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2004年07月25日

ルカ11・1-13 (2004/07/25 年間第17主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 ルカ福音書のエルサレムへの旅(神の国について語り続ける旅、十字架を経て天に向かう旅)の段落の中の箇所です。「祈り」についての教えですが、イエスの時代のユダヤ教の各グループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったようです。ルカは主の祈りをイエスに従う者の生き方を表す祈りとして考えているのでしょう。

【福音のヒント】

(1) 「主の祈り」は新約聖書の中に2つの形で伝えられています。この箇所と、もう1つはマタイ6・9-13です。イエスが教えた1つの祈りが繰り返し唱えられ、アラム語からギリシャ語へ翻訳されていく中で、2つの形になったと考えられています。

 (2) 大切なのは、わたしたちがこの祈りをどのような思いで祈っているか、この祈りがどのようにわたしたちを支え、導いていてくれるかということです。ただ、主の祈りの言葉はけっして分かりやすいとも言えませんので、ここではいくつかの言葉を簡単に解説します。
 この祈りの最大の特徴は、「父よ」という単純な呼びかけです。マタイにある「天におられるわたしたちの」は礼拝の中で唱えられていくうちに付け加えられたことばでしょう。「父よ」これはイエスご自身が神に祈ったときのことばでした。マルコ福音書のゲツセマネでの祈りでは「アッバ、父よ」とアラム語も伝えられています。アッバは子どもが父親を呼ぶときのことばです。信頼を込めてイエスは神に向かってこのように呼びかけました。ルカ福音書では、十字架のイエスの祈りが印象的です(23・34、46)。
 「み名が崇められますように」は直訳では「あなたの名が聖とされますように」です。「名」は単なる「呼び名」ではなくそのものの本質を表します。「神の名」とは「神ご自身」の意味です。イザヤ29・23のように「人々が聖とする」ととれば、「人々が神を神として認めるようになる」という意味になりますが、エゼキエル36・23のように「神がご自分の名を聖とする」という意味にもとれます。この場合は、「神が救いの力を示すことによって、ご自分が神であることを現す」という意味になります。
 「み国が来ますように」は「神の心がすべてにおいてすべてとなりますように」ということ。マタイ福音書は「み心が天に行われるように地にも行われますように」ということばを付け加えていますが、これは「み国が来ますように」を言い換えたものだといえるでしょう。
 「必要な糧」「糧」の直訳は「パン」ですが、ここで生きるために必要なすべてを願っています。なお、ルカが「毎日」というところをマタイでは「今日」と言います。
 「わたしたちの罪をゆるしてください」の祈願はマタイとルカで微妙に違います。マタイを直訳すると「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたから」となります。現在カトリックの典礼で用いられている訳は、「わたしたちも人をゆるします」となっていますが、これは宣言ではなく、「ゆるしてください。そうすれば、わたしも人をなんとかゆるしたいし、ゆるすことができるからです」というニュアンスで受け取ればよいと思います。
 「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」は切羽詰まった叫びのような終わり方です。マタイはこれに「悪(悪い者)から救ってください」という言い換えを付け加えて、礼拝にふさわしい形を整えています。「誘惑に遭わせないで」という訳も可能ですが、むしろ「誘惑に陥らせないで」のほうがよいでしょう。誘惑が来ることは避けられない(ルカ17・1)。ただその中で、神から離れてしまわないように、という祈りだと受け取ればよいでしょう。

 (3) 5-8節のたとえ話は、「しつように頼む」ことを勧めています。マタイの教会はユダヤ人キリスト信者の共同体でしたから、祈ること自体はよく知っていて、その祈りが表面的・偽善的にならないように教える必要があったのに対し、ルカの教会は異邦人の教会ですから祈りの必要性そのものを訴える必要があったのでしょう。そこで「とにかく祈りなさい。神は必ず聞いてくださるのだ」ということが強調されています。9節「求めなさい。そうすれば与えられる…」は有名なことばです。ここで「与えられる」は「神が与えてくださる」の意味でしょう。祈りに魔術的な効果があるというよりも、神が必ず祈りを(人の叫びを)聞いてくださるということがここでもポイントです。

 (4) わたしたちの中には、「祈ったら自分の思いがかなった」という体験もあるかもしれませんが、「祈っても祈っても自分の願いはかなえられなかった」という体験もあるでしょう。でもそれだけでなく、「祈って自分の思い通りにはならなかったけれど、何かが変わった」という体験もあるのではないでしょうか。ここでは「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われています。それはどういうことでしょうか。3つのヒントだけ示します。

1. 聖霊は「神の力」です。祈りの中で与えられるのは神からの力だと言えるかもしれません。その力で困難を乗り越えることができた、という体験があるかもしれません。
2.聖霊は「神と人・人と人とをつなぐ力」です。祈りの中で神とつながっていること、人と人とがつながっていることを感じ、励まされたこともあるかもしれません。
3. マタイは似た箇所(マタイ7・11)で「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」ということばを伝えています。自分が思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられたという体験もあるのではないでしょうか。
このように「祈りの中で何かが与えられた」「自分が変えられた」という体験を分かち合うことができれば、それは本当にすばらしいことでしょう。

投稿者 ct : 16:05 | コメント (0)

2004年07月18日

ルカ10・38-42 (2004/7/18 年間第16主日)

【教会暦と典礼の流れ】

 先週の「善きサマリア人のたとえ」同様、エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える物語です。この旅は十字架を経て天に向かう旅であると同時に、神の国について語り続ける旅でした。ですからきょうの箇所も、福音書の文脈の中では、「イエスのことばを聞く」というテーマで受け取ったらよいかもしれません。

【福音のヒント】

(1) 「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。ヨハネが洗礼活動をしていたのはヨルダン川の下流、ユダヤに近い地方だと考えられています。洗礼者ヨハネが捕らえられて、イエス自身も身の危険を感じたのでしょうか、ヨハネの活動の限界を感じたのでしょうか、イエスはご自分の故郷とも言えるガリラヤに戻ってきます。そして、これを契機にイエス独自の活動が始まることになりました。
 紀元前10世紀にイスラエルの王国は、エルサレムを中心とする南のユダ王国とサマリアを中心とする北のイスラエル王国に分裂しました。イザヤは紀元前8世紀、北王国がアッシリアに滅ぼされていった時代の、ユダ王国の預言者です。ガリラヤ地方はサマリアのさらに北にあります。イザヤの時代のユダヤ人から見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ぶべき暗闇の地でした(なお、「ゼブルンとナフタリ」は、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ガリラヤ地方を割り当てられた部族の名です)。イエスの時代のガリラヤは、南のユダヤ人が入植して町を作っていたので、民族的にも宗教的にもエルサレムの神殿と結びついていましたが、ユダヤの人々からは軽んじられていました(「ガリラヤから預言者は出ない」ヨハネ7・52)。マタイはイエスがこのガリラヤで活動を始めたことを神の計画と見ています。復活したイエスが弟子たちに姿をあらわす場所もガリラヤの山です(マタイ28・16)。見捨てられた暗闇の支配する場所、しかし、その中でこそ神の救いの計画が実現し、イエスと出会える場所。わたしたちにとってのガリラヤとはどこでしょうか。

 (2) マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3・2と4・17)というまったく同じことばで紹介し、二人が唯一の神の一つの計画の中にいることを示しているようです。この「近づいた」(完了形)には「近づいているけれどまだ来ていない」というニュアンスだけでなく、「近づいてもうここに来ている」というニュアンスがあります。二人の違いは、ヨハネが「天の国(=神の国)」の準備の時代の人であったのに対して、イエスが神の国の実現の時代の人だという点です(マタイ11・11「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」)。わたしたちは「み国が来ますように」と祈りますが、イエスによって神の国は何らかの意味でもう始まっているのです。わたしたちにとって、すでに始まっている神の国とはどのような現実を指しているのでしょうか。

 (3) イエスが最初にしたことは弟子を作るということでした。これも福音書の結びと対応しているようです。復活したイエスの弟子たちへの命令の中心は「すべての民をわたしの弟子にしなさい・・・」(28・19)というものでした。マタイ福音書にとって、イエスの活動全体が「弟子作り」の活動だったと言ってもよいのでしょう。
 「わたしについて来なさい」は「わたしの後に」という意味のことばが使われています。一方「従う」と訳された「アコリュセオー」というギリシャ語は、ただ「後を歩む」だけでなく「同行する、仲間になる」という意味もあります。それはもちろん、司祭や修道者だけの問題ではありません。わたしたちキリスト信者すべてがイエスに弟子として呼ばれた者なのです。わたしたち一人一人が弟子として呼ばれていることを感じられますか。イエスの弟子として歩むということはわたしたちにとってどういうことでしょうか。

 (4) この箇所で、イエスが突然誰かに声をかけ、呼ばれた人たちがすぐにすべてを捨ててついていく、というのは少し乱暴ではないでしょうか。イエスの弟子とは、イエスのことばと行動に触れて、イエスに従うことを自分で決断した人たちだと考えるほうが自然です。マタイ福音書がマルコ福音書から受け取った最初の弟子の物語はいささか理想化(あるいはパターン化)されていると言わざるをえないでしょう(ルカやヨハネは別の形でこの弟子たちとイエスとの出会いを伝えています。ルカ5・1‐11、ヨハネ1・35‐42)。
 普通の師弟関係なら、弟子のほうが「これぞ」と思う先生に弟子入りを願うものでしょう。しかし福音書では、先生であるイエスが弟子を選ぶということが特徴的に描かれています。「イエスが弟子を選ぶ」ということは、神の選びの根拠は人間の側にない、という聖書特有の考え方に基づいています。人間が神を選ぶのなら、人間の側の選択能力が優れているということになりますが、神の選びは優れた人間を選ぶのではありません。もっとも弱く、貧しい人を選ぶことによって、すべての人を救おうとするのが神の選びです。つまり選ばれた側は何も誇ることができないのです(Ⅰコリント1・26‐31参照)。ペトロやヨハネも後々まで「無学な普通の人」(使徒言行録4・13)と言われていました。
 「すぐに」ということ、「何もかも捨てて」ということが弟子の理想として描かれていますが、自分自身のことを考えると戸惑いを感じるかもしれません。ただわたしたちの中にもそんな経験がまったくないとは言えないでしょう。

投稿者 ct : 15:56 | コメント (46925)

2004年07月11日

ルカ10・25-37 (2004/7/11 年間第15主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える物語です。この旅は十字架に向かう旅であると同時に、神の国を告げる旅でした。この話の前に、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これはみ心にかなうことでした」(21節)というイエスのことばがあります。ここでは、その「知恵ある者・賢い者」の代表である律法学者が登場してイエスと議論します。たとえ話のサマリア人の姿は「ここに神の国がある。これが神の国なんだ」と言っているかのようです。

【福音のヒント】

 (1) 律法学者(律法の専門家)は、律法を人々に教え、律法をもって人々を指導していた人々でした。27節で律法学者が引用する「神を愛し、隣人を愛する」は、申命記6・5とレビ記19・18です。マタイ、マルコ福音書でこの2箇所を引用するのはイエスご自身ですが、ここでは律法学者のほうが引用しています。それに対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればいのちが得られる」と言っています。この点についてイエスと律法学者との間に意見の相違はありません。

 (2) 29節で律法学者は、自分を正当化しようとして(直訳:自分を義として)、「わたしの隣人とはだれか」と問います。「神への愛と隣人への愛」が大切だという点でイエスと同意見でも、両者の生き方は大きく違います。律法学者の考えでは、罪びとや異邦人は愛する対象ではなく、排除する対象なのです。「わたしの隣人とは誰か」ということについて、律法学者の考えはこうです。「隣人とはすべての人という意味ではなく『近くにいる人』の意味である。ではどれくらいの範囲までが隣人なのか」なぜ、こんなことを考えるかといえば、それは彼らが律法を忠実に守ろうとし、この隣人愛の掟も厳密に実行しようとしたからです。彼らの考えでは「隣人とは誰かを定義しなければ、隣人を愛することはできない」のです。確かに「隣人」という言葉自体はすべての人を含んでいるとは言えないでしょう。
 しかし、イエスがいつも見ていたのは、神の望み・神のこころでした。それは「律法の字句をいかに正確に解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということです。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことであるのは明白です。

 (3) たとえ話の内容について、それほど説明はいらないでしょう。
 祭司とレビ人(神殿に仕えている人、もちろん真っ先に律法を実行するはずの人)は、道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」。それに対して、サマリア人(律法学者の考えでは「隣人」ではありえない人)は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱します。この違いはなんでしょうか。
 ここで使われている「憐れに思い」と訳された言葉に注目すべきでしょう。これはギリシャ語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は「スプランクナsplankna=はらわた」を動詞化したもので、「人の痛みを見たときに、こちらのはらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉です。日本語の「胸を痛める」に近いかもしれませんが、沖縄には「肝苦りさ(チムグリサ)」という言葉があるそうです。ある人はあえて「はらわたする」と訳しました。このサマリア人は「レビ記には『隣人を愛せ』という律法があった。この人は隣人だから助けよう」と思ったわけではありません。「はらわたした」から助けたのです。目の前の人の苦しみを見たときに、体が反応してしまうから、ほうってはおけなくなるということでしょう。イエスは、人間にはだれでも(ユダヤ人でもサマリア人でも)こういう心があるはずだ、と考えていて、それが神から見てもっとも大切なことであり、その心と行動があるところには神の意思が実現している(もう神の国が始まっている)と言っておられるようです。

 (4) 愛について言葉を費やすことはむなしいことです。「行ってあなたも同じようにしなさい」これに尽きるでしょう。
 わたしたちの現実はどうでしょうか。わたしたちの中にも、「見て、はらわたして、近寄って行く」という体験が必ずあるはずです。しかし、いつもそうとも限らず、「見ても、はらわたしない」ということもあるでしょう。また、「見て、はらわたしても、近寄っていかない」ということだってあるでしょう。それはどういうことでしょうか。


(補足) 律法について

 「隣人愛」の範囲について、レビ記は本当に誰かを排除しているでしょうか。同じ19章にはこういう言葉もあります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(19・33-34)。
 律法の前提には、いつも神の救いのわざがあります。エジプトで寄留者だったイスラエルの民を救ってくださった神の愛を知った民はどう生きるべきか。これがいつも律法の指し示していることです。律法は人間を採点するための掟ではなく、本当に問われていることはいつも、この神の愛にどのように出会い、どのように応えるかということなのです 。

投稿者 ct : 15:40 | コメント (0)

2004年07月04日

ルカ10・1-12, 17-20 (2004/7/4 年間第14主日)

【教会暦と聖書の流れ】

今年の年間主日はルカ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを追っていきます。先週の箇所から、ルカ福音書の「エルサレムへの旅の段落」(9・51~19・44)が始まっています。
 きょうの箇所は72人の弟子が派遣される場面です。

【福音のヒント】

 (1) ルカ9・1-6には12人の弟子が派遣される話があります。この72人の派遣は、エルサレムへの旅との関連は薄いようですし、12人ではなく72人であることの特徴もあまり感じられません。弟子たちを派遣するにあたってのイエスのことばは、いろいろな形で伝えられていたのでしょう。福音書には、弟子たちを派遣するにあたってイエスのことばが、合計4箇所伝えられています。マタイ10・5-42、マルコ6・7-12とルカのこの2箇所です。それらを比較すると共通する部分と、多少異なる部分があります。マタイは複数の伝承を一つの長い派遣説教としてまとめていますが、ルカはそれを2回の派遣に分けたと考えたら良さそうです。この派遣は、ルカにとっては過去の弟子たちの派遣というよりも、今復活のイエスによって派遣されている自分たちの問題でしょう。

 (2) 72人というところが70人になっている写本もあります。レビ記11章には、モーセの時代に70人の長老が選ばれる話がありますからその影響でしょうか。70人だとすると「民の指導者」というニュアンスがあるかもしれません。一方72という数は、12の6倍で、12人の弟子を拡大した「より多くの弟子たち」ということでしょう。なお、1節で「二人ずつ」派遣されることの意味はいくつか考えられます。(a)旧約時代から、「一人の証言は不確かだが、二人の証言ならば確かである」という考えがあったから。(b)単純に二人が支えあいながら活動していけば心強いということ。(c)二人が「愛し合う」姿をとおして、イエスの弟子であることが皆に分かるようになる(ヨハネ13・35参照)から。

 (3) 2節「収穫は多いが、働き手は少ない」。イエスは、多くの人が神の国の呼びかけに応えるということを期待し、信じています。そして、その呼びかけに応える人々を「収穫」にたとえています。派遣される人はもちろん「収穫のための働き手」ですから、彼らが祈るのは、「自分たち以外の人が働き手になりますように」ではなく、「自分たちだけでは足りないから、一緒に働いてくれる人を与えてください」という祈りであるはずです。召命を求める祈りはいつもそういう祈りであるはずです。
 「狼の中に羊を送り込む」は、もちろんこの派遣に伴う危険を指摘しています。いつも人々に受け入れられるとは限りません。弟子たちは拒否され、攻撃される可能性もあるのです。

 (4) 4節の「履物も持っていくな」は少し極端かもしれません。マルコ6・9では、はっきりと履物は履くように命じられています。袋はもらった喜捨を入れるための袋でしょう。要は「何も持たず、空(カラ)の手で」行くということです。なぜなら、後にあるように、必要なものは出かけた先で与えられるからです。「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者がその報酬を受けるのは当然である」(7節)。「自分の面倒は自分で見て、だれの世話にもなりたくない」というのがわたしたちの普通の考えかもしれません。イエスの弟子の道はそうではないのです。神と人々の好意に頼って生きていく道。それはわたしたちにとって、どういうことでしょうか。

 (5) 派遣される弟子が第一にすることは「この家に平和があるように」と言うことです。それは4節で禁じられたような儀礼的な長々としたあいさつではありませんが、やはり、ほとんどあいさつの言葉だと言っても良さそうです。「平和」(ヘブライ語で「シャローム」)はほとんど日常的なあいさつの言葉だからです。弟子たちは、戦いや論争や挑発のために出かけるのではなく、出会う人々との間に平和を作ることが求められます。イエスの弟子には、まず人との良好な関係を作ることが求められている、と言えるでしょう。
 ただし、いつでも良い関係が作れるとは限りません(わたしたちも同じです)。それはこちらが平和を願っていても、相手は拒否するということがあるからです。そんなとき、相手を責める気持ちにもなるでしょう。でも、そんなことに振り回されない、という生き方が求められているようです。「平和があなたがたに戻ってくる」というのは、「その人を恨んで、仕返ししようとするな、相手がどうであれ、あなたが相手のために平和を願うことはあなたにとってよいことなのだ」と言っているのではないでしょうか。なお、11節の足の埃を払い落とすは絶縁を意味しますが、そこにも「恨まない、復讐心を抱かない」という意味があるでしょう。「家から家へと渡り歩くな」も面白い指示です。渡り歩くのは、歓待されるのを期待してのことでしょうか。あるいは、もっと良い待遇を期待するからでしょうか。

 (6) 弟子たちの使命の中心は、病人をいやし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言うこと(9節)です。それは、福音書の中でイエスご自身がしてきたこととまったく同じことをしていくということです。今のわたしたちにとっては、どういうことになるでしょうか。 「悪霊」「蛇やさそり」「敵」は神に敵対し、人を害するものです。「サタン」はその力の根源にあるものでしょう。イエスは悪の支配が終わり、決定的に神のバシレイア(支配、国、王であること)が始まっているのを見ています。「名が天に書き記されている」は、この神のバシレイアにあずかる者となった、という意味です。これが弟子の喜びです!

投稿者 ct : 15:33 | コメント (0)