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2004年06月27日

ルカ9・51-62 (2004/6/27 年間第13主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 今年の年間主日はルカ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを追っていきます。
 今日の箇所はイエスがエルサレムに向かう旅を始める箇所です。ルカ福音書は19章まで続くこの旅の間に、マルコ福音書にはない多くのエピソードやイエスのことばを伝えています。
 ルカ福音書によれば、エルサレムへと向かうイエスの旅は、十字架に向かう旅であると同時に、「天」に向かう旅でもあります(51節)。その中でイエスに従う人々には、他者への寛大さと、自分自身への厳しさ(覚悟)が求められます。

【福音のヒント】

 (1) サマリア人とユダヤ人は対立していました。もともとは同じ民族ですが、紀元前10世紀にイスラエルの王国が分裂し、北王国はサマリアに独自の聖所を置き、エルサレムの神殿を中心とする南王国から宗教的にも分離してしまいました。さらに紀元前8世紀に北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になってしまったようです。宗教的・民族的対立の問題は、今のわたしたちの問題でもあるでしょう。

 (2) 54節の弟子たちのことば「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」は、かつて預言者エリヤが自分を捕らえに来た兵士たちを焼き滅ぼした故事に基づいています(列王記下1章)。弟子たちにはもちろんそんな力はありません。自分たちの恨みをイエスの力で晴らしてもらおうとして、「主よ、そうしてください」というのです。イエスはこれをはっきり拒否しています。エルサレムへの旅の最初に置かれたこのエピソードは、イエスの旅が軍事的な戦いの旅ではなく、神の愛を告げ、神の愛を生きる旅であることを表しています。

 (3) 57-58節は、このイエスの旅に同行するとはどういうことかを、示しています。「人の子には枕するところもない」の「人の子」は、ここでは「わたしのような人間」の意味です。わたしたちの今の現実の中で、「巣穴のない、枕するところのない」というような状況があるでしょうか

 (4) 59節「父を葬る」は当時の考えでは人間として何よりも大切な義務でしたが、イエスはそれを許しません。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」ここで「自分たちの死者」は実際の死人のことですが、「死んでいる者」は「霊的な意味で死んでいる人」のことでしょう。イエスが指し示す「アッバ」である神とのつながりの中にあるいのちを生きていない人の意味です。第一朗読のエリシャの物語では家族と別れのあいさつをすることが許されていますが、62節のイエスのことばは、家族へのいとまごいも許しません(なお、「鋤」は畑をたがやすための農具。牛やロバに引かせて土をたがやしていきますが、通常、右手にムチを持ち、左手だけで操作するので、まっすぐ進むためには注意が必要です。「後ろを顧みる」ならば、たちまち曲がった畝ができてしまいます)。父の埋葬や家族へのいとまごいは、一般的に言えばいけないはずがないことです。しかし、イエスの言葉は「何をおいても今すぐ従う」ことを要求しています。ルカの文脈の中でこの緊急性は、イエスがエルサレムに向かう最後の、命がけの旅を始めることと関連していると言えるでしょう。葬儀の義務や家族へのあいさつが本当の問題でありません。むしろ、わたしたちに本当に問われていることは、イエスの告げる「神の国」(60、62節)への招きをどう受け取るか、です。

 (5) 「神の国」の「国」はギリシャ語で「バシレイア」といいますが、この言葉の元には「バシレウス=王」という言葉があります。「バシレイア」は本来「王であること、王となること」を意味する言葉です(英語のkingに対する kingdomと同じ。「王としての統治・支配」を意味することもあり、王として支配している「国・王国」の意味にもなる)。「神が王であること、神が王となること」これがイエスの告げ知らせた福音の中心でした。
 「神が王となる」と言われてもピンとこないでしょう。わたしたち現代人は、どんな王も必要としていない、と考えがちだからです。しかし、人間の王の不正な支配によって苦しめられていたイエスの時代のパレスチナの人々にとって、神の国のメッセージはすべての不当な圧迫から自由になる「解放のメッセージ」だったのです。わたしたちは何によって支配され、圧迫され、不当に抑圧されているでしょうか。お金、市場経済、競争原理、欲望、暴力、エゴイズム・・・? そこからの解放こそが「神の国」の表しているものなのです。

(6) 「神の国」とは別の言葉で言えば、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」だと言ったらよいかもしれません。「神の国」には、まだ来ていない(いつか完成する)という面と、すでに来ている(始まっている)という面があります。ルカ福音書にはイエスの次のような言葉が伝えられています。 「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11・20)、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17・20-21)。すでに始まっている神の国とは、わたしたちの間にある神の国とはどのようなことでしょうか。

投稿者 ct : 15:20 | コメント (22)