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2004年07月04日

ルカ10・1-12, 17-20 (2004/7/4 年間第14主日)

【教会暦と聖書の流れ】

今年の年間主日はルカ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを追っていきます。先週の箇所から、ルカ福音書の「エルサレムへの旅の段落」(9・51~19・44)が始まっています。
 きょうの箇所は72人の弟子が派遣される場面です。

【福音のヒント】

 (1) ルカ9・1-6には12人の弟子が派遣される話があります。この72人の派遣は、エルサレムへの旅との関連は薄いようですし、12人ではなく72人であることの特徴もあまり感じられません。弟子たちを派遣するにあたってのイエスのことばは、いろいろな形で伝えられていたのでしょう。福音書には、弟子たちを派遣するにあたってイエスのことばが、合計4箇所伝えられています。マタイ10・5-42、マルコ6・7-12とルカのこの2箇所です。それらを比較すると共通する部分と、多少異なる部分があります。マタイは複数の伝承を一つの長い派遣説教としてまとめていますが、ルカはそれを2回の派遣に分けたと考えたら良さそうです。この派遣は、ルカにとっては過去の弟子たちの派遣というよりも、今復活のイエスによって派遣されている自分たちの問題でしょう。

 (2) 72人というところが70人になっている写本もあります。レビ記11章には、モーセの時代に70人の長老が選ばれる話がありますからその影響でしょうか。70人だとすると「民の指導者」というニュアンスがあるかもしれません。一方72という数は、12の6倍で、12人の弟子を拡大した「より多くの弟子たち」ということでしょう。なお、1節で「二人ずつ」派遣されることの意味はいくつか考えられます。(a)旧約時代から、「一人の証言は不確かだが、二人の証言ならば確かである」という考えがあったから。(b)単純に二人が支えあいながら活動していけば心強いということ。(c)二人が「愛し合う」姿をとおして、イエスの弟子であることが皆に分かるようになる(ヨハネ13・35参照)から。

 (3) 2節「収穫は多いが、働き手は少ない」。イエスは、多くの人が神の国の呼びかけに応えるということを期待し、信じています。そして、その呼びかけに応える人々を「収穫」にたとえています。派遣される人はもちろん「収穫のための働き手」ですから、彼らが祈るのは、「自分たち以外の人が働き手になりますように」ではなく、「自分たちだけでは足りないから、一緒に働いてくれる人を与えてください」という祈りであるはずです。召命を求める祈りはいつもそういう祈りであるはずです。
 「狼の中に羊を送り込む」は、もちろんこの派遣に伴う危険を指摘しています。いつも人々に受け入れられるとは限りません。弟子たちは拒否され、攻撃される可能性もあるのです。

 (4) 4節の「履物も持っていくな」は少し極端かもしれません。マルコ6・9では、はっきりと履物は履くように命じられています。袋はもらった喜捨を入れるための袋でしょう。要は「何も持たず、空(カラ)の手で」行くということです。なぜなら、後にあるように、必要なものは出かけた先で与えられるからです。「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者がその報酬を受けるのは当然である」(7節)。「自分の面倒は自分で見て、だれの世話にもなりたくない」というのがわたしたちの普通の考えかもしれません。イエスの弟子の道はそうではないのです。神と人々の好意に頼って生きていく道。それはわたしたちにとって、どういうことでしょうか。

 (5) 派遣される弟子が第一にすることは「この家に平和があるように」と言うことです。それは4節で禁じられたような儀礼的な長々としたあいさつではありませんが、やはり、ほとんどあいさつの言葉だと言っても良さそうです。「平和」(ヘブライ語で「シャローム」)はほとんど日常的なあいさつの言葉だからです。弟子たちは、戦いや論争や挑発のために出かけるのではなく、出会う人々との間に平和を作ることが求められます。イエスの弟子には、まず人との良好な関係を作ることが求められている、と言えるでしょう。
 ただし、いつでも良い関係が作れるとは限りません(わたしたちも同じです)。それはこちらが平和を願っていても、相手は拒否するということがあるからです。そんなとき、相手を責める気持ちにもなるでしょう。でも、そんなことに振り回されない、という生き方が求められているようです。「平和があなたがたに戻ってくる」というのは、「その人を恨んで、仕返ししようとするな、相手がどうであれ、あなたが相手のために平和を願うことはあなたにとってよいことなのだ」と言っているのではないでしょうか。なお、11節の足の埃を払い落とすは絶縁を意味しますが、そこにも「恨まない、復讐心を抱かない」という意味があるでしょう。「家から家へと渡り歩くな」も面白い指示です。渡り歩くのは、歓待されるのを期待してのことでしょうか。あるいは、もっと良い待遇を期待するからでしょうか。

 (6) 弟子たちの使命の中心は、病人をいやし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言うこと(9節)です。それは、福音書の中でイエスご自身がしてきたこととまったく同じことをしていくということです。今のわたしたちにとっては、どういうことになるでしょうか。 「悪霊」「蛇やさそり」「敵」は神に敵対し、人を害するものです。「サタン」はその力の根源にあるものでしょう。イエスは悪の支配が終わり、決定的に神のバシレイア(支配、国、王であること)が始まっているのを見ています。「名が天に書き記されている」は、この神のバシレイアにあずかる者となった、という意味です。これが弟子の喜びです!

投稿者 ct : 2004年07月04日 15:33

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