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2004年08月15日
ルカ1・39-56 (2004/8/15 聖母の被昇天)
【教会暦と聖書の流れ】
8月15日の聖母の被昇天の祭日が今年は日曜日に当たったため、主日のミサでもこの祭日を祝うことになります。
聖母の被昇天とは、「聖母マリアが生涯の最後に、体も魂も共に(存在のすべてが、という意味)天の栄光に上げられた」という教えです。聖書には、イエスの母マリアの生涯の終わりがどうだったかという記録はありません。しかし、キリスト信者は古代からマリアの生涯の終わりが祝福に満たされたものだったと信じてきました。旧約聖書で言えば、エノク(創世記5・24)やエリヤ(列王記下2・11)のような生涯の終わり方をしたと考え、次第に「マリアは天に上げられた(=神に取られた)」と表現するようになりました。この教えは、マリアが神の特別な恵みのゆえに、例外的に普通の死を味わわなかった、ということを強調する教えではありません。キリスト者・教会の最終的な救いの完成の姿を、マリアの生涯が前もって表しているのだ、ということが大切です(第二バチカン公会議『教会憲章』第8章参照)。マリアはわたしたちの一員であり、だからこそ、わたしたちの希望の星なのです。
福音の箇所は、ルカが伝えるイエスの誕生物語の一節で有名な箇所です。エリサベトのマリアへの祝福のことばは「アヴェマリアAve Maria」の祈りに用いられていますし、マリアの賛歌は、「マニフィカトMagnificat」として歌い継がれてきました。
【福音のヒント】
一つのヒントとして、「マリアの連帯性」ということを感じながら、きょうの福音を味わいたいと思います。
(1) マリアは救い主の母となるということを天使に告げられて、ただ一人でそのときを待つのではなく、洗礼者ヨハネを身ごもっているエリサベトを訪ねます。なぜ、マリアはエリサベトのところに行ったのでしょう。天使のお告げを確かめるため? 身重のエリザベトを助けるため? それだけでなく、神の救いがお互いの中に働いていることを確かめ合い、心を合わせて神の約束の実現を待つためとも言えるでしょう。それは一緒に集まって聖書を読み、共に祈るわたしたちの姿と似ているのではないでしょうか。
(2) 「女の中で祝福された方」(42節)というのは、「最も祝福された女性」という意味です(士師記5・24参照)。マリアだけが祝福されているのではなく、すべての女性(そしてすべての母親)は祝福されています。ただマリアが最高に祝福されているのは、胎内の子(イエス)が神の祝福そのものである方だからです。
さらにエリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いますが、もちろんこれもマリアのことであり、同時にマリアだけのことではありません。この「祝福」と「幸い」のことばをわたしたちにも向けられていることばだと受け取ることができるでしょうか。
(3) 47節からのマリアの歌は、イエスを身ごもったマリアの個人的な賛美と感謝から始まりますが、後半では救いを待ち望むすべての人に救いをもたらされる神への賛美になっていきます。前半と後半を結ぶキーワードのようなことばがあります。それは「身分の低い(タペイノスtapeinos)」ということばです。48節の「身分の低い(tapeinosis)」と52節の「身分の低い者(tapeinoi)」。マリアは「身分の低い」自分にあわれみをかけてくださった神は、「身分の低い」すべての人を必ず救ってくださると確信しているようです。マリアの歌は救いを待ち望むすべての人との連帯の歌なのです。
(4) このように見てくると、きょうの福音は、マリアにとってだけの特別な福音ではなく、マリアが代表する人々すべてにとっての福音だといえるでしょう。わたしたち一人一人がマリアだと言ってもいいかもしれません。わたしたちはどうしたら、このマリアの連帯性にあずかることができるでしょうか。
補. 「僕イスラエル」や「アブラハムの子孫」ということばは単なる民族主義的な表現ではありません。イザヤ41・8-10にはこうあります。「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。」直接にはバビロン捕囚の苦しみの中にあるイスラエル民族を指しますが、むしろ苦しみの真っ只中にありながら、神によって愛されているすべての人の姿を思い浮かべてもよいのではないでしょうか。
「アブラハムの子孫」は「神の約束にあずかる人々」の意味で、パウロによればキリスト信者のことです(ガラテヤ3・29参照)が、ここでは、ルカ福音書の中で「アブラハムの子(娘)」ということばがどのように使われているかを見てみましょう。イエスは18年間も病気の霊に取りつかれて腰の曲がったままだった女を「アブラハムの娘」(ルカ13・16)と呼び、徴税人の頭ザアカイを「アブラハムの子」(ルカ19・9)と呼びました。彼らは社会の中で、蔑視され、無視されていた人々でしたが、イエスは「この人もアブラハムの子なのだ、娘なのだ」と言って、この人も神が愛しておられる人であると宣言するのです。大きな広がりを感じたいことばです。
投稿者 ct : 2004年08月15日 16:38
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