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2005年01月30日
マタイ5・1‐12a (2005/1/30年間第4主日)
【教会暦と聖書の流れ】
この箇所の直前、マタイ4・24に次のようなことばがあります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた」きょうの箇所はこの「群集」を見て、イエスが語った長い説教のはじめの部分です(いわゆる「弟子」だけでなく、群集も聞いていました。7・28参照)。
【福音のヒント】
(1) マタイ福音書5~7章の長い説教は「山上の説教」と呼ばれています。イエスがある時に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られたことばがつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。何のために初代教会の人々は、これらのイエスのことばを集めたのでしょうか。内容から考えて、これらのことばは、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示すことばとして集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず第一に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。
(2) きょうの箇所は「八つの幸い(真福八端)」と呼ばれています。この「八つの幸い」の前半とよく似ているルカ福音書の「三つの幸い」を比べてみましょう。
マタイ 5・3 心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
5・4 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
5・5 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
5・6 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
ルカ 6・20 貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
21a 今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
21b 今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。
マタイ5・3とルカ6・20、マタイ5・6とルカ6・21aは多くの言葉が共通しています。マタイ5・4とルカ6・21bも内容的にはよく似ています。もともと一つのイエスのことばが伝えられていくうちに二つの形になった、と考えるのが良さそうです。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです。
なお、マタイ5・5の「柔和な人々は」の句はルカにはありませんが、このことばは、詩編37・11の引用と言ってもよいことばです。新共同訳聖書でこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と訳されていますが、「貧しい」と「柔和な」はどちらもヘブライ語では同じ「アナウ」ということば(もともと、身をかがめて小さくなっている様子を表すことば)です。古代の写本の中には、4節と5節を入れ替え、「心の貧しい人々は」の句の次に「柔和な人々は」の句を置いている写本があります。この句はおそらく、イエスのことばが伝えられていくある段階で、「心の貧しい人々は」の句を説明するために挿入されたものでしょう。
(3) 「貧しい人は幸いである」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福のことばなのです(マタイは三人称になっていますが、同様のことが言えます)。イエスは、病人やその家族という、他に頼るところもなくイエスのもとに集まって来たボロボロの群集に向かって、そう語りかけたのです。
「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイア)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウス)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」の言い換えです。これも同じことで、これこそがイエスの福音=よい知らせなのです。
このことばをわたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くこと、これが「幸い」のことばを受け取るためのもっとも大切なヒントなのです。
(4) 「心の貧しい」は明治以降の伝統的な日本語訳ですが、ほとんど誤訳です。「心の貧しい」という日本語は「精神的貧困」を意味しますが、ここではそういう意味ではありません。直訳は「霊に貧しい」で、「神の前に貧しい」と受け取ったらよいかもしれません。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、物質的な面だけでなく、神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿を示そうとしているのだと考えればよいでしょう。なお、フランシスコ会訳聖書は「自分の貧しさを知る人」と訳し、新共同訳の前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人」と訳しています。どちらもかなり大胆な意訳ですが、参考になるかもしれません。また、ルカがただ「飢えている人」というところを、マタイは「義に飢え渇く人」と言います。ここでもマタイは神との関係を強調しています。
(5) マタイの後半の四つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。「八つの幸い」というマタイの形はもはや単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは具体的にどういうことかをも示しているのです。そういう観点から「八つの幸い」全体が整えられていったと考えることができるでしょうし、「八つの幸い」全体を受け取ることは、わたしたちにとっても大切であるはずです(ちなみにルカでは別の発展がみられますが、今回は触れることができません)。
2005年01月23日
マタイ4・12‐23 (2005/1/23年間第3主日)
【教会暦と聖書の流れ】
きょうの箇所はマタイ福音書の、いわゆる宣教開始の場面です。ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔からの誘惑を退けたイエスが、いよいよご自分の活動を始めていきます。きょうから11月まで、年間主日のミサでは、マタイ福音書の朗読が続きます(途中に四旬節・復活節の大きな中断がありますが)。
きょうの福音でマタイが引用しているイザヤ8・23‐9・1は、主の降誕・夜半のミサでも読まれた箇所です。降誕節の余韻として「エピファニア(神の栄光の現れ、光・輝き)」のテーマが続いているとも言えるでしょう。
【福音のヒント】
(1) 「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。ヨハネが洗礼活動をしていたのはヨルダン川の下流、ユダヤに近い地方だと考えられています。洗礼者ヨハネが捕らえられて、イエス自身も身の危険を感じたのでしょうか、ヨハネの活動の限界を感じたのでしょうか、イエスはご自分の故郷とも言えるガリラヤに戻ってきます。そして、これを契機にイエス独自の活動が始まることになりました。
紀元前10世紀にイスラエルの王国は、エルサレムを中心とする南のユダ王国とサマリアを中心とする北のイスラエル王国に分裂しました。イザヤは紀元前8世紀、北王国がアッシリアに滅ぼされていった時代の、ユダ王国の預言者です。ガリラヤ地方はサマリアのさらに北にあります。イザヤの時代のユダヤ人から見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ぶべき暗闇の地でした(なお、「ゼブルンとナフタリ」は、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ガリラヤ地方を割り当てられた部族の名です)。イエスの時代のガリラヤは、南のユダヤ人が入植して町を作っていたので、民族的にも宗教的にもエルサレムの神殿と結びついていましたが、ユダヤの人々からは軽んじられていました(「ガリラヤから預言者は出ない」ヨハネ7・52)。マタイはイエスがこのガリラヤで活動を始めたことを神の計画と見ています。復活したイエスが弟子たちに姿をあらわす場所もガリラヤの山です(マタイ28・16)。見捨てられた暗闇の支配する場所、しかし、その中でこそ神の救いの計画が実現し、イエスと出会える場所。わたしたちにとってのガリラヤとはどこでしょうか。
(2) マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3・2と4・17)というまったく同じことばで紹介し、二人が唯一の神の一つの計画の中にいることを示しているようです。この「近づいた」(完了形)には「近づいているけれどまだ来ていない」というニュアンスだけでなく、「近づいてもうここに来ている」というニュアンスがあります。二人の違いは、ヨハネが「天の国(=神の国)」の準備の時代の人であったのに対して、イエスが神の国の実現の時代の人だという点です(マタイ11・11「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」)。わたしたちは「み国が来ますように」と祈りますが、イエスによって神の国は何らかの意味でもう始まっているのです。わたしたちにとって、すでに始まっている神の国とはどのような現実を指しているのでしょうか。
(3) イエスが最初にしたことは弟子を作るということでした。これも福音書の結びと対応しているようです。復活したイエスの弟子たちへの命令の中心は「すべての民をわたしの弟子にしなさい・・・」(28・19)というものでした。マタイ福音書にとって、イエスの活動全体が「弟子作り」の活動だったと言ってもよいのでしょう。
「わたしについて来なさい」は「わたしの後に」という意味のことばが使われています。一方「従う」と訳された「アコリュセオー」というギリシャ語は、ただ「後を歩む」だけでなく「同行する、仲間になる」という意味もあります。それはもちろん、司祭や修道者だけの問題ではありません。わたしたちキリスト信者すべてがイエスに弟子として呼ばれた者なのです。わたしたち一人一人が弟子として呼ばれていることを感じられますか。イエスの弟子として歩むということはわたしたちにとってどういうことでしょうか。
(4) この箇所で、イエスが突然誰かに声をかけ、呼ばれた人たちがすぐにすべてを捨ててついていく、というのは少し乱暴ではないでしょうか。イエスの弟子とは、イエスのことばと行動に触れて、イエスに従うことを自分で決断した人たちだと考えるほうが自然です。マタイ福音書がマルコ福音書から受け取った最初の弟子の物語はいささか理想化(あるいはパターン化)されていると言わざるをえないでしょう(ルカやヨハネは別の形でこの弟子たちとイエスとの出会いを伝えています。ルカ5・1‐11、ヨハネ1・35‐42)。
普通の師弟関係なら、弟子のほうが「これぞ」と思う先生に弟子入りを願うものでしょう。しかし福音書では、先生であるイエスが弟子を選ぶということが特徴的に描かれています。「イエスが弟子を選ぶ」ということは、神の選びの根拠は人間の側にない、という聖書特有の考え方に基づいています。人間が神を選ぶのなら、人間の側の選択能力が優れているということになりますが、神の選びは優れた人間を選ぶのではありません。もっとも弱く、貧しい人を選ぶことによって、すべての人を救おうとするのが神の選びです。つまり選ばれた側は何も誇ることができないのです(Ⅰコリント1・26‐31参照)。ペトロやヨハネも後々まで「無学な普通の人」(使徒言行録4・13)と言われていました。
「すぐに」ということ、「何もかも捨てて」ということが弟子の理想として描かれていますが、自分自身のことを考えると戸惑いを感じるかもしれません。ただわたしたちの中にもそんな経験がまったくないとは言えないでしょう。
2005年01月16日
ヨハネ1・29-34 (2005/1/16 年間第2主日)
【教会暦と聖書の流れ】
「年間主日」のミサの福音は福音を告げるイエスの活動の歩みを追っていきます。三年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれ、ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読まれるようになっています。ところで、ヨハネ福音書でイエスの最初期の活動を伝える部分は他に読む日がないので、年間第2主日に読まれることになったわけです。
ヨハネ福音書は主の降誕・日中のミサで読まれた序文(1・1-18)のあと、イエスの活動のはじまりを最初の六日間の出来事として伝えています(1・19~2・11)。それは創造の六日間(創世記1章)を思い起こさせるものです。イエスによって「新しい創造」とも言える神の業が始まったのです。きょうの箇所は「その翌日」という言葉から始まる第2日目の出来事です。もちろん、成人したイエスの話ですが、ここに降誕節の「エピファネイア(公現)=イエスの栄光の現れ」というテーマの余韻を感じ取ることもできるでしょう。
【福音のヒント】
(1) ヨハネ福音書はイエスについての多くのエピソードを伝えていますが、それはただの出来事の報告ではありません。ヨハネはいつも、1つ1つの出来事の中にイエスとはどういう方であるかが示されている、と考え、そういうものとして1つ1つのエピソードを書き記しています。洗礼者ヨハネとイエスの出会いを伝えるきょうの箇所も、「イエスとはどういう方か」ということをわたしたちに教え、そのイエスとの出会いにわたしたちを招いていると受け取ったらよいでしょう。
(2) 「世の罪を取り除く神の小羊」はミサの中でお馴染みのことばですが、分かりやすいとは言えないでしょう。「神の小羊」には旧約聖書の背景がいくつか考えられます。
(a) 過越の小羊 出エジプト記12章にあるエジプト脱出の晩の物語から、小羊は神の救いのシンボルとなり、イスラエルの民は毎年、過越祭に小羊を屠ってこの救いの業を記念しました。イエスはこの過越祭のころに十字架刑に処せられました。
(b) 主のしもべの比喩としての小羊 イザヤ53・7には「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」ということばがあります。これは苦しみをとおして多くの人の罪をあがなう有名な「主のしもべ」について語られている箇所です。旧約聖書の中で最も強くイエスの受難を思い浮かべさせる箇所でしょう。
(c) 犠牲動物としての小羊 その他、旧約聖書では神殿にささげられる動物としての羊があります。このいけにえは、特に罪のあがないと関連しています。
ヨハネ福音書はこれらすべてを背景として、イエスこそが神の救いをもたらす方だという意味で、イエスを象徴的に「神の小羊」と呼んでいるのです。
ただこの箇所では「神の小羊」という言葉の意味よりも、洗礼者ヨハネが「見よ!」と弟子たちの注意をイエスに向けさせていることが大切だとも言えます(ヨハネの弟子にとっても「神の小羊」は意味不明のことばだったはずです)。イエスについて説明して頭で理解するよりも、イエスご自身の姿をしっかりと見つめることのほうが大切なのではないでしょうか。
(3) 「わたしよりも先におられた」(30節)という表現も分かりにくいでしょう。1つのヒントとして「永遠」ということを考えてみるとよいかもしれません。「神が永遠である」という時の「永遠」とは時間を過去と未来に果てしなく延長したものというよりも、時間を超えたものです。「天」が「地」(われわれの生活空間)を超えたものであるから、神はどこにでもいると言えるように、「永遠」はわれわれの経験している時間を超えたものですから、神はいつもおられる、と言えるのです。「天」とはもともと大空のことを指したことば(空間的な表現)ですが、古代の人はそのことばを用いて日常生活の空間を超えたものを表そうとしたました。「先」「後」という表現もわれわれの経験している時間内の表現ですが、ここではむしろイエスが永遠の方であることを言おうとしているのだと考えたらよいでしょう。1・18で「父のふところにいる独り子である神」と言われるように、永遠の神とともにいることがイエスの本質だと言うのです。
わたしたちの信仰は、わたしたちのいのちを「目に見えるものだけ、今という時だけのいのち」ではなく、もっと豊かな「時間を超えた永遠とのつながりの中にあるいのち」として受け取ります。そのことがもっとも強く感じられるのは、病気や死に直面したときかもしれません。それ以外の場面でも感じることができるでしょうか。
(4) ヨハネ福音書は、イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたという事実を報告しようとはしていません。むしろ、そのことの意味をはっきりと示そうとしています。
「"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)。洗礼の元のギリシャ語は「バプティスマ(水に沈めること)」であることをいつも思い起こすとよいでしょう。ヨハネは回心のしるしとして、人を水に沈めていました。イエスは聖霊の中に人を沈める、というのです。ここには、イエスが聖霊(神のいのち、神とのつながり)を人にもたらす方だということが表されています。
ある人は「洗礼を授ける(バプティゾー)」を「漬ける」と訳します。「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてみてはどうでしょうか。「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。わたしたちが「聖霊漬け」になるとはどういうことでしょうか。
2005年01月09日
マタイ3・13-17 (2005/1/9 主の洗礼)
【教会暦と聖書の流れ】
降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してから30年もたった後の出来事ですが、そこには「イエスの神の子としての現れ」という降誕節のテーマが続いているのです。
同時にこの出来事はイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の翌日から「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが記念されていきます。
【福音のヒント】
(1) マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3・2と4・17)というまったく同じことばで紹介しています。きょうの箇所でもイエスは「正しいことをすべて行うのは、我々(ヨハネとイエス)にふさわしいことです」と言います。マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスの共通性を強調していると言えるかもしれません。二人は神の1つの計画の中にいるのです。
(2) 洗礼を受けたという事実よりも大切なのは、その後に起こったことです。 (a)天が裂け、(b)聖霊がイエスに降り、(c)「わたしの愛する子」という声が聞こえた。
(a)の「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。イザヤ63・19には「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」ということばがあります。
(b)の「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるということを表すイメージです。
(b)と(c)の出来事について、マタイ、マルコ、ルカは微妙に表現が違います。マルコでは聖霊を体験するのはイエスご自身で(イエスが見た!)、声も「あなたは」とイエスに向かって語りかけています(マルコ1・10-11)。ルカでは、聖霊が「目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と客観的な描写のようになっていますが、声のほうはマルコと同じく「あなたは」とイエスに向かって語りかけます(ルカ3・21-22)。マタイでは、聖霊が降るのを見るのはイエスご自身ですが、声は「これは」という三人称で周りの人にも聞こえたような印象があります。この出来事は、洗礼者ヨハネはじめその場にいた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、一方ではイエスの内面的な体験と見ることもできるようなのです。この出来事には、イエスが神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を自覚したという面の両方があると考えたらよいでしょう。
(3) 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということばの背景には、イザヤ42・1以下があると言われています。新共同訳ではこうなっています。
「1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」
「主の僕(しもべ)の召命」と呼ばれる箇所です。この「僕」のギリシャ語訳は「パイスpais」で「家の中の小さい人たち=子どもや僕」を意味することばです。福音書の「子」は「ヒュイオス(hyios)」で「息子」を意味することばですが、イメージの上ではつながっています。つまり、この「愛する子」ということばには、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始めることが示されているわけです。
(4) 「あなたはわたしの愛する子」このことばは、ある意味でわたしたちすべてに向けて語られていることばだと言えます。わたしたちの洗礼はそのことを意味しています。
「イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」というつながりも大切ですが、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」というつながりも大切です。ペンテコステは「五旬祭」の意味ですが、イエスの復活後50日目のペンテコステの日、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは福音宣教の活動を始めました(使徒言行録2章)。堅信の秘跡は、同じようにわたしたちが聖霊を受けて教会の使命に積極的に参加することを表すものです。聖書の多くの箇所で聖霊は「ミッション(派遣)」と結びついています(新約では、ルカ1・30-35、ヨハネ20・21-22などを参照)。弱い人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力である聖霊が与えられるのです。これこそが堅信の秘跡の中心テーマなのです。
「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。どんなときにわたしたちはそう感じることができるでしょうか。
(5) イエスは罪なき方であったのに、他の人々とともに回心のしるしである洗礼(バプティスマ)を受けました。そこにイエスの、罪人である人間との深い連帯性を見ることもできるかもしれません。人々とともに苦しみの水の中に沈み(マルコ10・38参照。バプティスマの元の意味は「水の中に沈めること」です)、人々とともに神のいのちへと立ち上がる、この洗礼の出来事の中に、イエスの生き方全体を表す象徴的な意味を感じ取ることもできそうです。
2005年01月02日
マタイ2・1-12 (2005/1/2 主の公現)
【教会暦と聖書の流れ】
公現の祭日は本来は1月6日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では1月2日から8日までの間の日曜日に移して祝われます。「公現」はギリシャ語では「エピファネイアepiphaneia」で「現れること」です。イエスにおいて神の栄光が現れたこと、イエスが神の子キリストとして現されたこと、それは待降節・降誕節全体の大きなテーマだと言えます。
福音は毎年同じ箇所で、マタイ福音書の話が読まれます。マタイはルカとはまったく違うイエスの幼年時代の物語を伝えています。無理やり1つの物語にしてしまうより、それぞれの物語を通して神が語りかけているものを受け取るとよいでしょう。
【福音のヒント】
(1) 「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」や「3人の王」のイメージが強くあります(3人という数は聖書には書かれていません。贈り物の数からいつの間にか3人ということになったのでしょう)。この「占星術の学者」と訳されたことばはギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人、の意味です。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われています。この人たちについては2つの見方があることを考慮しておくとよいでしょう。1つは、天文学を究めた当時最高の知識人という見方。もう1つには、ユダヤ人にとっては、怪しげな異教徒で、まことの神を知らない人々という見方です。もちろんどう見るかによってこの箇所全体のイメージが変わってきます。どちらが正しいか、というよりも、2つの見方の両方でそれぞれに味わってみると聖書の読み方が豊かになるのではないでしょうか。
(2) ベツレヘムはエルサレムの南7kmほどのところにある町です。マタイ福音書はイエスがベツレヘムでお生まれになったことを、旧約の預言の成就と見ています。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、「ダビデの子孫である理想的な王=メシア」はベツレヘムで生まれるという伝承があったのでしょう。6節で引用されているミカ書もそのひとつです。ヘブライ語原文に基づく新共同訳のミカ5・1はこうなっています。
「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」
ミカは紀元前8世紀の南ユダ王国で活動した預言者です。ミカは当時さびれていたベツレヘムの町(いと小さき者)から救い主が誕生すると預言し、人間の思いを超えた神のすばらしい計画を見ていますが、マタイはこの町の重要性を考えて「いちばん小さいものではない」と変えているようです。
(3) ヘロデは紀元前37~4年、パレスチナを王として支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたのでユダヤ人からは正当な王と認められませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。この箇所の後に、この幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の幼児を大量虐殺した話があります(マタイ2・16-17)。
「メシア=キリスト=油注がれた者」という言葉には、このように「王」のイメージがつきまといます。ただ、「イエスが王である」ということの本当の意味は、降誕物語だけでなく、その生涯全体を見つめなければ見えてきません。
(4) 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができるでしょう。2000年前にユダヤやガリラヤに始まった救いの知らせは、今のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを考えてみたらよいかもしれません。このわたしはどうやって(だれから)この福音を受け取ったのか、そこからさかのぼっていくと2000年の歴史の中でどのようにこの福音が広がってきたかが見えてきて、そこに神の大きな救いの計画を見いだすことができるのではないでしょうか。
(5) 「拝む」という日本語はほとんど死語かもしれません。ギリシャ語の「プロスキュノー」には本来「~に対してキスする」という意味があります。人間に対しても用いられることがあります(使10・25)が、原則としては神または超越的存在に対する礼拝の意味で用いられることばです。「黄金、乳香、没薬」にそれぞれシンボリックな意味を見ることもできますが、敬意を表す贈り物と考えればよいでしょう。彼らは精一杯の敬意と賛美と喜びをこの幼子に示したのです。
(6) 学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。ふだん信仰心など持っていないようにみえる日本人が、正月には突然のように神社仏閣にお参りしたり、初日の出を拝んだりするのは、何かしら超越的なものを感じているからでしょう。それらを「間違った信仰心」ということはできません。自分たちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という心はすべての人の中にある共通のものだと言えるでしょう。そういう意味で、キリストを信じるわたしたちとすべての人のつながりを感じることができるでしょうか。