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2004年11月21日

ルカ23・35-43 (2004/11/21 王であるキリスト)

【教会暦と聖書の流れ】

教会の暦には、クリスマスと復活祭を中心にした4つの「季節」(待降節・降誕節・四旬節・復活節)があり、それ以外の期間を「年間」と呼びます。王であるキリストの祭日は年間最後の主日にあたります。「王」というのは現代日本のわたしたちには馴染みにくいイメージですが、この祭日のテーマは、キリストがすべてにおいてすべてになる、終末における救いの完成ということです。ところで、王であるキリストのミサの聖書朗読箇所は年によってずいぶん違います。いずれもただ単に「キリストが王である」ということよりも、キリストが「普通の人間の王とどのように異なる王であるか」を表す箇所が選ばれています。「王」ということばにこだわらずに、この箇所そのものを味わい、分かち合うとよいでしょう。

【福音のヒント】

(1) イエスが十字架にかけられる場面です。ルカ福音書の受難物語はマルコの受難物語をもとにして、ルカ独自の資料・伝承を挿入する形で書かれています。マルコ、マタイでは、イエスとともに十字架につけられた犯罪人が二人ともイエスをののしった、となっていますが、ルカは別の伝承を採用しています。ルカはそのうちの一人が回心し、イエスに救いを願った、という話を伝えています。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(40-41節)。ここにはルカ福音書の受難物語の1つの特徴が表れています。それは、イエスが罪なき方であることを強調することです。ユダヤの最高法院で、イエスは自分を神の子とした、という冒涜の罪(22・70-71)を着せられ、ローマ総督に対して「民衆を扇動し、皇帝への納税を禁じた」と訴えられました。しかし、本当はイエスは無罪なのです(ルカ23・4、14-15、22、47参照)。ルカは「彼は不法を働かず/その口には偽りもなかったのに」(イザヤ53・9)という苦しむ主のしもべの姿をわたしたちに思い出させようとしているのでしょうか。

(2) 「議員たち」はユダヤ人の最高法院の議員たち、「兵士たち」は処刑を担当したローマ人の兵士です。「犯罪人」は十字架刑を受けるほど重大な犯罪を犯した人なのでしょう。彼らのイエスへのことばはすべて「自分を救ってみろ」ということでした。イエスはそれに何一つ答えません。なぜ、イエスは答えないのでしょうか?
わたしたちの生きている世界は暴力に満ちています。戦争やテロという巨大な暴力から、身近なところで起こる犯罪や家庭の中の暴力(ドメスティック・バイオレンス)まで、いたるところに暴力の問題があります。その中で、イエスがご自分の受けた不当な暴力をどう受け止めたのかを見つめてみましょう。
イエスは自分を救うことができたのにあえてそれをしなかった、という考えもあります。しかし、わたしたちの体験している暴力の問題と関連づけてみると、「自分を救わない」ということは、被害者が耐え忍ぶことを良しとし、暴力を容認し、暴力を繰り返させる危険もあるのではないでしょうか。「罪人をゆるすこと」と「暴力を許すこと」とは別の問題です。神の望みは人が暴力から解放され、平和のうちに生きることであるはずです。そこで、ここでは実際にイエスは自分を救うことができなかったのだという可能性を考えてみましょう。

(3) そこに見えてくる1つのことは、苦しむすべての人との連帯です。暴力は人を肉体的に傷つけるだけではありません。暴力は人を孤立無援の状態にします。しかし、イエスは受難の中ですべての苦しむ人とつながっているのです。イエスは「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4・15)。人々から見捨てられ、神からも見捨てられたように見えても、本当は孤立していません。イエスは最後まで神への信頼と人への愛を持ち続けるのです。暴力のもう1つの作用は、人を無力化 disempowermentすることです。確かに十字架のイエスは何もできないように見えます。しかし、愛する力がイエスから奪われることはありません。さらに暴力は人に憎しみや復讐心を植えつけることもあります。しかしイエスはそういうものに縛られませんでした。
「自分を救うことのできない」イエスの中に、愛と連帯によって暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る道を見つけることができるのではないでしょうか。

(4) 「ユダヤ人の王」(38節)はイエスをローマ帝国に対する反逆者とする罪状です。福音書は、そこにイエスが「真の王」であることが暗示されていると考えているのかもしれません。しかしむしろ「王」というテーマは、42-43節の犯罪人とイエスの対話の中に表れてきます。「あなたの御国においでになるとき」という箇所は、写本によっては「あなたが王権をもって来られるとき」と読むこともできます。「国、王権」と訳されたことはば「バシレイア」です。このことばは「王(バシレウス)」ということばから来ていて、「王であること、王としての統治、王として治める国」の意味になります。この犯罪人は、自分もイエスも十字架で死を迎えることを知っています。ですから、死を超えてイエスの王国が実現すると考えていることになるでしょう。その中で「わたしを思い出してください」と願うのです。
 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」の「楽園」はギリシア語で「パラデイソス」。70人訳聖書(古代のギリシャ語訳旧約聖書)の創世記2・8では、エデンの園をこう呼んでいます。神と人、人と人との調和に満ちた世界、人が神と共にいる状態(Ⅱコリント12・4参照)だと言ってもいいでしょう。イエスがそれを約束するのは「今日」です。苦しみのどん底の中で、イエスが共にいてくださることに気づいたとき、そこにもう「バシレイア」が実現している、そこが「パラダイス」になる、と言ってもいいのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2004年11月21日 11:53

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