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2004年11月28日
マタイ24・37-44 (2004/11/28 待降節第一主日)
【教会暦と聖書の流れ】
クリスマスの4週前の日曜日から待降節が始まります。教会の暦ではこの待降節第一主日から新しい年になります。3年周期の主日のミサの朗読配分ではA,B,C年のうちA年にあたり、福音は主にマタイ福音書が読まれていきます。
「待降節」という日本語は「主の降誕を待つ季節」という意味では分かりやすいのですが、ラテン語はADVENTUS(英語ではアドベントadvent)で、「到来」を意味する言葉です。待降節とは、2000年前にイエスが世に来られたことを思うだけでなく、世の終わりに栄光のうちに再び来られることを思う季節でもあります。待降節の福音朗読は、終末についての説教からとられた「目を覚ましていなさい」ということばから始まります。
【福音のヒント】
(1) 「人の子」はダニエル7・13に基づく表現で、神が最終的に天から遣わす方を表します。新約聖書では「人の子の到来」は、天に上げられたイエスが世の終わりに再び来られることを意味しています。人の子の到来は「救いの完成の時」であると同時に「裁きの時」でもあります。キリストが力をもって来られ、キリストがすべてにおいてすべてとなる、ということは、神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます。きょうの福音の箇所では、この「裁き」の面が強調されています。「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13・8)ということばがありますが、神の裁きには「愛に反するものはすべて滅ぼされる」という面があるのです。「愛に反するものが滅ぼされる」というのは「愛に反する人が滅ぼされる」というよりも、「わたしたちの中の愛に反する部分が滅ぼされる」と受け取ることもできます。Ⅰヨハネ3・2の次のことばが参考になるでしょう。「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」
(2) 「ノアの時」は創世記6章から始まる有名な洪水物語のことです。人の子の到来の時(裁きの時)は人が考えていないときに突然やってくるということが強調されています。きょうの箇所の直前に「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(24・36)ということばがありましたが、内容的にそれとつながっています。「思いがけない時に来る」ということは43-44節でも繰り返されるテーマです。人にはいつ来るか分からない、ということだけでなく、来るということさえ意識していないということもあります。その中で「いつか確実に来るのだ」ということも強調されています。
「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40-41節)は、人の目にはまったく同じように見える人間が、神の裁きの目から見るとまったく違う評価を受ける、ということです。神の裁きは人間の常識では推し量ることができません。人間が勝手に神の裁きを想像して、自分で自分を裁いたり、他人を裁くこともできないのです。
(3) 「目を覚ましている」というのはわたしたちにとってどういうことでしょうか。泥棒を警戒するように「裁きの時を警戒してビクビクしながら生活する」ことでしょうか? 43節のたとえから考えるとそうなってしまいそうですが、それがわたしたちに求められている生き方だとは到底思えません。あるいは、「この世のことよりも終わりの時の裁きのことを考える」ということでしょうか? 最終的な神の裁きのことばかりを思うことには落とし穴があります。それは、今の生活がどうでもよくなり、現実の目の前の人間の苦しみや社会の不正に目を閉ざしてしまう危険です。実は、きょうの箇所には「目を覚ましている」とはどういうことか、ほとんど何も語られていないのです!
マルコ福音書13章は「目を覚ましていなさい」という警告でイエスの長い終末についての説教を結んでいますが、マタイ福音書は、マルコ福音書を基にしながら、この説教を24・45~25・46まで大きく拡大しています。この部分は4つの話からなっていて、この4つの話はすべて「目を覚ましている」とはどういうことかを語る話だと言えます。それは「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしている」(24・46)ことであり、「ともし火と一緒に、壺に油を入れて持っている」(25・4)ことであり、「預かったタラントンを用いて、ほかのタラントンをもうける」(25・16-17)ことなのです。とはいえ、ここまでの3つの話はすべてたとえ話で、これらのたとえが何を意味しているか、本当に「目を覚ましている」こととは何なのか、ということは25・31-46になってはじめて明らかにされるのです。そこまで読まなければ、「目を覚ましている」ということは分からないようになっているのです!(ちなみにマルコやルカの福音書を読むと違う面が見えてきますが、今回は触れることができません)
(4) マタイ25・31-46は、飢え、渇き、旅人であったり、裸であったり、病気であったり、牢にいる人に助けの手を差し伸べること、「わたし(キリスト)の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」という箇所です。マタイ福音書の中で「目を覚ましている」とはどういうことか、と言えば、ここにもっとも明快な答えがあります。
「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」と言ったらよいでしょうか。あるいは、「出会う一人一人の人の中にキリストを見いだすこと」「苦しむ人、虐げられている人を通してキリストに出会うこと」と言うこともできるかもしれません。今年の待降節を迎えたわたしたちにとって、「目を覚ましている」どういうことでしょうか?
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2004年11月21日
ルカ23・35-43 (2004/11/21 王であるキリスト)
【教会暦と聖書の流れ】
教会の暦には、クリスマスと復活祭を中心にした4つの「季節」(待降節・降誕節・四旬節・復活節)があり、それ以外の期間を「年間」と呼びます。王であるキリストの祭日は年間最後の主日にあたります。「王」というのは現代日本のわたしたちには馴染みにくいイメージですが、この祭日のテーマは、キリストがすべてにおいてすべてになる、終末における救いの完成ということです。ところで、王であるキリストのミサの聖書朗読箇所は年によってずいぶん違います。いずれもただ単に「キリストが王である」ということよりも、キリストが「普通の人間の王とどのように異なる王であるか」を表す箇所が選ばれています。「王」ということばにこだわらずに、この箇所そのものを味わい、分かち合うとよいでしょう。
【福音のヒント】
(1) イエスが十字架にかけられる場面です。ルカ福音書の受難物語はマルコの受難物語をもとにして、ルカ独自の資料・伝承を挿入する形で書かれています。マルコ、マタイでは、イエスとともに十字架につけられた犯罪人が二人ともイエスをののしった、となっていますが、ルカは別の伝承を採用しています。ルカはそのうちの一人が回心し、イエスに救いを願った、という話を伝えています。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(40-41節)。ここにはルカ福音書の受難物語の1つの特徴が表れています。それは、イエスが罪なき方であることを強調することです。ユダヤの最高法院で、イエスは自分を神の子とした、という冒涜の罪(22・70-71)を着せられ、ローマ総督に対して「民衆を扇動し、皇帝への納税を禁じた」と訴えられました。しかし、本当はイエスは無罪なのです(ルカ23・4、14-15、22、47参照)。ルカは「彼は不法を働かず/その口には偽りもなかったのに」(イザヤ53・9)という苦しむ主のしもべの姿をわたしたちに思い出させようとしているのでしょうか。
(2) 「議員たち」はユダヤ人の最高法院の議員たち、「兵士たち」は処刑を担当したローマ人の兵士です。「犯罪人」は十字架刑を受けるほど重大な犯罪を犯した人なのでしょう。彼らのイエスへのことばはすべて「自分を救ってみろ」ということでした。イエスはそれに何一つ答えません。なぜ、イエスは答えないのでしょうか?
わたしたちの生きている世界は暴力に満ちています。戦争やテロという巨大な暴力から、身近なところで起こる犯罪や家庭の中の暴力(ドメスティック・バイオレンス)まで、いたるところに暴力の問題があります。その中で、イエスがご自分の受けた不当な暴力をどう受け止めたのかを見つめてみましょう。
イエスは自分を救うことができたのにあえてそれをしなかった、という考えもあります。しかし、わたしたちの体験している暴力の問題と関連づけてみると、「自分を救わない」ということは、被害者が耐え忍ぶことを良しとし、暴力を容認し、暴力を繰り返させる危険もあるのではないでしょうか。「罪人をゆるすこと」と「暴力を許すこと」とは別の問題です。神の望みは人が暴力から解放され、平和のうちに生きることであるはずです。そこで、ここでは実際にイエスは自分を救うことができなかったのだという可能性を考えてみましょう。
(3) そこに見えてくる1つのことは、苦しむすべての人との連帯です。暴力は人を肉体的に傷つけるだけではありません。暴力は人を孤立無援の状態にします。しかし、イエスは受難の中ですべての苦しむ人とつながっているのです。イエスは「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4・15)。人々から見捨てられ、神からも見捨てられたように見えても、本当は孤立していません。イエスは最後まで神への信頼と人への愛を持ち続けるのです。暴力のもう1つの作用は、人を無力化 disempowermentすることです。確かに十字架のイエスは何もできないように見えます。しかし、愛する力がイエスから奪われることはありません。さらに暴力は人に憎しみや復讐心を植えつけることもあります。しかしイエスはそういうものに縛られませんでした。
「自分を救うことのできない」イエスの中に、愛と連帯によって暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る道を見つけることができるのではないでしょうか。
(4) 「ユダヤ人の王」(38節)はイエスをローマ帝国に対する反逆者とする罪状です。福音書は、そこにイエスが「真の王」であることが暗示されていると考えているのかもしれません。しかしむしろ「王」というテーマは、42-43節の犯罪人とイエスの対話の中に表れてきます。「あなたの御国においでになるとき」という箇所は、写本によっては「あなたが王権をもって来られるとき」と読むこともできます。「国、王権」と訳されたことはば「バシレイア」です。このことばは「王(バシレウス)」ということばから来ていて、「王であること、王としての統治、王として治める国」の意味になります。この犯罪人は、自分もイエスも十字架で死を迎えることを知っています。ですから、死を超えてイエスの王国が実現すると考えていることになるでしょう。その中で「わたしを思い出してください」と願うのです。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」の「楽園」はギリシア語で「パラデイソス」。70人訳聖書(古代のギリシャ語訳旧約聖書)の創世記2・8では、エデンの園をこう呼んでいます。神と人、人と人との調和に満ちた世界、人が神と共にいる状態(Ⅱコリント12・4参照)だと言ってもいいでしょう。イエスがそれを約束するのは「今日」です。苦しみのどん底の中で、イエスが共にいてくださることに気づいたとき、そこにもう「バシレイア」が実現している、そこが「パラダイス」になる、と言ってもいいのではないでしょうか。
2004年11月14日
ルカ21・5-19 (2004/11/14 年間第33主日)
【教会暦と聖書の流れ】
教会の暦で「年間」の終わりにあたる年間第32主日~王であるキリストの祭日(年間33の翌週、年間最後の主日)を「終末主日」と呼ぶことがあります。これらの主日の典礼は「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということに心を向けさせます。
ルカ福音書ではイエスは19・45からエルサレムの神殿での活動を始めました。マルコとマタイの福音書では終末についての説教はイエスが神殿を去り、オリーブ山で語られたことになっていますが、ルカ福音書では神殿の境内で語られています。ルカ福音書にとって神殿は、イエスの「父の家」(ルカ2・49)であり、「祈りの家」(19・46)であり、最後までイエスの活動の中心的な場なのです。
【福音のヒント】
(1) 「わたしの名を名乗る者」とは、「わたしがキリスト(救い主)だ」と主張する「偽(にせ)キリスト」のことでしょう。人々の不安や怖れにつけこんで「これこそが真の救いだ」というような偽りの情報が現代のわたしたちの周りにもたくさんあるのではないでしょうか。人々の危機意識を煽(あお)り立てて、信者を集めようとする怪しげな宗教さえもあるかもしれません。聖書の終末論はそういうものとは無縁です。イエスは人々の恐怖心を煽るためにこれらのことばを語られたのではありません。イエスが語るのは、たとえどんなことが起こっても「惑わされないように」(8節)ということです。
きょうの箇所は、世の終わりそのものというより、それに先立つ混乱の時代について語る箇所です。イエスは世を去る前に、将来起こるはずのことについて語りました。戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢饉、疫病、などなどです。それらは、福音書が書かれた1世紀の後半にはすでに現実になっていたことでした。そして、21世紀に生きているわたしたちにとって、これらの現象はさらに切実で、深刻な現実だと感じられるかもしれません。その中で、きょうのわたしたちにイエスが呼びかけていることを聞き取ろうとします。
(2) 聖書の終末論(終わりについての教え)には、2つの面があります。
1つは、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神に信頼するように、と促す励ましのメッセージという面です。きょうの箇所では、特に迫害の中でのイエスの助けと神の守りが約束されています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(15節)、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)。身の安全が保障されるのではありません。約束されるのは、裁きの場に引き出されてもそれを「証しをする機会」にする力が与えられること、たとえ殺されても「命(プシュケー)をかち取る」ことができることです。
「髪の毛の一本」(18節)はごくわずかなもの、ほんの小さなもののたとえです。神のわたしたちに対する愛が確かなもので、大きく、また細やかであることを強調しています。しかしそれは、危害がなくなるというよりも、どんなに危害を加えられても本当に大切なものを奪われることはない、という意味のようです。だから、「命(プシュケー)をかち取る」というのです。「プシュケー」はある辞書によれば「なまの人間の人格生命の本質的部分」と説明されています。何があっても決して奪われない「本質的な部分」とはなんでしょうか。
「忍耐(ヒュポモネー)」の元の意味は「下に留まること」です。ただじっと我慢するというよりも、神のもとに踏み留まること、と言ったらよいでしょうか。この神とのつながりこそが、決して傷つけられることのない本質的な部分だと言えるかもしれません。
(3) 終末論のもう1つの面は、警告のメッセージという面です。きょうの箇所の冒頭にある「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している」という場面を思い浮かべたらよいかもしれません。人は目に見えるものの立派さに心を奪われてしまうことが確かにあります。現代の消費社会は、そのように人の心を奪うものに満ち溢れていると言っても過言ではありません。テレビやインターネットを通して、美しいもの・派手なもの・欲しいものの情報がわたしたちに飛び込んできます。そして、本当に大切なものを見失ってしまう危険があるのです。聖書の終末論は、目に見えるすべてのものは「過ぎ去るもの」「滅びゆくもの」であることに気づかせ、何が本当に永遠のものであり、滅びないものであるかに気づかせるのです。
「世の終わりはどうなるのか」といくら頭で考えも何の役に立ちません。終末論のこの2つの面が、わたしたち自身の現実の体験とどう結びつくかを考えてみましょう。
(4) 末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということが言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、というよりも、「いのちの質」(残された日々をいかに充実したものとして生きるかということ)が大切になる、という考えです。
キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう(きょうの箇所のあと、すぐに受難の物語が始まります)。イエスは死を目前にして最後までどう生きたか、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになります。
「愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13・8、13)
わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かう生き方をきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。
2004年11月07日
ルカ20・27-38 (2004/11/7 年間第32主日)
【教会暦と聖書の流れ】
教会の暦ではもう「年間」の終わりにあたりますが、このあたりの主日(年間32、33、王であるキリスト)を「終末主日」と呼ぶことがあります。「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということに思いを馳せるときです。
ルカ福音書19・45から、イエスはエルサレムの神殿での活動を始めています。神殿でイエスは当時の宗教的指導者たちと出会いました。きょうの箇所はサドカイ派の人との間の、いわゆる「復活についての問答」です。彼らとのギャップは深まるばかりで、イエスの受難の時が迫ってきます。すべてのことばの背景には、「終わり(死)」に向かって最後まで神の子・神のしもべとして生き抜かれたイエスご自身の姿があります。
【福音のヒント】
(1) サドカイ派は、ファリサイ派と並んでイエス時代のユダヤ教の一派です。彼らの名「サドカイ」は祭司の名から来ています。彼らは当時のエルサレムの神殿の祭司と結びついていたグループでした。ファリサイ派が律法以外の預言書や口伝律法を大切にしていたのと異なり、サドカイ派はモーセ五書(律法の書、創世記~申命記)のみを正典と考えました。
(2) そもそも旧約聖書の中では「復活」ということはそれほど多く語られていません。モーセ五書には明確に「復活」について述べる箇所はありません。古いイスラエル民族の考えでは、人は死ぬと先祖の列に加えられる、それは「シェオール(陰府)」と呼ばれるところで、そこは生きている人との関わりも神との関わりもなくなる静寂の場でした。
旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと意識されるようになるのは、ダニエル書の12章とマカバイ記二の7章です(マカバイ記はヘブライ語聖書には含まれていませんが、カトリック教会では「第二正典」とされています)。これらの箇所が書かれた時代は、紀元前2世紀の迫害と殉教という時代でした。紀元前4世紀、ギリシャのアレクサンドロス大王が築いた広大な支配地域には、4つのヘレニズム(ギリシャ人の)帝国ができました。パレスチナは初め、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、後にシリアのセレウコス王朝が支配するようになりました。そして、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスという王のとき、ユダヤ人に対する激しい宗教的迫害が起こりました。エルサレムの神殿にはギリシャの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生きることを禁じられました。「神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、中には殺されていく人もいる」この厳しい状況の中で「死を越えて神が救いを与えてくださるという希望=復活の希望」が語り始められたのです。
(3) サドカイ派が復活を認めなかったのは、彼らが「モーセ五書」のみを正典と考えていたから、というだけではありません。それは彼らがこの世で満ち足りていたからです。たとえローマの支配下にあろうとも、神殿の権威や富に結びついていたサドカイ派にとって今の生活は悪くなかったのです。彼らにとって、神殿の祭儀の中で正しい犠牲をささげていれば神との関係は十分で、死を越えて神に希望するものなど何もなかったのです。だからサドカイ派は「復活」という考えの論理的矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのです。
一方のイエスは、貧しい人々とともに生き、苦しむ人々の姿を見つめてきました。彼らの苦しみと希望はイエスのものでもあったのです。そしてご自分の身にも危険が迫っていることをイエスは感じていました。イエスにとって、復活とは死後の世界に対する興味や、宗教家の議論の問題ではないのです。それは、「どう考えてもこの世では今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるときに、なおも神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか」というギリギリの決断の問題なのです。
(4) イエスのことばは要するに2つのことを言っているようです。
34-36節=この世の有り様と復活の有り様はまったく違う。復活のいのちとはこの世のいのちの延長線上にあるものではなく、まったく違うレベルのいのちなのだ、ということ。復活とは、まったく「神によって生きる」(38節)ことなのです。
37-38節=「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だから「死者は復活する」というのは、論理的には「神は『生きている者の神』であり、モーセに現れた神がご自分を先祖の神だ、と言うのだとすれば、先祖たちは今も何らかの形で生きていることになる」ということでしょう。でも議論の上での反証と考えると少し無理があるのではないでしょうか。
(5) 「柴」の箇所とは、出エジプト記3章を指します。神がシナイ山で初めてモーセに声をかけ、モーセにイスラエルの民を率いてエジプトの奴隷状態から脱出させるという使命を与える箇所です。そこでの神の自己紹介が「わたしはアブラハムの神、イサクの神、…」というものでした。イスラエルの先祖とともにいて、いつも彼らを守り導いた神はエジプトの奴隷状態にある民を決して見捨てていない。その神は、いつも人とともにいて、人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神なのです。
「生きている者の神」とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神ということではないでしょうか。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は「死んだ者の神」と言ってもよいかもしれません。きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについての鋭い問いかけでもあります。それは、「わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、そして、わたしたちは本当に神によって生きているか?」という問いかけなのです。