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2004年12月26日
マタイ2・13-15,19-23 (2004/12/26 聖家族)
【教会暦と聖書の流れ】
クリスマスの後の主日は聖家族の祝日です。この日、イエスの子どものころの家庭生活に思いを馳せます。伝統的にイエス、マリア、ヨセフの家族は「聖家族」と呼ばれ、わたしたちの家庭の模範のように考えられてきました。今年の福音の箇所はマタイ福音書で、ヨセフと家族がエジプトに逃れる話ですが、この話はマタイだけが伝えるものです。次の日曜日「主の公現」の福音はマタイ2・1-12で順序が逆になりますが、今日の箇所とつながっています。
【福音のヒント】
(1) ヘロデ王がベツレヘムで生まれた幼子を自分の地位と権力を脅かす存在と考えて抹殺しようとしたので、ヨセフはイエスとマリアを連れてエジプトに逃れました。エジプトでの聖家族は、今で言えば「難民」です。難民の問題は20世紀に膨大な量で発生しました。わたしたちの周りにもさまざまな理由で国を追われたり、故国に帰ることができない人々がいます。その人々とエジプトでの聖家族の姿を重ね合わせてみたときに、どんなことが見えてくるでしょうか。
(2) 2・15「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」2・23「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」マタイ福音書は幼子イエスの身に起こったことを、旧約の預言の成就と見ています。
15節はホセア11・1の引用です。ホセアは紀元前8世紀の北イスラエルの預言者です。エジプトからイスラエルの民を導き出し、民の数々の罪にもかかわらず、決して民を見捨てることのできない神の愛について語る美しい箇所です。
23節の「ナザレ」という地名は旧約聖書には見当たりません。「ナザレの人」は「ナジル人」を連想させることばです。ナジル人とは神に身をささげる特別な誓願を立てた人のことです(民数記6章参照)が、特に有名なのはサムソンです。彼の誕生のとき母親に対してこう告げられました。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」(士師記13・5)。
「ナザレ」という名はまたヘブライ語の「ネセル(若枝)」をも連想させます。イザヤ11・1ではこう言われています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる」エッサイはダビデ王(紀元前1000年頃)の父親の名前です。イザヤは来るべきメシア(ダビデ王の再来である救い主)についてこう預言しました。いずれにせよマタイは、「ナザレの人」であるイエスこそが救い主の到来という人々の希望と神の計画の実現なのだと受け取っていることになります。
「預言の成就」ということは、ただ単に「この幼子が救い主であるという証拠」というわけではありません。むしろ現実に起こるさまざまな出来事を神の救いの計画の実現として見るという見方です。わたしたちの中にも、自分の人生を振り返ってみるときに、そこに神の計画を感じたことがあるのではないでしょうか。自分の生涯の中で聖書のことばが実現してきたと感じられたこともあるのではないでしょうか。
(3) 家族と一緒に過ごす人も、そうでない人も、多くの人が家族のことを思う年末年始を迎える時期に「聖家族」を祝うことは意味深いことです。しかし、聖家族を模範として仰ぎ見れば見るほど、自分たちの現実の家庭とのギャップを感じてしまうという人も少なくありません。きょうの福音やイエスの家庭についての福音書の他の箇所から、わたしたちは自分の家庭生活にどんな光をいただくことができるでしょうか。
イエス、マリア、ヨセフの家庭は決して平穏無事で何の問題もない家庭ではありませんでした。旅先の家畜小屋のような場所での出産、幼子の命を狙う陰謀と、それを逃れるための難民生活、親と子の考え方の相違(特にルカ2・41-50にある12歳の少年イエスのエピソード)。聖家族も多くの問題に直面していたのです。
わたしたちの間にも厳しい問題に直面している家庭がたくさんあります。それは病気や経済的な問題だけでなく、何よりもお互いの心が通じあわないという問題でしょう。その背景には次のような問題もあるのではないでしょうか。「現代の消費社会は欲望と競争の原理の上に成り立っていて、わたしたちは皆、自分の努力で自分のほしいものを獲得するという世界に生きている。一方、家族には、自分がどんなに努力しても自分の思い通りにならない面がある。そこで、家族としてもっとも大切な『無条件にあなたがいてくれてうれしい』というメッセージがお互いに、特に子どもに伝わっていない」「家族が孤立している。特に都会では、地域社会や親戚との関わりも薄い。育児や家族内の人間関係のトラブルをどこにも相談できずに煮詰まってしまう」「社会の中にある暴力的な雰囲気が家族の中にも侵入してくる。家庭の外で大きなストレスを受けている人が、家庭の中で暴力という形でそのストレスを爆発させてしまう」などなど。
聖家族とは、それでもこの現実の中に神がともにいてくださることを見失わないで生きようとする家族だと言ったらよいでしょう。イエスはわたしたち人間の一員となり、わたしたちと同じように家族の一員となられました。もし、わたしたちが、自分の家庭にイエスを迎え入れれば、わたしたちの家庭も聖家族だと言えるのでしょう。ドメスティック・バイオレンスや児童虐待のことを考えると家族を絶対視するのも問題ですが、あきらめずにもう一度チャレンジしてみることはできないでしょうか。親が子どもを祝福することを! 夫婦がことばと行動で互いの愛を確認しあうことを! 家族で一緒に祈ることを!
2004年12月19日
マタイ1・18-24 (2004/12/19 待降節第四主日)
【教会暦と聖書の流れ】
クリスマスの直前の主日には、直接イエスの誕生に関係する箇所が読まれます。今年の箇所はマタイ福音書で、幼子の誕生がヨセフに告げられる場面です。
マタイ福音書は「イエス・キリストの系図」として、アブラハムからヨセフまでの系図を伝えます(1・1-17)が、16節は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」となっています。ヨセフとイエスの間に血のつながりはありません。それでもヨセフはきょうの箇所を通して、信仰によってイエスの父としての役割を引き受けていくことになります。
【福音のヒント】
(1) 19節の「ヨセフは正しい人であったので」と「ひそかに縁を切ろうと決心した」はどのようにつながっているのでしょうか? 2つのことが考えられます。
1つは、マリアへの思いやりに満ちた態度の中にヨセフの「正しさ」を見る見方です。自分とは無関係にマリアが妊娠していることを知ったら、ヨセフとしては縁を切るしかない、しかし、ヨセフはマリアを辱めないように「ひそかに」縁を切ろうとした、ということ。
もう1つは、神への畏敬の念をヨセフの「正しさ」と見る見方です。ヨセフはマリアを信頼していたので、この妊娠に神の介入を感じた、そこで自分はこのことに関わるのにふさわしくないと感じて身を引こうとした、ということ。この考えは、20節の「恐れずに」ともよく合います。
(2) 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」(21節)。「イエス」は旧約聖書の「ヨシュア」と同じ名前で、ユダヤ人の間によくある名前ですが、マタイ福音書はこの「イエス」という名の中にも意味を見いだしています。「ヨシュア(イエス)」は「主は救い」「主は救う」という意味なのです。
上の21節のことばは、23節で引用されるイザヤ7・14「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」によく似ています。この預言の言葉がイエスにおいて実現したとマタイは見ています。ここで「おとめ」と訳されたことばは、ギリシャ語(マタイ)では「パルテノスparthenos」ですが、元のヘブライ語(イザヤ)は「アルマー」です。パルテノスは「処女」を意味しますが、「アルマー」は単に「若い女」を意味することばです。もちろんイエスの誕生物語を伝えるマタイも、ルカも「パルテノス」を「処女」の意味で受け取っています。
マリアが処女でイエスを身ごもった(いわゆる「処女懐胎」)ということにはどんな意味があるのでしょうか。そこにマリアの「清らかさ」を見てきた伝統があります。しかし、ルカもマタイも共通して強調しているのは、それが「聖霊による」(マタイ1・18、20、ルカ1・35)ということです。マリアは人間的には子どもを産むことができないはずですが、そのマリアから子どもが生まれる。そこに、人間の無力さと、その中に働く神の力の対比があざやかに示され、その子どもの誕生(救い主の到来)が人間の力によるのではなく、神の力(聖霊)によるのだということが強調されているのです。
(3) イエスは新約聖書の他の箇所で一度も「インマヌエル」と呼ばれたことはありません。マタイは「インマヌエル」をイエスの「呼び名」ではなく、イエスの「本質を表す名」だと言っているのです。「インマヌエル」はヘブライ語で、「神は我々と共におられる」あるいは「我々と共にいる神」の意味です。マタイ福音書はこの「インマヌエル」から始まり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)という約束で結ばれています。「神が共にいる」、「イエスが共にいる」というのが福音書全体のテーマだと言ってもよいかもしれません。
(4) わたしたちはクリスマスを2000年前の一人の男の子の誕生日として祝うのではありません。救い主の誕生(到来)という出来事が今も生きていることを祝うのです。「インマヌエルであるイエス」をわたしたちはどこで見いだすことができるでしょうか。
マタイ福音書からヒントを探してみましょう。
(a) 18・20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」
キリストが信じる者の集いの中にいるという約束です。特に日本のような、周囲を見回してもキリスト信者がほとんどいないような社会の中で、誰かが一緒にいてくれる、支えあいながらキリストの弟子の道を歩んでくれる仲間がいる、ということは大きな励みでしょう。
(b) 26・26-28「取って食べなさい。これはわたしの体である」「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
パンとぶどう酒の形の聖体の中にいるという約束、これも2000年にわたって数知れない多くのキリスト信者を支え、励ましてきたことでした。それは特に困難や苦しみの中で感じられる支え・励ましかもしれません。キリストの死と復活を思い起こし、それに結ばれる。キリストと一つになり、キリストを中心として人と人とが一つになる。聖体の前で一人静かに祈る中でイエスに出会う。そういう体験がありますか。
(c) 25・40「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
日々出会う人々、特に助けを必要としている人の中にイエスはいる、これもとりわけ現代世界の中で大切なことでしょう。マザーテレサのように、もっとも貧しい人との出会いの中にキリストとの出会いがある、という体験がわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
2004年12月12日
マタイ11・2-11 (2004/12/12 待降節第三主日)
【教会暦と聖書の流れ】
先週に引き続き、きょうの福音にも洗礼者ヨハネが登場しますが、本当の主役はイエスです。きょうの箇所では、イエスによって実現したことが何だったのか、が示されています。「待降節第3主日」は「喜びの主日」とも言われてきました。待降節は、英語で「Adventアドベント(到来の意味)」ですが、イエスの到来によってもたらされた喜びを味わう箇所としてきょうの福音を読むと良いでしょう。
【福音のヒント】
(1) イエスがヨルダン川で洗礼を受けたとき、すでに洗礼者ヨハネはイエスを「来(きた)るべき方」だと認めていたはずです(マタイ3・14参照)。それなのになぜ、このきょうの箇所で「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。一つの考えはこうです。洗礼者ヨハネは捕らえられて、自分が死を迎えることを予感していたので、自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、イエスのもとへ導くために、こういう指示をした。つまり、洗礼者ヨハネ自身はイエスが「来るべき方」だということを疑っていたのではない、いう考えです。
もう一つの考えはこうです。やはり洗礼者ヨハネは疑問に思ったのではないか。それはヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、実際に到来したイエスのイメージが大きく違っていたからではないか。洗礼者ヨハネは「来るべき方」について告げ知らせましたが、ヨハネのイメージは「神の怒りと裁きをもたらす方」でした。ヨハネはイエスの実際の活動を見聞きして、それが自分の考えるメシアのイメージと違うことに戸惑ったのではないでしょうか。
(2) 2節の「キリストのなさったこと」という言葉は「キリストの業」とも訳せますが、それはただ単に「イエスがしていた行為」というだけでなく、「イエスがキリスト(救い主)として行っていた行為」という意味にも取れます。イエスの答えは、イエスの周りで実際に何が起こっているかに目を向けさせます。それは旧約聖書の救いの到来に関する預言の成就と言えることです。特に次の箇所が思い浮かびます。
イザヤ35・5-6「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
イザヤ61・1 「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/
捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」
(3) 「貧しい人」というのは「さまざまな事情で圧迫され小さくなっている人」のことです。「目の見えない人」「足の不自由な人」などは皆、「貧しい人」と別の人ではないでしょう。苦しみの中にあって神の救いを待ち望んでいるすべての人が「貧しい人」と呼ばれているのだ、と考えたらよいと思います。「神の救いに飢え渇く人」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。それは「神なしで満ち足りている」というのと反対の状態です。
ルカ4・16-21でもイエスは「貧しい人に福音を告げ知らせる」ということばをご自分にあてはめています。イエスの使命、イエスがもたらしたものを簡潔に表すことばだと言ってもいいかもしれません。わたしたちの「貧しさ」とは何でしょうか。わたしたちにとっての「福音」とは何でしょうか。
(4) わたしの中の「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたちの周りの家庭や社会、世界の中で「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたち自身の「貧しさ」を見つめることは待降節の大切なテーマです。ルカ福音書の伝えるイエスの誕生の物語は、旅をしている貧しい夫婦、飼い葉桶の中の貧しい幼子、そして最初にこの幼子を訪れた貧しい羊飼いの姿を伝えています。この幼子の誕生は貧しい人に何をもたらしたのでしょうか。
イエスによって実現したこと(キリストの業)は、単なる病気の治癒ではありません。イエスが2000年前の貧しい人々に何をもたらしたのか、今の貧しいわたしたちに何をもたらしてくれるのか、いくつかのヒントを挙げてみます。
1. この貧しさや苦しみの中で、自分はまったく独りぼっちではないと気づくこと。
2. この世界は神がともにいてくださる世界であると気づくこと。
3. 人の心に、信頼と希望と愛が生まれること。
そういう体験がわたしたちにもあるのではないでしょうか。だとしたら、それがわたしたちにとっての「到来(アドベント)」であり「降誕」なのではないでしょうか。
(5) イエスは洗礼者ヨハネを預言者として、人間として最大限に評価していますが、同時に「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(11節)と言います。それは、ヨハネが神の国の「準備の時代」の人であったのに、イエスの救いを受け取った人は「実現の時代」にいる、ということを意味しているのでしょう。イエスと共に「まったく新しい救いの時代が始まっている」のです。
わたしたちはこの「もうすでに始まっている神の国(支配)」に生きているはずです。そしてイエスによって始められた神の国(支配)を生きるわたしたちだからこそ、世の終わりの、人生の終わりのときの、救いの完成への確かな希望を持つことができる、と言えるのではないでしょうか。
2004年12月05日
マタイ3・1-12 (2004/12/5 待降節第二主日)
【教会暦と聖書の流れ】
待降節(英語ではアドベント、本来の意味は「到来」)の第2、第3主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネについての箇所が読まれます。それはわたしたちが洗礼者ヨハネの弟子になるためではありません。わたしたちはイエスの弟子になろうとしています。洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」のほうに心を向けていくのです。
【福音のヒント】
(1) 洗礼者ヨハネは「預言者」でした。洗礼者ヨハネが登場した時代、すでに文字に書かれた聖書(旧約)ができあがっていました。神は聖書を通して語られるのであって、もう生身の預言者の口をとおして民に語りかけることはない、という雰囲気がありました。その中で、洗礼者ヨハネは「今、神が語られることば」を告げます。
彼の活動は伝統的な預言者のスタイルを意図的に再現したものでした。「荒れ野」は生きるために厳しい場所ですが、イスラエルの伝統の中では、神との出会いの場でもありました。生きるか死ぬかのギリギリのところで、それでもなお自分を生かしてくださる神の存在を身近に感じ取ることができるのです。洗礼者ヨハネはこの荒れ野で神の声を聞き、町に住む人々に語りかけます。だから彼は「声」(3節)と呼ばれます(ちなみにこの箇所はイザヤ40・3の引用ですが、福音書は原文を少し変えています)。「毛衣と革の帯」は、列王記下1・8に伝えられている預言者エリヤと同じ服装です。「いなごと野蜜を食物としていた」は、荒れ野のなかでかろうじて手に入れられるものだけで生きていた、すなわちほとんど断食のような生活をしていた、ということです。ヨハネは典型的な預言者だったのです。
(2) 洗礼者ヨハネが呼びかけたのは「回心」でした。ヨハネにとって「差し迫った神の怒り」(7節)が問題でした。そこから救われるために必要なことは「悔い改め=回心=メタノイア」でした(2節)。この悔い改めは、すべての人に求められました。「自分たちはアブラハムの子孫だ」という誇りや安心感は、神の裁きの前では何の役にも立ちません(9節)。すべての人が今、回心しなければならないのです。しかし逆に、どんな人でも今、回心すれば救いにあずかれる、というメッセージにもなりました(こんな石からでも、アブラハムの子孫を造り出すことがおできになる。9節)。そして、その回心のしるしが「洗礼(バプティスマ=水に沈めること)」だったのです。
そして同時に大切なことは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」(8節)、「良い実を結ぶこと」(10節)です。洗礼者ヨハネが求めたことは、具体的な生活の改善でした。それはそれぞれの人が自分の置かれた生活の場の中で、愛と正義を行うことです(ルカ3・11-14参照)。
(3) ヨハネは、自分の「後から来る方」について語っています。そして「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います(11節)。キリスト教は、イエスこそが洗礼者ヨハネの告げた「来(きた)るべき方」だと考えています。「洗礼を授ける」のギリシャ語は「バプティゾー」で、本来の意味は「沈める、浸す」です(ヨハネの洗礼は、ヨルダン川に人の全身を沈めるものでした)。「聖霊と火の中に人を沈める、浸す」というのは、神のいのちである聖霊を与え、愛の火で人を清める、という意味だと言ったらよいでしょう。
しかし、洗礼者ヨハネ自身はこういう意味でこの言葉を語ったのでしょうか? この直後に「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(12節)ということばがあります。「箕」はもみ殻と麦粒を分けるための農具です。麦の実とその殻が混じったものを箕に入れてほうりあげると、軽いもみ殻は風に飛ばされ、重い麦粒だけをより分けることができるのです。聖霊の「霊(プネウマ)」にはもともと風の意味がありますが、この「風と火に浸す」のイメージは、来るべき方が怒りと罰をもたらす方だということを言おうとしていたのではないでしょうか。
一方、実際に来られたイエスは、決して「怒りと罰」をもたらしたのではありませんでした。イエスのメッセージの中にも厳しい裁きの面がありますが、イエスがもたらしたものはむしろ、ゆるしと恵みでした。だからわたしたちは、恐れおののきつつ、来るべき方を待つのではありません。「愛と喜びに包まれた待望の時」(典礼暦年に関する一般原則39の言葉)として、この待降節を過ごしているのです。
(4) 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)。マタイ福音書は、洗礼者ヨハネとイエスのメッセージをまったく同じことばで伝えています(4・17参照)。どちらも切実な終末意識を持って、人々に回心を呼びかけています。「悔い改め、回心」の原語の「メタノイア」は「心を変えること」を意味しています。それは単なる「改心」というよりも、「神に心を向け直すこと」「主に立ち返る」ことなのです。
ただ、洗礼者ヨハネの場合は「近づいているが、まだ来ていない」のに対して、イエスの場合は「近づいてきて、ある意味でもうすでに始まっている」というところに決定的な違いがあると言えるでしょう。イエスは父である神の、愛のバシレイア(国、支配)がもう始まっている、だから「その父である神に心を向けなさい」というのです。
待降節を過ごしているわたしたちにも両面があります。確かにイエスは2000年前に来られ、神の国はすでに始まった、という面と、最終的にいつか本当の意味で実現する、という面。それだけでなく、わたしたちの生活の中に日々「主は来られている」ということも大切です。この「日々の到来」についてはわたしたちの姿勢が問われます。わたしたちが回心と信仰を持って受け入れなければ、日々の到来(アドベント)は受け取れません。その意味で、洗礼者ヨハネのメッセージは今のわたしたちにも切実な呼びかけではないでしょうか。