2004年11月21日
ルカ23・35-43 (2004/11/21 王であるキリスト)
【教会暦と聖書の流れ】
教会の暦には、クリスマスと復活祭を中心にした4つの「季節」(待降節・降誕節・四旬節・復活節)があり、それ以外の期間を「年間」と呼びます。王であるキリストの祭日は年間最後の主日にあたります。「王」というのは現代日本のわたしたちには馴染みにくいイメージですが、この祭日のテーマは、キリストがすべてにおいてすべてになる、終末における救いの完成ということです。ところで、王であるキリストのミサの聖書朗読箇所は年によってずいぶん違います。いずれもただ単に「キリストが王である」ということよりも、キリストが「普通の人間の王とどのように異なる王であるか」を表す箇所が選ばれています。「王」ということばにこだわらずに、この箇所そのものを味わい、分かち合うとよいでしょう。
【福音のヒント】
(1) イエスが十字架にかけられる場面です。ルカ福音書の受難物語はマルコの受難物語をもとにして、ルカ独自の資料・伝承を挿入する形で書かれています。マルコ、マタイでは、イエスとともに十字架につけられた犯罪人が二人ともイエスをののしった、となっていますが、ルカは別の伝承を採用しています。ルカはそのうちの一人が回心し、イエスに救いを願った、という話を伝えています。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(40-41節)。ここにはルカ福音書の受難物語の1つの特徴が表れています。それは、イエスが罪なき方であることを強調することです。ユダヤの最高法院で、イエスは自分を神の子とした、という冒涜の罪(22・70-71)を着せられ、ローマ総督に対して「民衆を扇動し、皇帝への納税を禁じた」と訴えられました。しかし、本当はイエスは無罪なのです(ルカ23・4、14-15、22、47参照)。ルカは「彼は不法を働かず/その口には偽りもなかったのに」(イザヤ53・9)という苦しむ主のしもべの姿をわたしたちに思い出させようとしているのでしょうか。
(2) 「議員たち」はユダヤ人の最高法院の議員たち、「兵士たち」は処刑を担当したローマ人の兵士です。「犯罪人」は十字架刑を受けるほど重大な犯罪を犯した人なのでしょう。彼らのイエスへのことばはすべて「自分を救ってみろ」ということでした。イエスはそれに何一つ答えません。なぜ、イエスは答えないのでしょうか?
わたしたちの生きている世界は暴力に満ちています。戦争やテロという巨大な暴力から、身近なところで起こる犯罪や家庭の中の暴力(ドメスティック・バイオレンス)まで、いたるところに暴力の問題があります。その中で、イエスがご自分の受けた不当な暴力をどう受け止めたのかを見つめてみましょう。
イエスは自分を救うことができたのにあえてそれをしなかった、という考えもあります。しかし、わたしたちの体験している暴力の問題と関連づけてみると、「自分を救わない」ということは、被害者が耐え忍ぶことを良しとし、暴力を容認し、暴力を繰り返させる危険もあるのではないでしょうか。「罪人をゆるすこと」と「暴力を許すこと」とは別の問題です。神の望みは人が暴力から解放され、平和のうちに生きることであるはずです。そこで、ここでは実際にイエスは自分を救うことができなかったのだという可能性を考えてみましょう。
(3) そこに見えてくる1つのことは、苦しむすべての人との連帯です。暴力は人を肉体的に傷つけるだけではありません。暴力は人を孤立無援の状態にします。しかし、イエスは受難の中ですべての苦しむ人とつながっているのです。イエスは「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4・15)。人々から見捨てられ、神からも見捨てられたように見えても、本当は孤立していません。イエスは最後まで神への信頼と人への愛を持ち続けるのです。暴力のもう1つの作用は、人を無力化 disempowermentすることです。確かに十字架のイエスは何もできないように見えます。しかし、愛する力がイエスから奪われることはありません。さらに暴力は人に憎しみや復讐心を植えつけることもあります。しかしイエスはそういうものに縛られませんでした。
「自分を救うことのできない」イエスの中に、愛と連帯によって暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る道を見つけることができるのではないでしょうか。
(4) 「ユダヤ人の王」(38節)はイエスをローマ帝国に対する反逆者とする罪状です。福音書は、そこにイエスが「真の王」であることが暗示されていると考えているのかもしれません。しかしむしろ「王」というテーマは、42-43節の犯罪人とイエスの対話の中に表れてきます。「あなたの御国においでになるとき」という箇所は、写本によっては「あなたが王権をもって来られるとき」と読むこともできます。「国、王権」と訳されたことはば「バシレイア」です。このことばは「王(バシレウス)」ということばから来ていて、「王であること、王としての統治、王として治める国」の意味になります。この犯罪人は、自分もイエスも十字架で死を迎えることを知っています。ですから、死を超えてイエスの王国が実現すると考えていることになるでしょう。その中で「わたしを思い出してください」と願うのです。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」の「楽園」はギリシア語で「パラデイソス」。70人訳聖書(古代のギリシャ語訳旧約聖書)の創世記2・8では、エデンの園をこう呼んでいます。神と人、人と人との調和に満ちた世界、人が神と共にいる状態(Ⅱコリント12・4参照)だと言ってもいいでしょう。イエスがそれを約束するのは「今日」です。苦しみのどん底の中で、イエスが共にいてくださることに気づいたとき、そこにもう「バシレイア」が実現している、そこが「パラダイス」になる、と言ってもいいのではないでしょうか。
2004年11月14日
ルカ21・5-19 (2004/11/14 年間第33主日)
【教会暦と聖書の流れ】
教会の暦で「年間」の終わりにあたる年間第32主日~王であるキリストの祭日(年間33の翌週、年間最後の主日)を「終末主日」と呼ぶことがあります。これらの主日の典礼は「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということに心を向けさせます。
ルカ福音書ではイエスは19・45からエルサレムの神殿での活動を始めました。マルコとマタイの福音書では終末についての説教はイエスが神殿を去り、オリーブ山で語られたことになっていますが、ルカ福音書では神殿の境内で語られています。ルカ福音書にとって神殿は、イエスの「父の家」(ルカ2・49)であり、「祈りの家」(19・46)であり、最後までイエスの活動の中心的な場なのです。
【福音のヒント】
(1) 「わたしの名を名乗る者」とは、「わたしがキリスト(救い主)だ」と主張する「偽(にせ)キリスト」のことでしょう。人々の不安や怖れにつけこんで「これこそが真の救いだ」というような偽りの情報が現代のわたしたちの周りにもたくさんあるのではないでしょうか。人々の危機意識を煽(あお)り立てて、信者を集めようとする怪しげな宗教さえもあるかもしれません。聖書の終末論はそういうものとは無縁です。イエスは人々の恐怖心を煽るためにこれらのことばを語られたのではありません。イエスが語るのは、たとえどんなことが起こっても「惑わされないように」(8節)ということです。
きょうの箇所は、世の終わりそのものというより、それに先立つ混乱の時代について語る箇所です。イエスは世を去る前に、将来起こるはずのことについて語りました。戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢饉、疫病、などなどです。それらは、福音書が書かれた1世紀の後半にはすでに現実になっていたことでした。そして、21世紀に生きているわたしたちにとって、これらの現象はさらに切実で、深刻な現実だと感じられるかもしれません。その中で、きょうのわたしたちにイエスが呼びかけていることを聞き取ろうとします。
(2) 聖書の終末論(終わりについての教え)には、2つの面があります。
1つは、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神に信頼するように、と促す励ましのメッセージという面です。きょうの箇所では、特に迫害の中でのイエスの助けと神の守りが約束されています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(15節)、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)。身の安全が保障されるのではありません。約束されるのは、裁きの場に引き出されてもそれを「証しをする機会」にする力が与えられること、たとえ殺されても「命(プシュケー)をかち取る」ことができることです。
「髪の毛の一本」(18節)はごくわずかなもの、ほんの小さなもののたとえです。神のわたしたちに対する愛が確かなもので、大きく、また細やかであることを強調しています。しかしそれは、危害がなくなるというよりも、どんなに危害を加えられても本当に大切なものを奪われることはない、という意味のようです。だから、「命(プシュケー)をかち取る」というのです。「プシュケー」はある辞書によれば「なまの人間の人格生命の本質的部分」と説明されています。何があっても決して奪われない「本質的な部分」とはなんでしょうか。
「忍耐(ヒュポモネー)」の元の意味は「下に留まること」です。ただじっと我慢するというよりも、神のもとに踏み留まること、と言ったらよいでしょうか。この神とのつながりこそが、決して傷つけられることのない本質的な部分だと言えるかもしれません。
(3) 終末論のもう1つの面は、警告のメッセージという面です。きょうの箇所の冒頭にある「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している」という場面を思い浮かべたらよいかもしれません。人は目に見えるものの立派さに心を奪われてしまうことが確かにあります。現代の消費社会は、そのように人の心を奪うものに満ち溢れていると言っても過言ではありません。テレビやインターネットを通して、美しいもの・派手なもの・欲しいものの情報がわたしたちに飛び込んできます。そして、本当に大切なものを見失ってしまう危険があるのです。聖書の終末論は、目に見えるすべてのものは「過ぎ去るもの」「滅びゆくもの」であることに気づかせ、何が本当に永遠のものであり、滅びないものであるかに気づかせるのです。
「世の終わりはどうなるのか」といくら頭で考えも何の役に立ちません。終末論のこの2つの面が、わたしたち自身の現実の体験とどう結びつくかを考えてみましょう。
(4) 末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということが言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、というよりも、「いのちの質」(残された日々をいかに充実したものとして生きるかということ)が大切になる、という考えです。
キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう(きょうの箇所のあと、すぐに受難の物語が始まります)。イエスは死を目前にして最後までどう生きたか、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになります。
「愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13・8、13)
わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かう生き方をきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。
2004年11月07日
ルカ20・27-38 (2004/11/7 年間第32主日)
【教会暦と聖書の流れ】
教会の暦ではもう「年間」の終わりにあたりますが、このあたりの主日(年間32、33、王であるキリスト)を「終末主日」と呼ぶことがあります。「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということに思いを馳せるときです。
ルカ福音書19・45から、イエスはエルサレムの神殿での活動を始めています。神殿でイエスは当時の宗教的指導者たちと出会いました。きょうの箇所はサドカイ派の人との間の、いわゆる「復活についての問答」です。彼らとのギャップは深まるばかりで、イエスの受難の時が迫ってきます。すべてのことばの背景には、「終わり(死)」に向かって最後まで神の子・神のしもべとして生き抜かれたイエスご自身の姿があります。
【福音のヒント】
(1) サドカイ派は、ファリサイ派と並んでイエス時代のユダヤ教の一派です。彼らの名「サドカイ」は祭司の名から来ています。彼らは当時のエルサレムの神殿の祭司と結びついていたグループでした。ファリサイ派が律法以外の預言書や口伝律法を大切にしていたのと異なり、サドカイ派はモーセ五書(律法の書、創世記~申命記)のみを正典と考えました。
(2) そもそも旧約聖書の中では「復活」ということはそれほど多く語られていません。モーセ五書には明確に「復活」について述べる箇所はありません。古いイスラエル民族の考えでは、人は死ぬと先祖の列に加えられる、それは「シェオール(陰府)」と呼ばれるところで、そこは生きている人との関わりも神との関わりもなくなる静寂の場でした。
旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと意識されるようになるのは、ダニエル書の12章とマカバイ記二の7章です(マカバイ記はヘブライ語聖書には含まれていませんが、カトリック教会では「第二正典」とされています)。これらの箇所が書かれた時代は、紀元前2世紀の迫害と殉教という時代でした。紀元前4世紀、ギリシャのアレクサンドロス大王が築いた広大な支配地域には、4つのヘレニズム(ギリシャ人の)帝国ができました。パレスチナは初め、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、後にシリアのセレウコス王朝が支配するようになりました。そして、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスという王のとき、ユダヤ人に対する激しい宗教的迫害が起こりました。エルサレムの神殿にはギリシャの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生きることを禁じられました。「神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、中には殺されていく人もいる」この厳しい状況の中で「死を越えて神が救いを与えてくださるという希望=復活の希望」が語り始められたのです。
(3) サドカイ派が復活を認めなかったのは、彼らが「モーセ五書」のみを正典と考えていたから、というだけではありません。それは彼らがこの世で満ち足りていたからです。たとえローマの支配下にあろうとも、神殿の権威や富に結びついていたサドカイ派にとって今の生活は悪くなかったのです。彼らにとって、神殿の祭儀の中で正しい犠牲をささげていれば神との関係は十分で、死を越えて神に希望するものなど何もなかったのです。だからサドカイ派は「復活」という考えの論理的矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのです。
一方のイエスは、貧しい人々とともに生き、苦しむ人々の姿を見つめてきました。彼らの苦しみと希望はイエスのものでもあったのです。そしてご自分の身にも危険が迫っていることをイエスは感じていました。イエスにとって、復活とは死後の世界に対する興味や、宗教家の議論の問題ではないのです。それは、「どう考えてもこの世では今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるときに、なおも神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか」というギリギリの決断の問題なのです。
(4) イエスのことばは要するに2つのことを言っているようです。
34-36節=この世の有り様と復活の有り様はまったく違う。復活のいのちとはこの世のいのちの延長線上にあるものではなく、まったく違うレベルのいのちなのだ、ということ。復活とは、まったく「神によって生きる」(38節)ことなのです。
37-38節=「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だから「死者は復活する」というのは、論理的には「神は『生きている者の神』であり、モーセに現れた神がご自分を先祖の神だ、と言うのだとすれば、先祖たちは今も何らかの形で生きていることになる」ということでしょう。でも議論の上での反証と考えると少し無理があるのではないでしょうか。
(5) 「柴」の箇所とは、出エジプト記3章を指します。神がシナイ山で初めてモーセに声をかけ、モーセにイスラエルの民を率いてエジプトの奴隷状態から脱出させるという使命を与える箇所です。そこでの神の自己紹介が「わたしはアブラハムの神、イサクの神、…」というものでした。イスラエルの先祖とともにいて、いつも彼らを守り導いた神はエジプトの奴隷状態にある民を決して見捨てていない。その神は、いつも人とともにいて、人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神なのです。
「生きている者の神」とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神ということではないでしょうか。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は「死んだ者の神」と言ってもよいかもしれません。きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについての鋭い問いかけでもあります。それは、「わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、そして、わたしたちは本当に神によって生きているか?」という問いかけなのです。
2004年10月31日
ルカ19・1-10 (2004/10/31 年間第31主日)
【教会暦と聖書の流れ】
ルカ福音書9・51から始まったエルサレムへの旅も終わりに近づき、きょうの福音の舞台はエリコという町(エルサレムまで20キロほど)です。この話もルカ福音書だけが伝える話ですが、イエスの旅は最後まで神の愛とゆるしを告げる旅でした。
【福音のヒント】
ザアカイという一人の人がイエスに出会う物語です。こういう話は、自分を物語の中においてみて、自分がザアカイだったらどう感じるか、ということを味わいながら読んでみるとよいでしょう。
(1) イエスの時代のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は被征服民族であるユダヤ人にある程度の自治や宗教的自由を認める一方で、徴税によって利益を得ていました。納税を認めることはローマの支配を認めることであり、自分たちは神の民だと考えていたユダヤ人にとっては耐え難いことでした。徴税人はユダヤ人でありながら、このローマ帝国の徴税という仕事を引き受けていた人たちです。彼らはそもそも、ローマに仕える民族の裏切り者として忌み嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国から給与を得ていたのではなく、ローマに納める税金に自分の取り分を上乗せしたものを人々から徴収し、それによって財を蓄えていたので、不正な取り立ても多かったようです。このような事情で「徴税人」は、当時のユダヤ社会の中で明らかに「罪人というレッテル」を貼られていた職業だったのです。ザアカイは「徴税人の頭で、金持ちであった」と紹介されています。彼は経済的には恵まれていましたが、ユダヤ人社会の中では「神から程遠く、社会のクズであり、生きるに値しない最低の人間だ」という烙印を押されていたのです。もちろん自分自身の生き方が神に背くものだと感じていたでしょう。
(2) ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪人がイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。
それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が、「罪人を招いて一緒に食事までしている」(ルカ15・2)といううわさを聞いていたのかもしれません。この人だったら、自分のどうにもならない思いを分かってくれ、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊めてくれ」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。
(3) イエスはザアカイに「わたしが何かをしてあげよう」というのではなく、「あなたにはわたしのためにできることがある」(今日は、ぜひあなたの家に泊りたい)といって近づきました。どんなに罪人のレッテルを貼られていても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。
イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)ということばは、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪人ではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪人のレッテルを貼られたまま生きていかなくてはなりません。でも彼は「神に見捨てられた罪人」ではなく「神に愛された罪人」なのです。
(4) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2・14では、イエスが「通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」とあります。
イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようという決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
(5) ザアカイの物語は、今のわたしたち自身の物語とどうつながるでしょうか。
きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5、9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2・11、4・21、23・43など参照)。「今日」とは、わたしたちが神の愛とゆるしに出会う日であり、神の救いがわたしたちの中に実現していく日なのです! わたしたちにとっての「今日」とは?
2004年10月24日
ルカ18・9-14 (2004/10/24 年間第30主日)
【教会暦と聖書の流れ】
このたとえ話もルカ福音書だけが伝える話です。先週の福音(やもめと裁判官のたとえ話)との関連を考えれば、祈りについての教えが継続していると言えるでしょう。
【福音のヒント】
(1) ファリサイ派はイエス時代のユダヤ教の一派で、律法と口伝律法(律法の解釈についての律法学者たちの言い伝え)を重んじ、忠実にそれを守ろうとしていたグループです。「ファリサイ」ということばは「分離する」という意味のことばから来たといわれ、「自分たちは、律法を知らない汚れた民衆から分離した者だ」という意識を持っていました。
一方の徴税人は、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の徴税という仕事を引き受け、その仕事によって私財を蓄えていた人たちです。彼らは福音書の中で罪びとの代表のように言われていますが、それは彼らが税の取り立てに関して不正を働いていたと考えられたからです。それだけでなく、そもそも民族の裏切り者として忌み嫌われていた面もあります。当時の社会の中ではどちらが「正しい人」でどちらが「罪びと」であるかは明白でした。
(2) 「義とされる」という言葉は、パウロの手紙に比べて、福音書の中ではあまり多く使われていません。「義とされる」は直訳ですが、聖書の中で語られる「義」は「人間的な正しさ」というよりも、いつも根本に「神の義」ということがあります。「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということです。人間的な見方ではなく、神との関係という点では、この徴税人のほうが正しいあり方なのだとイエスは言うのです。それはなぜでしょうか。
ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ他人との比較でした。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、ましてこの徴税人なんかとは比べ物にならない、ということです。しかし、人と比較して神の前に自分を誇っても何の意味もありません。そのような姿勢は神との関わりを妨げてしまうだけです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して」いるとき、人との関係も絶たれてしまいます。人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずなのに、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うからです。
(3) イエスのことばは、わたしたちの自己評価に挑戦してきます。わたしたちが、「自分はチャンとやっている」と感じているとするならば、それは他の人と比べてのことではないでしょうか。「自分はぜんぜんダメだ」と感じているならば、それも人と比較してのことではないでしょうか。わたしたちはあまりにも「比較と競争」の世界に毒されているのかもしれません。
この社会は、人を果てしない競争へと駆り立てる社会です。その中でわたしたちはどれほどストレスを抱えていることでしょうか、そしてどれほど多くの人が行き詰ってしまっているでしょうか。確かに「社会は競争なのだから、生きていくためにこの競争を降りることはできない」という人は多いでしょう。かと言って、人生が競争だけになれば、その人生はまったく悲惨なものになってしまうでしょう。「競争よりももっと大切なものがある、それを見失わないこと」きょうの福音はそう呼びかけているのではないでしょうか。
わたしは神の前に立つ。どうしようもなく限界や弱さを抱えているけれども、神がそのわたしを愛し、生かしてくださっているのを感じる。そのとき、優越感と劣等感の間でもがき苦しむところから解放されていく。わたしたちの中にそういう体験があるでしょうか。
(4) 祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。「あの人もしていたから、わたしもこうしました」とか「この人にはかなわないけれど、別の人よりはましです」そういうことは何の意味もない世界なのです。「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださる」。そういう祈りの体験がありますか。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。それは表面的に謙遜を装うということではないでしょう。また、「自分なんか何の価値もない。生きるに値しないダメな人間だ」と思い込むことでもないでしょう。むしろ、自分のありのままの姿を見つめるということではないでしょうか。それは決して簡単なことではありません。わたしたちの中に、本当の自分以上に自分のことをよく思いたいという部分がありますが、それは幻想の中を生きることです。逆に本当の自分以下にしか、自分の価値を見いだせず、自尊心を見失い、異様に低い自己評価を持っているとしたら、それも幻想です。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分を置いてみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。
(5) 「罪人であるわたし」ということばにどんなリアリティがあるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。この徴税人にはそういう罪意識がありました。しかし個々の悪事の問題だけでもないのでしょう。「罪」とは「神から離れること」です。神から遠く離れてしまっている自分を感じること、神の前に立つのにまったくふさわしくないという感覚、それが「罪人であるわたし」ということばになるのです。そして、それは漠然と日々生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとしたときにこそ感じることかもしれません。
2004年10月17日
ルカ18・1-8 (2004/10/17 年間第29主日)
【教会暦と聖書の流れ】
エルサレムへの旅は終わりに近づいています。この話もルカ福音書だけが伝える話です。
ルカ17・20で「神の国はいつ来るのか」という問いかけがあり、イエスは「神の国は、見える形では来ない」「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17・20、21)と答えました。同時に「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」(17・24)とも言います。そして、その時に起こるであろう天災や苦難について語りました(17・22-37)。その苦難の時に向かう心構えとして、きょうの教えも伝えられているようです。
【福音のヒント】
(1) 「気を落とさずに」と言いますが、そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。17章の終わりで語られていたのは、イエスの再臨の時に起こるさまざまな苦難でした。その中で「もうダメだ」と気を落としてしまうということでしょうか。でもそれはある将来のことというよりも、わたしたちが今生きている中で起こっていることかもしれません。わたしたちの生きている世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみに満ちています。そんな中で、わたしたちは「気を落として」しまうことがあるのではないでしょうか。イエスはそのときにも絶えず祈ることを呼びかけています。きょうの箇所を読む上で、この苦難という状況は無視できないでしょう。
(2) 旧約聖書の中でやもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女が助けを求めたのは、誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったからでしょう。「相手を裁いて、わたしを守ってください」ということばは、直訳では「相手に対してわたしを裁いてください」です。「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。7-8節の「神の裁き」も同様です。
(3) このたとえ話は、ルカ11・5-8の「旅の友人の願い」のたとえとよく似ています。これらのたとえ話は、祈りの大切さを教えていますが、同時に神は誠実でいつくしみ深い方であるから、わたしたちの祈りを必ず聞いてくださる、ということが強調されています。
しかし、神を「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」にたとえるのはあまりも突飛に聞こえます。イエスは「不正な裁判官」と「正しくいつくしみ深い裁き主である神」の対比を強調していると言ったらよいでしょうか。そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々(弟子たち)に対してだったのでしょう。イエスは聞いている人を驚かせ、彼らの目を開かせるために、このように突飛なたとえを語られたのかもしれません。
(4) 「選ばれた人たち」(7節)ということばの背景には、「主がその(苦難の)期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。」(マルコ13・20。マタイ24・22参照)という考えがあるようです。そこでは「選ばれた人たち」は、もちろん救いにあずかる人々のことです。ただ、救いにあずかるということが、その人たち自身の功績によることではなく、まったく神の恵み(好意)によることだと考えられ、その神のイニシアチブを強調するために「選ばれた人=神が選んだ人」と言われているのです。神の選びは、現代のコンテストとは違います。コンテストでは優れたものが選ばれ、選ばれなかったものは捨てられますが、神は誰一人切り捨てず、すべての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれるのです(申命記6・6-8、Ⅱコリント1・26-31参照)。そう考えれば、このたとえ話のやもめのような、弱く貧しい人こそが「神の選ばれた人たち」だと言うこともできるでしょう。
(5) 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の「人の子」は本来「人間」を指すことばでしたが、ダニエル7・13-14などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者としての再臨のキリストのことが考えられています。ここでいう「信仰」は「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことでしょう。祈りは大切だから祈り続けなければならない、とも言えるでしょうが、たとえ話のやもめは、止むに止まれず訴え続けました。そこから考えても、この信仰とは、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない、という人が神に向かう姿勢そのものだとも言えるでしょう。
(6) 聖書の終末についての教えには2つの側面があります。1つは、苦難や迫害の中での希望のメッセージという面。本来、終末についてのメッセージは、この悪の支配の時代が過ぎ去ることを語り、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますメッセージでした。もう1つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの警告のメッセージです。神の判断(裁き)から見たときに何が本当に大切なのかを鋭く問いかけるメッセージにもなるのです。
きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができるでしょう。
本当に問われていることは、わたしたちの祈りや願いがどこまで切実なものかということではないでしょうか。そして、わたしたちの「祈りの切実さ」は現実の人間の苦しみとつながる中からしか来ないということも忘れてはならないでしょう。
2004年10月10日
ルカ17・11‐19 (2004/10/10 年間第28主日)
【教会暦と聖書の流れ】
エルサレムに向かうイエスの旅は神の国を告げ、神のいつくしみをあらわし続ける旅でした。きょうのこの話もルカ福音書だけが伝えるものです。
【福音のヒント】
(1) 「サマリアとガリラヤの間」とありますが、正確な場所はよく分かりません。話の中にサマリア人とユダヤ人が一緒に出てくるので、それに合わせた場面設定だともいえそうです。なお、イエスが育ったガリラヤ地方は、ユダヤから見てサマリアよりもさらに北にありましたが、ある時代に、南のユダヤ人が入植して町や村を作ったので、人種的にも宗教的にもユダヤ人との同一性を保っていました。つまり、ガリラヤ人はユダヤ人なのです。
紀元前10世紀、ソロモン王の死後、北イスラエル王国は南のユダ王国から分離し、エルサレムの神殿とは別の聖所をサマリアのゲリジム山に作り、宗教的にも離れてしまいました。紀元前8世紀には北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になり、民族的にも別々になりました。このような経緯で、ユダヤ人とサマリア人は反目し合うようになっていたのです。
(2) ユダヤ人とサマリア人は、共にモーセ五書を正典としていました。その中には次のような規定がありました。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13・45‐46)。
反目し合っていたユダヤ人とサマリア人が一緒に行動していることは普通ならば考えにくいことです。しかし、重い皮膚病の人々は、それぞれが本来属していた共同体から排斥され、苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのでしょう。苦しみの中での連帯・・・そういう経験はわたしたちの周りにもあるでしょうか。
(3) イエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)と言われます。当時の社会では、病気を宣告するのも、治癒を宣言するのも、祭司の役割でした。祭司によって「清め」の儀式をしてもらわなければ、社会復帰ができないのです。イエスはその人の神とのつながりを回復するだけでなく、コミュニティの人々との関係も取り戻すことを意図しておられたとも言えるでしょう。なお、ユダヤ人とサマリア人は別々の祭司を持っていたので、彼らは、別の場所へ出かけていったのです。
(4) きょうの福音から、「もっともっと感謝と賛美の心を持たなければならない」という教訓を受け取るのは当然のことでしょう。しかし、「感謝し、賛美する」というのは、義務感から来るものではないはずです。むしろ自然に心の中からわき上がるのが、賛美と感謝なのではないでしょうか。どうしたらそうできるかを考えるために、自分をこの福音の場面の中に置いてみて、このサマリア人の立場からこの物語を味わってみたらどうでしょうか。病気が治った人はもちろん皆、喜んだでしょう。しかし、祭司のところに行く前に、「感謝し」(16節)「賛美するために戻ってきた」(18節)のはサマリア人だけでした。それはなぜでしょうか。
このサマリア人は「自分がいやされたのを知っ」(15節)た、とあります。ほかの人は、確かに病気が治ったことを喜んだけれど、そこで終わってしまった。それに対してこのサマリア人は「いやされた」=「神がいやしてくださった」と受け取ったからこそ、賛美し感謝することができたのだ、と考えることが一つにはできるでしょう。
もう一つ考えられることは、イエスというユダヤ人が民族の壁を超えて、自分にも目をかけてくださった、ということに、ほかの人(ユダヤ人)以上の感謝を感じたということかもしれません。「この自分にも!」という驚きと感動が、彼の行動の背景にはあるといえるのではないでしょうか。
どちらも、わたしたちの中に似た経験があるかもしれません。わたしたちが、本当に神に感謝し、神を賛美するのはどんなときでしょうか。
(5) 「あなたの信仰があなたを救った」ということばは福音書に何度か出てきますが、考えてみれば不思議なことばです。「神があなたを救ってくださった」というほうが自然なのではないでしょうか。それでも、イエスは「信仰」を強調するのです。出来事の中に神とのつながりを発見すること、自分の現実の中に神の働きを見ていくこと、それがここでいう信仰だと言ったらよいのかもしれません。わたしたちはどうでしょうか。日々の出来事の中に、どのように神の働きを受け取っているでしょうか。
この個所のすぐ後に、「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17・21)というイエスのことばがありますが、この帰ってきたサマリア人の中に、イエスは神の国の実現を見ていると言ってもよいかもしれません。身近に起こっている出来事の中に、神の国を見ることのできる眼を、信仰の眼といってもよいのでしょう。
2004年10月03日
ルカ17・5-10 (2004/10/3 年間第27主日)
【教会暦と聖書の流れ】
エルサレムへの旅の段落の中で、ルカは他の福音書にない独自の伝承(イエスについての言い伝え)を多く伝えていますが、きょうの福音の少し前からは、マタイ福音書と共通の話が多くあります(1-2節はマタイ18・6-7に、3-4節はマタイ18・21-22に、5-6節はマタイ17・20によく似ています)。新共同訳聖書はルカ17・1-10に「赦し、信仰、奉仕」という小見出しを付けていますが、本来、1-2節、3-4節、5-6節、7-10節は別々の伝承だったと考えたほうがよいでしょう。さまざまな点において、イエスの弟子としてふさわしい生き方はどういうものかを教えることばとして集められたもののようです。
【福音のヒント】
(1) からし種は1~2ミリの小さな種で、本当に小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切です。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときですか。
(2) 信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは、「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことではないでしょうか。信仰の力とは、「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではないようです。そうではなくて、「信じて、神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということなのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。
福音書の中で、「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在」の問題ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうか」という問題だったのです。
(3) 信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、という世界なのです。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、だから自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)といえるのでしょう。
わたしたちは自分の力でなんとかしなければならない、という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力と努力が足りないからだ」、と見なすような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。
(4) 1-10節で、別々の伝承がつなぎあわされているのだとすると、使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言った状況については何も分からないことになります。しかし、わたしたちも同じように言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。
3-4節の「ゆるし」のテーマとつなげて考えることも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言われても、すごくむずかしいことです。そこで弟子たちは「信仰が足りない」と感じたのではないかと考えてみます。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのでしょう。
さらに「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」ということばも、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、「しなければならないことをしただけ」ということになります。
人が人をゆるす、ということはどうやったら可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。
1.自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけです)。
2.相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解したとき。つまり、その人がどんな傷を受けてきたか、その中でどんなふうに人格が歪んで、ああいう行動に走ったのかが理解できるとき。
3.ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。
4.自分が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。
他にもあるかもしれません。「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうがたぶん何倍も役に立ちます。
2004年09月26日
ルカ16・19-31 (2004/9/26 年間第26主日)
【教会暦と聖書の流れ】
イエスのエルサレムへの旅が続いています。この旅の段落の中に、ルカは他の福音書にないイエスの多くのことばを伝えています。このたとえもルカ福音書だけが伝えるものですが、お金や富の問題は先週の福音から続いているテーマです。
【福音のヒント】
(1) この箇所の少し前の14節には「金に執着するファリサイ派の人々」ということばがありました。ファリサイ派は当時のユダヤ教の一派で、律法と口伝律法(律法学者たちによる律法解釈)を厳格に守ろうとしていました。彼らがなぜ、「金に執着する」と言われるのでしょうか。隣人を愛し、貧しい人のために自分の持っているものを分かち合うという律法に表された神の根本的な要求よりも、自分の生活の豊かさを確保した上で、安息日の義務や清めに関する細かい規定を必死で守ろうとしていた態度のためでしょう。それはわたしたちにとって他人事でしょうか。
(2) このたとえ話には、死後の世界についての描写があります。「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」「陰府でさいなまれ」「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって」などです。ここにある死後の世界の描写は当時の人々の考えに基づいたもので、イエスは死後の世界の有様について教えようとしているのではありません。イエスは、死という時・決定的な神の「裁き」という観点から見て、今をどう生きるかを鋭く問いかけているのです。
なお、このラザロという人は特別に正しい人であったとは言われていませんが、金持ちと貧しいラザロの状況は死後逆転します。このような神による逆転は、ルカ福音書の特徴といえるかもしれません(ルカ1・52-53、6・20-26参照)。その根底にあるのは、「神の真実な方で、貧しい人の苦しみを決して見過ごされることはない」という考えだといえるでしょう。
(3) 「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる」(29節)「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)といわれますが、それは、貧しい人を助けなければならない、ということについて、旧約聖書をとおしてすでにはっきりと聞いているはずだ、ということです。
たとえば、申命記にはこういう箇所があります。
「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。・・・・彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」(申命記15・7-11)
イザヤ書にもこうあります。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。・・・・飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。」(イザヤ58・6-10)
(4) このようなことばを、この金持ちとその兄弟たちは聞いていたはずだ、というのです。この金持ちが聞き逃したのはそういう聖書のメッセージであり、見過ごしたのは目の前の人の苦しみでした。わたしたちにとっても呼びかけは2つあると言えるでしょう。1つは「聖書」からの呼びかけ、神が人間に何を望んでおられ、わたしたち人間は何をすべきか、ということです。しかし、呼びかけは「現実」から来るとも言えるでしょう。自分の家の目の前に、貧しい人が横たわって苦しんでいる、その現実はわたしたちに何かを呼びかけています。そして、聖書をとおしての神の呼びかけと、目の前の人間の現実の必要が結びついたときに、わたしたちの具体的な行動への呼びかけになるはずです。
わたしたちはそういう呼びかけを聞いているでしょうか。それに応えているでしょうか。どうしたらその呼びかけに本当に応えることができるでしょうか。
(5) 「死者の中から生き返る者」(31節)ということばは、イエスご自身を暗示しているのでしょうか。もちろんここでは、その者を見ても回心しないだろう、と言われるのですが、イエスご自身の姿を思い浮かべることは、福音を読むときにいつも大きなヒントになります。イエスは単にことばによる教えを述べたのではなく、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」(Ⅱコリント8・9 きょうのアレルヤ唱参照)と言われる方です。それは単なる「施し」をはるかに超える姿でした。さらに、マタイ25・31-46でイエスが、飢え、のどが渇き、旅をしていて、裸であったり、病気であったり、牢にいる人にしたことは「わたしにしてくれたことだ」と言った言葉も思い出すならば、「イエスは死者の中から復活して、貧しい人・もっとも小さな兄弟の中にいる」と言ってもいいかもしれません。わたしたちは、その呼びかけを聞くことができるでしょうか。
2004年09月19日
ルカ16・1-13 (2004/9/19 年間第25主日)
【教会暦と聖書の流れ】
イエスのエルサレムへの旅が続いています。この旅の段落の中に、ルカは他の福音書にないイエスの多くのことばを伝えています。このたとえもルカ福音書だけが伝えるものです。
【福音のヒント】
(1) 1~8節前半のたとえは、かなり分かりにくいと感じられるでしょう。主人が人に貸したものを管理人が勝手に減額してしまうというのは、普通ならほめられるはずがないことです。なぜ「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」のでしょうか。ただ、この管理人の「抜け目のなさ(賢さ)」だけを評価しているということなのでしょうか。だとしても「ほめる」というのは少し無理があるように感じられるでしょう。
この管理人の行為については、別の見方もあります。1つには、管理人が放棄したものが実は自分の受け取るはずの手数料だったという解釈。手数料を放棄したのであれば、そのこと自体は不正とは言えないことになります。もう1つには、管理人は利息分を棒引きしてやったという解釈です。利息をとって人に貸すことは律法で禁じられていましたが、実際にはどの時代にも行われていました。50バトス貸したときに100バトス貸した、とか、80コロス貸したときに100コロス貸した、という証文を書いておけば、この差額が実際には利息分になります。利息分を棒引きすることは主人の利益に反しますが、本来利息を取ること自体が悪だとされているので、主人は文句を言えないわけです。
(2) たとえ話の結論は、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9節)です。「不正にまみれた富」は直訳では「不正なマンモン」。「不正によって得たお金」というよりも「神から離れた、この世のものである富」という意味です。お金とどうかかわるべきか、お金をどう使うか、というのが、10節以下でもテーマになっています。「友達を作る」は富を貧しい人に施すことによって、貧しい人の友となり、神がそのことを顧みて、受け入れてくださる、と取ることができるでしょうか。あるいはそうすることによって「神を友にする」とも取れるでしょうか。
(3) 10-12節で、「富について忠実」であることが求められていますが、それは「富に忠誠を尽くす」という意味ではなく「富を誠実に、正しく扱う」ということです。「忠実」は「ピストスpistos」の訳で、「不忠実」は「アディコスadikos」の訳です。adikosは8節の「不正なadikia」と同じことばですが、内容的には結び付きません。そこから見ても10節以下の教えは、本来、前のたとえ話とは別の教えで、切り離して考えるほうが良さそうです。
13節の「神と富とに仕えることはできない」という教えは、マタイ6・24(山上の説教の中)にもあり、これも直接12節までとつながっているというより、13節だけで独立した教えと考えたほうがよいでしょう。つまり、別々の伝承がつなぎ合わされている、ということです。
お金との関わり方というのは確かにわたしたちにとって大きなテーマです。お金に縛られたり、お金に振り回されている現実はだれにでもあるはずです。しかし、わたしたちは、お金がすべてではなく、お金が神ではないことも分かっているはずです。10-12節の言葉で言えば、もし、富が『ごく小さな事、不正にまみれた富、他人のもの』だとすれば、何が『大きな事、本当に価値あるもの、あなたがたのもの(自分自身のもの)』なのでしょうか。それは神とのつながりでしょうか、人と人とのつながりでしょうか、自分自身の生き方でしょうか。お金がそれらのものを妨げてしまうと感じられることもきっとあるでしょう。わたしたちの生活の中で、きょうのイエスのことばをどのような呼びかけとして受け取ることができるでしょうか?
(4) 1-9節の別の読み方を紹介します。実はきょうの福音のたとえ話は、15章の3つのたとえ(百匹の羊、十枚の銀貨、放蕩息子の父)に続いて語られていますが、ここで突然「富」がテーマになるのはなぜでしょうか。本来はこのたとえ話も15章同様、「罪のゆるし」がテーマだったのではないでしょうか。福音書の中で「罪のゆるし」が「借金の帳消し」のたとえで語られることがあります。「主の祈り」もそうですし、ルカ7・41-42やマタイ18・23-34もそうです。神は借金が返せずにどうにも行き詰まってしまった人間を見て、憐れに思い(マタイ18・27「スプランクニゾマイ」)、なんとか生かそうとする――これが「借金の帳消し」の意味であり、神のゆるしなのです。きょうの箇所の管理人は自分の不正によって行き詰ってしまいましたが、その行き詰まりを打開し、なんとか生き延びるために彼がしたことは、主人に負債のある人の負債を勝手に減免してしまうことでした。それは「罪人である人間が、他の罪人をゆるしてしまう」ということを表しているのではないでしょうか。さらに、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)というのは、「実は、それが神の望みでもあったのだ」、ということではないでしょうか。
ルカ15・1-2で、イエスは徴税人や罪人を迎え、一緒に食事をしていると非難されました。非難したファリサイ派や律法学者にすれば、その人々は神が絶対にゆるさないはずの人々でした。だから自分たちがゆるす必要もないのです。しかし、イエスにとっては、人が「罪人」をゆるし、受け入れることこそが神の心にかなうことだったのです。このように考えると、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9節)という結論は、「人が人をゆるし、人と人とが友として和解すること」を勧めていることになります(もちろん、このように考えると、このたとえ話は10節以下の富についての教えとは関係がないことになります)。
わたしたちも本当はどこかで行き詰っていて、絶体絶命のピンチにあるのかもしれません。もしそうならば「その時、この不正な管理人はどうしたか」は大きなヒントになるはずです。
投稿者 ct : 11:13 | コメント (124)
2004年09月12日
ルカ15・1-32 (2004/9/12 年間第24主日)
【教会暦と聖書の流れ】
ミサの朗読には、長い形と短い形がある場合がありますが、この「福音のヒント」ではいつも長い形のほうを取り上げています。グループで分かち合う場合には、ミサほど時間的な制約がないと思うからです。なおきょうの短い形で、11節以下の「放蕩息子の父のたとえ」が省略されているのは、今年(C年)の四旬節第4主日でも読まれた箇所だからです。
ルカ福音書の文脈では、イエスはエルサレムに向かう旅を続けています。その中でイエスは父である神の姿と神の国の喜びをはっきりと示していきます。
【福音のヒント】
(1) 3つのたとえ話ですが、1-3節の導入部分は大切にしたいところです。これらのたとえ話は単なることばによる教えではなく、イエスの生き方・行動と密接に結びついているのです。この話のきっかけは、イエスが徴税人や罪人を招き、食事まで一緒にしていたのを非難されたことでした。イエスの答えは、「神とは、この羊飼いのような方であり、1枚の銀貨を探す女性のような方(!)であり、放蕩息子の父のような方だ。だから、自分は罪人を招き、食事を一緒にするのだ」ということです。
(2) 「共に食事をすること」が、一緒に食事をする人同士の絆を作り、確認し、深めるものであることは、ほとんどすべての民族・文化に共通することです。食べ物を一人占めせずに、分け合って食べるというところに、人と人とのもっとも基本的な「共に生きる姿」があると言えるのでしょう。ユダヤ人にとって「共に食事をすること」は「神の前での大宴会」のイメージでもありました。出エジプト記はイスラエルの長老たちがシナイ山で、神を見て食べかつ飲んだことを、特別な恵みのしるしとして伝えています(出エジプト記24・11)。預言者は最終的に到来する救いの完成を神のもとでの宴として描きました(イザヤ25・6-10)。
地上で「共に食事をすること」は、この「神のもとでの宴とそこに集う共同体」を目に見える形で表すものと考えられ、それゆえ、イエスの時代のユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしませんでした。自分たちだけが神の食卓にあずかれると考えていたからです。同じように、ファリサイ派の人々は自分たちのグループだけで食事をしました。徴税人など罪人は救いから排除されるはずだったからです。イエスにとっても「共に食事をすること」は救いの共同体を表すものでした。しかし、だからこそイエスはすべての人をそこに招いたのです!
きょうのたとえ話は、神が罪人の滅びではなく、罪人が生きることを望んでおられるということを明確に示します。神は罪によって自分から離れ、ボロボロになり、滅びかけようとしている人を、探し、待ち続け、見つけて連れ戻すことを喜びとする方なのです。
(3) 福音書の中での「罪人」の問題は、自分の意志で悪を行ったというようなことよりも、病気や職業によって罪人のレッテルを貼られ、神からも人からも断ち切られていた人々の問題だったということを思い出すことも、たぶん大切でしょう。それは厳密に「罪」というよりももっと広い「神と人々から断ち切られた状態」の問題だといってもよいでしょう。今の社会の中ではどういう人々のことを思い浮かべることができるでしょうか。
(4) きょう、わたしたちはこの福音をどう受け止め、どんなことを分かち合ったらよいでしょうか。たぶん第一に問われることは、わたしたちがどの立場でこれらのたとえ話を聞くかということです。「迷わずにいる99匹の羊」か「迷った1匹」か。真面目に父親のもとで働いてきた兄か、放蕩息子である弟か。もし後者であれば、これはもうありがたくてありがたくて仕方ない、福音としか言いようがありません。
ただし、イエスはこれらのたとえ話を、迷子の羊や放蕩息子である「徴税人や罪人」に向けられて語ったのではありませんでした。99匹であり、真面目な兄である「ファリサイ派や律法学者」に向けて語られたのです。そこで求められていることははっきりしています。99匹には、羊飼いの心を分かってほしい、兄には、弟を受け入れた父の心を分かってほしい、ということです。それは、わたしたちにも思い当たることがあるのではないでしょうか。
自分を「99匹・兄」と感じる部分がだれにでもあるでしょう。一方、「迷子の1匹・弟息子」と感じることもきっとあるでしょう。どんなときにそう感じたのでしょうか。
(5) 「わたしにとって、迷子の1匹・弟とはだれのことか」と問いかけてみることもできるかもしれません(マタイ18・10)。本当は神がとても大切にしている人なのに、自分はいつの間にか見下していたり、無視してしまっている、そういう人がいるのではないでしょうか。
(6) 放蕩息子のたとえで、よく言われることは「こんなに甘い父親では、弟は更生しないし、兄もやる気を失ってしまう」ということです。社会の常識から言えばそのとおりでしょう。それでも神は、無条件にゆるすのです。なぜなら、人間は神からの、この無条件のゆるしと愛なしには生きられないものだからです。そのことを本当に感じられますか。
(7) 放蕩息子の父のたとえは、ゆるしとは関係回復の出来事だということを非常にはっきりと示しています。弟息子は「わたしが頂くことになっている財産の分け前」と言いますが、これは普通なら父親が死んでから与えられるものです。弟息子にとって父は死んだも同然、まったく関係を断ち切ってしまいます。一方の父親は息子の帰りを待ち続け、帰ってきた息子を「見つけて、憐れに思い(例の「スプランクニゾマイ=はらわたして!」)、走り寄って」、わが子として受け入れるのです。ゆるしとは罪によって断ち切られた関係を取り戻そうとする働きです。この関係回復も現代世界の大きなテーマではないでしょうか。
2004年09月05日
ルカ14・25-33 (2004/9/5 年間第23主日)
【教会暦と聖書の流れ】
イエスはエルサレムに向かう旅を続けています。それは十字架に向かう旅であり、十字架を経て天に向かう旅でもありました。その中でイエスに従うことが、きょうの福音のテーマになっています。
【福音のヒント】
(1) 「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら」(14・26)というのはそのまま読めば、かなり衝撃的なことばです。一般的には「積極的に憎むという意味ではなく、より少なく愛するという意味」だと説明されています(マタイ10・37参照)。自分の家族や自分の命を大切にすることは、普通の状況ならば何よりも優先すべきことです。しかしここでは、それ以上にイエスに従うことを優先させよ、と言われています。それはやはり特別な状況の中でのことばだからでしょう。福音の場面としては、イエスはエルサレムへ向かう生涯最後の旅をしていますから、実際問題、このイエスに従って歩んでいくことはそれくらいの覚悟を必要としたはずです。わたしたちの中に、そのようなギリギリのところでの二者択一を迫られるような体験があるでしょうか?
また、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」(ルカ14・27)ということばも、そのような特別な状況の中でこそ切実な意味を持つことばかもしれません。
(2) しかし、一般的な状況の中でもイエスに従うことは、ある意味では「十字架を背負う」ことだと言えるかもしれません。ルカ9・23には、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということばがありました。そこでは「自分を捨て」と「日々、自分の十字架を背負って」が並行して語られています。十字架刑はローマ帝国の処刑方法の1つで、死刑にされる人を最大限に苦しめ、人々に対してみせしめにする残虐な処刑方法でした(ローマの市民権を持つ人には適用されず、主に植民地の、ローマ帝国に対する反逆者に適用されたと言われています)。死刑囚は、自分の十字架を処刑場まで担いで行き、そこで木の上にさらし者にされるのです。そこから考えると、「十字架を背負う」というのは、「苦しみと死」というだけでなく「自分の利益、名誉、安全を手放し、人からの侮辱さえも受け入れて生きること」を意味していると言ってよいかもしれません。これは「日々」の生き方の問題なのです。
(3) 28節からの「塔のたとえ話」と「王のたとえ話」は分かりにくいかもしれません。たとえ話自体はむずかしくないのですが、33節の「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」という結論に結びつけるのはやや強引だと感じられるのではないでしょうか。2つのたとえ話に共通することは「まず腰を据えて」(28節と31節)ということばです。そうだとするとポイントは、「本当にイエスに従う覚悟があるかどうか、そのために一切を捨てる覚悟があるかどうか、前もってじっくり考える」ということになるでしょう。
(4) ただし、あまりにじっくり考えると、「やっぱりわたしには無理だ」とあきらめてしまう恐れもあります。無理だとしたらどうしたらよいか。これに関して「もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」(32節)ということばは1つのヒントになるかもしれません。「敵」とはだれでしょうか、「和を求める」とはどういうことでしょうか。全体を「神と和解する」という意味にとれば「敵=神」となってしまいますし、「人と和解する」ととれば「敵=人」となり、どちらも違和感がありますが、何よりも大切なこととして「神との和解、人と人との和解」を考えるというのは聖書全体の中心テーマです。そう考えてみることも1つの可能性としてはあります。ただ、このたとえ話の中で、そこまで考えるべきかどうかは疑問です。あきらめて他のことを考えるよりも、やはり「一切を捨てて、イエスの弟子になる」ことが求められているはずなのです。
(5) 福音書を読んでいて、特別に厳しいイエスのことばに出会ったとき、それをどのように受け取ったらよいでしょうか。
何よりも大切なことは、福音のことばを祈りの心で受け取ることでしょう。
できるだけ率直に、キリストがこのわたしに語りかけていることばとして受け取ろうとするのです。それは、自分の考えや自分の都合で福音のことばをゆがめてしまわないために大切なことです。そのために、厳しいことばをあまり割り引かずに、厳しさを厳しさのまま受け取るという姿勢も必要なのです。
しかし同時に、キリストのすべてのことばは、素晴らしい、本当の喜びへの招きであると受け取ることも大切です。「神が、イエスが命じているから仕方ない」というような受け取り方では、心からこたえることはできません。「神は必ずわたしにとって一番良いことをしてくださる」という信頼をもって聖書のことばを受け取るのです。イエスの招きは、ルカ福音書の文脈で言えば、神の国の宴会への招き(直前のルカ14・15-24参照)だと言ってもいいでしょう。そこに招かれている「幸い」を感じたときにこそ、わたしたちはイエスに従うことを自分の生き方として選ぶことができます。もちろん、厳しさも苦しみもあります。人から誤解されたり、拒絶されることもあるでしょう。しかし、自分の選んだ生き方ならば、わたしたちは、どんな人にも、どんなことにも振り回されることがないはずです。
きょうの福音で本当に問われていることは、わたしたちが、イエスに従うことを自分自身の生き方として選んでいるかどうか、ということなのかもしれません。
2004年08月29日
ルカ14・1, 7-14 (2004/8/29 年間第22主日)
【教会暦と聖書の流れ】
エルサレムへの旅の段落(ルカ9・51~19・44)が続いています。ある安息日の食事の場面ですが、会食は神の国の宴=神の国の完成の姿を表すものでした。ここで語られているのは、単なるテーブルマナーや人づき合いの方法ではなく、「神の国とはどういうものであるか」ということなのです。
【福音のヒント】
(1) 省略された2節~6節には、水腫の人のいやしの話があります。ルカ福音書では、安息日にイエスが病人をいやしたことが6・6-11、13・10-17とこの箇所の3回伝えられています。いずれも苦しむ人々へのイエスの深い共感と愛を表している話です。イエスは、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(14・5)と言います。イエスは「安息日の律法が何を禁じているか」ということに関心があるのではなく、目の前の苦しんでいる人にイエスは関心があるのです。そのイエスの姿勢は、きょうの福音の教えにもつながっています。単なる「ことばによる教え」ではなく、その背後にあるイエスの生き方・イエスの心を受け取ることが大切でしょう。
(2) 8-11節は「へりくだり」を勧めています。イエスご自身が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・8)と言われています。「へりくだる」は「タペイノオー」という動詞ですが、元にあるのは「タペイノスtapeinos」という形容詞で、普通は「身分が低い」と訳されることばです。イエスはご自分のことを「身分の低い者(タペイノス)」であると言われました(マタイ11・29参照。「謙遜」と訳されているが、直訳では「心において身分の低い者、心へりくだる者」)。「へりくだる」ということばを一般的・抽象的に考えるよりも、「イエスはどのような意味で、へりくだる者であり、身分の低いものであったか」を見つめてみるとよいのではないでしょうか。イエスの「へりくだり」は決してポーズとしての、うわべだけの謙虚さではありませんでした。そのイエスの「へりくだり」にわたしたちが結ばれて生きるということはどういうことでしょうか。なお、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)はイエスの死と復活につながるイメージだとも言えるでしょう。
「面目を施す」と訳されたことばは直訳では「ドクサdoxaがある」です。この「ドクサ」ということばは、元々のギリシャ語では、「人からの評判や名誉」を表すことばでしたが、聖書の中では多くの場合、「栄光」と訳されています。「神の栄光」あるいは「神からの栄光」の意味で使われています。ここでも「みんなの前で神からの栄光(栄誉)がある」という意味に受け取ったらよいかもしれません。
(3) イエスは13節で、貧しい人や障がいのある人を食事に招きなさい、と言います。障がい者に対する古代イスラエル社会の見方は非常に差別的なものでした。聖書の中でも、障がいのある者は祭司の務めを果たすことが許されない(レビ記21・17-23)とか、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」(サムエル記下5・8)というような箇所があります。そこから考えればイエスの語る神の国は、そのような人々が奪われた人間性を取り戻し、すべての人が神の子どもとして等しく尊重される場だということになるでしょう。
(4) 「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)というのはもちろん、神からの報いがあるということです。このようなことばをどう受け取ったらよいでしょうか。
わたしたちは皆、ふだんの生活の中で、プレゼントとそのお返しに気を使いながら生きていると言ってもよいでしょう。人からの報いや人へのお返しが当たり前の社会に生きているわたしたちにとって、イエスのことばは非常に強烈な問いかけです。「これだけのことをしてあげたら、これだけのことはしてもらえるだろう」「これだけのことをしてもらったから、これくらいはしてあげなければならない」というだけの世界では、自分の本当の生き方を見いだすことはできないのです。
ただ逆に、「人からの報いを期待せず、神からの報いのみを期待する」というのにも落とし穴があるかもしれません。現実の人間との関わりを見失い、現実の人間の苦しみ・悲しみなどどうでもよくなってしまう、という危険もあるのです。
むしろこのイエスのことばを、本当に素晴らしい世界への招きと考えてはどうでしょうか。貧しい人や障がいのある人と出会い、一緒に生きることは、わたしたちをもっと豊かな人生に導いてくれるものなのです。わたしたちの中にも、そういう体験があるのではないでしょうか。
(5) 「こうしなければならない」ということばかりを福音から受け取るのではなく、現にわたしたちの中にある「神の国」の体験を見つけることが、聖書を読み、分かち合う中では大切なことです。きょうのイエスのことばは、わたしたちの中に「神の国」についての豊かなイメージを作り上げるものだと言ったらよいのではないでしょうか。
2004年08月22日
ルカ13・22-30 (2004/8/22 年間第21主日)
【教会暦と聖書の流れ】
ルカ福音書はガリラヤからエルサレムに上るイエスの旅の途中にさまざまなエピソードを伝えています(ルカ9・51~19・44)。この旅は、神の国を告げ知らせる旅であり、十字架を経て天に向かう旅でした。きょうの福音もその旅の段落の一節ですが、ここから神の国についての豊かなイメージを受け取ることができるでしょう。
【福音のヒント】
(1) 「救われる」というのは、ここでは「神の国に入っている」(28節)、「神の国で宴会の席に着く」(29節)ということを意味しています。「神の国」とは、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」と言ってもよいでしょうが、それには「すでに始まっている」面と「最終的にいつか完成する」という面があります。ここで問題になっているのは、最終的な神の国の完成にあずかることができるかどうか、ということです。もちろんそれを「神の裁き」の問題だと言うこともできます。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」この問いを発した人は、なぜこんなことを聞いたのでしょうか。「救われるのが少数ならば、そうとうがんばらなければならない、逆に、多くの人が救われるというのなら、まあまあ人並みにやっていれば大丈夫だろう」そのような考えがあったのかもしれません。「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスのことばは、「救われる人は少ない」と言っているようにも聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか。
(2) 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(29節)は非常に多くの人がそこに受け入れられているイメージです。「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)は、「人間の考えでは先だと思っている人が神の国では後になり、人間の考えで後だと思っている人が神の判断では先になる」ということでしょう。一方ではものすごい広さがあって、予想もしなかった多くの人がそこに招かれていく、という面と、同時に、入れるはずの(つもりの)人が入れないという面があるようです。神の裁き(判断)は、人間の考えや計算を超えている、ということでしょう。「多いか少ないか」という人間の「取らぬタヌキの皮算用」は通用しない世界なのです。
では、神の目から見て何が本当に良しとされることなのか、これについて、きょうの箇所にはそれほど明白な答えがないようにも感じます。「戸を閉めてしまってからでは」ダメだし、「不義を行う者ども」はダメだということは語られています。今という時をどう生きているか、が問われていることは確かです。今すでに神の国を生きているかどうかがすべてだと言ってもいいでしょう。
(3) 福音を読むときに、ただイエスのことばを頭で理解しようとするのではなく、いつもイエス自身の歩み・生き方を感じることは大切です。イエスの生き方は、人間的な計算に基づく生き方ではありません。古代のある人はイエスを「autobasileia(ご自身が神の国)」と呼びました。「今神の国を生きること、そして最後まで神の国を生き抜くこと」それがイエスの道でした。
イエスの語ったたとえ話で言えば、やはり「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10・25-37)が思い出します。「わたしの隣人とはだれですか」とイエスに問いかけた律法学者は、神の報いについて人間的な計算をしようとしていました。しかし、あのサマリア人は、報いを気にして道に倒れていた人を助けたのではありません。彼は「はらわたをゆさぶられた(スプランクニゾマイ)」から助けたのです。イエスの生き方はまさにこのサマリア人のような生き方でした(ルカ7・13など参照)し、それが神の国を生きるということなのです。
救われるための計算に基づく行為は、その人の本当の生き方とは言えないでしょう。「自分が救われるために人を愛する」というのも何か変です。わたしたちは、どうしたら神の国を生きることができるのでしょうか、どうしたら愛を生きることができるのでしょうか。
(4) マタイ7・13-14には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」ということばがあります。そこでは「狭い門」は多くの人が見過ごしてしまうほど小さな門、という意味です。それに対して、ルカの今日の箇所では、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」となっていて、「多くの人が来るが、その中の少数しか入れないほど狭い戸口」というニュアンスでしょう。
わたしたちにとって「狭い門、狭い戸口」とはなんでしょうか。そこから入るということはどういうことでしょうか。人間的な見方や打算ではなく、わたしたちの心のもっとも深いところに働きかける神の呼びかけに従うことだと言ってもよいかもしれません(それを「聖霊の導き」というのです)。
「狭い門、狭い戸口」から入ったという経験がありますか。
2004年08月15日
ルカ1・39-56 (2004/8/15 聖母の被昇天)
【教会暦と聖書の流れ】
8月15日の聖母の被昇天の祭日が今年は日曜日に当たったため、主日のミサでもこの祭日を祝うことになります。
聖母の被昇天とは、「聖母マリアが生涯の最後に、体も魂も共に(存在のすべてが、という意味)天の栄光に上げられた」という教えです。聖書には、イエスの母マリアの生涯の終わりがどうだったかという記録はありません。しかし、キリスト信者は古代からマリアの生涯の終わりが祝福に満たされたものだったと信じてきました。旧約聖書で言えば、エノク(創世記5・24)やエリヤ(列王記下2・11)のような生涯の終わり方をしたと考え、次第に「マリアは天に上げられた(=神に取られた)」と表現するようになりました。この教えは、マリアが神の特別な恵みのゆえに、例外的に普通の死を味わわなかった、ということを強調する教えではありません。キリスト者・教会の最終的な救いの完成の姿を、マリアの生涯が前もって表しているのだ、ということが大切です(第二バチカン公会議『教会憲章』第8章参照)。マリアはわたしたちの一員であり、だからこそ、わたしたちの希望の星なのです。
福音の箇所は、ルカが伝えるイエスの誕生物語の一節で有名な箇所です。エリサベトのマリアへの祝福のことばは「アヴェマリアAve Maria」の祈りに用いられていますし、マリアの賛歌は、「マニフィカトMagnificat」として歌い継がれてきました。
【福音のヒント】
一つのヒントとして、「マリアの連帯性」ということを感じながら、きょうの福音を味わいたいと思います。
(1) マリアは救い主の母となるということを天使に告げられて、ただ一人でそのときを待つのではなく、洗礼者ヨハネを身ごもっているエリサベトを訪ねます。なぜ、マリアはエリサベトのところに行ったのでしょう。天使のお告げを確かめるため? 身重のエリザベトを助けるため? それだけでなく、神の救いがお互いの中に働いていることを確かめ合い、心を合わせて神の約束の実現を待つためとも言えるでしょう。それは一緒に集まって聖書を読み、共に祈るわたしたちの姿と似ているのではないでしょうか。
(2) 「女の中で祝福された方」(42節)というのは、「最も祝福された女性」という意味です(士師記5・24参照)。マリアだけが祝福されているのではなく、すべての女性(そしてすべての母親)は祝福されています。ただマリアが最高に祝福されているのは、胎内の子(イエス)が神の祝福そのものである方だからです。
さらにエリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いますが、もちろんこれもマリアのことであり、同時にマリアだけのことではありません。この「祝福」と「幸い」のことばをわたしたちにも向けられていることばだと受け取ることができるでしょうか。
(3) 47節からのマリアの歌は、イエスを身ごもったマリアの個人的な賛美と感謝から始まりますが、後半では救いを待ち望むすべての人に救いをもたらされる神への賛美になっていきます。前半と後半を結ぶキーワードのようなことばがあります。それは「身分の低い(タペイノスtapeinos)」ということばです。48節の「身分の低い(tapeinosis)」と52節の「身分の低い者(tapeinoi)」。マリアは「身分の低い」自分にあわれみをかけてくださった神は、「身分の低い」すべての人を必ず救ってくださると確信しているようです。マリアの歌は救いを待ち望むすべての人との連帯の歌なのです。
(4) このように見てくると、きょうの福音は、マリアにとってだけの特別な福音ではなく、マリアが代表する人々すべてにとっての福音だといえるでしょう。わたしたち一人一人がマリアだと言ってもいいかもしれません。わたしたちはどうしたら、このマリアの連帯性にあずかることができるでしょうか。
補. 「僕イスラエル」や「アブラハムの子孫」ということばは単なる民族主義的な表現ではありません。イザヤ41・8-10にはこうあります。「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。」直接にはバビロン捕囚の苦しみの中にあるイスラエル民族を指しますが、むしろ苦しみの真っ只中にありながら、神によって愛されているすべての人の姿を思い浮かべてもよいのではないでしょうか。
「アブラハムの子孫」は「神の約束にあずかる人々」の意味で、パウロによればキリスト信者のことです(ガラテヤ3・29参照)が、ここでは、ルカ福音書の中で「アブラハムの子(娘)」ということばがどのように使われているかを見てみましょう。イエスは18年間も病気の霊に取りつかれて腰の曲がったままだった女を「アブラハムの娘」(ルカ13・16)と呼び、徴税人の頭ザアカイを「アブラハムの子」(ルカ19・9)と呼びました。彼らは社会の中で、蔑視され、無視されていた人々でしたが、イエスは「この人もアブラハムの子なのだ、娘なのだ」と言って、この人も神が愛しておられる人であると宣言するのです。大きな広がりを感じたいことばです。
2004年08月08日
ルカ12・32-48 (2004/8/8 年間第19主日)
【教会暦と聖書の流れ】
エルサレムへの旅(神の国について語り続ける旅、十字架を経て天に向かう旅)の段落が続いています。先週の「おろかな金持ち」の話の後、「思い悩むな、ただ神の国を求めなさい」という教え(22-31節)に続いて語られることばです。
【福音のヒント】
(1) 「小さな群れよ、恐れるな」これはもちろんイエスと共にエルサレムへの旅をしていた弟子たちへのことばです。わたしたちにもイエスがそう呼びかけてくださっていることを感じたいと思います。「父は喜んで神の国をくださる」その喜びの雰囲気も感じたい。イエスは弟子たちの心を、目先の利害・損得ではなく、もっと大きな、過ぎ去ることのない「神の国」の喜びのほうに向けさせようとしているのです。「持ち物を売り払って施しなさい」「富を天に積みなさい」(33節)も、難しい命令というだけでないのです。わたしたちは、本当にすばらしい、豊かないのちへの招きとして受け取ることができるでしょうか。
(2) 「主人が帰ってくる」(36-38節)「人の子が来る」(40節)というのは終末のイメージです。聖書が語る世の終わり、あるいは個人の終わり(死)はいつも2つの確信を示しています。1つは「今のこのときは終わる、過ぎ去る」ということ、そしてもう1つは「そこで神(キリスト)との決定的な出会いがある」ということです。この終末についての教えは聞く人の状況によって、希望のメッセージにもなれば、警告のメッセージにもなります。
1.希望のメッセージ
本来、聖書の中で「世の終わり」が語られるようになった背景は、迫害や極度の苦しみという状況でした。「信じれば信じるほど現実には救いが見えなくなる」という状況の中で、「今この世を支配している悪の力がすべてではない」「この悲惨な現実を超えて(死をも超えて)、神はもっと豊かな救いを(いのちを)与えてくださる」これが終末のメッセージの大切な一つのポイントです。
2.警告のメッセージ
他方、迫害や苦しみの中ではなく、「なんとなくいい加減に生きている」というときには、厳しい警告のメッセージになります。最終的に神に出会い、神の目から見たときに、何が本当に価値あるものなのかが明らかになる(この神の判断を「裁き」と言うのです)。今わたしたちが求めているもの、大切にしているものは、神の目から見たら正しいのかどうか、そのことを強烈に問いかけるのです。
きょうの福音の中にも、この両方のニュアンスがあります。わたしたちは自分の状況をどう感じているでしょうか。そこからこのメッセージをどのように受け取っているでしょうか。
(3) 「目を覚ましている」という言葉は、考えてみると少し分かりにくいところがあります。「泥棒に入られないようにいつも警戒している」(39節)というたとえは分かりやすいのですが、そうすると、来るべき神の国が「災い」であるかのように聞こえてしまう恐れがあります。むしろ「目を覚ましている」というのは「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている」(36節)ことだという点が大切でしょう。この僕は、主人を心から待ち望んでいるのです。主人のほうにいつも心を向けているのです。ルカ21・36には、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」ということばがあります。祈りとは何よりも心を神に向けることです。自分の思いや、反省や、願いを自分の心の中でああでもない、こうでもない、とどうどう巡りさせているのは、祈りではありません。それを突き抜けて心を神に向けていくこと。ルカ福音書の「目を覚ましていること」とはそういうことだといったらよいかもしれません。わたしたちの中にもそういう部分があるでしょうか。
(4) 37節の「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのは非常に印象的な姿です。常識的には、いくら僕がよくやったからと言って、そこまでする主人はいないでしょう。しかし、イエスの姿はまさにそうだったと言えるかもしれません(マルコ10・45「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」)。わたしたちに対するイエスの奉仕を深く受け取りたい。わたしたちは、イエスから、そして父である神からどれだけのことをしてもらってきたのでしょうか。
(5) 35~40節がすべての弟子のあるべき態度を語っているのに対しで、41節以下は教会の中の特定の人々、責任を負った人々のことを語っているように聞こえるかもしれません。「主人が召し使いたちの上に立て(た)管理人」というのは教会の指導者の ことでしょうか。
彼らはなぜ厳しく責任を問われるのでしょうか。立場上、大きな責任を負わされているから、というだけでなく、「彼らは主人の思いを知っているはずだ」という点は大切でしょう。そうだとすれば、ここで言われている管理人は特定の人だけでなく、「主人の思いを知っている」すべての人の問題ではないかとも考えられます。「多く与えられた者」「多く任された者」というのも、わたしたち一人一人が自分のことだと受け取ってみてはどうでしょうか。
2004年08月01日
ルカ12・13-21 (2004/8/1 年間第18主日)
【教会暦と聖書の流れ】
この箇所も、ルカ福音書のエルサレムへの旅(神の国について語り続ける旅、十字架を経て天に向かう旅)の段落の中の箇所ですが、先週の箇所からは少し(ルカ11・14~12・12)飛んでいます。この間の話の多くは、マタイ・マルコと共通するので、他の年に読まれています。きょうの話はルカ福音書だけが伝えている話です。
【福音のヒント】
(1) 福音の内容については何も説明する必要がないでしょう。できるだけ素直にイエスの語りかけを、問いかけを、呼びかけを聞きたいと思います。たぶん、そこには今のわたしたちの生き方への強烈なチャレンジが感じられるでしょう。わたしたちの多くにとって、「お金」の問題や、人と人とのトラブルの問題はやはり切実だからです。
(2) 富を蓄えることへの警告という点では、申命記の次のことばが思い出されます。
「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(申命記8・13-18)
紀元前13世紀、神によってエジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民は、40年の荒れ野の旅を経て、約束の地の目前であるヨルダン川の東岸にたどり着きました。申命記の中心部分は、指導者であるモーセがそこにあるネボ山山頂から約束の地を見渡しながら語る説教です。モーセは民に40年の荒れ野の旅を思い起こさせ、その意味を解き明かし、約束の地に入ってからどう生きるべきかを語ります。そこにある一つの危険が「富を蓄えること」でした。荒れ野では、毎日ぎりぎりの食べ物しかなかった。でもだからこそ一日一日神によって養われていることを感じないわけにはいかなかった。しかし、富や作物を蓄えると「主を忘れる」というのです。
わたしたちの中にも、本当に苦しいとき、どん底の中でこそ神に支えられたという体験があるかもしれません。そしてそれをいつの間にか忘れているのかもしれません。
(3) 自分の力でなんとかしよう、人間の力ですべてをうまくやっていこう、とわたしたち現代人は考えます。そのためには、やはりお金が必要だ、ということにもなります。確かにこの世界の中では、金持ちのほうが高度な医療を受けられたり、発展途上国の人には充分な医療が行き届かない、という現実もあります。まさに「人の命は財産によってどうすることも」できる、というようなことがあるのです!
しかし、もし人間の力やお金の力ですべてがなんとかなると感じているならば、おそらく「神は不要」でしょう。自分の無力さや限界を知るということはそういう意味で大切なことなのです。おそらく、人間にとってもっとも顕著に「無力さ・限界」を感じるのは、死に直面したときです。そして「今夜、お前の命は取り上げられる」。いつ自分の死が訪れるか、本当はだれも知らないのです。その時、富は頼りにならない、本当に問われるのは「神の前に豊かになる」ということなのだ、とイエスは語ります。
(4) 末期ガンの人々のケア(ターミナル・ケア)の中でいのちの質(quality of life)ということがよく語られるようになりました。迫り来る死を前にしたときに、いのちの「量(長さ)」ではなく、「質(残された時間をどのように充実して生きるか)」が問われるのです。
「趣味の世界に生きる」とか「大自然の美に触れる」とか、人生を豊かにするものはいろいろあります。しかし、突き詰めて言えば、人間を超えたもの・目に見えない何かとのつながりを生きること、人と人との愛のつながりを生きることこそが、豊かな命を生きることであるとわたしたち信仰者は信じています。自分の肉体の中にある孤立した命のイメージではなく、神とのつながりの中にある命、人との愛の交わりの中にある命を感じること、それを「スピリチュアルspiritualな感覚」と言うこともできます。
イエスご自身が、十字架の死に向かう中で、そのような「いのちの質」を極限まで生き抜かれました。「神の前に豊かになる」命とは、イエスの十字架の中にある命だといってもいいかもしれません。今のわたしたちにとっては???
(5) きょうの箇所の発端は「兄弟との間のもめごと」でした。ぎりぎりのところで問われるのは、損得ではなく、その人と共に生きることを喜べるかどうかでしょう。死を前にして、家族や友人との和解を望んだ人、そして実際に和解することのできた人の姿は感動的です。逆に、その和解を妨げるものが「貪欲」だと言っても良いのではないでしょうか。
わたしたち一人一人の中に、おそらく両方の面があります。
わたしの中にある「貪欲」とはどんなものでしょうか。
わたしの中にある「神の前での豊かさ」とはどんなものでしょうか。
2004年07月25日
ルカ11・1-13 (2004/07/25 年間第17主日)
【教会暦と聖書の流れ】
ルカ福音書のエルサレムへの旅(神の国について語り続ける旅、十字架を経て天に向かう旅)の段落の中の箇所です。「祈り」についての教えですが、イエスの時代のユダヤ教の各グループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったようです。ルカは主の祈りをイエスに従う者の生き方を表す祈りとして考えているのでしょう。
【福音のヒント】
(1) 「主の祈り」は新約聖書の中に2つの形で伝えられています。この箇所と、もう1つはマタイ6・9-13です。イエスが教えた1つの祈りが繰り返し唱えられ、アラム語からギリシャ語へ翻訳されていく中で、2つの形になったと考えられています。
(2) 大切なのは、わたしたちがこの祈りをどのような思いで祈っているか、この祈りがどのようにわたしたちを支え、導いていてくれるかということです。ただ、主の祈りの言葉はけっして分かりやすいとも言えませんので、ここではいくつかの言葉を簡単に解説します。
この祈りの最大の特徴は、「父よ」という単純な呼びかけです。マタイにある「天におられるわたしたちの」は礼拝の中で唱えられていくうちに付け加えられたことばでしょう。「父よ」これはイエスご自身が神に祈ったときのことばでした。マルコ福音書のゲツセマネでの祈りでは「アッバ、父よ」とアラム語も伝えられています。アッバは子どもが父親を呼ぶときのことばです。信頼を込めてイエスは神に向かってこのように呼びかけました。ルカ福音書では、十字架のイエスの祈りが印象的です(23・34、46)。
「み名が崇められますように」は直訳では「あなたの名が聖とされますように」です。「名」は単なる「呼び名」ではなくそのものの本質を表します。「神の名」とは「神ご自身」の意味です。イザヤ29・23のように「人々が聖とする」ととれば、「人々が神を神として認めるようになる」という意味になりますが、エゼキエル36・23のように「神がご自分の名を聖とする」という意味にもとれます。この場合は、「神が救いの力を示すことによって、ご自分が神であることを現す」という意味になります。
「み国が来ますように」は「神の心がすべてにおいてすべてとなりますように」ということ。マタイ福音書は「み心が天に行われるように地にも行われますように」ということばを付け加えていますが、これは「み国が来ますように」を言い換えたものだといえるでしょう。
「必要な糧」「糧」の直訳は「パン」ですが、ここで生きるために必要なすべてを願っています。なお、ルカが「毎日」というところをマタイでは「今日」と言います。
「わたしたちの罪をゆるしてください」の祈願はマタイとルカで微妙に違います。マタイを直訳すると「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたから」となります。現在カトリックの典礼で用いられている訳は、「わたしたちも人をゆるします」となっていますが、これは宣言ではなく、「ゆるしてください。そうすれば、わたしも人をなんとかゆるしたいし、ゆるすことができるからです」というニュアンスで受け取ればよいと思います。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」は切羽詰まった叫びのような終わり方です。マタイはこれに「悪(悪い者)から救ってください」という言い換えを付け加えて、礼拝にふさわしい形を整えています。「誘惑に遭わせないで」という訳も可能ですが、むしろ「誘惑に陥らせないで」のほうがよいでしょう。誘惑が来ることは避けられない(ルカ17・1)。ただその中で、神から離れてしまわないように、という祈りだと受け取ればよいでしょう。
(3) 5-8節のたとえ話は、「しつように頼む」ことを勧めています。マタイの教会はユダヤ人キリスト信者の共同体でしたから、祈ること自体はよく知っていて、その祈りが表面的・偽善的にならないように教える必要があったのに対し、ルカの教会は異邦人の教会ですから祈りの必要性そのものを訴える必要があったのでしょう。そこで「とにかく祈りなさい。神は必ず聞いてくださるのだ」ということが強調されています。9節「求めなさい。そうすれば与えられる…」は有名なことばです。ここで「与えられる」は「神が与えてくださる」の意味でしょう。祈りに魔術的な効果があるというよりも、神が必ず祈りを(人の叫びを)聞いてくださるということがここでもポイントです。
(4) わたしたちの中には、「祈ったら自分の思いがかなった」という体験もあるかもしれませんが、「祈っても祈っても自分の願いはかなえられなかった」という体験もあるでしょう。でもそれだけでなく、「祈って自分の思い通りにはならなかったけれど、何かが変わった」という体験もあるのではないでしょうか。ここでは「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われています。それはどういうことでしょうか。3つのヒントだけ示します。
1. 聖霊は「神の力」です。祈りの中で与えられるのは神からの力だと言えるかもしれません。その力で困難を乗り越えることができた、という体験があるかもしれません。
2.聖霊は「神と人・人と人とをつなぐ力」です。祈りの中で神とつながっていること、人と人とがつながっていることを感じ、励まされたこともあるかもしれません。
3. マタイは似た箇所(マタイ7・11)で「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」ということばを伝えています。自分が思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられたという体験もあるのではないでしょうか。
このように「祈りの中で何かが与えられた」「自分が変えられた」という体験を分かち合うことができれば、それは本当にすばらしいことでしょう。
2004年07月18日
ルカ10・38-42 (2004/7/18 年間第16主日)
【教会暦と典礼の流れ】
先週の「善きサマリア人のたとえ」同様、エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える物語です。この旅は十字架を経て天に向かう旅であると同時に、神の国について語り続ける旅でした。ですからきょうの箇所も、福音書の文脈の中では、「イエスのことばを聞く」というテーマで受け取ったらよいかもしれません。
【福音のヒント】
(1) 「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。ヨハネが洗礼活動をしていたのはヨルダン川の下流、ユダヤに近い地方だと考えられています。洗礼者ヨハネが捕らえられて、イエス自身も身の危険を感じたのでしょうか、ヨハネの活動の限界を感じたのでしょうか、イエスはご自分の故郷とも言えるガリラヤに戻ってきます。そして、これを契機にイエス独自の活動が始まることになりました。
紀元前10世紀にイスラエルの王国は、エルサレムを中心とする南のユダ王国とサマリアを中心とする北のイスラエル王国に分裂しました。イザヤは紀元前8世紀、北王国がアッシリアに滅ぼされていった時代の、ユダ王国の預言者です。ガリラヤ地方はサマリアのさらに北にあります。イザヤの時代のユダヤ人から見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ぶべき暗闇の地でした(なお、「ゼブルンとナフタリ」は、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ガリラヤ地方を割り当てられた部族の名です)。イエスの時代のガリラヤは、南のユダヤ人が入植して町を作っていたので、民族的にも宗教的にもエルサレムの神殿と結びついていましたが、ユダヤの人々からは軽んじられていました(「ガリラヤから預言者は出ない」ヨハネ7・52)。マタイはイエスがこのガリラヤで活動を始めたことを神の計画と見ています。復活したイエスが弟子たちに姿をあらわす場所もガリラヤの山です(マタイ28・16)。見捨てられた暗闇の支配する場所、しかし、その中でこそ神の救いの計画が実現し、イエスと出会える場所。わたしたちにとってのガリラヤとはどこでしょうか。
(2) マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3・2と4・17)というまったく同じことばで紹介し、二人が唯一の神の一つの計画の中にいることを示しているようです。この「近づいた」(完了形)には「近づいているけれどまだ来ていない」というニュアンスだけでなく、「近づいてもうここに来ている」というニュアンスがあります。二人の違いは、ヨハネが「天の国(=神の国)」の準備の時代の人であったのに対して、イエスが神の国の実現の時代の人だという点です(マタイ11・11「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」)。わたしたちは「み国が来ますように」と祈りますが、イエスによって神の国は何らかの意味でもう始まっているのです。わたしたちにとって、すでに始まっている神の国とはどのような現実を指しているのでしょうか。
(3) イエスが最初にしたことは弟子を作るということでした。これも福音書の結びと対応しているようです。復活したイエスの弟子たちへの命令の中心は「すべての民をわたしの弟子にしなさい・・・」(28・19)というものでした。マタイ福音書にとって、イエスの活動全体が「弟子作り」の活動だったと言ってもよいのでしょう。
「わたしについて来なさい」は「わたしの後に」という意味のことばが使われています。一方「従う」と訳された「アコリュセオー」というギリシャ語は、ただ「後を歩む」だけでなく「同行する、仲間になる」という意味もあります。それはもちろん、司祭や修道者だけの問題ではありません。わたしたちキリスト信者すべてがイエスに弟子として呼ばれた者なのです。わたしたち一人一人が弟子として呼ばれていることを感じられますか。イエスの弟子として歩むということはわたしたちにとってどういうことでしょうか。
(4) この箇所で、イエスが突然誰かに声をかけ、呼ばれた人たちがすぐにすべてを捨ててついていく、というのは少し乱暴ではないでしょうか。イエスの弟子とは、イエスのことばと行動に触れて、イエスに従うことを自分で決断した人たちだと考えるほうが自然です。マタイ福音書がマルコ福音書から受け取った最初の弟子の物語はいささか理想化(あるいはパターン化)されていると言わざるをえないでしょう(ルカやヨハネは別の形でこの弟子たちとイエスとの出会いを伝えています。ルカ5・1‐11、ヨハネ1・35‐42)。
普通の師弟関係なら、弟子のほうが「これぞ」と思う先生に弟子入りを願うものでしょう。しかし福音書では、先生であるイエスが弟子を選ぶということが特徴的に描かれています。「イエスが弟子を選ぶ」ということは、神の選びの根拠は人間の側にない、という聖書特有の考え方に基づいています。人間が神を選ぶのなら、人間の側の選択能力が優れているということになりますが、神の選びは優れた人間を選ぶのではありません。もっとも弱く、貧しい人を選ぶことによって、すべての人を救おうとするのが神の選びです。つまり選ばれた側は何も誇ることができないのです(Ⅰコリント1・26‐31参照)。ペトロやヨハネも後々まで「無学な普通の人」(使徒言行録4・13)と言われていました。
「すぐに」ということ、「何もかも捨てて」ということが弟子の理想として描かれていますが、自分自身のことを考えると戸惑いを感じるかもしれません。ただわたしたちの中にもそんな経験がまったくないとは言えないでしょう。
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2004年07月11日
ルカ10・25-37 (2004/7/11 年間第15主日)
【教会暦と聖書の流れ】
エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える物語です。この旅は十字架に向かう旅であると同時に、神の国を告げる旅でした。この話の前に、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これはみ心にかなうことでした」(21節)というイエスのことばがあります。ここでは、その「知恵ある者・賢い者」の代表である律法学者が登場してイエスと議論します。たとえ話のサマリア人の姿は「ここに神の国がある。これが神の国なんだ」と言っているかのようです。
【福音のヒント】
(1) 律法学者(律法の専門家)は、律法を人々に教え、律法をもって人々を指導していた人々でした。27節で律法学者が引用する「神を愛し、隣人を愛する」は、申命記6・5とレビ記19・18です。マタイ、マルコ福音書でこの2箇所を引用するのはイエスご自身ですが、ここでは律法学者のほうが引用しています。それに対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればいのちが得られる」と言っています。この点についてイエスと律法学者との間に意見の相違はありません。
(2) 29節で律法学者は、自分を正当化しようとして(直訳:自分を義として)、「わたしの隣人とはだれか」と問います。「神への愛と隣人への愛」が大切だという点でイエスと同意見でも、両者の生き方は大きく違います。律法学者の考えでは、罪びとや異邦人は愛する対象ではなく、排除する対象なのです。「わたしの隣人とは誰か」ということについて、律法学者の考えはこうです。「隣人とはすべての人という意味ではなく『近くにいる人』の意味である。ではどれくらいの範囲までが隣人なのか」なぜ、こんなことを考えるかといえば、それは彼らが律法を忠実に守ろうとし、この隣人愛の掟も厳密に実行しようとしたからです。彼らの考えでは「隣人とは誰かを定義しなければ、隣人を愛することはできない」のです。確かに「隣人」という言葉自体はすべての人を含んでいるとは言えないでしょう。
しかし、イエスがいつも見ていたのは、神の望み・神のこころでした。それは「律法の字句をいかに正確に解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということです。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことであるのは明白です。
(3) たとえ話の内容について、それほど説明はいらないでしょう。
祭司とレビ人(神殿に仕えている人、もちろん真っ先に律法を実行するはずの人)は、道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」。それに対して、サマリア人(律法学者の考えでは「隣人」ではありえない人)は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱します。この違いはなんでしょうか。
ここで使われている「憐れに思い」と訳された言葉に注目すべきでしょう。これはギリシャ語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は「スプランクナsplankna=はらわた」を動詞化したもので、「人の痛みを見たときに、こちらのはらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉です。日本語の「胸を痛める」に近いかもしれませんが、沖縄には「肝苦りさ(チムグリサ)」という言葉があるそうです。ある人はあえて「はらわたする」と訳しました。このサマリア人は「レビ記には『隣人を愛せ』という律法があった。この人は隣人だから助けよう」と思ったわけではありません。「はらわたした」から助けたのです。目の前の人の苦しみを見たときに、体が反応してしまうから、ほうってはおけなくなるということでしょう。イエスは、人間にはだれでも(ユダヤ人でもサマリア人でも)こういう心があるはずだ、と考えていて、それが神から見てもっとも大切なことであり、その心と行動があるところには神の意思が実現している(もう神の国が始まっている)と言っておられるようです。
(4) 愛について言葉を費やすことはむなしいことです。「行ってあなたも同じようにしなさい」これに尽きるでしょう。
わたしたちの現実はどうでしょうか。わたしたちの中にも、「見て、はらわたして、近寄って行く」という体験が必ずあるはずです。しかし、いつもそうとも限らず、「見ても、はらわたしない」ということもあるでしょう。また、「見て、はらわたしても、近寄っていかない」ということだってあるでしょう。それはどういうことでしょうか。
(補足) 律法について
「隣人愛」の範囲について、レビ記は本当に誰かを排除しているでしょうか。同じ19章にはこういう言葉もあります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(19・33-34)。
律法の前提には、いつも神の救いのわざがあります。エジプトで寄留者だったイスラエルの民を救ってくださった神の愛を知った民はどう生きるべきか。これがいつも律法の指し示していることです。律法は人間を採点するための掟ではなく、本当に問われていることはいつも、この神の愛にどのように出会い、どのように応えるかということなのです 。
2004年07月04日
ルカ10・1-12, 17-20 (2004/7/4 年間第14主日)
【教会暦と聖書の流れ】
今年の年間主日はルカ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを追っていきます。先週の箇所から、ルカ福音書の「エルサレムへの旅の段落」(9・51~19・44)が始まっています。
きょうの箇所は72人の弟子が派遣される場面です。
【福音のヒント】
(1) ルカ9・1-6には12人の弟子が派遣される話があります。この72人の派遣は、エルサレムへの旅との関連は薄いようですし、12人ではなく72人であることの特徴もあまり感じられません。弟子たちを派遣するにあたってのイエスのことばは、いろいろな形で伝えられていたのでしょう。福音書には、弟子たちを派遣するにあたってイエスのことばが、合計4箇所伝えられています。マタイ10・5-42、マルコ6・7-12とルカのこの2箇所です。それらを比較すると共通する部分と、多少異なる部分があります。マタイは複数の伝承を一つの長い派遣説教としてまとめていますが、ルカはそれを2回の派遣に分けたと考えたら良さそうです。この派遣は、ルカにとっては過去の弟子たちの派遣というよりも、今復活のイエスによって派遣されている自分たちの問題でしょう。
(2) 72人というところが70人になっている写本もあります。レビ記11章には、モーセの時代に70人の長老が選ばれる話がありますからその影響でしょうか。70人だとすると「民の指導者」というニュアンスがあるかもしれません。一方72という数は、12の6倍で、12人の弟子を拡大した「より多くの弟子たち」ということでしょう。なお、1節で「二人ずつ」派遣されることの意味はいくつか考えられます。(a)旧約時代から、「一人の証言は不確かだが、二人の証言ならば確かである」という考えがあったから。(b)単純に二人が支えあいながら活動していけば心強いということ。(c)二人が「愛し合う」姿をとおして、イエスの弟子であることが皆に分かるようになる(ヨハネ13・35参照)から。
(3) 2節「収穫は多いが、働き手は少ない」。イエスは、多くの人が神の国の呼びかけに応えるということを期待し、信じています。そして、その呼びかけに応える人々を「収穫」にたとえています。派遣される人はもちろん「収穫のための働き手」ですから、彼らが祈るのは、「自分たち以外の人が働き手になりますように」ではなく、「自分たちだけでは足りないから、一緒に働いてくれる人を与えてください」という祈りであるはずです。召命を求める祈りはいつもそういう祈りであるはずです。
「狼の中に羊を送り込む」は、もちろんこの派遣に伴う危険を指摘しています。いつも人々に受け入れられるとは限りません。弟子たちは拒否され、攻撃される可能性もあるのです。
(4) 4節の「履物も持っていくな」は少し極端かもしれません。マルコ6・9では、はっきりと履物は履くように命じられています。袋はもらった喜捨を入れるための袋でしょう。要は「何も持たず、空(カラ)の手で」行くということです。なぜなら、後にあるように、必要なものは出かけた先で与えられるからです。「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者がその報酬を受けるのは当然である」(7節)。「自分の面倒は自分で見て、だれの世話にもなりたくない」というのがわたしたちの普通の考えかもしれません。イエスの弟子の道はそうではないのです。神と人々の好意に頼って生きていく道。それはわたしたちにとって、どういうことでしょうか。
(5) 派遣される弟子が第一にすることは「この家に平和があるように」と言うことです。それは4節で禁じられたような儀礼的な長々としたあいさつではありませんが、やはり、ほとんどあいさつの言葉だと言っても良さそうです。「平和」(ヘブライ語で「シャローム」)はほとんど日常的なあいさつの言葉だからです。弟子たちは、戦いや論争や挑発のために出かけるのではなく、出会う人々との間に平和を作ることが求められます。イエスの弟子には、まず人との良好な関係を作ることが求められている、と言えるでしょう。
ただし、いつでも良い関係が作れるとは限りません(わたしたちも同じです)。それはこちらが平和を願っていても、相手は拒否するということがあるからです。そんなとき、相手を責める気持ちにもなるでしょう。でも、そんなことに振り回されない、という生き方が求められているようです。「平和があなたがたに戻ってくる」というのは、「その人を恨んで、仕返ししようとするな、相手がどうであれ、あなたが相手のために平和を願うことはあなたにとってよいことなのだ」と言っているのではないでしょうか。なお、11節の足の埃を払い落とすは絶縁を意味しますが、そこにも「恨まない、復讐心を抱かない」という意味があるでしょう。「家から家へと渡り歩くな」も面白い指示です。渡り歩くのは、歓待されるのを期待してのことでしょうか。あるいは、もっと良い待遇を期待するからでしょうか。
(6) 弟子たちの使命の中心は、病人をいやし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言うこと(9節)です。それは、福音書の中でイエスご自身がしてきたこととまったく同じことをしていくということです。今のわたしたちにとっては、どういうことになるでしょうか。 「悪霊」「蛇やさそり」「敵」は神に敵対し、人を害するものです。「サタン」はその力の根源にあるものでしょう。イエスは悪の支配が終わり、決定的に神のバシレイア(支配、国、王であること)が始まっているのを見ています。「名が天に書き記されている」は、この神のバシレイアにあずかる者となった、という意味です。これが弟子の喜びです!
2004年06月27日
ルカ9・51-62 (2004/6/27 年間第13主日)
【教会暦と聖書の流れ】
今年の年間主日はルカ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを追っていきます。
今日の箇所はイエスがエルサレムに向かう旅を始める箇所です。ルカ福音書は19章まで続くこの旅の間に、マルコ福音書にはない多くのエピソードやイエスのことばを伝えています。
ルカ福音書によれば、エルサレムへと向かうイエスの旅は、十字架に向かう旅であると同時に、「天」に向かう旅でもあります(51節)。その中でイエスに従う人々には、他者への寛大さと、自分自身への厳しさ(覚悟)が求められます。
【福音のヒント】
(1) サマリア人とユダヤ人は対立していました。もともとは同じ民族ですが、紀元前10世紀にイスラエルの王国が分裂し、北王国はサマリアに独自の聖所を置き、エルサレムの神殿を中心とする南王国から宗教的にも分離してしまいました。さらに紀元前8世紀に北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になってしまったようです。宗教的・民族的対立の問題は、今のわたしたちの問題でもあるでしょう。
(2) 54節の弟子たちのことば「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」は、かつて預言者エリヤが自分を捕らえに来た兵士たちを焼き滅ぼした故事に基づいています(列王記下1章)。弟子たちにはもちろんそんな力はありません。自分たちの恨みをイエスの力で晴らしてもらおうとして、「主よ、そうしてください」というのです。イエスはこれをはっきり拒否しています。エルサレムへの旅の最初に置かれたこのエピソードは、イエスの旅が軍事的な戦いの旅ではなく、神の愛を告げ、神の愛を生きる旅であることを表しています。
(3) 57-58節は、このイエスの旅に同行するとはどういうことかを、示しています。「人の子には枕するところもない」の「人の子」は、ここでは「わたしのような人間」の意味です。わたしたちの今の現実の中で、「巣穴のない、枕するところのない」というような状況があるでしょうか。
(4) 59節「父を葬る」は当時の考えでは人間として何よりも大切な義務でしたが、イエスはそれを許しません。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」ここで「自分たちの死者」は実際の死人のことですが、「死んでいる者」は「霊的な意味で死んでいる人」のことでしょう。イエスが指し示す「アッバ」である神とのつながりの中にあるいのちを生きていない人の意味です。第一朗読のエリシャの物語では家族と別れのあいさつをすることが許されていますが、62節のイエスのことばは、家族へのいとまごいも許しません(なお、「鋤」は畑をたがやすための農具。牛やロバに引かせて土をたがやしていきますが、通常、右手にムチを持ち、左手だけで操作するので、まっすぐ進むためには注意が必要です。「後ろを顧みる」ならば、たちまち曲がった畝ができてしまいます)。父の埋葬や家族へのいとまごいは、一般的に言えばいけないはずがないことです。しかし、イエスの言葉は「何をおいても今すぐ従う」ことを要求しています。ルカの文脈の中でこの緊急性は、イエスがエルサレムに向かう最後の、命がけの旅を始めることと関連していると言えるでしょう。葬儀の義務や家族へのあいさつが本当の問題でありません。むしろ、わたしたちに本当に問われていることは、イエスの告げる「神の国」(60、62節)への招きをどう受け取るか、です。
(5) 「神の国」の「国」はギリシャ語で「バシレイア」といいますが、この言葉の元には「バシレウス=王」という言葉があります。「バシレイア」は本来「王であること、王となること」を意味する言葉です(英語のkingに対する kingdomと同じ。「王としての統治・支配」を意味することもあり、王として支配している「国・王国」の意味にもなる)。「神が王であること、神が王となること」これがイエスの告げ知らせた福音の中心でした。
「神が王となる」と言われてもピンとこないでしょう。わたしたち現代人は、どんな王も必要としていない、と考えがちだからです。しかし、人間の王の不正な支配によって苦しめられていたイエスの時代のパレスチナの人々にとって、神の国のメッセージはすべての不当な圧迫から自由になる「解放のメッセージ」だったのです。わたしたちは何によって支配され、圧迫され、不当に抑圧されているでしょうか。お金、市場経済、競争原理、欲望、暴力、エゴイズム・・・? そこからの解放こそが「神の国」の表しているものなのです。
(6) 「神の国」とは別の言葉で言えば、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」だと言ったらよいかもしれません。「神の国」には、まだ来ていない(いつか完成する)という面と、すでに来ている(始まっている)という面があります。ルカ福音書にはイエスの次のような言葉が伝えられています。 「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11・20)、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17・20-21)。すでに始まっている神の国とは、わたしたちの間にある神の国とはどのようなことでしょうか。