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2004年08月29日
ルカ14・1, 7-14 (2004/8/29 年間第22主日)
【教会暦と聖書の流れ】
エルサレムへの旅の段落(ルカ9・51~19・44)が続いています。ある安息日の食事の場面ですが、会食は神の国の宴=神の国の完成の姿を表すものでした。ここで語られているのは、単なるテーブルマナーや人づき合いの方法ではなく、「神の国とはどういうものであるか」ということなのです。
【福音のヒント】
(1) 省略された2節~6節には、水腫の人のいやしの話があります。ルカ福音書では、安息日にイエスが病人をいやしたことが6・6-11、13・10-17とこの箇所の3回伝えられています。いずれも苦しむ人々へのイエスの深い共感と愛を表している話です。イエスは、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(14・5)と言います。イエスは「安息日の律法が何を禁じているか」ということに関心があるのではなく、目の前の苦しんでいる人にイエスは関心があるのです。そのイエスの姿勢は、きょうの福音の教えにもつながっています。単なる「ことばによる教え」ではなく、その背後にあるイエスの生き方・イエスの心を受け取ることが大切でしょう。
(2) 8-11節は「へりくだり」を勧めています。イエスご自身が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・8)と言われています。「へりくだる」は「タペイノオー」という動詞ですが、元にあるのは「タペイノスtapeinos」という形容詞で、普通は「身分が低い」と訳されることばです。イエスはご自分のことを「身分の低い者(タペイノス)」であると言われました(マタイ11・29参照。「謙遜」と訳されているが、直訳では「心において身分の低い者、心へりくだる者」)。「へりくだる」ということばを一般的・抽象的に考えるよりも、「イエスはどのような意味で、へりくだる者であり、身分の低いものであったか」を見つめてみるとよいのではないでしょうか。イエスの「へりくだり」は決してポーズとしての、うわべだけの謙虚さではありませんでした。そのイエスの「へりくだり」にわたしたちが結ばれて生きるということはどういうことでしょうか。なお、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)はイエスの死と復活につながるイメージだとも言えるでしょう。
「面目を施す」と訳されたことばは直訳では「ドクサdoxaがある」です。この「ドクサ」ということばは、元々のギリシャ語では、「人からの評判や名誉」を表すことばでしたが、聖書の中では多くの場合、「栄光」と訳されています。「神の栄光」あるいは「神からの栄光」の意味で使われています。ここでも「みんなの前で神からの栄光(栄誉)がある」という意味に受け取ったらよいかもしれません。
(3) イエスは13節で、貧しい人や障がいのある人を食事に招きなさい、と言います。障がい者に対する古代イスラエル社会の見方は非常に差別的なものでした。聖書の中でも、障がいのある者は祭司の務めを果たすことが許されない(レビ記21・17-23)とか、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」(サムエル記下5・8)というような箇所があります。そこから考えればイエスの語る神の国は、そのような人々が奪われた人間性を取り戻し、すべての人が神の子どもとして等しく尊重される場だということになるでしょう。
(4) 「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)というのはもちろん、神からの報いがあるということです。このようなことばをどう受け取ったらよいでしょうか。
わたしたちは皆、ふだんの生活の中で、プレゼントとそのお返しに気を使いながら生きていると言ってもよいでしょう。人からの報いや人へのお返しが当たり前の社会に生きているわたしたちにとって、イエスのことばは非常に強烈な問いかけです。「これだけのことをしてあげたら、これだけのことはしてもらえるだろう」「これだけのことをしてもらったから、これくらいはしてあげなければならない」というだけの世界では、自分の本当の生き方を見いだすことはできないのです。
ただ逆に、「人からの報いを期待せず、神からの報いのみを期待する」というのにも落とし穴があるかもしれません。現実の人間との関わりを見失い、現実の人間の苦しみ・悲しみなどどうでもよくなってしまう、という危険もあるのです。
むしろこのイエスのことばを、本当に素晴らしい世界への招きと考えてはどうでしょうか。貧しい人や障がいのある人と出会い、一緒に生きることは、わたしたちをもっと豊かな人生に導いてくれるものなのです。わたしたちの中にも、そういう体験があるのではないでしょうか。
(5) 「こうしなければならない」ということばかりを福音から受け取るのではなく、現にわたしたちの中にある「神の国」の体験を見つけることが、聖書を読み、分かち合う中では大切なことです。きょうのイエスのことばは、わたしたちの中に「神の国」についての豊かなイメージを作り上げるものだと言ったらよいのではないでしょうか。
2004年08月22日
ルカ13・22-30 (2004/8/22 年間第21主日)
【教会暦と聖書の流れ】
ルカ福音書はガリラヤからエルサレムに上るイエスの旅の途中にさまざまなエピソードを伝えています(ルカ9・51~19・44)。この旅は、神の国を告げ知らせる旅であり、十字架を経て天に向かう旅でした。きょうの福音もその旅の段落の一節ですが、ここから神の国についての豊かなイメージを受け取ることができるでしょう。
【福音のヒント】
(1) 「救われる」というのは、ここでは「神の国に入っている」(28節)、「神の国で宴会の席に着く」(29節)ということを意味しています。「神の国」とは、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」と言ってもよいでしょうが、それには「すでに始まっている」面と「最終的にいつか完成する」という面があります。ここで問題になっているのは、最終的な神の国の完成にあずかることができるかどうか、ということです。もちろんそれを「神の裁き」の問題だと言うこともできます。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」この問いを発した人は、なぜこんなことを聞いたのでしょうか。「救われるのが少数ならば、そうとうがんばらなければならない、逆に、多くの人が救われるというのなら、まあまあ人並みにやっていれば大丈夫だろう」そのような考えがあったのかもしれません。「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスのことばは、「救われる人は少ない」と言っているようにも聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか。
(2) 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(29節)は非常に多くの人がそこに受け入れられているイメージです。「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)は、「人間の考えでは先だと思っている人が神の国では後になり、人間の考えで後だと思っている人が神の判断では先になる」ということでしょう。一方ではものすごい広さがあって、予想もしなかった多くの人がそこに招かれていく、という面と、同時に、入れるはずの(つもりの)人が入れないという面があるようです。神の裁き(判断)は、人間の考えや計算を超えている、ということでしょう。「多いか少ないか」という人間の「取らぬタヌキの皮算用」は通用しない世界なのです。
では、神の目から見て何が本当に良しとされることなのか、これについて、きょうの箇所にはそれほど明白な答えがないようにも感じます。「戸を閉めてしまってからでは」ダメだし、「不義を行う者ども」はダメだということは語られています。今という時をどう生きているか、が問われていることは確かです。今すでに神の国を生きているかどうかがすべてだと言ってもいいでしょう。
(3) 福音を読むときに、ただイエスのことばを頭で理解しようとするのではなく、いつもイエス自身の歩み・生き方を感じることは大切です。イエスの生き方は、人間的な計算に基づく生き方ではありません。古代のある人はイエスを「autobasileia(ご自身が神の国)」と呼びました。「今神の国を生きること、そして最後まで神の国を生き抜くこと」それがイエスの道でした。
イエスの語ったたとえ話で言えば、やはり「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10・25-37)が思い出します。「わたしの隣人とはだれですか」とイエスに問いかけた律法学者は、神の報いについて人間的な計算をしようとしていました。しかし、あのサマリア人は、報いを気にして道に倒れていた人を助けたのではありません。彼は「はらわたをゆさぶられた(スプランクニゾマイ)」から助けたのです。イエスの生き方はまさにこのサマリア人のような生き方でした(ルカ7・13など参照)し、それが神の国を生きるということなのです。
救われるための計算に基づく行為は、その人の本当の生き方とは言えないでしょう。「自分が救われるために人を愛する」というのも何か変です。わたしたちは、どうしたら神の国を生きることができるのでしょうか、どうしたら愛を生きることができるのでしょうか。
(4) マタイ7・13-14には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」ということばがあります。そこでは「狭い門」は多くの人が見過ごしてしまうほど小さな門、という意味です。それに対して、ルカの今日の箇所では、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」となっていて、「多くの人が来るが、その中の少数しか入れないほど狭い戸口」というニュアンスでしょう。
わたしたちにとって「狭い門、狭い戸口」とはなんでしょうか。そこから入るということはどういうことでしょうか。人間的な見方や打算ではなく、わたしたちの心のもっとも深いところに働きかける神の呼びかけに従うことだと言ってもよいかもしれません(それを「聖霊の導き」というのです)。
「狭い門、狭い戸口」から入ったという経験がありますか。
2004年08月15日
ルカ1・39-56 (2004/8/15 聖母の被昇天)
【教会暦と聖書の流れ】
8月15日の聖母の被昇天の祭日が今年は日曜日に当たったため、主日のミサでもこの祭日を祝うことになります。
聖母の被昇天とは、「聖母マリアが生涯の最後に、体も魂も共に(存在のすべてが、という意味)天の栄光に上げられた」という教えです。聖書には、イエスの母マリアの生涯の終わりがどうだったかという記録はありません。しかし、キリスト信者は古代からマリアの生涯の終わりが祝福に満たされたものだったと信じてきました。旧約聖書で言えば、エノク(創世記5・24)やエリヤ(列王記下2・11)のような生涯の終わり方をしたと考え、次第に「マリアは天に上げられた(=神に取られた)」と表現するようになりました。この教えは、マリアが神の特別な恵みのゆえに、例外的に普通の死を味わわなかった、ということを強調する教えではありません。キリスト者・教会の最終的な救いの完成の姿を、マリアの生涯が前もって表しているのだ、ということが大切です(第二バチカン公会議『教会憲章』第8章参照)。マリアはわたしたちの一員であり、だからこそ、わたしたちの希望の星なのです。
福音の箇所は、ルカが伝えるイエスの誕生物語の一節で有名な箇所です。エリサベトのマリアへの祝福のことばは「アヴェマリアAve Maria」の祈りに用いられていますし、マリアの賛歌は、「マニフィカトMagnificat」として歌い継がれてきました。
【福音のヒント】
一つのヒントとして、「マリアの連帯性」ということを感じながら、きょうの福音を味わいたいと思います。
(1) マリアは救い主の母となるということを天使に告げられて、ただ一人でそのときを待つのではなく、洗礼者ヨハネを身ごもっているエリサベトを訪ねます。なぜ、マリアはエリサベトのところに行ったのでしょう。天使のお告げを確かめるため? 身重のエリザベトを助けるため? それだけでなく、神の救いがお互いの中に働いていることを確かめ合い、心を合わせて神の約束の実現を待つためとも言えるでしょう。それは一緒に集まって聖書を読み、共に祈るわたしたちの姿と似ているのではないでしょうか。
(2) 「女の中で祝福された方」(42節)というのは、「最も祝福された女性」という意味です(士師記5・24参照)。マリアだけが祝福されているのではなく、すべての女性(そしてすべての母親)は祝福されています。ただマリアが最高に祝福されているのは、胎内の子(イエス)が神の祝福そのものである方だからです。
さらにエリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いますが、もちろんこれもマリアのことであり、同時にマリアだけのことではありません。この「祝福」と「幸い」のことばをわたしたちにも向けられていることばだと受け取ることができるでしょうか。
(3) 47節からのマリアの歌は、イエスを身ごもったマリアの個人的な賛美と感謝から始まりますが、後半では救いを待ち望むすべての人に救いをもたらされる神への賛美になっていきます。前半と後半を結ぶキーワードのようなことばがあります。それは「身分の低い(タペイノスtapeinos)」ということばです。48節の「身分の低い(tapeinosis)」と52節の「身分の低い者(tapeinoi)」。マリアは「身分の低い」自分にあわれみをかけてくださった神は、「身分の低い」すべての人を必ず救ってくださると確信しているようです。マリアの歌は救いを待ち望むすべての人との連帯の歌なのです。
(4) このように見てくると、きょうの福音は、マリアにとってだけの特別な福音ではなく、マリアが代表する人々すべてにとっての福音だといえるでしょう。わたしたち一人一人がマリアだと言ってもいいかもしれません。わたしたちはどうしたら、このマリアの連帯性にあずかることができるでしょうか。
補. 「僕イスラエル」や「アブラハムの子孫」ということばは単なる民族主義的な表現ではありません。イザヤ41・8-10にはこうあります。「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。」直接にはバビロン捕囚の苦しみの中にあるイスラエル民族を指しますが、むしろ苦しみの真っ只中にありながら、神によって愛されているすべての人の姿を思い浮かべてもよいのではないでしょうか。
「アブラハムの子孫」は「神の約束にあずかる人々」の意味で、パウロによればキリスト信者のことです(ガラテヤ3・29参照)が、ここでは、ルカ福音書の中で「アブラハムの子(娘)」ということばがどのように使われているかを見てみましょう。イエスは18年間も病気の霊に取りつかれて腰の曲がったままだった女を「アブラハムの娘」(ルカ13・16)と呼び、徴税人の頭ザアカイを「アブラハムの子」(ルカ19・9)と呼びました。彼らは社会の中で、蔑視され、無視されていた人々でしたが、イエスは「この人もアブラハムの子なのだ、娘なのだ」と言って、この人も神が愛しておられる人であると宣言するのです。大きな広がりを感じたいことばです。
2004年08月08日
ルカ12・32-48 (2004/8/8 年間第19主日)
【教会暦と聖書の流れ】
エルサレムへの旅(神の国について語り続ける旅、十字架を経て天に向かう旅)の段落が続いています。先週の「おろかな金持ち」の話の後、「思い悩むな、ただ神の国を求めなさい」という教え(22-31節)に続いて語られることばです。
【福音のヒント】
(1) 「小さな群れよ、恐れるな」これはもちろんイエスと共にエルサレムへの旅をしていた弟子たちへのことばです。わたしたちにもイエスがそう呼びかけてくださっていることを感じたいと思います。「父は喜んで神の国をくださる」その喜びの雰囲気も感じたい。イエスは弟子たちの心を、目先の利害・損得ではなく、もっと大きな、過ぎ去ることのない「神の国」の喜びのほうに向けさせようとしているのです。「持ち物を売り払って施しなさい」「富を天に積みなさい」(33節)も、難しい命令というだけでないのです。わたしたちは、本当にすばらしい、豊かないのちへの招きとして受け取ることができるでしょうか。
(2) 「主人が帰ってくる」(36-38節)「人の子が来る」(40節)というのは終末のイメージです。聖書が語る世の終わり、あるいは個人の終わり(死)はいつも2つの確信を示しています。1つは「今のこのときは終わる、過ぎ去る」ということ、そしてもう1つは「そこで神(キリスト)との決定的な出会いがある」ということです。この終末についての教えは聞く人の状況によって、希望のメッセージにもなれば、警告のメッセージにもなります。
1.希望のメッセージ
本来、聖書の中で「世の終わり」が語られるようになった背景は、迫害や極度の苦しみという状況でした。「信じれば信じるほど現実には救いが見えなくなる」という状況の中で、「今この世を支配している悪の力がすべてではない」「この悲惨な現実を超えて(死をも超えて)、神はもっと豊かな救いを(いのちを)与えてくださる」これが終末のメッセージの大切な一つのポイントです。
2.警告のメッセージ
他方、迫害や苦しみの中ではなく、「なんとなくいい加減に生きている」というときには、厳しい警告のメッセージになります。最終的に神に出会い、神の目から見たときに、何が本当に価値あるものなのかが明らかになる(この神の判断を「裁き」と言うのです)。今わたしたちが求めているもの、大切にしているものは、神の目から見たら正しいのかどうか、そのことを強烈に問いかけるのです。
きょうの福音の中にも、この両方のニュアンスがあります。わたしたちは自分の状況をどう感じているでしょうか。そこからこのメッセージをどのように受け取っているでしょうか。
(3) 「目を覚ましている」という言葉は、考えてみると少し分かりにくいところがあります。「泥棒に入られないようにいつも警戒している」(39節)というたとえは分かりやすいのですが、そうすると、来るべき神の国が「災い」であるかのように聞こえてしまう恐れがあります。むしろ「目を覚ましている」というのは「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている」(36節)ことだという点が大切でしょう。この僕は、主人を心から待ち望んでいるのです。主人のほうにいつも心を向けているのです。ルカ21・36には、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」ということばがあります。祈りとは何よりも心を神に向けることです。自分の思いや、反省や、願いを自分の心の中でああでもない、こうでもない、とどうどう巡りさせているのは、祈りではありません。それを突き抜けて心を神に向けていくこと。ルカ福音書の「目を覚ましていること」とはそういうことだといったらよいかもしれません。わたしたちの中にもそういう部分があるでしょうか。
(4) 37節の「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのは非常に印象的な姿です。常識的には、いくら僕がよくやったからと言って、そこまでする主人はいないでしょう。しかし、イエスの姿はまさにそうだったと言えるかもしれません(マルコ10・45「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」)。わたしたちに対するイエスの奉仕を深く受け取りたい。わたしたちは、イエスから、そして父である神からどれだけのことをしてもらってきたのでしょうか。
(5) 35~40節がすべての弟子のあるべき態度を語っているのに対しで、41節以下は教会の中の特定の人々、責任を負った人々のことを語っているように聞こえるかもしれません。「主人が召し使いたちの上に立て(た)管理人」というのは教会の指導者の ことでしょうか。
彼らはなぜ厳しく責任を問われるのでしょうか。立場上、大きな責任を負わされているから、というだけでなく、「彼らは主人の思いを知っているはずだ」という点は大切でしょう。そうだとすれば、ここで言われている管理人は特定の人だけでなく、「主人の思いを知っている」すべての人の問題ではないかとも考えられます。「多く与えられた者」「多く任された者」というのも、わたしたち一人一人が自分のことだと受け取ってみてはどうでしょうか。
2004年08月01日
ルカ12・13-21 (2004/8/1 年間第18主日)
【教会暦と聖書の流れ】
この箇所も、ルカ福音書のエルサレムへの旅(神の国について語り続ける旅、十字架を経て天に向かう旅)の段落の中の箇所ですが、先週の箇所からは少し(ルカ11・14~12・12)飛んでいます。この間の話の多くは、マタイ・マルコと共通するので、他の年に読まれています。きょうの話はルカ福音書だけが伝えている話です。
【福音のヒント】
(1) 福音の内容については何も説明する必要がないでしょう。できるだけ素直にイエスの語りかけを、問いかけを、呼びかけを聞きたいと思います。たぶん、そこには今のわたしたちの生き方への強烈なチャレンジが感じられるでしょう。わたしたちの多くにとって、「お金」の問題や、人と人とのトラブルの問題はやはり切実だからです。
(2) 富を蓄えることへの警告という点では、申命記の次のことばが思い出されます。
「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(申命記8・13-18)
紀元前13世紀、神によってエジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民は、40年の荒れ野の旅を経て、約束の地の目前であるヨルダン川の東岸にたどり着きました。申命記の中心部分は、指導者であるモーセがそこにあるネボ山山頂から約束の地を見渡しながら語る説教です。モーセは民に40年の荒れ野の旅を思い起こさせ、その意味を解き明かし、約束の地に入ってからどう生きるべきかを語ります。そこにある一つの危険が「富を蓄えること」でした。荒れ野では、毎日ぎりぎりの食べ物しかなかった。でもだからこそ一日一日神によって養われていることを感じないわけにはいかなかった。しかし、富や作物を蓄えると「主を忘れる」というのです。
わたしたちの中にも、本当に苦しいとき、どん底の中でこそ神に支えられたという体験があるかもしれません。そしてそれをいつの間にか忘れているのかもしれません。
(3) 自分の力でなんとかしよう、人間の力ですべてをうまくやっていこう、とわたしたち現代人は考えます。そのためには、やはりお金が必要だ、ということにもなります。確かにこの世界の中では、金持ちのほうが高度な医療を受けられたり、発展途上国の人には充分な医療が行き届かない、という現実もあります。まさに「人の命は財産によってどうすることも」できる、というようなことがあるのです!
しかし、もし人間の力やお金の力ですべてがなんとかなると感じているならば、おそらく「神は不要」でしょう。自分の無力さや限界を知るということはそういう意味で大切なことなのです。おそらく、人間にとってもっとも顕著に「無力さ・限界」を感じるのは、死に直面したときです。そして「今夜、お前の命は取り上げられる」。いつ自分の死が訪れるか、本当はだれも知らないのです。その時、富は頼りにならない、本当に問われるのは「神の前に豊かになる」ということなのだ、とイエスは語ります。
(4) 末期ガンの人々のケア(ターミナル・ケア)の中でいのちの質(quality of life)ということがよく語られるようになりました。迫り来る死を前にしたときに、いのちの「量(長さ)」ではなく、「質(残された時間をどのように充実して生きるか)」が問われるのです。
「趣味の世界に生きる」とか「大自然の美に触れる」とか、人生を豊かにするものはいろいろあります。しかし、突き詰めて言えば、人間を超えたもの・目に見えない何かとのつながりを生きること、人と人との愛のつながりを生きることこそが、豊かな命を生きることであるとわたしたち信仰者は信じています。自分の肉体の中にある孤立した命のイメージではなく、神とのつながりの中にある命、人との愛の交わりの中にある命を感じること、それを「スピリチュアルspiritualな感覚」と言うこともできます。
イエスご自身が、十字架の死に向かう中で、そのような「いのちの質」を極限まで生き抜かれました。「神の前に豊かになる」命とは、イエスの十字架の中にある命だといってもいいかもしれません。今のわたしたちにとっては???
(5) きょうの箇所の発端は「兄弟との間のもめごと」でした。ぎりぎりのところで問われるのは、損得ではなく、その人と共に生きることを喜べるかどうかでしょう。死を前にして、家族や友人との和解を望んだ人、そして実際に和解することのできた人の姿は感動的です。逆に、その和解を妨げるものが「貪欲」だと言っても良いのではないでしょうか。
わたしたち一人一人の中に、おそらく両方の面があります。
わたしの中にある「貪欲」とはどんなものでしょうか。
わたしの中にある「神の前での豊かさ」とはどんなものでしょうか。