と感じられるようなものも少なくありません。敵を愛しなさい、情欲をもって女を見てはいけない、一切誓ってはならない、などなど。しかし、だからこそ、そのすべてに先立って「福音」があることは大切です。この福音は「八つの幸い」の中では「天の国(バシレイア)はあなたがたのものである」ということ、すなわち「神は決してあなたがたを見捨ててはいない。神が王(バシレウス)としてあなたがたを救ってくださる」ということでした。きょうの箇所もまさに「福音」として受け取るべき箇所です。
 山上の説教を読むとき、あらゆる掟や命令の前に、次のことばを補って読んでみてください。「神はあなたを愛してくださっている。だから~」「神はあなたを地の塩、世の光と見ていてくださる。だから~」「あなたはもうゆるされて、神の子とされているのだ。だから~」

投稿者 ct : 2005年02月06日 15:14

コメント

コメント欄にはその日の福音についての感想を書き込むことができます。
福音の感想でなく管理者が不適切と判断した場合は、コメントを削除させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。 名前はハンドルネーム可、メールアドレスとURLは省略可(記入すると公開されます)。 ※ただいまコメントの投稿ができなくなっております。大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さいませ。




保存しますか?