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2004年10月17日
ルカ18・1-8 (2004/10/17 年間第29主日)
【教会暦と聖書の流れ】
エルサレムへの旅は終わりに近づいています。この話もルカ福音書だけが伝える話です。
ルカ17・20で「神の国はいつ来るのか」という問いかけがあり、イエスは「神の国は、見える形では来ない」「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17・20、21)と答えました。同時に「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」(17・24)とも言います。そして、その時に起こるであろう天災や苦難について語りました(17・22-37)。その苦難の時に向かう心構えとして、きょうの教えも伝えられているようです。
【福音のヒント】
(1) 「気を落とさずに」と言いますが、そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。17章の終わりで語られていたのは、イエスの再臨の時に起こるさまざまな苦難でした。その中で「もうダメだ」と気を落としてしまうということでしょうか。でもそれはある将来のことというよりも、わたしたちが今生きている中で起こっていることかもしれません。わたしたちの生きている世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみに満ちています。そんな中で、わたしたちは「気を落として」しまうことがあるのではないでしょうか。イエスはそのときにも絶えず祈ることを呼びかけています。きょうの箇所を読む上で、この苦難という状況は無視できないでしょう。
(2) 旧約聖書の中でやもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女が助けを求めたのは、誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったからでしょう。「相手を裁いて、わたしを守ってください」ということばは、直訳では「相手に対してわたしを裁いてください」です。「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。7-8節の「神の裁き」も同様です。
(3) このたとえ話は、ルカ11・5-8の「旅の友人の願い」のたとえとよく似ています。これらのたとえ話は、祈りの大切さを教えていますが、同時に神は誠実でいつくしみ深い方であるから、わたしたちの祈りを必ず聞いてくださる、ということが強調されています。
しかし、神を「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」にたとえるのはあまりも突飛に聞こえます。イエスは「不正な裁判官」と「正しくいつくしみ深い裁き主である神」の対比を強調していると言ったらよいでしょうか。そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々(弟子たち)に対してだったのでしょう。イエスは聞いている人を驚かせ、彼らの目を開かせるために、このように突飛なたとえを語られたのかもしれません。
(4) 「選ばれた人たち」(7節)ということばの背景には、「主がその(苦難の)期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。」(マルコ13・20。マタイ24・22参照)という考えがあるようです。そこでは「選ばれた人たち」は、もちろん救いにあずかる人々のことです。ただ、救いにあずかるということが、その人たち自身の功績によることではなく、まったく神の恵み(好意)によることだと考えられ、その神のイニシアチブを強調するために「選ばれた人=神が選んだ人」と言われているのです。神の選びは、現代のコンテストとは違います。コンテストでは優れたものが選ばれ、選ばれなかったものは捨てられますが、神は誰一人切り捨てず、すべての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれるのです(申命記6・6-8、Ⅱコリント1・26-31参照)。そう考えれば、このたとえ話のやもめのような、弱く貧しい人こそが「神の選ばれた人たち」だと言うこともできるでしょう。
(5) 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の「人の子」は本来「人間」を指すことばでしたが、ダニエル7・13-14などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者としての再臨のキリストのことが考えられています。ここでいう「信仰」は「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことでしょう。祈りは大切だから祈り続けなければならない、とも言えるでしょうが、たとえ話のやもめは、止むに止まれず訴え続けました。そこから考えても、この信仰とは、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない、という人が神に向かう姿勢そのものだとも言えるでしょう。
(6) 聖書の終末についての教えには2つの側面があります。1つは、苦難や迫害の中での希望のメッセージという面。本来、終末についてのメッセージは、この悪の支配の時代が過ぎ去ることを語り、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますメッセージでした。もう1つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの警告のメッセージです。神の判断(裁き)から見たときに何が本当に大切なのかを鋭く問いかけるメッセージにもなるのです。
きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができるでしょう。
本当に問われていることは、わたしたちの祈りや願いがどこまで切実なものかということではないでしょうか。そして、わたしたちの「祈りの切実さ」は現実の人間の苦しみとつながる中からしか来ないということも忘れてはならないでしょう。
投稿者 ct : 2004年10月17日 11:27
コメント
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投稿者 NY : 2011年04月27日 10:52
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