« マタイ2・1-12 (2005/1/2 主の公現) | メイン | ヨハネ1・29-34 (2005/1/16 年間第2主日) »

2005年01月09日

マタイ3・13-17 (2005/1/9 主の洗礼)

【教会暦と聖書の流れ】

 降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してから30年もたった後の出来事ですが、そこには「イエスの神の子としての現れ」という降誕節のテーマが続いているのです。
 同時にこの出来事はイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の翌日から「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが記念されていきます。

【福音のヒント】

(1)  マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3・2と4・17)というまったく同じことばで紹介しています。きょうの箇所でもイエスは「正しいことをすべて行うのは、我々(ヨハネとイエス)にふさわしいことです」と言います。マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスの共通性を強調していると言えるかもしれません。二人は神の1つの計画の中にいるのです。

 (2) 洗礼を受けたという事実よりも大切なのは、その後に起こったことです。 (a)天が裂け、(b)聖霊がイエスに降り、(c)「わたしの愛する子」という声が聞こえた
 (a)の「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。イザヤ63・19には「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」ということばがあります。
(b)の「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるということを表すイメージです。
 (b)と(c)の出来事について、マタイ、マルコ、ルカは微妙に表現が違います。マルコでは聖霊を体験するのはイエスご自身で(イエスが見た!)、声も「あなたは」とイエスに向かって語りかけています(マルコ1・10-11)。ルカでは、聖霊が「目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と客観的な描写のようになっていますが、声のほうはマルコと同じく「あなたは」とイエスに向かって語りかけます(ルカ3・21-22)。マタイでは、聖霊が降るのを見るのはイエスご自身ですが、声は「これは」という三人称で周りの人にも聞こえたような印象があります。この出来事は、洗礼者ヨハネはじめその場にいた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、一方ではイエスの内面的な体験と見ることもできるようなのです。この出来事には、イエスが神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を自覚したという面の両方があると考えたらよいでしょう。

 (3) 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということばの背景には、イザヤ42・1以下があると言われています。新共同訳ではこうなっています。
 「1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」
 「主の僕(しもべ)の召命」と呼ばれる箇所です。この「僕」のギリシャ語訳は「パイスpais」で「家の中の小さい人たち=子どもや僕」を意味することばです。福音書の「子」は「ヒュイオス(hyios)」で「息子」を意味することばですが、イメージの上ではつながっています。つまり、この「愛する子」ということばには、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始めることが示されているわけです。

 (4) 「あなたはわたしの愛する子」このことばは、ある意味でわたしたちすべてに向けて語られていることばだと言えます。わたしたちの洗礼はそのことを意味しています。
イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」というつながりも大切ですが、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」というつながりも大切です。ペンテコステは「五旬祭」の意味ですが、イエスの復活後50日目のペンテコステの日、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは福音宣教の活動を始めました(使徒言行録2章)。堅信の秘跡は、同じようにわたしたちが聖霊を受けて教会の使命に積極的に参加することを表すものです。聖書の多くの箇所で聖霊は「ミッション(派遣)」と結びついています(新約では、ルカ1・30-35、ヨハネ20・21-22などを参照)。弱い人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力である聖霊が与えられるのです。これこそが堅信の秘跡の中心テーマなのです。
 「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。どんなときにわたしたちはそう感じることができるでしょうか。

 (5) イエスは罪なき方であったのに、他の人々とともに回心のしるしである洗礼(バプティスマ)を受けました。そこにイエスの、罪人である人間との深い連帯性を見ることもできるかもしれません。人々とともに苦しみの水の中に沈み(マルコ10・38参照。バプティスマの元の意味は「水の中に沈めること」です)、人々とともに神のいのちへと立ち上がる、この洗礼の出来事の中に、イエスの生き方全体を表す象徴的な意味を感じ取ることもできそうです。

投稿者 ct : 2005年01月09日 14:41

コメント

コメント欄にはその日の福音についての感想を書き込むことができます。
福音の感想でなく管理者が不適切と判断した場合は、コメントを削除させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。 名前はハンドルネーム可、メールアドレスとURLは省略可(記入すると公開されます)。 ※ただいまコメントの投稿ができなくなっております。大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さいませ。




保存しますか?