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2004年08月22日

ルカ13・22-30 (2004/8/22 年間第21主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 ルカ福音書はガリラヤからエルサレムに上るイエスの旅の途中にさまざまなエピソードを伝えています(ルカ9・51~19・44)。この旅は、神の国を告げ知らせる旅であり、十字架を経て天に向かう旅でした。きょうの福音もその旅の段落の一節ですが、ここから神の国についての豊かなイメージを受け取ることができるでしょう。

【福音のヒント】

(1) 「救われる」というのは、ここでは「神の国に入っている」(28節)、「神の国で宴会の席に着く」(29節)ということを意味しています。「神の国」とは、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」と言ってもよいでしょうが、それには「すでに始まっている」面と「最終的にいつか完成する」という面があります。ここで問題になっているのは、最終的な神の国の完成にあずかることができるかどうか、ということです。もちろんそれを「神の裁き」の問題だと言うこともできます。
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」この問いを発した人は、なぜこんなことを聞いたのでしょうか。「救われるのが少数ならば、そうとうがんばらなければならない、逆に、多くの人が救われるというのなら、まあまあ人並みにやっていれば大丈夫だろう」そのような考えがあったのかもしれません。「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスのことばは、「救われる人は少ない」と言っているようにも聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか。

(2) 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(29節)は非常に多くの人がそこに受け入れられているイメージです。「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)は、「人間の考えでは先だと思っている人が神の国では後になり、人間の考えで後だと思っている人が神の判断では先になる」ということでしょう。一方ではものすごい広さがあって、予想もしなかった多くの人がそこに招かれていく、という面と、同時に、入れるはずの(つもりの)人が入れないという面があるようです。神の裁き(判断)は、人間の考えや計算を超えている、ということでしょう。「多いか少ないか」という人間の「取らぬタヌキの皮算用」は通用しない世界なのです。
 では、神の目から見て何が本当に良しとされることなのか、これについて、きょうの箇所にはそれほど明白な答えがないようにも感じます。「戸を閉めてしまってからでは」ダメだし、「不義を行う者ども」はダメだということは語られています。今という時をどう生きているか、が問われていることは確かです。今すでに神の国を生きているかどうかがすべてだと言ってもいいでしょう。

(3) 福音を読むときに、ただイエスのことばを頭で理解しようとするのではなく、いつもイエス自身の歩み・生き方を感じることは大切です。イエスの生き方は、人間的な計算に基づく生き方ではありません。古代のある人はイエスを「autobasileia(ご自身が神の国)」と呼びました。「今神の国を生きること、そして最後まで神の国を生き抜くこと」それがイエスの道でした。
 イエスの語ったたとえ話で言えば、やはり「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10・25-37)が思い出します。「わたしの隣人とはだれですか」とイエスに問いかけた律法学者は、神の報いについて人間的な計算をしようとしていました。しかし、あのサマリア人は、報いを気にして道に倒れていた人を助けたのではありません。彼は「はらわたをゆさぶられた(スプランクニゾマイ)」から助けたのです。イエスの生き方はまさにこのサマリア人のような生き方でした(ルカ7・13など参照)し、それが神の国を生きるということなのです。
 救われるための計算に基づく行為は、その人の本当の生き方とは言えないでしょう。「自分が救われるために人を愛する」というのも何か変です。わたしたちは、どうしたら神の国を生きることができるのでしょうか、どうしたら愛を生きることができるのでしょうか。

(4) マタイ7・13-14には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」ということばがあります。そこでは「狭い門」は多くの人が見過ごしてしまうほど小さな門、という意味です。それに対して、ルカの今日の箇所では、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」となっていて、「多くの人が来るが、その中の少数しか入れないほど狭い戸口」というニュアンスでしょう。
 わたしたちにとって「狭い門、狭い戸口」とはなんでしょうか。そこから入るということはどういうことでしょうか。人間的な見方や打算ではなく、わたしたちの心のもっとも深いところに働きかける神の呼びかけに従うことだと言ってもよいかもしれません(それを「聖霊の導き」というのです)。
 「狭い門、狭い戸口」から入ったという経験がありますか。

投稿者 ct : 2004年08月22日 10:47

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