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2004年10月31日

ルカ19・1-10 (2004/10/31 年間第31主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 ルカ福音書9・51から始まったエルサレムへの旅も終わりに近づき、きょうの福音の舞台はエリコという町(エルサレムまで20キロほど)です。この話もルカ福音書だけが伝える話ですが、イエスの旅は最後まで神の愛とゆるしを告げる旅でした。

【福音のヒント】

 ザアカイという一人の人がイエスに出会う物語です。こういう話は、自分を物語の中においてみて、自分がザアカイだったらどう感じるか、ということを味わいながら読んでみるとよいでしょう。

 (1) イエスの時代のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は被征服民族であるユダヤ人にある程度の自治や宗教的自由を認める一方で、徴税によって利益を得ていました。納税を認めることはローマの支配を認めることであり、自分たちは神の民だと考えていたユダヤ人にとっては耐え難いことでした。徴税人はユダヤ人でありながら、このローマ帝国の徴税という仕事を引き受けていた人たちです。彼らはそもそも、ローマに仕える民族の裏切り者として忌み嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国から給与を得ていたのではなく、ローマに納める税金に自分の取り分を上乗せしたものを人々から徴収し、それによって財を蓄えていたので、不正な取り立ても多かったようです。このような事情で「徴税人」は、当時のユダヤ社会の中で明らかに「罪人というレッテル」を貼られていた職業だったのです。ザアカイは「徴税人の頭で、金持ちであった」と紹介されています。彼は経済的には恵まれていましたが、ユダヤ人社会の中では「神から程遠く、社会のクズであり、生きるに値しない最低の人間だ」という烙印を押されていたのです。もちろん自分自身の生き方が神に背くものだと感じていたでしょう。

 (2) ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪人がイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。
 それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が、「罪人を招いて一緒に食事までしている」(ルカ15・2)といううわさを聞いていたのかもしれません。この人だったら、自分のどうにもならない思いを分かってくれ、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。
 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊めてくれ」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。

 (3) イエスはザアカイに「わたしが何かをしてあげよう」というのではなく、「あなたにはわたしのためにできることがある」(今日は、ぜひあなたの家に泊りたい)といって近づきました。どんなに罪人のレッテルを貼られていても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。
 イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)ということばは、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪人ではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪人のレッテルを貼られたまま生きていかなくてはなりません。でも彼は「神に見捨てられた罪人」ではなく「神に愛された罪人」なのです。

 (4)  別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2・14では、イエスが「通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」とあります。
 イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようという決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。

 (5) ザアカイの物語は、今のわたしたち自身の物語とどうつながるでしょうか
 きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5、9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2・11、4・21、23・43など参照)。「今日」とは、わたしたちが神の愛とゆるしに出会う日であり、神の救いがわたしたちの中に実現していく日なのです! わたしたちにとっての「今日」とは?

投稿者 ct : 11:37 | コメント (0)

2004年10月24日

ルカ18・9-14 (2004/10/24 年間第30主日)

【教会暦と聖書の流れ】
 このたとえ話もルカ福音書だけが伝える話です。先週の福音(やもめと裁判官のたとえ話)との関連を考えれば、祈りについての教えが継続していると言えるでしょう。

【福音のヒント】

 (1) ファリサイ派はイエス時代のユダヤ教の一派で、律法と口伝律法(律法の解釈についての律法学者たちの言い伝え)を重んじ、忠実にそれを守ろうとしていたグループです。「ファリサイ」ということばは「分離する」という意味のことばから来たといわれ、「自分たちは、律法を知らない汚れた民衆から分離した者だ」という意識を持っていました。
 一方の徴税人は、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の徴税という仕事を引き受け、その仕事によって私財を蓄えていた人たちです。彼らは福音書の中で罪びとの代表のように言われていますが、それは彼らが税の取り立てに関して不正を働いていたと考えられたからです。それだけでなく、そもそも民族の裏切り者として忌み嫌われていた面もあります。当時の社会の中ではどちらが「正しい人」でどちらが「罪びと」であるかは明白でした。

 (2) 「義とされる」という言葉は、パウロの手紙に比べて、福音書の中ではあまり多く使われていません。「義とされる」は直訳ですが、聖書の中で語られる「義」は「人間的な正しさ」というよりも、いつも根本に「神の義」ということがあります。「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということです。人間的な見方ではなく、神との関係という点では、この徴税人のほうが正しいあり方なのだとイエスは言うのです。それはなぜでしょうか。
 ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ他人との比較でした。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、ましてこの徴税人なんかとは比べ物にならない、ということです。しかし、人と比較して神の前に自分を誇っても何の意味もありません。そのような姿勢は神との関わりを妨げてしまうだけです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して」いるとき、人との関係も絶たれてしまいます。人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずなのに、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うからです。

 (3) イエスのことばは、わたしたちの自己評価に挑戦してきます。わたしたちが、「自分はチャンとやっている」と感じているとするならば、それは他の人と比べてのことではないでしょうか。「自分はぜんぜんダメだ」と感じているならば、それも人と比較してのことではないでしょうか。わたしたちはあまりにも「比較と競争」の世界に毒されているのかもしれません。
 この社会は、人を果てしない競争へと駆り立てる社会です。その中でわたしたちはどれほどストレスを抱えていることでしょうか、そしてどれほど多くの人が行き詰ってしまっているでしょうか。確かに「社会は競争なのだから、生きていくためにこの競争を降りることはできない」という人は多いでしょう。かと言って、人生が競争だけになれば、その人生はまったく悲惨なものになってしまうでしょう。「競争よりももっと大切なものがある、それを見失わないこと」きょうの福音はそう呼びかけているのではないでしょうか。
 わたしは神の前に立つ。どうしようもなく限界や弱さを抱えているけれども、神がそのわたしを愛し、生かしてくださっているのを感じる。そのとき、優越感と劣等感の間でもがき苦しむところから解放されていく。わたしたちの中にそういう体験があるでしょうか。

 (4) 祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。「あの人もしていたから、わたしもこうしました」とか「この人にはかなわないけれど、別の人よりはましです」そういうことは何の意味もない世界なのです。「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださる」。そういう祈りの体験がありますか。
 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。それは表面的に謙遜を装うということではないでしょう。また、「自分なんか何の価値もない。生きるに値しないダメな人間だ」と思い込むことでもないでしょう。むしろ、自分のありのままの姿を見つめるということではないでしょうか。それは決して簡単なことではありません。わたしたちの中に、本当の自分以上に自分のことをよく思いたいという部分がありますが、それは幻想の中を生きることです。逆に本当の自分以下にしか、自分の価値を見いだせず、自尊心を見失い、異様に低い自己評価を持っているとしたら、それも幻想です。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分を置いてみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。

 (5) 「罪人であるわたし」ということばにどんなリアリティがあるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。この徴税人にはそういう罪意識がありました。しかし個々の悪事の問題だけでもないのでしょう。「罪」とは「神から離れること」です。神から遠く離れてしまっている自分を感じること、神の前に立つのにまったくふさわしくないという感覚、それが「罪人であるわたし」ということばになるのです。そして、それは漠然と日々生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとしたときにこそ感じることかもしれません。

投稿者 ct : 11:33 | コメント (0)

2004年10月17日

ルカ18・1-8 (2004/10/17 年間第29主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 エルサレムへの旅は終わりに近づいています。この話もルカ福音書だけが伝える話です。
 ルカ17・20で「神の国はいつ来るのか」という問いかけがあり、イエスは「神の国は、見える形では来ない」「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17・20、21)と答えました。同時に「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」(17・24)とも言います。そして、その時に起こるであろう天災や苦難について語りました(17・22-37)。その苦難の時に向かう心構えとして、きょうの教えも伝えられているようです。

【福音のヒント】

 (1) 「気を落とさずに」と言いますが、そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。17章の終わりで語られていたのは、イエスの再臨の時に起こるさまざまな苦難でした。その中で「もうダメだ」と気を落としてしまうということでしょうか。でもそれはある将来のことというよりも、わたしたちが今生きている中で起こっていることかもしれません。わたしたちの生きている世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみに満ちています。そんな中で、わたしたちは「気を落として」しまうことがあるのではないでしょうか。イエスはそのときにも絶えず祈ることを呼びかけています。きょうの箇所を読む上で、この苦難という状況は無視できないでしょう。

 (2) 旧約聖書の中でやもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女が助けを求めたのは、誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったからでしょう。「相手を裁いて、わたしを守ってください」ということばは、直訳では「相手に対してわたしを裁いてください」です。「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。7-8節の「神の裁き」も同様です。

 (3) このたとえ話は、ルカ11・5-8の「旅の友人の願い」のたとえとよく似ています。これらのたとえ話は、祈りの大切さを教えていますが、同時に神は誠実でいつくしみ深い方であるから、わたしたちの祈りを必ず聞いてくださる、ということが強調されています。
 しかし、神を「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」にたとえるのはあまりも突飛に聞こえます。イエスは「不正な裁判官」と「正しくいつくしみ深い裁き主である神」の対比を強調していると言ったらよいでしょうか。そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々(弟子たち)に対してだったのでしょう。イエスは聞いている人を驚かせ、彼らの目を開かせるために、このように突飛なたとえを語られたのかもしれません。

 (4) 「選ばれた人たち」(7節)ということばの背景には、「主がその(苦難の)期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。」(マルコ13・20。マタイ24・22参照)という考えがあるようです。そこでは「選ばれた人たち」は、もちろん救いにあずかる人々のことです。ただ、救いにあずかるということが、その人たち自身の功績によることではなく、まったく神の恵み(好意)によることだと考えられ、その神のイニシアチブを強調するために「選ばれた人=神が選んだ人」と言われているのです。神の選びは、現代のコンテストとは違います。コンテストでは優れたものが選ばれ、選ばれなかったものは捨てられますが、神は誰一人切り捨てず、すべての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれるのです(申命記6・6-8、Ⅱコリント1・26-31参照)。そう考えれば、このたとえ話のやもめのような、弱く貧しい人こそが「神の選ばれた人たち」だと言うこともできるでしょう。

 (5) 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の「人の子」は本来「人間」を指すことばでしたが、ダニエル7・13-14などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者としての再臨のキリストのことが考えられています。ここでいう「信仰」は「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことでしょう。祈りは大切だから祈り続けなければならない、とも言えるでしょうが、たとえ話のやもめは、止むに止まれず訴え続けました。そこから考えても、この信仰とは、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない、という人が神に向かう姿勢そのものだとも言えるでしょう。

 (6) 聖書の終末についての教えには2つの側面があります。1つは、苦難や迫害の中での希望のメッセージという面。本来、終末についてのメッセージは、この悪の支配の時代が過ぎ去ることを語り、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますメッセージでした。もう1つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの警告のメッセージです。神の判断(裁き)から見たときに何が本当に大切なのかを鋭く問いかけるメッセージにもなるのです。
 きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができるでしょう。
 本当に問われていることは、わたしたちの祈りや願いがどこまで切実なものかということではないでしょうか。そして、わたしたちの「祈りの切実さ」は現実の人間の苦しみとつながる中からしか来ないということも忘れてはならないでしょう。

投稿者 ct : 11:27 | コメント (1)

2004年10月10日

ルカ17・11‐19 (2004/10/10 年間第28主日)

【教会暦と聖書の流れ】

エルサレムに向かうイエスの旅は神の国を告げ、神のいつくしみをあらわし続ける旅でした。きょうのこの話もルカ福音書だけが伝えるものです。

【福音のヒント】

 (1) 「サマリアとガリラヤの間」とありますが、正確な場所はよく分かりません。話の中にサマリア人とユダヤ人が一緒に出てくるので、それに合わせた場面設定だともいえそうです。なお、イエスが育ったガリラヤ地方は、ユダヤから見てサマリアよりもさらに北にありましたが、ある時代に、南のユダヤ人が入植して町や村を作ったので、人種的にも宗教的にもユダヤ人との同一性を保っていました。つまり、ガリラヤ人はユダヤ人なのです。
 紀元前10世紀、ソロモン王の死後、北イスラエル王国は南のユダ王国から分離し、エルサレムの神殿とは別の聖所をサマリアのゲリジム山に作り、宗教的にも離れてしまいました。紀元前8世紀には北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になり、民族的にも別々になりました。このような経緯で、ユダヤ人とサマリア人は反目し合うようになっていたのです。

(2) ユダヤ人とサマリア人は、共にモーセ五書を正典としていました。その中には次のような規定がありました。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13・45‐46)。
 反目し合っていたユダヤ人とサマリア人が一緒に行動していることは普通ならば考えにくいことです。しかし、重い皮膚病の人々は、それぞれが本来属していた共同体から排斥され、苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのでしょう。苦しみの中での連帯・・・そういう経験はわたしたちの周りにもあるでしょうか。

(3) イエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)と言われます。当時の社会では、病気を宣告するのも、治癒を宣言するのも、祭司の役割でした。祭司によって「清め」の儀式をしてもらわなければ、社会復帰ができないのです。イエスはその人の神とのつながりを回復するだけでなく、コミュニティの人々との関係も取り戻すことを意図しておられたとも言えるでしょう。なお、ユダヤ人とサマリア人は別々の祭司を持っていたので、彼らは、別の場所へ出かけていったのです。

(4) きょうの福音から、「もっともっと感謝と賛美の心を持たなければならない」という教訓を受け取るのは当然のことでしょう。しかし、「感謝し、賛美する」というのは、義務感から来るものではないはずです。むしろ自然に心の中からわき上がるのが、賛美と感謝なのではないでしょうか。どうしたらそうできるかを考えるために、自分をこの福音の場面の中に置いてみて、このサマリア人の立場からこの物語を味わってみたらどうでしょうか。病気が治った人はもちろん皆、喜んだでしょう。しかし、祭司のところに行く前に、「感謝し」(16節)「賛美するために戻ってきた」(18節)のはサマリア人だけでした。それはなぜでしょうか。
 このサマリア人は「自分がいやされたのを知っ」(15節)た、とあります。ほかの人は、確かに病気が治ったことを喜んだけれど、そこで終わってしまった。それに対してこのサマリア人は「いやされた」=「神がいやしてくださった」と受け取ったからこそ、賛美し感謝することができたのだ、と考えることが一つにはできるでしょう。
 もう一つ考えられることは、イエスというユダヤ人が民族の壁を超えて、自分にも目をかけてくださった、ということに、ほかの人(ユダヤ人)以上の感謝を感じたということかもしれません。「この自分にも!」という驚きと感動が、彼の行動の背景にはあるといえるのではないでしょうか。
どちらも、わたしたちの中に似た経験があるかもしれません。わたしたちが、本当に神に感謝し、神を賛美するのはどんなときでしょうか。

(5) 「あなたの信仰があなたを救った」ということばは福音書に何度か出てきますが、考えてみれば不思議なことばです。「神があなたを救ってくださった」というほうが自然なのではないでしょうか。それでも、イエスは「信仰」を強調するのです。出来事の中に神とのつながりを発見すること、自分の現実の中に神の働きを見ていくこと、それがここでいう信仰だと言ったらよいのかもしれません。わたしたちはどうでしょうか。日々の出来事の中に、どのように神の働きを受け取っているでしょうか。
 この個所のすぐ後に、「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17・21)というイエスのことばがありますが、この帰ってきたサマリア人の中に、イエスは神の国の実現を見ていると言ってもよいかもしれません。身近に起こっている出来事の中に、神の国を見ることのできる眼を、信仰の眼といってもよいのでしょう。

投稿者 ct : 11:27 | コメント (0)

2004年10月03日

ルカ17・5-10 (2004/10/3 年間第27主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 エルサレムへの旅の段落の中で、ルカは他の福音書にない独自の伝承(イエスについての言い伝え)を多く伝えていますが、きょうの福音の少し前からは、マタイ福音書と共通の話が多くあります(1-2節はマタイ18・6-7に、3-4節はマタイ18・21-22に、5-6節はマタイ17・20によく似ています)。新共同訳聖書はルカ17・1-10に「赦し、信仰、奉仕」という小見出しを付けていますが、本来、1-2節、3-4節、5-6節、7-10節は別々の伝承だったと考えたほうがよいでしょう。さまざまな点において、イエスの弟子としてふさわしい生き方はどういうものかを教えることばとして集められたもののようです。

【福音のヒント】

(1) からし種は1~2ミリの小さな種で、本当に小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切です。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときですか。

(2) 信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは、「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことではないでしょうか。信仰の力とは、「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではないようです。そうではなくて、「信じて、神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということなのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。
 福音書の中で、「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在」の問題ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうか」という問題だったのです。

(3) 信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、という世界なのです。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、だから自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)といえるのでしょう。
 わたしたちは自分の力でなんとかしなければならない、という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力と努力が足りないからだ」、と見なすような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。
 
(4) 1-10節で、別々の伝承がつなぎあわされているのだとすると、使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言った状況については何も分からないことになります。しかし、わたしたちも同じように言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。
 3-4節の「ゆるし」のテーマとつなげて考えることも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言われても、すごくむずかしいことです。そこで弟子たちは「信仰が足りない」と感じたのではないかと考えてみます。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのでしょう。
 さらに「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」ということばも、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、「しなければならないことをしただけ」ということになります。
 人が人をゆるす、ということはどうやったら可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。
 1.自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけです)。
 2.相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解したとき。つまり、その人がどんな傷を受けてきたか、その中でどんなふうに人格が歪んで、ああいう行動に走ったのかが理解できるとき。
 3.ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。
 4.自分が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。
他にもあるかもしれません。「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうがたぶん何倍も役に立ちます。

投稿者 ct : 11:23 | コメント (0)