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2005年01月16日

ヨハネ1・29-34 (2005/1/16 年間第2主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 「年間主日」のミサの福音は福音を告げるイエスの活動の歩みを追っていきます。三年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれ、ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読まれるようになっています。ところで、ヨハネ福音書でイエスの最初期の活動を伝える部分は他に読む日がないので、年間第2主日に読まれることになったわけです。
 ヨハネ福音書は主の降誕・日中のミサで読まれた序文(1・1-18)のあと、イエスの活動のはじまりを最初の六日間の出来事として伝えています(1・19~2・11)。それは創造の六日間(創世記1章)を思い起こさせるものです。イエスによって「新しい創造」とも言える神の業が始まったのです。きょうの箇所は「その翌日」という言葉から始まる第2日目の出来事です。もちろん、成人したイエスの話ですが、ここに降誕節の「エピファネイア(公現)=イエスの栄光の現れ」というテーマの余韻を感じ取ることもできるでしょう。

【福音のヒント】

 (1) ヨハネ福音書はイエスについての多くのエピソードを伝えていますが、それはただの出来事の報告ではありません。ヨハネはいつも、1つ1つの出来事の中にイエスとはどういう方であるかが示されている、と考え、そういうものとして1つ1つのエピソードを書き記しています。洗礼者ヨハネとイエスの出会いを伝えるきょうの箇所も、「イエスとはどういう方か」ということをわたしたちに教え、そのイエスとの出会いにわたしたちを招いていると受け取ったらよいでしょう。

 (2)  「世の罪を取り除く神の小羊」はミサの中でお馴染みのことばですが、分かりやすいとは言えないでしょう。「神の小羊」には旧約聖書の背景がいくつか考えられます。
  (a) 過越の小羊 出エジプト記12章にあるエジプト脱出の晩の物語から、小羊は神の救いのシンボルとなり、イスラエルの民は毎年、過越祭に小羊を屠ってこの救いの業を記念しました。イエスはこの過越祭のころに十字架刑に処せられました。
  (b) 主のしもべの比喩としての小羊 イザヤ53・7には「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」ということばがあります。これは苦しみをとおして多くの人の罪をあがなう有名な「主のしもべ」について語られている箇所です。旧約聖書の中で最も強くイエスの受難を思い浮かべさせる箇所でしょう。
  (c) 犠牲動物としての小羊 その他、旧約聖書では神殿にささげられる動物としての羊があります。このいけにえは、特に罪のあがないと関連しています。
 ヨハネ福音書はこれらすべてを背景として、イエスこそが神の救いをもたらす方だという意味で、イエスを象徴的に「神の小羊」と呼んでいるのです。
 ただこの箇所では「神の小羊」という言葉の意味よりも、洗礼者ヨハネが「見よ!」と弟子たちの注意をイエスに向けさせていることが大切だとも言えます(ヨハネの弟子にとっても「神の小羊」は意味不明のことばだったはずです)。イエスについて説明して頭で理解するよりも、イエスご自身の姿をしっかりと見つめることのほうが大切なのではないでしょうか。

 (3) 「わたしよりも先におられた」(30節)という表現も分かりにくいでしょう。1つのヒントとして「永遠」ということを考えてみるとよいかもしれません。「神が永遠である」という時の「永遠」とは時間を過去と未来に果てしなく延長したものというよりも、時間を超えたものです。「天」が「地」(われわれの生活空間)を超えたものであるから、神はどこにでもいると言えるように、「永遠」はわれわれの経験している時間を超えたものですから、神はいつもおられる、と言えるのです。「天」とはもともと大空のことを指したことば(空間的な表現)ですが、古代の人はそのことばを用いて日常生活の空間を超えたものを表そうとしたました。「先」「後」という表現もわれわれの経験している時間内の表現ですが、ここではむしろイエスが永遠の方であることを言おうとしているのだと考えたらよいでしょう。1・18で「父のふところにいる独り子である神」と言われるように、永遠の神とともにいることがイエスの本質だと言うのです。
 わたしたちの信仰は、わたしたちのいのちを「目に見えるものだけ、今という時だけのいのち」ではなく、もっと豊かな「時間を超えた永遠とのつながりの中にあるいのち」として受け取ります。そのことがもっとも強く感じられるのは、病気や死に直面したときかもしれません。それ以外の場面でも感じることができるでしょうか。

 (4) ヨハネ福音書は、イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたという事実を報告しようとはしていません。むしろ、そのことの意味をはっきりと示そうとしています。
 「"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)。洗礼の元のギリシャ語は「バプティスマ(水に沈めること)」であることをいつも思い起こすとよいでしょう。ヨハネは回心のしるしとして、人を水に沈めていました。イエスは聖霊の中に人を沈める、というのです。ここには、イエスが聖霊(神のいのち、神とのつながり)を人にもたらす方だということが表されています。
 ある人は「洗礼を授ける(バプティゾー)」を「漬ける」と訳します。「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてみてはどうでしょうか。「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。わたしたちが「聖霊漬け」になるとはどういうことでしょうか。

投稿者 ct : 2005年01月16日 14:46

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