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2005年01月30日

マタイ5・1‐12a (2005/1/30年間第4主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 この箇所の直前、マタイ4・24に次のようなことばがあります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた」きょうの箇所はこの「群集」を見て、イエスが語った長い説教のはじめの部分です(いわゆる「弟子」だけでなく、群集も聞いていました。7・28参照)。

【福音のヒント】

 (1) マタイ福音書5~7章の長い説教は「山上の説教」と呼ばれています。イエスがある時に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られたことばがつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。何のために初代教会の人々は、これらのイエスのことばを集めたのでしょうか。内容から考えて、これらのことばは、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示すことばとして集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず第一に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。

  (2) きょうの箇所は「八つの幸い(真福八端)」と呼ばれています。この「八つの幸い」の前半とよく似ているルカ福音書の「三つの幸い」を比べてみましょう。

マタイ 5・3 心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
  5・4 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
  5・5 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
  5・6 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
ルカ 6・20 貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
  21a 今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
  21b 今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。

 マタイ5・3とルカ6・20、マタイ5・6とルカ6・21aは多くの言葉が共通しています。マタイ5・4とルカ6・21bも内容的にはよく似ています。もともと一つのイエスのことばが伝えられていくうちに二つの形になった、と考えるのが良さそうです。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです。
 なお、マタイ5・5の「柔和な人々は」の句はルカにはありませんが、このことばは、詩編37・11の引用と言ってもよいことばです。新共同訳聖書でこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と訳されていますが、「貧しい」と「柔和な」はどちらもヘブライ語では同じ「アナウ」ということば(もともと、身をかがめて小さくなっている様子を表すことば)です。古代の写本の中には、4節と5節を入れ替え、「心の貧しい人々は」の句の次に「柔和な人々は」の句を置いている写本があります。この句はおそらく、イエスのことばが伝えられていくある段階で、「心の貧しい人々は」の句を説明するために挿入されたものでしょう。

 (3) 「貧しい人は幸いである」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福のことばなのです(マタイは三人称になっていますが、同様のことが言えます)。イエスは、病人やその家族という、他に頼るところもなくイエスのもとに集まって来たボロボロの群集に向かって、そう語りかけたのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイア)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウス)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」の言い換えです。これも同じことで、これこそがイエスの福音=よい知らせなのです。
 このことばをわたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くこと、これが「幸い」のことばを受け取るためのもっとも大切なヒントなのです。

 (4) 「心の貧しい」は明治以降の伝統的な日本語訳ですが、ほとんど誤訳です。「心の貧しい」という日本語は「精神的貧困」を意味しますが、ここではそういう意味ではありません。直訳は「霊に貧しい」で、「神の前に貧しい」と受け取ったらよいかもしれません。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、物質的な面だけでなく、神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿を示そうとしているのだと考えればよいでしょう。なお、フランシスコ会訳聖書は「自分の貧しさを知る人」と訳し、新共同訳の前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人」と訳しています。どちらもかなり大胆な意訳ですが、参考になるかもしれません。また、ルカがただ「飢えている人」というところを、マタイは「義に飢え渇く人」と言います。ここでもマタイは神との関係を強調しています。

 (5) マタイの後半の四つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。「八つの幸い」というマタイの形はもはや単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは具体的にどういうことかをも示しているのです。そういう観点から「八つの幸い」全体が整えられていったと考えることができるでしょうし、「八つの幸い」全体を受け取ることは、わたしたちにとっても大切であるはずです(ちなみにルカでは別の発展がみられますが、今回は触れることができません)。

投稿者 ct : 2005年01月30日 15:08

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