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2004年11月14日

ルカ21・5-19 (2004/11/14 年間第33主日)

【教会暦と聖書の流れ】

教会の暦で「年間」の終わりにあたる年間第32主日~王であるキリストの祭日(年間33の翌週、年間最後の主日)を「終末主日」と呼ぶことがあります。これらの主日の典礼は「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということに心を向けさせます。
 ルカ福音書ではイエスは19・45からエルサレムの神殿での活動を始めました。マルコとマタイの福音書では終末についての説教はイエスが神殿を去り、オリーブ山で語られたことになっていますが、ルカ福音書では神殿の境内で語られています。ルカ福音書にとって神殿は、イエスの「父の家」(ルカ2・49)であり、「祈りの家」(19・46)であり、最後までイエスの活動の中心的な場なのです。

【福音のヒント】

 (1) 「わたしの名を名乗る者」とは、「わたしがキリスト(救い主)だ」と主張する「偽(にせ)キリスト」のことでしょう。人々の不安や怖れにつけこんで「これこそが真の救いだ」というような偽りの情報が現代のわたしたちの周りにもたくさんあるのではないでしょうか。人々の危機意識を煽(あお)り立てて、信者を集めようとする怪しげな宗教さえもあるかもしれません。聖書の終末論はそういうものとは無縁です。イエスは人々の恐怖心を煽るためにこれらのことばを語られたのではありません。イエスが語るのは、たとえどんなことが起こっても「惑わされないように」(8節)ということです。
 きょうの箇所は、世の終わりそのものというより、それに先立つ混乱の時代について語る箇所です。イエスは世を去る前に、将来起こるはずのことについて語りました。戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢饉、疫病、などなどです。それらは、福音書が書かれた1世紀の後半にはすでに現実になっていたことでした。そして、21世紀に生きているわたしたちにとって、これらの現象はさらに切実で、深刻な現実だと感じられるかもしれません。その中で、きょうのわたしたちにイエスが呼びかけていることを聞き取ろうとします。 

 (2) 聖書の終末論(終わりについての教え)には、2つの面があります。
1つは、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神に信頼するように、と促す励ましのメッセージという面です。きょうの箇所では、特に迫害の中でのイエスの助けと神の守りが約束されています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(15節)、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)。身の安全が保障されるのではありません。約束されるのは、裁きの場に引き出されてもそれを「証しをする機会」にする力が与えられること、たとえ殺されても「命(プシュケー)をかち取る」ことができることです。
 「髪の毛の一本」(18節)はごくわずかなもの、ほんの小さなもののたとえです。神のわたしたちに対する愛が確かなもので、大きく、また細やかであることを強調しています。しかしそれは、危害がなくなるというよりも、どんなに危害を加えられても本当に大切なものを奪われることはない、という意味のようです。だから、「命(プシュケー)をかち取る」というのです。「プシュケー」はある辞書によれば「なまの人間の人格生命の本質的部分」と説明されています。何があっても決して奪われない「本質的な部分」とはなんでしょうか。
 「忍耐(ヒュポモネー)」の元の意味は「下に留まること」です。ただじっと我慢するというよりも、神のもとに踏み留まること、と言ったらよいでしょうか。この神とのつながりこそが、決して傷つけられることのない本質的な部分だと言えるかもしれません。

 (3) 終末論のもう1つの面は、警告のメッセージという面です。きょうの箇所の冒頭にある「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している」という場面を思い浮かべたらよいかもしれません。人は目に見えるものの立派さに心を奪われてしまうことが確かにあります。現代の消費社会は、そのように人の心を奪うものに満ち溢れていると言っても過言ではありません。テレビやインターネットを通して、美しいもの・派手なもの・欲しいものの情報がわたしたちに飛び込んできます。そして、本当に大切なものを見失ってしまう危険があるのです。聖書の終末論は、目に見えるすべてのものは「過ぎ去るもの」「滅びゆくもの」であることに気づかせ、何が本当に永遠のものであり、滅びないものであるかに気づかせるのです。
 「世の終わりはどうなるのか」といくら頭で考えも何の役に立ちません。終末論のこの2つの面が、わたしたち自身の現実の体験とどう結びつくかを考えてみましょう。

 (4) 末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということが言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、というよりも、「いのちの質」(残された日々をいかに充実したものとして生きるかということ)が大切になる、という考えです。
 キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう(きょうの箇所のあと、すぐに受難の物語が始まります)。イエスは死を目前にして最後までどう生きたか、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになります。
 「愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13・8、13)
わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かう生き方をきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。

投稿者 ct : 2004年11月14日 11:49

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