合同追悼ミサ(府中墓地)説教

2012年11月4日 カトリック府中墓地聖堂にて

ヨハネ6・37-40―

死の悲しみと恐怖を乗り越えるキリスト教の希望は「復活」という言葉に表されます。ギリシア語では「アナスタシス」と言います。「スタシス」は「ヒステーミ=立つ」という意味の動詞から来ています。「アナ」は「再び」の意味がありますが、「上へ」という意味もあります。日本語で「復活」と言いますが、この世のいのちに再び舞い戻るというよりも、「上へ立つ=立ち上がる」この世のいのちのレベルを超えた神のいのちの中に生きることを意味するのがこの「アナスタシス」です。

この「復活」という考え方が聖書の民=イスラエル民族の中で、はっきりと表れるようになったのは、紀元前2世紀のことでした。それまで古代のイスラエル人は、人は死んで先祖の列に加えられるとか、シェオールという暗闇のような静かなところに行くと考えられていました。この世の人生で神とともに生き、神からの祝福をこの地上の人生でいただくことができれば、この世のいのちだけで充分だと考えられたわけです。

紀元前2世紀に起こったことは、激しい宗教迫害でした。マケドニアのアレクサンドロスが東方へ攻めていき、広大な支配地域を作り上げました。アレクサンドロスの死後、その部下の将軍たちによって、4つのギリシア文化帝国が作られました。パレスチナは最初エジプトのプトレマイオス王朝によって支配されていましたが、その後、シリアのセレウコス王朝が支配することになり、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスのときに、とんでもない宗教迫害が起きます。エルサレムの神殿にギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は律法に従って生活することを禁じられました。律法によれば豚は汚れた動物で豚肉を食べることは禁じられていました。その豚肉を無理やり食べさせられたりしたのです。命令に背いて、殉教する人も出てきました。

神から離れればこの世では安泰・安全になり、神に従えば従うほどこの世では苦しみを受ける。この厳しい現実に直面した中で、「神はご自分に従う者を決して見捨てない。この世のいのちを超えて、もっと大きな救いを与えてくださる」という信仰がはっきりと表れてきたのです。これが復活という言葉で表されるようになった信仰です。

そしてイエスという方において、この復活ということがまず第一に、そして完全な形で実現したのだとキリスト教は信じるようになりました。神に徹底的に従い、すべての人を徹底的に愛し抜かれたあのイエスの生涯は、肉体の死で終わらなかった。死を超えてイエスは神のもとに行き、神の永遠の命を生きる方となった。これがイエスの復活への信仰であす。そして、わたしたちもイエスに結ばれて、その復活のいのち、神の永遠のいのちに入るようにと招かれているのだ。これがわたしたち自身の復活の希望です。

わたしたちの生きている時代はどうでしょうか? そんなに激しい迫害の時代ではないかもしれません。でもあまりにも世俗化した世界。まるで神様のなどいないかのような世界です。科学技術が進歩し、医学も進歩し、まるでこの世のいのちがすべてであるかのような時代だとも言えるでしょう。肉体の死ですべてはおわってしまう。そういう雰囲気もかなり強くあります。

しかし、同時にわたしたちは誰でも、死という親しい人との別れに身を引き裂かれるような痛みを感じます。病気であれ、災害や事故であれ、犯罪や自死による死であれ、人の死に直面したとき、言いようのない不条理を感じることがあります。あまりにも理不尽だと叫びたくなります。死ですべてが終わるということには到底納得できないのです。それは人間として当然のことです。だから、いのちとはこの世で生まれ、死ぬまでのそれだけのいのちだけではない。わたしたちの多くは直観的にそう感じています。

今日、この墓地でわたしたちは亡くなった方々のことを思いおこして祈っています。亡くなった家族や友人は、決して無になったのではないと信じるからです。神のもとに行き、そこで永遠のいのちにあずかっている。お墓は、その方々のことを思い起こし、その方々と神様の絆は決してなくなっていないし、その方々と残されたわたしたちの絆も決してなくなっていないということを確認する場です。

神にその信頼と希望を置き、亡くなった方々をいつくしみ深い神のみ手にゆだねて祈りましょう。そして、今生きているわたしたちが同じように、神のもとから来て、最終的にこの世の人生を終えて神のもとに帰っていくこと、そこで神とともに、先立っていった人々と共に、永遠の喜びに入っていくことを深い心に留めましょう。そして、だからこそ、日々、この地上の一瞬一瞬を大切に生きることができるように祈りたい、神を大切にし、人を大切にして生きることができますように、祈りたいと思います。




パウロ三好満神父 葬儀ミサ説教

2012年8月23日 東京カテドラル関口教会にて

個人的なことで恐縮ですが、わたしは2度、三好神父さんの期待を裏切ったことがあります。他にもあったかもしれませんが、はっきり覚えているのは2回です。

1度は数年前、わたしが司教になってしばらくしてからのことでした。何かの機会にお会いしたとき、三好神父さんはわたしに「アラノンにかかわる司祭がいてほしかったのに…」と残念そうに言われました。アラノンのこと、今日お集まりの皆さんはご存じだと思います。アルコール依存の人の家族や友人の自助グループです。三好神父さんは日本アラノン創立のときから、アラノンを応援していて、ずっと関わり続けておられました。わたしはアラノンや12ステップについて学びたいと思い、何回かアラノンのセミナーに参加したことがありました。そこで三好神父さんにお会いしていたのです。三好神父さんは次の世代の司祭としてわたしがアラノンに関心を持っていることがうれしそうでした。でも、わたしが司教になってしまい、教会のマネジメントみたいな仕事ばかりになるだろうから、もうアラノンにかかわることができなくなると思って、そうおっしゃったのでした。三好神父さんの期待を裏切ったと思います。

もう1回は去年のことでした。このカテドラル構内にペトロの家という高齢・病気の司祭の家ができました。三好神父さんもそこに入ることになっていました。でも彼はペトロの家の様子を見て不満を感じていました。ペトロの家は高齢や病気の司祭十数人が一緒に生活している場です。長い年月、それぞれの場でほとんどひとりで生活してきた司祭たちが共同生活する。一緒にミサをささげ、共に食事をする。それが不思議なくらい自然にスタートしていました。しかし、三好神父さんはそれだけでは不満だったのです。司祭だけの共同体というのが彼には納得できなかったのです。そこで働いているスタッフ(ほとんど女性)も一緒になっていろいろ相談しながら共同体を作る、それが本当に教会のあるべき姿で、ペトロの家はそういう教会的な共同体であるべきだ、と三好神父さんは強くおっしゃいました。分からないでもないのですが、でも現実にはそう簡単でもなかったのです。わたしはペトロの家の責任者としても三好神父さんの期待にうまく応えられませんでした。

今、思い返してみると、この2つのことは三好神父さんの、実に三好神父さんらしい期待だったと思います。司祭とは組織の運営・管理をするようなものではなく、さまざまな問題や苦しみを抱えた人に寄り添って生きることではないか。それより大切なことがあるのか、と彼はわたしに問いかけてくれていたと思います。ペトロの家のことも、教会とは司祭が中心なのではなく、すべての人、特に弱いメンバーをこそ大切にする集まりであって、そのあたたかい人と人との交わりこそがわたしたちが目指すべきものではないか。それもわたしにとって、大きな問いかけとして残っています。

三好神父さんは、そういう生き方をずっと貫いてきた方だと思います。本当に多くの人、悩みや悲しみや弱さを抱えた人が三好神父さんの周りに集まってきましたし、そういう方々のもとにご自分から出かけていきました。神父さんはその一人一人を本当に大切にしておられました。

ご本人はいつも、自分はダメな神父だというようなことをおっしゃっていましたが、本当に司祭らしい司祭だったと思います。先ほど読まれた福音の中に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という有名な言葉がありました。イエスが一粒の麦粒として地に落ちて死に、そこからもっと大きな豊かないのちが生まれるということを表す言葉です。麦粒は自分の殻を守ろうとせず、殻を壊して他のものとつながってこそ、豊かないのちへと育ちます。三好神父さんは、ある意味で司祭と言う殻を壊してまで、人とのつながりを生きようとしたところがありました。それはキリストの弟子として、司祭として、むしろ、ほんとうに弟子らしい、司祭らしい生き方だったのではないでしょうか。

もちろん人間的な弱さや欠点もあったと思いますが、今、神様のもとへ行き、神様のゆるしの恵みが注がれるように信頼して祈ります。三好神父さんは最後の最後まで心臓と肺がボロボロになるまで、病院のベッドで頑張りとおしました。わたしはあまりお見舞いすることができませんでしたが、片山病院でも、順天堂の高齢者医療センターでも、本当に最後まで訪れた人を大切にし、頑張りぬいていたと感じました。ですから、今はもう神様のもとでゆっくりお休みください、と心から申し上げたいと思います。

でも、三好神父さんを頼りにしていた人はたくさんいて、その方々にとって、本当に大切な支えを失ってしまったことも強く痛く感じています。

わたしたちキリスト信者は、神がイエス・キリストを死者の中から立ち上がらせ、復活のいのちに導き入れてくださったと信じています。その神はわたしたちの身近な人の死に際してわたしたちに2つのことを約束してくださいます。

 1つは亡くなった人と残されたわたしたちとの絆は完全に断ち切られてしまうのではないということです。目に見えない形で、残されたわたしたちは心の中でずっと三好神父さんとつながっている、ある意味で生きているとき以上に三好神父さんは身近にいてくれる。三好神父さんは神様のもとでいつもわたしたちを見守っていてくれているということがわたしたちへの約束です。

もう1つは、いつか神様のもとで再会できること。そこで、三好神父さんがいつも願っていた、本当に温かい人と人とのつながりが完成すること。

この約束に信頼しながら、残されたわたしたちが互いに支え合い、助け合いながら歩んでいけますように、わたしたちの教会がほんとうに温かい、人と人との心が通い合う共同体になりますよう、この葬儀ミサをとおして祈りたいと思います。




復活節第4主日(世界召命祈願の日)説教

2012年4月29日 東京カテドラル関口教会にて

ご存じのように日本では司祭・修道者の召命が減少しています。ヨーロッパ・北アメリカの先進国でも同じように召命は減少しています。しかし、全世界的に見れば司祭・修道者の召命が減少しているとは言えません。アジアやアフリカでは司祭になりたい、修道者になりたいという若者がおおぜいいて、神学生は増えています。

実は日本もかつて司祭・修道者の召命が非常に多い国でした。50-60年前のことです。そのことは東京教区のペトロの家や比較的大きな女子修道院に行けばよく感じられます。今80-90歳代の司祭・修道者は大勢います。日本の司祭・修道者の召命は1960年代から減っていきましたが、最近では、長崎の召命の減少が目立ちます。長い迫害・禁教の歴史を生き抜いてきたキリシタンの末裔たちは信仰に燃え、明治以降、多くの司祭・修道者を生み出してきました。しかし、最近、その数は激減しています。

近年、召命の多い国として思い浮かぶのは、アジアで言えば韓国、ヨーロッパで言えばポーランドでしょう。どちらも1970-80年代の独裁政治の時代に、カトリック教会は民主化運動を支え、人間を守り尊重する姿勢を貫き、人々の心に大きな影響力を持ちました。そこでは多くの若者が神と人々に奉仕する道として司祭・修道者の道を選びました。今もこれらの国では召命が多くあります。と同時に言わなければならないことは、韓国やポーランドでも一時期ほどには召命が多くなくなってきているということです。

これらのことをわたしたちはどう考えたらよいのでしょうか。

貧しさの中で、迫害や人権抑圧の中で、人々は必死に神を求め、救いを求め、その求める心にカトリック教会が本気で答えたとき、その教会に人生をかけようとする若者がおおぜい出てくるということではないでしょうか。逆に、自由と経済的な豊かさの中で教会は、本当に生き生きとした活動とメッセージを示し続けることができていないということではないでしょうか。召命ということを考えるときに本当に問われるのは、今この時代、この社会の中で、わたしたちがどのようにキリスト教信仰を生きているか、カトリック信仰を生きているかということではないかと思います。

教皇ベネディクト16世は、今年10月11日から来年の11月24日までを「信仰年」とすると発表しました。それは、ヨーロッパの教会の危機感の表れでしょう。本当にわたしたちの国を含めて、経済的に発展した国で、信仰は危機に瀕していると言わざるをえません。

キリスト教信仰が直面している現代の状況はいくつかのことによって特徴づけられます。

1つは「情報の氾濫」ということ。かつて子どもたちは両親や祖父母、それに学校の先生の教えによって大切なことを学んできました。教会では司祭やシスターが子どもたちを教えてきました。しかし、今の子どもたちはそれ以外の膨大な情報に晒されています。テレビなどのマスメディアやインターネットの情報は、親や教会から受け取る情報の何百倍もあり、カトリック信仰のメッセージを相対的なものにしてしまっています。

もう1つは「消費社会」。「いかに美しく、快適で、便利なものを手に入れるか、そこに幸せがある」、この価値観はものすごい力を持っています。わたしたちキリスト信者もそこから逃れることはできないように感じられます。その中で、どうやってキリスト者として生きる生き方の魅力、司祭・修道者の生き方の魅力を伝えることができるか?大問題ですね。

さらに言えば「お金の力」。「結局、世界を動かしているのはお金の力なのだ、誰もそれに逆らうことはできない」。そう感じさせられる世界があります。そこで神の力、信仰の力を見いだすのは難しいのです。

どうにもならないような大きな力がわたしたちの信仰の力をそぎ落としていくような時代なのではないでしょうか。だれもそれに抵抗できない?

昨年3月11日、東日本大震災が起こりました。1万9千人の人がいのちを失い、何十万という人が家族を失い、わが家を失い、仕事を失い、大切な人間関係を失いました。その中で必死に生きている人々がいます。わたしたち日本のカトリック教会は何とか被災者の方々の痛みや苦しみを分かち合いながら、一緒に歩んでいきたいと願っています。震災と原発事故はわたしたちの考えと生き方、さらに信仰のあり方を根本から問い直すものだったのではないかとわたしは思っています。

人間にとって生きるとはどういうことなのか。死の現実に向き合いながら、それでもいのちを大切にして生きるとはどういうことなのか。何がギリギリのところで人間を支えるものなのか、何が人間にとって本当に大切なことなのか。どこにわたしたちの本物の希望があるのか。無限に経済を発展させ、無限に豊かさを追求し、無限にエネルギーを消費し、無限に寿命を延ばしていくというようなこととは違う、もっと大切な生き方とは何なのか。それが本当に問われたと思いますし、今も問われ続けているのだと思います。

目先の損得に振り回されて、福島の現実から目をそむけ、原発を再稼働させようという政治や経済界の力が働いています。その中で人と人とが分断されていきます。被災地とそうでない地方が分断され、隣り合う市町村同士が分断されていきます。本当にそんな目先の利害ではなく、神の前に謙虚になって、何を大切して生きるべきなのか、今問われていますし、その中で信仰の持つ意味が、キリスト信者・教会の役割が大切だと思っています。

わたしは先週5日間、福島に行ってきました。いろいろな人と会い、いろいろな現実を見ました。被災地の現実は厳しいし、特に原発事故の影響をまともに受けている福島の現実は厳しいです。きのうわたしたちが参加した仮設住宅での活動に、地元の県立高校の生徒や福島市のカトリック学校の学生がボランティアとして参加していました。学校の休みを使って、仮設住宅を訪問し、被災したお年寄りを少しでも励ましたいと行動している彼らの姿の中に、希望を見いだすことができるように感じました。

多くの若者たちが人間の現実、特に厳しい状況に置かれた人間の現実を見つめ、その中で自分の人生の意味と召命を見いだしていけますように、祈りたいと思います。わたしたちの教会が、若者たちにそのような出会いと体験の場を提供できるようになりますように。そういう中から神と人々のために自分の生涯をささげる若者がおおぜい現れることを願いながら、今日のこのミサをささげたいと思います。




古郡忠夫助祭叙階式の説教

2012年3月25日 潮見教会にて

四旬節第5主日 ヨハネ12・20-33

古郡さんはこれから助祭になります。助祭は英語ではdeacon。これはギリシア語の「ディアコノスdiakonos」という言葉から来ています。ディアコノスの本来の意味は「食卓で給仕する人」「仕える人」「奉仕者」でした。「助祭」という日本語は祭りの中で助ける人、という感じで典礼の中での役割が強調されてしまいますが、本来はそうではありません。使徒言行録6章にステファノやフィリポたち7人の奉仕者が立てられる話があります。この人たちは最初の助祭とも言われていますが、彼らの務めは何よりもまず共同体の中の貧しいメンバーに配慮し、貧しい人の世話をすることでした。古代の教会では助祭の活躍が目立っていましたが、それは特に病人や貧しい人に対する教会共同体の愛と奉仕を助祭が身をもって生きていたからです。キリスト教共同体の姿を目に見える形であらわすのがミサ・典礼です。助祭は、共同体の中で人々の世話をしていたからこそ、典礼の中でも説教という形で人々の信仰を励まし、主の食卓を整え、聖体を配るという奉仕の務めが与えられているのです。大切なのは、助祭になったからミサの中で何ができるようになったか、じゃないんですね。本当に日々、奉仕者として生きることが助祭の使命です。

さて、きょうの聖書朗読は叙階式のための特別な箇所ではなく、四旬節第5主日の箇所です。しかし、ヨハネの福音朗読の中に、この「ディアコノス」という言葉が出てきました。26節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」この「仕える者」がディアコノスです。「わたしに仕える者」と訳されている箇所は、直訳では「わたしのディアコノス」となります。この文脈では、確かに「わたし(イエス)に仕える者」という意味ですが、同時にそれは「わたしに従う者であり、わたしとともにいる者」とも言われていますから、イエスと共に仕える者という意味でもあると思います。

古郡さんは今日から助祭=ディアコノス=奉仕者になります。単に便利な奉仕者というのではありません。イエスが仕える者であったように、仕える者になる。これが教会のディアコノスの本質的なことです。

マルコ10章に有名なイエスの言葉があります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

イエスはどのように仕えたのでしょうか。イエスは確かにパンを裂いて飢えに苦しむ人々に配りました。病気の人の手をとって立ち上がらせました。見捨てられていた人に近づき、神がその人を大切なかけがえのない人として愛してくださっていることを伝えていきました。でもイエスの究極の奉仕は十字架でご自分のすべてを人々の救いのためにささげることでした。今日の福音でいえば、「一粒の麦」として地に落ちて死ぬことでした。

そんなことができますか? もちろん助祭叙階を受けたらみんな命を捨てなければならないということではありません。しかし、今日の福音でイエスは「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と言われます。最終的に十字架に至るまでイエスに従っていく覚悟をもって、日々を生きること、これがわたしたち教会の奉仕者に求められていることです。

最初の助祭であり、最初のキリスト教殉教者であるステファノはまさにそのような「仕える者」として生涯をまっとうしました。人々に取り囲まれ、石を投げつけられてステファノは死んでいきました。その最後の言葉は印象的です。

「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」

イエスを愛し、イエスを見つめ、イエスと共に神への信頼を貫き、イエスと共にすべての人を愛する。これがわたしたち教会の奉仕者に求められることです。たいへんなことです。でも、きょうの福音には本当に大きな約束の言葉があります。

「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」

古郡忠夫さん、この約束に信頼しながら、「イエスの助祭=わたしのディアコノス」として歩んでいってください。




大西勇史助祭叙階式の説教

2012年3月18日 高円寺教会にて

四旬節第4主日 ヨハネ3・14-21

これから大西勇史さんが助祭に叙階されます。これは、大西勇史という一人の人間が、いろいろ悩み、迷い、考えながら神学生として6年間歩んできて、今日ここで決定的に、神と人々への奉仕のために、自分のすべてを差し出して、「神様、どうぞわたしを使ってください」ということであり、教会が6年かけてその決意を見極め、「はい、お前の決意を受け入れる。お前を教会の奉仕者として正式に認め、派遣する」ということです。大げさです。それくらい大げさなことです。大西さんはそのことをよくわかっていると思います。

大西さん、あなたは今日から助祭と呼ばれます。助祭になるということは、ものすごく簡単に言ってしまうと、教会という看板を背負って歩くことです。大西助祭を見た人が「カトリック教会とはこういうものなんだ」と分かる、そういう看板を背負って歩く。これが助祭叙階です。これまでの大西さんの人間としての評判がどうであったか、良い点はこれで、欠点はこれで・・・そんな人間的な問題ではないのです。信者に対しても、信者でない人に対しても、あなたの言動がカトリック教会を表すものになる。1日24時間、1年365日、一生、その看板を外すことはできない。これが叙階ということの意味です。

教会の使命は3つのことだと言われます。「福音を告げること」「共に賛美と感謝をささげること」「愛を生きること」信徒も司祭も修道者も、それぞれがこの3つの使命をそれぞれの仕方で果たしながら、教会全体が神から与えられた使命を生きることになります。助祭は特別な仕方でその教会の使命にあずかります。

「福音を告げること」が第1の使命。目に見えるのは、助祭がミサの中で福音書の朗読をし、また説教をすることです。朗読台の上でそれをするのはそんなに難しいことではありません。でも日々出会う人々との間で、福音を告げる道具になる。それはとても難しいことですね。特に今のような世俗化された世界では難しいと思います。神様抜きで人間の力ですべてをしようとしていく世界。お金をうまくまわし、技術をうまく使い、何でも手に入れようとする。モノやお金があれば幸せ。それが当たり前の世界です。その世界の中で、そんなのではない、ほんとうの喜びといのちの世界を伝えること。神と共に生き、人と人とが愛をもって生きる、そこにあるいのち。信仰と希望と愛によって生きるいのち。その素晴らしさを伝えること、それが本当に福音を伝えるということです。大西さんは去年、震災の被災地に行って、すべてを失った方々と出会ったでしょう。持っていたすべてのものを津波で奪われ、希望のかけらも見いだせないような人々の中で、その方々のためにわたしたちに何ができるか、考えたでしょう。それは被災地だけの話ではありません。イエス・キリストの希望の福音を知らず、でもだからこそそれを必要としている人は日本中にいるし、東京にも大勢いるのです。どうしたら本当にその人々に福音を伝えることができるか、生涯かけて探し求めてください。

 

第2の使命は「共に賛美と感謝をささげること」。ここにも助祭固有の役割があります。ミサの中で助祭はさまざまな奉仕をします。食卓をととのえ、司式司祭を助け、聖体を他の信者に分かち合う奉仕をします。必要に応じて、葬儀を司式し、結婚式に立ち会い、荘厳に洗礼を授けます。これも大きな役割です。その奉仕の根本で要求されることは、自分自身が本当に祈る人であることです。今日の助祭叙階のときに、教会の祈りを忠実に唱える約束をします。毎日、たくさんの詩編を唱えなければならないのですから、たいへんです。でも、それはみんなを代表して唱えるのだということを忘れないでください。全人類が神に賛美と感謝をささげるその代表として祈ることが助祭・司祭にはゆだねられているのです。そして、そういう祈りの人だからこそ、助祭に「共に賛美と感謝をささげる」教会の使命の中で、典礼を行なう中での大きな役割が与えられるのです。

第3の使命は「愛を生きること」です。これこそ助祭職の特徴であると言えます。初代教会でステファノ、フィリポという7人の奉仕者が立てられたのは、そもそも、教会の貧しい人に対する配慮のためでした。貧しい人を助け、病気の人を見舞い、病気の人に聖体のイエスをお届けする。これが伝統的にもっとも大切にされてきた助祭の務めです。

この愛の奉仕の中で「独身」であることの意味を深めていってください。助祭が独身でなければならないとキリストが定めたわけではありません。実際、古代の教会でも現代の教会でも結婚している助祭がいます。でも大西さんは独身の助祭職を選びました。教会は司祭・助祭の独身であることを「司牧的愛のしるし」だと言います。本当にすべての人を愛するため、特に苦しみを抱えている人、本当につらい思いをしている人に寄り添うためにこそ、独身であるということ。そのことも一生かけて考え、深めていってください。

最後にほんとうに人とのつながりを大切にしてください。

神学生仲間。助祭仲間。司祭仲間。ほんとうに支え合えるように。

信者とのつながり。信者じゃない人とのつながり。誰かを支えたいと思って、逆に支えられるという体験を今までもしてきたでしょうし、これからも大切にしてください。

そして多くの人があなたのために祈っていてくれることを決して忘れないでください。




森一幸助祭叙階式の説教

2012年3月4日 荻窪教会にて

(四旬節第2主日 マルコ9・2-10

森一幸さんは5年間の神学院での養成を経て、今日、助祭に叙階されようとしています。古代からの伝統に従って、教会には司教、司祭、助祭という3つの奉仕職がありますが、その中で最初に受けるのが助祭職です。助祭はギリシア語の「diakonos」の訳ですが、今の日本語訳聖書では「奉仕者」と訳されています。目に見えやすいのはミサ・典礼の中での役割ですが、古代の教会の実践から見れば、特に貧しい人々や病人への奉仕者でした。貧しい人に必要なものを分け与えたり、病人を見舞い力づけるというのが助祭の役割だったのです。それは物質的な奉仕の働き、身体的な奉仕の働きに見えるかもしれません。もちろんそういう面もあります。しかし、本当はそれが一番大切なことではないのではないかと思います。

昨年秋、大震災の被災地の1つである釜石というところに行きました。その町にあるカトリック釜石教会がボランティアのベースになっていました。釜石教会は1階まで津波の水が入ってきた教会です。つまり周りに住む人々は皆、被災者という教会で、震災直後から被災者救援のさまざまな働きをしてきました。水や食料ほかさまざまな物資を配り、周囲の人々がお茶を飲みながらゆっくりと話をできる場を提供し、本当によい働きをしています。でもわたしが訪問したとき、その釜石ベースのスタッフの1人はこう言いました。「わたしたちはモノや場所の提供はしてきました。でも本当にしたいことは、津波で何もかも失って、生きる希望と力を見失っている方々に、私が受けたあのイエスの希望の福音を伝えることなんです」わたしはその言葉に深く共感しました。

震災ボランティアはもちろん宗教を宣伝するためにするのではありませんし、それはしてはいけないことです。カトリック教会のボランティアが信頼されているのは、宗教の勧誘をしないからです。

でも一方でただ単に物質的な、心理的なお世話をするだけで本当によいのか、という面もあると思います。ただ人に親切にするのが信仰者の役割でしょうか。むしろ、どんな絶望的な状況の中にも希望があるということを伝えるのが本当の信仰者の役割なのではないでしょうか。難しいです。どうやって伝えるか。それは地震や津波のときだけの問題ではないと思います。

まず第一に自分自身がその希望を生きる人になること。どういうことでしょうか。苦しみを避けるのではなく、むしろ進んで人々ために苦しみを引き受けること。打算で物事を見たり、行なったりするのではなく、本当に神と人のために、自分のすべてをささげること。なぜそんなことができますか?どうしたらできますか?それは神に希望を置くからです。何があっても神はわたしたちを決して見捨てないと信じ、だから希望を持つのです。

そして、次に人々のために祈ること。実際、わたしたちが出会う貧しい人や病人の現実は厳しいものがあります。なんとかしてあげたいと思っても、どうにもならないことがあります。だからってその時に合理的な説明をつけて、自分を正当化するのではなく、その苦しみに寄り添いながら、それでもその人々を神にゆだねて祈るのです。この祈りは必ず通じます。

そして最後に、希望について語ることです。ペトロの第一の手紙の中にある有名な言葉を思い出してください。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(Ⅰペトロ3・15)難しい神学の言葉ではなく、本当に心に届く言葉で希望を語ることができるように、これは生涯かけてわたしたち教会の奉仕者が求め続けるべきことです。

森さんはとてもいい人。みんなそう思っています。誠実だし、人のために働くし、でも、それだけでは足りない。いったいどうやって、キリスト教の希望を伝えることができるのか。

今の社会で本当にわたしたち信仰者が示していかなければならないのは、「本物の希望」ではないかと思います。科学技術や経済活動がもたらす希望があります。あらゆる病気や老いが克服されて人間は無限に生き続けるのだ、これが本当の希望でしょうか? 経済は無限に発展し、エネルギーは無限に手に入れることができる、これが本物の希望でしょうか? そうじゃないことに現代の人々は気づき始めています。どうにもならない限界が人間にはある。だから結局のところ絶望しかない、というのではなく、それでも希望がある。そう信じて生きるのが信仰者の生き方です、そのすべての根拠は、わたしたちのいのちを生かしてくださる神がいる。その神はどんなときにも決してわたしたちを見捨てない、ということです。

今日の福音の場面はそのことを感じさせます。イエスが受難の道、十字架への道を歩み始めたときにこの出来事が起こりました。この中で、十字架の道も神の子としての道であることが天からの声によって示されます。表面的には神に見捨てられるように見える道、でも本当は神と共に歩む道であり、神はこの十字架の道を歩み続けるイエスを決して見捨てることなく、最終的に、この山の上で示されたように、ご自分の栄光にあずからせてくださる。このイエスの死と復活の中にこそ、わたしたち皆の希望があります。

このような希望を見いだせなく、闇の中にいる人々がわたしたちの周りにはおおぜいいます。神は今日、森一幸助祭をその人々のために選び、聖霊によって強め、派遣されるのです。ここに立ち会っているわたしたちはその神のみわざの証人です。この神のみわざに信頼し、この神のみわざが本当にわたしたちの中に力強く実現することを願いながら、心を合わせて祈りましょう。




東京教区年始の集いミサ(マルコ1・7-11)説教

2012年1月9日 東京カテドラルにて

昨日、主の公現を祝ったばかりですが、今日はそれから30年ほど飛んで、主の洗礼の出来事を記念しています。洗礼の元のギリシア語は「バプティスマ」と言います。この言葉に本来は「洗う」という意味はなくて、水の中に「沈める」ことを表す言葉です。イエスは「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とありますが、直訳すると「ヨハネによってヨルダン川の中に沈められた」となります。実際、ヨハネの洗礼も、キリスト教の古代の洗礼も、額に水を注ぐのではなく、人の全身を水の中に沈める形で行われていました。それが意味していたのは「死と再生」ということでした。洗礼を死のイメージで語る典型的な箇所は、ローマ人への手紙の6章です。

「3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

洗礼のイメージは、水の中に沈み、いったん死んで、水から立ち上がる、すなわち、新しいいのちに生きる。キリスト教の洗礼はイエスと共に古い自分に死んで、イエスとともに新しいいのちに生きることを表すものです。洗礼者ヨハネの洗礼は、回心して、罪の自分に死んで、新しい生き方を始めることを意味していました。だから洗礼者ヨハネはイエスが自分のもとに来て、洗礼を受けようとしたのを見て驚くのですね。しかし、イエスは悔い改めるすべての人と連帯して、「罪のゆるしのための回心の洗礼」を受けられました。

さて、昨年の3月11日の東日本大震災の後の大津波。本当に悲惨な出来事でした。2万人の人を海の水が飲み込んでしまいました。

この津波と洗礼のイメージを重ね合わせてみるのがいいのかどうか、自信ありません。もしかしたら、すごく辛いものを感じてしまう方がいるかもしれません。しかし、10ヶ月が過ぎ、年が改まり、この苦難を経て新しいいのちへの希望を持とうとしているわたしたちは、この大津波と洗礼のイメージのつながりを大切にしてみてはどうかと思います。イエスは今日の福音の場面で水の中から立ち上がられ、聖霊に満たされ、神の子としての歩みを始められました。そのように被災者の皆さんが、そして被災者した方々に寄り添っていこうとするわたしたちが立ち上がって、神の子としての新しいいのちを力強く生きることができるようにと祈ります。イエスはわたしたちにともに立ち上がる力を与えてくださると信頼しながら、心を合わせて祈りたいと思います。

わたしたちは宗教者として、2万人の死者・行方不明者という現実を前にして、単に「不幸なこと。あってはならない、とんでもない悲しいことでしたね」というだけでは足りないと思います。「死をとおって新しいいのちへ」このメッセージをしっかりと心の中に持ちながら歩みたい。

正月にテレビを見ていたら、瀬戸内寂聴さんが被災地を回って説法している様子が伝えられていました。この方はもともと小説家でしたが、宗教の道に自分をかけようと思い、最初、カトリックのシスターになろうと思い、それが難しかったので天台宗の僧侶になった方ですね。彼女は津波で家族や親しい人を失った被災者たちに向かって、「人間は必ず死ぬんですよ。」というんです。そこからいのちの意味を考えようというんです。これをはっきりいえるのは宗教者だからですね。宗教者はこのことをはっきり言う務めがある。死の現実をしっかり見つめながら、それでも前向きに生きる力を与えるのが宗教の力です。人間にはどうしようもない限界がある。弱さがある。しかし、だからと言って人生は無意味なのではなく、わたしたちが死に直面するときも、わたしたちを導きつづける存在がある。わたしたちの人生に、人類の歴史に永遠の意味を与える方がおられる。わたしたちよりももっと大きな存在が、わたしたちのすべてを包んでいる。だから一瞬一瞬をこの神とのつながりの中に生きよう。だから絶望を超えて力強く歩んでいこう。そう呼びかけるのが宗教の役割なのです。

昨年はわたしなりに、被災地にかかわらせていただきました。特に福島との出会いはいろいろなことを考えさせられました。そして、今のこの時代、この状況だからこそ、宗教に大切な役割がある、と最近本気で考えています。

今年は第二バチカン公会議が始まって、50年という年です。教皇ベネディクト16世はこれを記念して、公会議が始まった10月11日から約1年間を「信仰年」とすることを宣言しました。「信仰」というテーマを抽象的に考えるのではなく、具体的に、この50年間、第二バチカン公会議の示した指針をわたしたちの教会がどう生きてきたのかを振り返る年にできたらよいと思います。50年前ってわたしは小学1年生でした。カトリック家庭ではないので、まったく関係ない世界で生きていた子どもでした。皆さんは? とにかく、今の教会のあり方をはっきりと方向づけたのが、第二バチカン公会議だったのです。
第二バチカン公会議が発表した最も重要な公文書の1つに『教会憲章』があります。この文書は欧米では”Lumen Gentium”と呼ばれています。「諸国民の光」という意味のラテン語です。この文書は「諸国民の光であるキリストは…」という文章から始まり、その最初の言葉が、全体のタイトルになっているんです。そしてこの”Lumen Gentium”「諸国民の光」という言葉に、『教会憲章』全体のテーマが示されているのです。つまり、2000年前に生きたイエス・キリストが真の意味で「諸国民の光」であったように、教会も救いの光、希望の光をもたらすものでありたい。20世紀の後半、教会は数十億の人類の中ある一部分でしかない、しかし、特別な使命を持った「神の民」だと自覚するようになりました。そして、この神の民である教会は、「すべての人の救いの道具として採用され、世の光、地の塩として全世界に派遣されている」(LG9)という意識を持つようになったのです。

でも、どうやって?どうやって、教会は人々にとっての光になれるのでしょうか。公会議が最後の発表した文書の1つが『現代世界憲章』でした。それはこういう言葉で始まります。

「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人や虐げられているすべての人の喜びと希望、悲しみと苦しみは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間に関することがらで、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない」

大震災以来、「絆、傾聴、共感、寄り添う」ということがよく言われます。そのほんとうに大切な姿勢が、この現代世界憲章の冒頭によく表れています。わたしたちの教会が大震災以来、被災者支援の活動に力を入れ、原発の問題にかかわろうとしているのも、それが生きている人間の現実の問題だからです。わたしたちキリスト者は日本社会の中で小さな存在ですが、本当に人間の現実に向き合うところから、キリストの光をもたらすものになりたいと願っているのです。

最後の一言。この『現代世界憲章』冒頭の言葉も、この文書全体のタイトルとしてよく知られています。”Gaudium et Spes” すなわち「喜びと希望」です。現実の世界にはいろいろ悲惨なことがあり、問題も山積しています。しかし、わたしたちはキリスト者として、この世界を暗闇だとみるのではなく、この世界に「喜びと希望」を見いだしていきたいのです。わたしたちの教会のこの一年が、本当の意味で、喜びと希望の光を輝かす年になれますように。アーメン。




合同追悼ミサ(ヨハネ6・37-40)説教

2011年11月6日 府中墓地聖堂にて

わたしは今年4人の兄弟をこの世から神様のもとに見送りました。3人はこの墓地に眠る東京教区の司祭です。2月9日に亡くなった粕谷甲一神父。87歳。3月24日に亡くなられたのはジョルジュ・ネラン神父。フランス人ですが長く東京教区の司祭として働きました。91歳。このお二人は、教区の病気や高齢の司祭の家「ペトロの家」でお付き合いさせていただきましたから、特別な思いがあります。8月8日には古川正弘神父。67歳。司祭としての良き先輩でした。もう一人はまったく個人的なことではありますが、実の兄を8月29日に亡くしました。古川神父さんと同じすい臓がんで、58歳でした。子どものころから仲の良かった兄弟でしたから、やはり大きな痛みがあります。

こうして親しい人たちを次々と見送りながら、最近感じているのは、やはり死はすべての終わりではないということです。「何を今更」と言われるかもしれません。キリスト者として当然の信仰だといえばそのとおりです。まして神父ですから、当然それを信じてきましたし、その信仰と希望を語ってもきました。でも、今年、特に、本当に肉体の死は滅びではなく、死をとおって、わたしたちは神のもとに行く、そのことを何か、深く、じんわりと感じるようになりました。もちろん、東日本大震災で、今も遺体の見つからない人を含め、2万人近い人が亡くなったということも、死といのちについて改めて深く考える契機になっています。

わたしたちキリスト者は肉体の死がすべての終わりではないと信じています。なぜでしょうか。神がわたしたちのいのちを生かしてくださっていると信じているからです。わたしたちにいのちを与え、日々生かしてくださる神の大きな愛を信じるからです。その神は、ご自分の独り子をこの世に与え、しかも十字架の死に至るまで与えつくし、神によって生かされるいのちが死にも打ち勝つということを示してくださったからです。そして死を超えたキリストのそのいのちをわたしたちにも与えてくださると約束してくださったからです。目に見えるものは終わります。手で触れたり、耳で聞いたりするものはいつか終わりが来ます。しかし、神の愛はどんなことがあってもなくなりません。神の愛は、わたしたちを、死をも超えて生かし続けるのです。その信仰を今日、新たにしたいと思います。

わたしたちの周りには、この神の愛を知らない人が大勢います。肉体の死ですべてが終わってしまうと考えている人がいます。だから喜びと苦しみを天秤にかけて、苦しみのほうが多ければ生きている意味などないと感じている人が少なくないのです。もし、人生が神の永遠の世界とつながっていなくて、そこから意味を与えられるのでなければ、「人生はいかにラクして楽しく生きるかだ」というむなしい世界になってしまうのではないでしょうか。

わたしたちはそうじゃないと信じます。すべての人は神の愛によって生かされている、だからどんな人生も意味があるし、どんな苦しみも何かの意味がある。どんな状況であっても、神に信頼し、人を愛して生きようとすることには意味がある。そしてどんな人のどんな死にも意味がある。わたしたちはそう信じ、宣言します。

これが死を前にしてのわたしたちの確信であり、希望です。

お墓は亡くなった人が静かに眠る場だと考えられています。まあ、そう言えないこともないと思いますが、それだけでは足りないでしょう。キリストが墓から復活されたように、ここが最終的な到達点ではなく、ここから神のもとに行く、という通過点なのです。神のいのちと愛に包まれるのを待つ場だと言ってもいいでしょう。ここから復活のいのちに、永遠のいのちに旅立つ出発点だとも言えるでしょう。そしてまた、お墓は生きているわたしたちが亡くなった人を思い起こす場です。亡くなった人と生きているわたしたちの絆が今も亡くなっていないことを思い起こす場です。先祖、家族、親しかった人との絆は、死によって断ち切られてしまったのではない。目に見えない形でその絆は続いていているし、いつか神様のもとでその絆は完成する。そのことを思い起こすのがお墓です。

どうか皆様、きょうのミサの中で、お墓参りの中で、この信仰を新たにし、日々わたしたちが神の愛によって生かされているという喜びを深く味わうようにしていただきたいと思います。




年間第24主日(マタイ18・21-35)一粒会総会でのミサの説教

2011年9月11日 麹町教会にて

今日の福音はゆるしがテーマです。主の祈りの中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という願いの解説のようなたとえ話です。たとえ話の伝えたいことははっきりしています。わたしたちがゆるし合うべきなのはそもそも神が計り知れない大きなゆるしをわたしたちに与えてくださっているからであり、その神のゆるしに気づいたら、人間同士はゆるしあうのが当然だ、ということです。主の祈りの、あの部分を唱えるときにいつも思い浮かべたいたとえ話です。

本当に大きな神の愛が先にわたしたち注がれている。わたしたちはそう信じています。そしてだからこそ悲惨な出来事にあうとき、どう受け止めたらよいか、本当に戸惑います。大きな自然災害や事故、さらに悲惨なテロにあったとき「なぜ?」とわたしたちは問います。しかし、答はありません。キリスト教は理不尽な出来事を合理的に説明することはできません。

ただ、わたしたちが知っているのは、イエスご自身がいわれのない罪を着せられ、不当な苦しみを受け、それに耐え、まったく見捨てられて死んでいったあの十字架の姿です。そしてだから「なぜ?」というわたしたちの問いはあのイエスの十字架の問いにつながっていると信じるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

本当にイエスはわたしたちの苦しみをともに担い、わたしたちの死をともに死んでくださった。これがわたしたちキリスト者の信仰です。そしてイエスの苦しみがただの苦しみで終わらなかったように、わたしたちの苦しみもただの苦しみで終わらない。イエスの死が死で終わらなかったように、わたしたちの死も決して死で終わるものではない。

あらゆる苦しみを超えて、どんな悲惨な死をも超えて、神は決してわたしたちを見捨てない。いのちの主である神はわたしたちに永遠の命の喜びをもたらしてくださる。それがわたしたちの信仰です。だからわたしたちは希望を失いません。だからわたしたちはどんなときも、信仰と希望を愛をもって生きようとします。今ここでわたしたちにできることを精一杯していこうとするのです。

仙台教区は震災直後の3月16日に仙台教区サポートセンターを立ち上げ、被災者のための活動を始めました。教会の復興のための活動ではなく、教会が主体となって一般の被災者のために働いていこうとしました。この半年で、サポートセンターが運営している4つのボランティアベースには延べ2,500人ものボランティアが働いてきました。仙台教区サポートセンターは被災現場では「カリタス」の名前で活動していますが、この「カリタス」の名前は被災地の中で知られ、信頼されるようになってきました。もう1つ、仙台教区では郡山、福島、仙台、盛岡を結ぶ内陸部の教会(大きな都市の大きな教会)が、被災地である太平洋沿岸の教会を支援するという方針も立てています。

この2つの点は、今日付で出された仙台の平賀司教様のメッセージの中でも確認されています。これまでの半年を第1期、そしてこれから1年半を第2期として、この活動を続けていくとのことです。仙台教区サポートセンターは釜石、南三陸、石巻、塩釜を中心に活動してきました。また早い時期から、宮古には札幌教区から、いわきには埼玉教区からのボランティアも入って活動しています。今後はそれ以外の地域でも、日本全国の教会から支援をしていこうということになり、東京教会管区は宮城県南部から福島県での活動を模索することになりました。

福島第一原発から北へ24.5キロ、南相馬市にカトリック原町教会があります。地震で教会の建物はかなりの被害を受けました。ここは緊急時避難準備区域というところに指定されていて、特に若い人や子どもは放射線の影響が心配なため、町を出た人が少なくありません。教会の幼稚園は未だに再開の目処が立たないでいます。信徒もずいぶん減ってしまいました。もともと司祭は住んでいなくて、仙台から通ってきた司祭がミサをしていました。震災以前は日曜日に20人ぐらい集まっていたのですが、今は10人ぐらい。その原町教会に仙台教区は一人の司祭を派遣することにしました。梅津神父様です。仙台教区の司教総代理で、小教区を担当していなかったのでこの神父が原町に住むことになったようです。それは被災者とともに教会があることのしるしなのです。

わたしはその話を聞いて、ダミアン神父のことを思い出しました。昔見た「ダミアン神父」という芝居の中で心に残ったシーンがあります。ハワイのモロカイ島に隔離されていたハンセン病者に出会ったダミアンは、その島に住むことを希望しますが、上長はそれに反対します。その時、ダミアンはこう言うのです。「神があの人たちを見捨てていないしるしとして、一人の神父があそこに住むことがどうしても必要なんです」。その確信を持って、ダミアンはモロカイ島に移り住み、みずからもハンセン病になり、そこで生涯を終えました。梅津神父さんは、そんな悲壮な感じではなくて、いつもニコニコしている穏やかな神父様ですが、心の内にはそういう覚悟を秘めておられると思います。原発30キロ圏内になぜか一つの小さなカトリック教会があり、そこに今だからこそ神父がいなければならない。それは神がこの地の人々を決して見捨てていないあかしなのだ・・・。

司祭とはそういうものだとわたしは思います。普段はそんなに特別な形ではないかもしれない。でもいろいろな苦しみ、不安を抱えている人、病気の人、虐げられている人、孤独な人、家族を失った人・・・。そういう人に寄り添って生き、「それでも神はあなたを決して見捨てない、あなたとともに神がいてくださる」自分の存在をとおしてそのことを伝えるのが司祭、特に教区司祭の使命だと思います。一粒会の皆さん、そういう司祭がたくさん生まれるようにこれからもお祈りください。そしてそういう司祭職を目指す神学生を支えてください。

さて、わたしは7月に梅津神父様と原町教会でお会いしました。原町教会の周辺を案内してくださり、いろいろお話をうかがいました。「東京の人間にできることはあるでしょうか」とお尋ねすると「ミサに来てください」という答えでした。若い人が流出していく中での取り残された感じ。本当にここに住んでいていいのか、という不安。その中で一緒にいる、寄り添うことが司祭の使命、教会の使命だと感じておられるようでした。そしてもし皆さんもできればミサに来て一緒に祈ってほしい、ひとときでもここに一緒にいてほしい、そういう意味に聞こえました。

現実に行こうと思ったら結構大変です。新幹線で福島まで行って、そこからバスだと2時間以上かかります。行くのが無理でも、どうか心で寄り添っていただければと思います。福島県の農産物を買うという支援の仕方もあります。東京に避難してきている人もたいへんな状況があります。どうか心で寄り添って、祈りの中でつながっていけますように。そういう思いで今日のミサをささげましょう。




司祭パウロ古川正弘(1943.10.25-2011.8.8)通夜説教

2011年8月11日 高輪教会にて

ヨハネ14・1-6「わたしは道であり、真理であり、命である」

古川正弘神父さんは今年6月の聖ペトロ聖パウロの祝いの集まり・東京教区に住むすべての司祭、男子修道者の集まりに参加するために、カテドラルに来ていらっしゃいました。ずいぶんやせておられましたが、「どうですか」と聞くと、「まあ、できるところまではなんとかやるよ。でもXデーはいつか来るからね。よろしく」とおっしゃいました。もうそんなに長くないと感じておられたのでしょうか。それが6月27日のことでした。その次の日曜日、7月3日(日)には8時と10時のミサをささげられたそうですが、具合が悪く、説教はできなかったそうです。そして5日に入院し、いったん退院しましたが、7月29日に再入院。それから徐々に弱られて、8月8日(月)午前5時22分入院先の国際医療福祉大学三田病院において帰天されました。67歳でした。

6年前に舌ガンが分かってからずっとガンと戦いながら、宣教司牧の務めを果たしてきて、最後まで力を振り絞り、司祭としての生涯をまっとうされました。

わたしは20年ほど前から古川神父様にはたいへんお世話になりました。司祭になって4年目でわたしは日野市の高幡教会を一人で担当することになりましたが、本当に経験不足で未熟な司祭だったわたしは、となりの立川教会の主任司祭であった古川神父さんにいろいろと相談し、教えてもらいました。おいしい酒とおいしい食べ物をご馳走してもらいながら、いろいろな話を聞かせてくださいました。皆さんよくご存知ですが、古川神父さんは東京下町の人で、表現はぶっきらぼうだったり、テレで悪者ぶったりするところもありましたが、根はすごく真面目な人でした。今でもよく思い出すのが、当時日野のラサール会の修道院で行われていた多摩地域の司祭の集まりです。当時の多摩地域の司祭たちは毎週集まって、一緒に聖書を読み、それからいろいろな相談をし、昼食を一緒に食べるということをしていました。その中心にいたのが古川神父さんでした。毎回、次の日曜日の福音書のギリシア語原文のテキストに手書きで文法的な解説と訳語をメモした細かいプリントをみんなのために作って来てくださいました。その聖書についての熱心さにわたしは大きな影響を受けました。もちろん、わたしは神学校でギリシア語の初級文法は習っていましたが、本当に毎週毎週のミサの福音をきちんと原文で読むことは古川神父さんから学んだことでした。

古川正弘神父様は1943年10月25日のお生まれで、洗礼は1958年4月5日、浅草教会で宮内神父様からお受けになっています。14歳です。そして、まっすぐに司祭職への道を志し、高校を卒業して神学院に入り、28歳で司祭に叙階されています。同時にこの時代は社会も教会も激動の時代でした。カトリック教会では1962年から第二バチカン公会議が始まりました。長い歴史と伝統を持つカトリック教会を現代社会に適応させることを目指した公会議では、古くからのカトリックの堅固なものが揺らいでいく面もありました。その中で古川神父さんもいろいろ考え、悩みながら、司祭としての道を探していたのだと思います。そして本当に頼りになるものとして、聖書のみことばを見いだし、それを大切にすることをとおして司祭として生き続ける道を見つけていったのだと思います。それは生涯、貫かれた生き方でした。

今、読みました聖書の言葉は最後の晩餐の席でのイエスの言葉です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」有名な言葉です。でも古川神父さんの生涯を思い返しながら、本当にそのイエスの言葉を噛みしめたいと思います。わたしたちの歩みはイエスが約束されたように父である神に向かう歩みです。イエスの歩みと同じように、決して肉体の死で終わる歩みではなく、道であるイエスの後をついて、イエスとともに、神である父のもとに向かってわたしたちは歩んでいる、それがわたしたちキリスト者の信仰であり希望です。

あの6月の集まりの時の古川神父さんの言葉、「やれるところまでなんとかやるよ」という言葉は、その後のことは、神様に全部ゆだねるということだったのでしょう。後は神にゆだねる、だからこそ、今は今で自分にできる精一杯をするのだ・・・。

古川神父様、あなたは今、信頼した聖書の言葉が実現し、神の約束が成就するのを味わっておられることでしょう。どうか父である神さまのもとで、永遠の救いの喜びのうちに安らかに憩われますように。

古川神父様、本当にお疲れさまでした。




平和旬間千葉地区合同ミサ 説教

2011年8月6日 五井教会にて

ローマ12・9-18、ヨハネ20・19-23

ずいぶん昔の話です。わたしはある教会に住んでいましたが、全国の司祭の会議のために教会を留守にしました。ところが、司祭館を一晩空けた翌朝、受付のシスターから電話があり、泥棒が入ったというのです。急いで教会に帰りました。盗られたものはほとんどなかったのですが、ドアが壊され、ロッカーが壊されていて、その被害がひどかったです。会議の場所はそれほど遠くなかったので、被害を確認してからすぐに会場に戻りました。わたしが被害の話をしていると、ある先輩司祭がこう言いました。

「鍵なんか掛けているからいけないんだ。俺のところは鍵なんかかけないけど、泥棒が入ったことないよ」

その先輩は地方の町の教会で働いていたんです。わたしは「東京じゃそうはいかない」と言いたかったんですけど、言いませんでした。神学生のときから尊敬していた先輩だったのです。それで、その先輩の言うことも確かにもっともかもしれないと思いました。このことはずっと心に残っています。

きょうの福音は、イエスが亡くなって三日目の出来事です。このとき、弟子たちは一生懸命自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。先生であるイエスが逮捕され、自分たちは逃げたけれど、イエスは苦しめられ、十字架で殺されてしまった。弟子の自分たちにもどんな災いが及ぶか分からない。なんとか安全を確保しようと思って、必死に鍵をかけて、閉じこもっているのです。これで誰も入ってくることができないはず。でも心の平和はないのです。心は恐れと不安でいっぱいなのですね。

そこへイエスが来ます。「あなたがたに平和があるように」弟子たちは主を見て、喜びました。そして弟子たちの心は平和で満たされていくのです。

これは物理的にイエスが鍵をかけたドアをすり抜けて入ってきたというのではないのです。むしろ、恐れと不安でガチガチになっていた弟子たちの心に復活したイエスが語りかけてくる。「恐れるな。わたしは生きていて、いつもあなた方とともにいる。だから何も恐れることはない。これがわたしの与える平和だ」そのイエスに気づいたときに、ほんとうの安心が、深いところで平和が、与えられたということではないでしょうか。

「セキュリティー」という言葉は、いつの間にか日本でもよく使われる言葉になりました。「安全、安全保障」の意味です。鍵をかけ、ガードマンを置いて、わたしたちは自分の家や教会を守ろうとします。軍隊を持ち、たくさんの兵器を配備してなんとか国の安全を守ろうとします。でもやはりそれはキリストの平和とは程遠いのではないか、このことはわたしたちキリスト者がいつも問い返さなければならないことです。

今年は、前教皇ヨハネ・パウロ2世が来日し、広島で「平和アピール」を語りかけてから30年になる年です。日本のカトリック教会はこの平和アピールにこたえて、特別に平和のために祈り、働くことを自分たちの使命として受け止め、翌年の1982年から毎年、平和旬間を行うようになりました。また司教団は、戦後50年たった1995年に「平和への決意」というメッセージを発表し、それから10年後の2005年には「非暴力による平和への道」というメッセージを発表しました。そのいずれもが、ヨハネ・パウロ2世教皇の広島での熱い呼びかけに答えるものでした。今年5月にヨハネ・パウロ2世が列福されましたので、日本の司教団は、もう一度この平和アピールを読み直そうと呼びかけています。教皇はその中で次のように語りました。

「正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないというかたい決意をしようではありませんか。人類同胞に向かって、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。暴力と憎しみにかえて、信頼と思いやりとを持とうではありませんか。」

正義と信頼と思いやり。これが本当にキリストの平和への道です。ヨハネ・パウロ2世教皇はそう確信していました。第二次世界大戦中のポーランドで青年時代を過ごしたヨハネ・パウロ2世は、戦争が命の破壊しかもたらさず、戦争は死そのものであることをいつも語り続けました。教皇として生きた時代にも多くの紛争があり、テロがありました。その中で教皇は一貫して、武力行使に反対し続けました。

「セキュリティー(安全保障)」という言葉に惑わされるのはもうやめましょう。「セキュリティー」の名のもとに膨大な数の核兵器が作られましたが、結局は人類に死と破滅しかもたらさないことを、国際社会ははっきりと意識するようになって来ました。「セキュリティー」の名のもとに武力行使が正当化されてきたことも、実は誤りだったと気づき始めています。

さらに言えば、「Atoms for Peace原子力の平和利用」と言われ、セキュリティーは万全だと言われた原子力発電所で大量の放射能漏れが起こり、今も10万人以上の人が自分の住んでいた家を離れて避難生活をしています。

わたしたちはこのミサで、キリストの平和を願います。本当にわたしたちが神の前に謙虚になれますように。孤立や無関心を乗り越えて人と人との絆を大切にすることができますように。自分とは違う国や民族、違う考えの人と相互に理解し合い、ゆるし合う心を持つことができますように。この祈りと願いをもって今日のミサをささげたいと思います。




復活節第4主日(世界召命祈願の日)ミサ説教

2011年5月15日 東京カテドラルにて

羊飼いであるイエスは羊の群れの先頭に立っていく。わたしたちキリスト者は皆、そのイエスの声を聞き、そのイエスについていきたいと願っています。このイメージは大切です。「召命vocation」という言葉はもともと「呼ぶ」という意味のラテン語から来ています。だから、イエスの呼びかけを聞いて、それに応えていくというのが、わたしたち皆の召命の根本にあるイメージです。

でも羊飼いというものは、本当に先頭を行く人なのでしょうか? そんな疑問をふと抱いたとき、キリシタン時代の一人の司祭のことを思い出しました。

中浦ジュリアン。2009年に列福された188人の日本の殉教者の中の一人です。彼は小神学生のとき、天正少年使節の一人としてローマに行きましたが、司祭になったのは1608年、38歳の時でした。小神学生になってから28年間もたっていました。そして司祭として働き始めますが、1614年1月、徳川幕府が全国的な禁教令を出し、司祭・修道者・主だったキリシタン信徒は国外追放ということになります。そのとき、中浦ジュリアンは、潜伏司祭に選ばれ、ひそかに日本に残ることになりました。そして島原半島の口之津の主任司祭に任命されました。しかし、彼がその任地に着く前、1614年11月に口之津で大きなキリシタン弾圧事件がありました。64人のキリシタン信徒が殉教しました。その場に中浦ジュリアンはいなかったのです。信者たちとともに苦しみを体験しませんでした。そのことで彼は苦しんだことでしょう。そしてこう書いています。「わたしは口之津の信者たちの後について、司祭生活を送ろうと決心しています」先頭じゃなく、後なんですね。

それから彼はずっと九州各地を隠れてまわり、秘跡を授けて信者たちを励ましていきます。捕らえられたのは1632年ですから18年間、潜伏司祭として活動したわけです。その姿勢は、おれについてこい、じゃなかったと思います。迫害におびえ、信仰の弱った人もいたでしょう。そういう人々を励まし続けた司祭の姿がそこにあります。それは100匹の羊の中の迷子になった1匹の羊を捜し求める羊飼いのような姿だと言えるかもしれません。自分も弱い羊の1匹であり、だからこそ、他の羊たちを励ます、そんな司祭ではなかったかと思います。

わたしたちのほんとうの羊飼いはイエスです。イエスにも先頭を行くだけでなく、群れの最後にいる羊飼いのイメージがあります。迷子の一匹の羊を探す羊飼いは、先頭に立っているのではなく、むしろ群れの一番後ろにいてくださるのではないでしょうか。イエスは、きょうの福音の中で、「わたしが来たのは羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるため」と言われました。そのよい牧者であるイエスが復活して今も生きておられ、わたしたちの先頭に立ち、またわたしたちの最後を見守りながら、わたしたちをいのちに導いてくださっているとわたしたちは信じています。

 このイエスの働き、よい牧者としての働きを手伝うために、自分の生涯をささげるのが司祭・修道者です。シスターたちもこのよい牧者の実によい協力者だと感じています。あるときは先頭に立って歩み、あるときは群れの中にいて、時には群れの最後を見守り、イエスとともに羊のために働く司祭や修道者をわたしたちは必要としているはずです。

今年の世界召命祈願の日のテーマは「地方教会における召命への働きかけ」です。世界中のそれぞれの国や地域で、それぞれに状況は違うけれども、その中で、司祭・修道者の召命の意味を深く考え、そのために祈るようにということだと思います。その中で、今日は、仙台教区の状況について少し紹介したいと思います。

東北地方の太平洋側という、ほんとうに信者が少なく、教会の力の弱い地域が被災しました。その中で仙台教区は今、司祭の人事異動を行おうとしています。それは内陸部の教会にいる司祭を太平洋沿岸へと移動させる計画です。盛岡や福島など比較的信徒数も多く、司祭も多い地域から司祭を沿岸部に異動させる、それは教会が被災者とともに生き、被災者とともに立ち上がっていこうとする姿勢の表れです。もちろん信徒の働きもいろいろなボランティアの働きも大切です。シスターたちはすでにシスターズリレーという形で、被災地に入って大切な働きをしてくださっています。でも、司祭がその現場にいることがどうしても必要だと仙台教区は考えているのです。この計画が実現するためには、仙台教区だけでなく、日本のほかの教区や修道会の協力が必要です。仙台教区からは全部で6人の司祭を派遣してほしいという要望が来ています。わたしたち東京教区は浦野雄二神父を派遣しました。半年の予定ですが、その後も誰かを派遣しなければなりません。

「わたしが来たのは羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるため」

このイエスの働きを今の日本の中でどのように実現していけるか、その実現のために、どれほどわたしたちは司祭・修道者を必要としているか。そのことを深く考えながら、このミサの中で司祭・修道者の召命のために祈りましょう。




ジョルジュ・ネラン神父(東京教区司祭)葬儀ミサ説教

2011年3月30日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

1920.2.2生 1950.6.29 司祭叙階 1952.12.9来日 2011.3.24帰天

「司祭・宣教師・キリスト信者」(Ⅱテモテ4・1-8、マタイ28・16-20)

ネラン神父様は、先月2月2日に91歳の誕生日を迎えました。その前日、わたしは桜町病院の病室でネラン神父に病者の塗油の秘跡をお授けしました。91歳という年齢を前にし、ガンは確実に進行しており、痛み止めの薬がだんだん強くなって、頭がはっきりしなくなってくるのを感じておられたのでしょう。だから、今、はっきり理解できているうちに病者の塗油を受けようと考えられたのでしょう。それはネラン神父さんらしいなと思いました。

ネラン神父はその秘跡のためにわたしを指名しました。なぜわたしだったのか、わたしは東京教区の補佐司教ですから自然なのかもしれません。しかし、あの時私を指名したのですから、今日、葬儀ミサでわたしが説教してもたぶん怒らないだろうと今、わたしは思っています。

司祭ネラン

わたしはネラン神父さんとそれほど長い付き合いをしてきたわけではありません。話をするようになったのは司教になってから、この数年です。でもお名前は昔から存じ上げていました。ジョルジュ・ネランという名前を最初に知ったのはわたしが神学生のときでした。神学校の図書館で「ろごす」叢書の1冊『祭司と司祭』(1963)という本を読んだとき、はじめてジョルジュ・ネランという神父がいることを知りました。わたしは神学生でした。神学生は司祭になるための勉強と修練をしています。もちろん第二バチカン公会議後でしたが、神学校には昔の司祭のイメージが強く残っていました。司祭になるということは、キリストの特別な呼びかけを受けた人が、普通の人間とはぜんぜん違う存在になることであり、パンを一言でキリストの体に変え、ぶどう酒を血に変えてしまう魔法使いになるかのような雰囲気があって、どうしてもついていけないところがあったのです。

そのわたしにとって、新約の司祭職は旧約の祭司職とは違う、こういうことなのだと教えてくれたのがこの本の中のネラン神父の「司祭職」という論文でした。

司祭は祭司ではない。エルサレムの神殿でいけにえをささげていた祭司とキリスト教の司祭は根本的に違う。司祭は神の民の奉仕者である。そして、こう言います。「神の言葉をのべ伝えることは、司祭のもっとも根本的な仕事である・・・二次的な意味で、司祭の仕事の中心になるのは、エウカリスチアのサクラメントである」ネラン師は、さらにこうも書いています。

「司祭は、ある職務を果たすために、教会から呼び出された人間である。この呼び出しは、たしかに祝別はする しかしそれは、洗礼のように、存在の仕方までもかえてしまうようなものではない。・・・司祭もまた、一人のキリスト教徒であり、一人の人間である。・・・もちろん、教会にとっては、司祭たる人が聖者であることが、望ましいにはちがいない。けれども、司祭が選び出されるのは、その人個人が、どんなにすぐれていようとも、ただその性質のためではなく、ある職務を果たすためなのである。司祭はあくまで、一個の人間であり、罪人たる人間であるに止まる。現代の世界はなによりもまず、司祭が一個の人間であることを、必要としているようにみえる。すなわち、司祭が完全無欠な官僚であることよりも、欠点もあるかわり、個性も豊かに具えた、人間らしい人間であることを、求めている・・・

ある職務に任じられた人間は、なによりもまず、その仕事に堪能でなければならない・・・彼はキリストについて語るという、職務に精通していることを、人びとから期待されている。彼が一般的な深い教養をもっているかどうかは、たいして重要なことではない。一定の水準まで達していれば、それ以上多くの事がらを知らなくても、人びとはよろこんで彼をゆるすことだろう。しかし、彼がキリストをのべ伝えることができず、祈りを教えることができず、また神の愛を説くことができないならば、それをゆるすことは、もはやできないであろう。」

わたしはこの論文を読んで、こういう司祭にならわたしもなりたいと思ったのです。ネラン師43歳のときの論文ですが、司祭職一般について語っているというより、自分の司祭職はこういうことだという、いわば決意表明に聞こえます。そして、彼はそれを60年間、生き抜きました。

宣教師ネラン

ネラン神父にとっては司祭であることは、宣教師であることと深く結ばれていました。

ホスピスの病室に残された彼のかばんの中に3冊の厚いノートがありました。何十年もずっと使い続けてきたノートだということが一目で分かります。1冊は日本語の勉強のノート。これを見るとずっと日本語と格闘し続けていたことが分かります。もう1冊は住所録。自分が出会った人、つまりそれは、キリストに導きたいと思っている人であり、キリストに導くことができた人。そしてもう1冊は備忘録。病室を訪ねてくれた人の名前が3月のはじめまで几帳面に記されていました。出会った一人一人の人間にイエス・キリストを伝えたい。実に宣教師のノートだと感じました。

キリストを伝える。イエスの素晴らしさを伝える。

そのために、日本に来て、日本語を習得しました。そのために、フランス語の教師になり、真生会館で学生指導をし、ネラン塾を作り、エポペを創設した。すべてはキリストを伝えたいという宣教の思いからでした。

ネラン神父は、去年『福音宣教』という雑誌に「老宣教師の備忘録」という文章を2回にわたって書きました。それが彼の遺言と言ってもいいでしょう。

司祭が教会で行っている司牧は内向きの働き。信徒が親睦のためと言ってしている行事も皆内向きのことばかり。宣教とは外に向かうことではないか。なぜ司祭たちは本気で福音宣教しないのか、なぜ日本の信徒たちはもっと福音宣教しないのか。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」このイエスの言葉、復活して今も生きているイエスの言葉を本気で受け取るなら、イエスのことを宣教せずにはいられないはずだ。司祭に対して、いや、すべての信者に対する最後の願いだったと思います。だから、そのマタイ28章の言葉を、きょうのミサの福音朗読として読んでもらいました。そしてカードにもその言葉を載せてもらいました。

第一朗読では、パウロのテモテへの手紙を読みました。世を去る前の使徒の言葉です。パウロは、わたしは走り抜いた。福音宣教者として道を歩き抜いた。今度はあなたの番だ、と弟子のテモテに言います。それはネラン神父がわたしたちに言っている言葉だとも思うのです。

ネラン神父は、本当に大きな宿題をわたしたちに残していかれました。

キリスト信者ネラン

 ネラン師は、教会とのかかわりの中で、司祭でした。人々とのかかわりの中で、実にスケールの大きな宣教師でした。そして、イエスとのつながりの中では、一人のキリスト信者でした。

ネラン師の信仰は、一言で言えばイエス・キリストに対する強い思いでした。そしてそれは2000年前に生きた一人の人間であるイエスへの思いというだけではなく、今も生きておられる復活したイエスに対する思いでした。「世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」と約束されたイエスをネラン神父は信じていました。ネラン師にとって、今、そのキリストとともに生きることにこそ本当の「生きがい」があるのであり、今、キリストとともに生きることこそが、宣教の原動力なのであり、そして、今、キリストとともに生きることこと、それが即ち、天国でもありました。

ネラン師は「ろごす」叢書のあの論文の中で次のように書いています。

「天国において、もはや司祭はいない。そこにはただひとりの大祭司イエス・キリスト以外に、司祭はいないのである」

ネラン神父は、その天国に旅立っていかれました。彼はそこで、イエスとともに生きてきたこと、永遠にイエスとともに生きることの幸いを心から味わっていることでしょう。そしてそこからわたしたちに問いかけています。

「あなたはキリストとともに生きているか?」




使徒ヨハネ粕谷甲一師(1923.11.6~2011.2.9)通夜

2011年2月15日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

マタイ25・31-40

粕谷神父様は3年程前、中目黒の神の御摂理修道女会の中にあった家から、このカテドラル構内の司祭の家に移って来られました。わたしの記憶では、ベトナムを訪問していたときに天候不順のために体調を崩され、帰ってきてから桜町病院で療養されていました。その後に退院するにあたって、修道院の離れの部屋での一人暮らしは無理だろうということで、教区の司祭の家にお迎えすることになったのだと思います。わたしは桜町まで粕谷神父さんを迎えに行きました。車の中でいろいろとお話ししたのが心に残っています。

何度かおっしゃっていたのが「ぼくは教区のためにあまり働いていないから、これから教区のお世話になるのは申し訳ない」という言葉でした。確かにそうかもしれません。粕谷神父様の経歴を見れば分かるとおり、その活動はカトリック教会の中での活動というよりも、青年海外協力体や国際救援センターなどの活動のほうが目立っています。と同時に、晩年、近くに住む機会があった者としては、本当に司祭としての生き方を大切にされているのを感じました。あの車の中でも「司祭の家ではミサはどうなっているのか」としきりに気にされていました。ペトロの家ができてそこに移られても、最後まで、入院するまで他の神父さんたちと共同司式でミサをささげていらっしゃいました。教会を越えた世界の中での活動と、キリスト者としての、司祭としての活動は粕谷神父さんの中で深く結びついていたと思います。

その意味で、粕谷神父さんを思い出すときに、大切なのはマザー・テレサとの出会いだと思います。神父様は1976年、シンガポールの世界宗教者平和会議で、マザー・テレサと出会い、そこでのマザーの挨拶の言葉を聞きました。粕谷神父さんは強い印象を受けたようで、それをいろいろなところに書き記しています。それがあの有名な2つの聖体拝領の話です。

「私は毎朝、祭壇の上から小さなパンのかけらの主をいただいています。もう一つは、町の巷の中でいただいています。先日、町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引き揚げてみるとおばあちゃんで、体はネズミにかじられて、ウジがわいていた。意識がなかった。それを体をきれいに拭いてあげた。そしたらおばあちゃんがパッと目を開いて、〝マザーありがとう〟といって息を引き取りました。その顔は、それはそれはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした。なぜかと言うと私にとっては、イエス様のことばはすべて神秘。〝私は飢えた人、凍えた人の中にいる〟とおっしゃったように、あのおばあちゃんの中に主がいらっしゃった。そのおばあちゃんを天に見送った時に、私の中に主がきてくださったのです」。

海外青年協力体の活動、国際救援センターでのインドシナ難民定住のための活動、そして晩年まで続けられたベトナムでの活動。その活動を支えていたのはこの2つの聖体拝領だったのでしょう。パンのかたちでイエスをいただくことと、貧しい人との出会いの中でイエスをいただくこと。本当にそれが粕谷神父様を生かしていたものだと思います。

実は亡くなられる何日か前に病院をお訪ねしたとき、もう、ものを飲み込むことがおできにならなくて、水を飲むこともできなくて、聖体のイエス、パンの形のイエスをお授けすることができませんでした。先週の水曜日の朝、突然息を引き取ったという病院からの連絡をいただいて、「あの時、聖体拝領できていたら・・・」と悔やむ思いがわたしの中に起こりました。しかし、亡くなってから次第に、粕谷神父様はずっと聖体の秘跡をとおして、出会った貧しい人々をとおしていつもイエスをいただいていたのだと感じられるようになりました。そして最後は、ご自分の病気の苦しみをとおして、その中で十字架のイエスに結ばれていたのだと確信するように今はなりました。

先ほどマタイ福音書25章の有名な言葉を読みました。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

もうすでに粕谷神父さんは、栄光のイエスに出会い、あのイエスの言葉を聞いているでしょう。粕谷神父さんの生涯の歩みは、この言葉を文字通り真剣に深く受け取ろうとした歩みだったと思います。どうか粕谷神父様が神のみ国の喜びに満たされ、そこで安らかにいこうことができますように心を合わせて祈りましょう。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」

わたしたちキリスト者皆、この言葉をよく知っています。わたしたち人間にとって、神の目から見てもっとも大切なことは、この言葉に示されているということを知っています。わたしたちも日々、貧しい人の中におられるキリストとの出会いに招かれているのです。

でもどれほど深く真剣にこのキリストとの出会いを生きているでしょうか。きょう、粕谷神父さんを偲んで通夜の祈りをささげながら、わたしたちはわたしたち一人一人がこの言葉を新たな思いで受け止めなおし、この言葉をより忠実に、誠実に生きることができますように、天の国におられる粕谷神父さんとともに祈りたいと思います。




主の洗礼(マタイ3・13-17)

2011年1月9日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

東京教区年始のミサ

きょうは主の洗礼の祝日です。クリスマスから2週間たち、今日が降誕節の最後の日です。イエスの洗礼の出来事は、イエスが神の子として現される、という降誕節のテーマの一つの頂点であり、イエスが神の子としての活動を始める出発点でもあります。

イエスが活動を始めるのに先立って、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」というメッセージを人々に語りました。そして悔い改め=回心のしるしとして人々に洗礼を授けていました。「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マタイ3・5-6)そこへイエスもやってきます。絵などで見るとイエスだけが洗礼を受けているかのように描かれているものもありますが、イエスは大勢の群集の中の一人として洗礼を受けました。ヨハネはイエスが特別な存在であることに気づいています。しかしイエスのほうは他のすべての人と同じようにヨハネから洗礼を受けることを望まれました。イエスの人々との深い連帯性があります。それを今日、特に感じたいと思います。一方ではイエスだけに特別なことがありました。「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」これはその場で洗礼を受けた多くの群集と違う、イエスだけに起こったことでした。しかし、同時に大切なのは、キリスト者の洗礼はこのイエスの洗礼に与るものだということです。わたしたちは皆、イエスと同じように「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(わたしが好ましく思う者)」という声を天からかけていただいているのです。徹底して人々と共に生き、人々の重荷や患いを共に担ったイエスは、わたしたちを本当にご自分の兄弟として受け入れ、同じ神の愛する子として、神のもとに導いてくださるのです。そのことの大きな恵みを深く味わいたいと思います。

今年2011年は21世紀がはじまって11年目の年です。10年前、日本の司教団は『いのちへのまなざし』というメッセージを出しました。21世紀のはじめに、カトリック教会としてあらゆるいのちを大切にしようという思いを多くの人と分かち合いたいと願って、やさしい言葉遣いで書かれましたから、多くの人に読まれ、好感を持たれたようです。今年、司教団ではこの『いのちへのまなざし』をもう一度振り返りながら、いのちの問題を考えたいと思っています。東京教区でも宣教司牧評議会などで、やはり取り上げていく予定です。皆さんも是非読み直してみてください。

『いのちへのまなざし』はいろいろな問題を扱っていますが、非常に重要ないのちの問題を扱っていません。それはテロと戦争のことです。21世紀のはじめ、わたしたち人類は、平和の問題をもっと楽観的に考えようとしていたのではないでしょうか。そして司教団もそうだったのかもしれません。しかし、その2001年の9月11日に、アメリカ同時多発テロが起きました。それから世界はテロが繰り返され、戦争をやめられない状態になってしまいました。昨年はキリスト教徒や教会を標的にしたテロもたくさんあり、多くの信徒や司祭、牧師が殺されています。この平和のことも、本当にいのちの問題として考えなければならないと思います。

わたし自身は3年ほど前から、カリタスジャパン啓発部会のメンバーとして「自死と孤立」の問題にかかわるようになり、その中で改めて『いのちへのまなざし』を読み直すチャンスがありました。『いのちへのまなざし』には自殺の問題も扱われています。1999年の統計が紹介され、2年連続で日本の自殺者が3万人を越えたと書かれています。でも、それから11年たって、昨年まで13年連続3万人を越えたと先日報じられていました。この自殺の問題について『いのちへのまなざし』は、上から倫理的な判断を下すという姿勢をとっていません。むしろ、死ぬしかないところまで追い詰められた人々の苦しみをなんとか受け取りたい、家族や親しい人を自死で失った人の痛みに何とか共感したい、そういう姿勢で書かれています。その姿勢を受け継ぎながら、昨年11月、カリタスジャパン啓発部会では『自死の現実を見つめて
―教会が生きる支えとなるために―』というパンフレットを作りました。

マタイ福音書8章に、イエスの活動のすべてをまとめるような言葉があります。マタイ福音書らしく旧約聖書の引用です。

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」
イザヤ書53章の主のしもべの歌から採られた言葉です。イエスのなさっていたことはこれだ。マタイはそう確信して、この引用をしているのだと思います。

今日の洗礼の場面のイメージともつながります。イエスは人々の罪の痛みを、病や苦しみを共に担って、人々の中で洗礼を受けられました。

岡田大司教は新年のメッセージの中で、今年いのちの問題を大切にしたい、そしてこれまでと同様、心の問題も大切にしたいと語っています。それは抽象的な「問題」ではありません。生きた人間の問題です。○や×の答えを出せばいいようなことではないのです。一番、基本にあるのは、今日の福音のイエスの姿勢ではないでしょうか。群集の一員として洗礼を受けられた姿。へりくだり、すべての人と同じものとなられ、すべての人の痛みを、苦しみを共に担ってくださったイエス。だからこそ、最後の説教で「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」とおっしゃったイエス。このイエスの生き方にわたしたち一人一人が、東京教区の教会全体がしっかりと結ばれて生きることができますように、ご一緒に祈りたいと思います。




カテドラルでの合同追悼ミサ(ヨハネ6・37-40)

2010年11月7日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

昨日、わたしは下落合にある聖母病院の聖堂で行なわれた追悼ミサに行ってきました。毎年11月、この死者の月に、聖母病院に入院されていた方で、一年間に亡くなった方々を追悼するミサをささげているそうです。名簿に100人ぐらいのお名前がありました。その中には、昨年末に亡くなった白柳誠一枢機卿の名前もありました。わたしは枢機卿の遺族という扱いで、そのミサに招かれ、司式することになったようです。わたしだけでなく、大勢の遺族の方々が集まり、ミサに参加し、ミサの後でシスターや看護士さんと話をしていました。ほとんどの方はカトリック信者ではありませんでした。ずっと病院にお見舞いに来ていたり、ほとんど付き添っ
たりしていた方々でしたので、看護師さんたちとはよく知っている間柄です。涙を浮かべている方もおおぜいいました。でも看護スタッフと遺族の方が亡くなった人の思い出を語り合うというのは、とても素晴らしいことだな、と感じました。ほんとうに辛かった思いを分かってくれる看護スタッフの前だから涙が流せたのかもしれません。

実は、このような追悼の式をキリスト教以外の病院で行っていることはほとんどないそうです。病院というところは人の命を救うことが言わば至上命令ですから、ともすると「死」をあってはならないことのように見てしまうようです。そして患者が亡くなったら、すぐに霊安室に移され、遺体は葬儀屋さんの手に渡る、そうなると、もう病院とは関係ない、というのが普通のようです。

亡くなった方の遺族に向かって「力及ばず、申し訳ありませんでした」と言うのが病院の普通の姿勢だと言えるでしょうか。しかし、昨日の聖母病院のシスターや看護師さんたちは違いました。「最後まで心を込めて看護させていただくことができて、感謝しています」と言いました。

この違いは、やはり復活への信仰があるからだと思いました。

肉体の死はすべての終わりではない、とわたしたちキリスト信者は信じています。死はあってはならないことではなく、すべての人に訪れることです。そして死は滅びではなく、すべての終わりではなく、死を超えてわたしたちは神のもとに行くと信じています。それが復活の信仰です。復活というのは、ときどき誤解されているようですが、本当は「生き返る」という意味ではないのです。この世のいのちのレベルを超えた、神のいのち、永遠のいのちを生きることです。この世のレベルを超えたことを表すのに人間の言葉は不十分ですが、「復活する、天国に行く、神のもとに行く」というのは本質的に同じことです。

復活の希望、それは単なる気休めや慰めではありません。

現実には本当につらく悲しい別れがあります。幼い子どもの死があります。事故や犯罪、病気や災害で、人生の半ばで突然、断ち切られてしまったような死もあります。それは、もちろんあってはならないような死です。

そういう死に直面したときにわたしたちはイエス・キリストの死を思い起こします。イエスはすべての人の救いのために生き、すべての人を愛して生きました。しかし、その生涯は十字架上の死というむごたらしく、惨めな死に方で終わりました。イエスの弟子たちにとって、それはあってはならない死でした。彼らは絶望のどん底に突き落とされました。しかし間もなく、彼らは、イエスが死に打ち勝ち、神のもとで、神とともに生きていると信じるようになりました。それはイエスがご自分の弟子たちに、自分が生きていることを知らせるために、弟子たちに分かる仕方で、ご自分を現したからです。

「なぜあってはならない死があるのか?」キリスト教は、その質問に理論的に答えることはできません。言葉で説明することはできません。聖書は、イエスの受難と死の物語を語ります。イエスが死を前にして最後の最後まで、すべての人に対する愛を貫いたこと、神に対する信頼を貫いたことを語ります。そしてそのイエスの歩みは死で断ち切られたのではなく、死を超えて神のもとで完成したと語ります。そしてそこから、あのイエスの苦しみと死は無意味ではなかった。わたしたちの救いのためだったという信仰が生まれるのです。

イエスの歩みも、わたしたちの歩みも、この世の生涯で完成するのではなく、神のもとで完成する、キリスト教はそう信じます。その「完成」は別の言い方をすれば絆の完成と言ってもいいでしょう。

1つは、神との絆の完成です。わたしたちは神を信じていると言っても、地上で生きている間、神から離れて生きている面があります。神を忘れることもあるし、神のみ心に反することをしてしまうこともあります。どんな人でもそうです。しかし死を超えて、神のもとに行き、神とわたしたちの絆がそこで完成します。これがわたしたちのキリスト信者の希望です。

もう1つは人と人との絆の完成です。わたしたちはきょう、それぞれに親しい人を思い起こしています。生きている間、深いつながりがありました。それでも人間同士ですから、すれちがってしまった面、理解し合えなかった面、傷つけてしまった面、本当に大切にできなかった面があると思います。そのわたしたちと亡くなった人との絆は死によって断ち切られてしまうのでしょうか。そうではなく、死を超えて本当に絆が完成していく、そう感じられないでしょうか。世を去った人はわたしたちの心の中に生き続け、生前よりももっと近くにいてくれるように感じられることがあるのではないでしょうか。わたしは自分の父を亡くしたときに、本当にそれを実感することができました。いろいろな人からもそう感じるという話を聞きます。死を越えて完成するもの、それは人と人との絆だと思います。わたしたち自身が死を通って神のもとに行くとき、そこで、この絆の完成を本当に味わうことができるでしょう。

わたしたちは今日、亡くなった家族や友人のために祈ります。亡くなった人が神のもとで安らかに憩うことができるように祈ります。亡くなった人とわたしたちの絆が神のもとで完成されていくという希望を新たにしましょう。そして、だからこそ、神との絆を、人と人との絆を精一杯大切にしながら、日々生きていく決意を新たにしましょう。




CTIC 20周年記念国際ミサの説教

2010年9月23日 目黒教会にて

第一朗読:コロサイ3章12-17節(スペイン語)

福音朗読:マタイ25章31-40節(日本語)

先日、ある女子修道会の本部修道院に行きました。敷地が広くいろいろな建物があります。しかし、シスターは高齢化していて、人数は減っています。そこで聞いた話が印象的でした。1975年にサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終わりました。そのとき、多くのベトナム人がボートピープルとしてベトナムを脱出し、日本の船に助けられた人たちが日本に来ました。しかし最初のころ、日本政府は難民の受け入れをまったく認めていませんでした。彼らはアメリカにわたってそこで生活を始めることになっていましたが、アメリカに行くまでの数ヶ月、日本政府から頼まれて、この修道院がベトナム人の家族を一時的に受け入れることになりました。たまたま空いていた修道院の中の家にその家族は住むことになりました。

シスターたちは親切ですから、その家族の住んでいる家にテレビを持っていきました。しかし、2-3日して、彼らはそれを返しに来ました。

「わたしたちは旅人です。そのわたしたちにとって一番大切なのはお互いの団結です。そのために必要なことは互いによく話し合うことなのです。ですからテレビはいりません」

それからしばらくしてその修道院に付属した幼稚園の父母たちが、ベトナムから来た家族のために、子どもや大人の衣類を集めて持ってきました。ところがその家族はそれも辞退しました。「わたしたちは旅人ですから、最低限の必要なものしか持たないほうがよいのです」。その後、この家族はアメリカに渡り、何年かして生活が落ち着いてから、日本を訪問し、そのときにお世話になった修道院にも来たそうです。彼らは、ほんとうに感謝していました。それは今日の福音にあるように「わたしが旅人だったときに宿を貸してくれた」ということに対する大きな感謝でした。

日本では、1980年代の終わりごろ外国から来た人々が急に増えてきました。そして、フィリピンやブラジル、ペルーの人はカトリック信者が多かったので、教会に来る外国人の数が増えました。日本の教会はそれまで、言葉の違い、信仰生活の習慣や表現方法の違い、仕事や生活上の問題などを抱えた外国人を受け入れた経験がありませんでした。多くの司祭や信徒が当惑しました。

東京大司教区は1990年にカトリック東京国際センター(CTIC)を始めました。1994年には「CTICかめいど」を開設して、日本にいる外国人の生活・仕事・ビザなどの具体的な問題を解決するために働くようになりました。CTIC開設20周年を迎え、わたしたちは今までの歩みを振り返っています。日本の教会は戸惑いながらも外国人を受け入れ、なんとか多国籍の人々と共に生きる教会を作ろうとしてきました。その結果、多くの教会で外国人と一緒にいて、一緒に祈るのがあたりまえになっています。

振り返ってみると、わたしたちは日本人の信者が彼らのためにこれだけのことをしてきた、ということ以上に、外国の人たちが日本の教会にもたらしてくれたものの大きさを感じます。外国から来たカトリック信者は、数の面でも、若さとヴァイタリティーの面でも日本のカトリック教会を活気付けてくれました。しかし、それ以上にもっと深いものを運んできたと思います。

現代の日本の社会の大きな問題は「孤立」ということです。隣の人が生きているか死んでいるかも分からないほど、この社会では、人と人とのつながりが希薄になってしまっています。みんな自分の力で自分の生活を作り上げ、それを必死で守ろうとして働いています。「成功するのも自分の責任、失敗するのも自分の責任」「誰にも頼らずに自分の力で生きていかなければならない、それができないのは駄目な人間だ」。このような考えの中で人と人とが支え合う生き方が見失われ、人々は大きなストレスを感じるようになりました。日本人カトリック信者もこの社会の中で生きていて、そこからやはり影響を受けていました。

先ほどお話ししたベトナム人の家族はそうではありませんでした。彼らは今、生きているというだけで本当にそれを神の恵みだと感じ、神に感謝する心を持っていました。そして、生きていくために第一に必要なものは、家族の支えあいであり、共同体の助け合いだということを彼らは感じていました。ある意味で今も、自分の国を離れて日本で生活している外国籍の信徒の皆さんは、そのことをわたしたち日本人の信徒に教えてくれていると思います。

もう一つ、外国人信徒の急増という現実は、わたしたち日本の教会が「貧しい教会」であることに気づかせてくれました。外国から来た人の中にもお金持ちがいると思いますが、でもこのことも大切です。2008年にリーマンショックが起き、多くの外国人労働者が仕事や住む家を失いました。母国に帰らなければならい人もおおぜいいました。経済不況が長引けば、日本の社会の中で、外国人排斥の気運が高まるでしょう。ところで、日本のカトリック教会は、もはや日本人の教会ではありません。日本にある多国籍のカトリック信者によって成り立っている教会です。そう気づいたとき、日本にいる外国人の抱えている貧困の問題や他のさまざまな困難は、決して教会の外の誰かの問題ではなく、わたしたち自身の問題になりました。このことは本当に大切な気付きでした。実は日本人の信徒の中に貧しい人がいるのに、日本の、特に東京の教会はそれを忘れ、貧しさということを他人事のように感じてしまっていたのです。

もう一度、先ほどのベトナム人家族を思い出します。彼らはほんのわずかなものしか持たずに旅をしていました。それは安住の地を求めての旅、貧しく困難の多い旅でした。

「わたしたちは旅人です」この言葉は、本当はすべてのキリスト者の言葉ではないでしょうか。わたしたちは皆、ベツレヘムの聖家族のように貧しい旅人です。その中でなんとか励ましあいながら一緒に神の国の完成に向かって歩んでいこうとするのです。これがわたしたちの教会です。

先ほど読まれたマタイ福音書のイエスの言葉は、人が生きる上で何が一番大切かということをわたしたちに教えています。

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」

よくよく考えてみると、大きなことをしているのではありません。食べ物を持っていたら半分、分けてあげる。宿に困っている人がいたら、自分の家に泊めてあげる。病気の人のそばにいてあげる。「何かをしてあげる」というよりも「その人の重荷を共に担い合う」ということだと思います。どの国の人とも互いに重荷を担い合う、このことを本当に大切にしながら、CTICが、というよりも東京教区の教会が歩み続けることができますように、聖霊の導きと助けを祈りましょう。




召命祈願の合同ミサ

2010年9月12日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

第一朗読 イザヤ6・1,6-8
第二朗読 Ⅱコリント4・5-11
福音朗読 マタイ9・35-38

きょうの福音は一粒会の皆さんにとっても、神学生の皆さんにとってもおなじみの箇所でしょう。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」このキリストの呼びかけに応えて、わたしたちは召命のための祈りをしています。

ところで、「収穫のための働き手」とはどういう人のことでしょうか。今日、あらためて皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。今日の箇所の前半にこういう言葉があります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」イエスの目の前にいた人々というのは、病気や患い、いろいろな苦しみに悩む人(マタイ4・24参照)、飼い主がいない羊のように、弱り果てたボロボロの人々のことでした。イエスはこの人々を見て、胸を痛め、そして「収穫は多いが、働き手が少ない」と言ったんです。イエスの目から見たらその人々が神の国の豊かな実り・収穫でした。どうしたらこのような人々が豊かな収穫になるのでしょうか。それはイエスの特別なかかわり方によります。マタイ8章にこういう言葉があります。

「16夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」

わたしは最近、改めてこの箇所の大切さを感じています。マタイが見ていたイエスの姿はまさにこの姿、第二イザヤの「主のしもべ」の姿だったのだと思います(イザヤ53・4参照)。「わたしたちの患いを負い、病を担う」このイエスと出会ったとき、うずくまり小さくなっていた人々は神の国の豊かな収穫になったのです。

だからイエスは「貧しい人々は幸い」(マタイ5・3)と言いました。

だからイエスは「あなたがたは地の塩である、世の光である」(5・13,14)と言いました。

だからイエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(11・28)と言ったのです。

そして、だからイエスは「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(25・35)と言ったのです。

イエスは、十字架の死に至るまで、徹底的に人々の病と重荷、痛みと苦しみを担う方として、生き抜かれたのです。

この「人々の病・重荷・苦しみを担う」ということは、キリストに従うすべての人のテーマですが、特別に、司祭や奉献生活者の生き方の中心でもあると思います。

「人々の病を身に負う」と言ったとき、ダミアン神父のことを思い出す人もいるでしょう。昨年10月11日、ダミアン神父は、ベネディクト16世教皇によって列聖されました。ダミアン神父のことはここで紹介するまでもありませんが、ちょっとだけ思い起こしたいと思います。

ダミアン神父はベルギー生まれ、イエズス・マリアの聖心会の司祭で、19世紀の後半、ハワイで活動しました。当時、ハワイに欧米人が入ってきたのと同時に、それまでハワイになかった病気も入ってきました。ハンセン病もその一つで、ハワイの人々はまったく抵抗力がなくて、どんどん病気が広がりました。そして当時は有効な治療法がなく、患者はモロカイ島という島の一部に隔離されました。まったく見捨てられた絶望的な状態でした。ダミアンはそこを訪れ、結局、そこに住み込み、ハンセン病者のために働きました。最後は自らもハンセン病にかかって、1889年に49歳で生涯を終えました。彼は特別な仕方で、人々の病を共に担い、ハンセン病者のほんとうの意味での「兄弟」となりました。もちろん、ダミアン神父は、特殊な例かもしれません。しかし、すべての司祭、修道者(奉献生活を生きる人)の召命は、このためにあると言ってもいいのではないかと思います。

どんな時代にも、人は苦しみの中にあって、誰かが、本気で胸を痛め、本気で近づいてきて、本気で重荷を共に担ってくれることを待ち望んでいます。それぞれの時代に生きた司祭、助祭、ブラザー、シスターはその重荷を共に担ってきました。今の時代にも特にそういう人が必要ではないでしょうか。「無縁社会」と言われ、人がどんどん孤立していく。うまく行かないのは「自己責任」だと言われてしまう。その中でおおぜいの人が行き詰っています。今だからこそ、この社会だからこそ、本当に弱さや苦しみを共に担ってくれる人が必要なのです。教区司祭は教区司祭として、修道会・宣教会司祭は修道会・宣教会司祭として、活動修道会の修道者は活動を通して、観想修道会の修道者は祈りをとおして、この時代の病と患いを担う、人々の痛みを苦しみを共に担う。そういう司祭・奉献生活者でなければ、その存在は無意味なんじゃないかとさえ思います。

ずいぶん前ですが、山崎努さんがダミアン神父を演じた一人芝居がありました。その芝居の中で、ダミアン神父がモロカイ島に派遣されることを願って上長に反対された時に言った言葉が、今も心に残っています。

「神がこの人々を見捨てていないしるしとして、一人の神父がモロカイ島にいることがどうしても必要なのです。」

そういう司祭と奉献生活を生きる人を、今の時代も必要としています。その必要に応える人がわたしたちの教会の中から生まれ、育ちますように、心を合わせて祈りたいと思います。




平和旬間 平和を願うミサ

2010年8月8日 立川教会にて

第一朗読 イザヤ2:1~5
第二朗読 ローマ12:14~18、21
福音朗読 マタイ26:47~52

個人的な話で申し訳ないのですが、わたしの名前は和生と言います。「平和の和に、生きる」と書きますと言うと、「いい名前ですね。まるで司教になるために生まれてきたような名前ですね」と言われたりします。

なぜわたしの名前が和生なのか。子どものころ、母親に聞いたことがあります。わたしは次男で、兄の名前は「行生」と言います。長男が生まれたとき、祖父はたいへん喜んで、姓名判断の先生に頼んで、よい「画数」を教えてもらい、いろいろ考えた末に「行生」という名前に決めたそうです。次男のときには祖父はもう孫の名前を考えませんでした。そこでわたしの両親は、下は兄と同じ「生」にして、上だけ変えて「和」を付けたそうです。それで「和生」になったわけです。安易ですね~。なぜ上が「和」なのか?それはわたしが生まれたのが、ちょうど戦後10年目のことで、この子が大きくなってもずっと平和が続きますように、そういう願いを込めて「平和」の「和」を付けたのだそうです。そう親から聞かされたとき、子どもごころに、やっぱり長男のほうが大切にされてるんだ、と思いました。

しかし、今になってみると「和生」でよかったと思っています。わたしの両親が自分の息子だけの幸せを考えたのではなく、世界の人々の平和を願ってこの名前を付けてくれたことをちょっと誇りにも思えるようになりました。

今から55年前のことです。戦後10年がたっていましたが、あの悲惨な戦争の記憶は父の中にも、母の中にもありました。だからこそ絶対に二度と戦争をしてはいけないという思いが強くあったのです。それが普通の日本人の普通の感覚だったのでしょう。その思いから、今のわたしたちはどれほど遠くにきてしまったでしょうか。

いつの間にか、「国家の安全保障」という言葉が当たり前に使われています。それは日本の安全を守るために自衛隊と武器をきちんと備えましょう、という考えですね。それは絶対に戦争しないということではなく、いざとなればその軍事力を使うということですね。それだけではありません。軍隊と戦争によって苦しめられてきた沖縄の人々の心を無視して、「沖縄の米軍基地は日本の安全保障のために必要だ」と当たり前のように言われます。核兵器を否定しているはずの日本で「核の抑止力は必要だ」と平気で語られています。65年前の敗戦のときの思い、何があっても絶対に二度と戦争だけはしてはいけないという思いから、どれほど遠くなってしまったことでしょうか。

わたしは先週はじめて、広島の原爆の日に広島に行きました。東京教区の青年・中高生の小さなグループと一緒でした。もっと大勢集まるかと思ったのですが、やはり東京からは広島は遠いですね。行ってみて感じたことは、距離が遠いというよりも、心理的に遠いということでした。広島や長崎の人々が一生懸命、核兵器の恐ろしさを訴え、核兵器の廃絶を訴えているのに、それは東京の人間からすると、どこか遠い地方都市の問題のようになってしまっているのではないか。いつのまにか、日本が被爆国だというよりも、「ヒロシマ」「ナガサキ」が被爆地だということになってしまって、遠い話にしてしまっているのではないか。すごく反省させられました。

「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」

これが神の約束です。いつか本当に武器や兵器によらない平和が訪れる。それは65年前の敗戦のとき、多くの人がほんとうに信じた約束ではないでしょうか。そのことの実現に向けて歩み始めようとした約束だったのではないでしょうか。それがいつの間にかとても遠くなってしまって、みんな諦めかけているのではないでしょうか。

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」

パウロがすべてのキリスト信者に向けた切実な勧めの言葉です。

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

これがイエス・キリストがいのちがけで語られたみことばです。

遠い理想論じゃなく、この言葉を本気で信じて歩んでいきましょう。

5年前、戦後60年にあたって日本の司教団は「非暴力による平和への道」というメッセージを出しました。そして、この「非暴力による平和」が今年の東京教区の平和旬間のテーマにもなりました。特別に今年、「核兵器のない世界」への願いを込めてそうなったのです。核兵器や軍事基地によって平和を作るのではなく、国籍や民族や宗教の違いを超えた人と人との心のつながりを作り、愛と共感の輪を広げる中で平和は実現していく、その思いを新たにしましょう。先ほど聞いた近藤西紀さんの話のような、世界の貧しい人々とともに生きる活動は、そういう意味で本当に平和を作る活動だと言えます。

世界の中の貧しい人々の現実を遠いものにしてはいけない。戦争犠牲者の苦しみを遠いものにしてはいけない。今もものすごい数の人々が戦争やテロで殺され、傷つけられ、苦しみ続けています。そのことを少しでも身近に感じながら今日、平和のためにご一緒に心を合わせて祈りたいと思います。




「司祭が司祭であることの意味」

・・・『神学ダイジェスト』2010年夏 108号 特集 「司祭養成によせて」巻頭言

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昨年の6月19日(イエスのみ心の祭日)から今年の6月11日(イエスのみ心の祭日)までの「司祭年」が終わろうとしている。司祭年とは、世界のある地域での極端な司祭召命の減少と司祭のスキャンダル多発という現実の中で、「司祭が司祭であることの意味」をもう一度見つめ直すためのものであったと思う。この一年の中でわたしにとって特に印象深かったのは、昨年秋の「日韓司教交流会」で聞いた話だった。

キム・スーハン枢機卿の司祭職への決断

昨年11月、大阪教区を会場にして開催された日韓司教交流会の一つのテーマは、「キム・スーハン(金寿煥)枢機卿の生き方を学ぶ」であった。2009年2月16日、86歳で亡くなられたキム・スーハン枢機卿について、ここで詳しく紹介する必要はないだろう。1970年代~80年代の韓国の独裁政権の時代に、キム枢機卿はソウル大司教であり、民主化運動の活動家たちを身を挺して守ったこと、それをとおして、韓国社会の中で「カトリック教会は人間を守る」という大きな信頼が得られるようになったことはあまりにも有名である。カン・ウィル(姜禹一)チェジュ教区司教が、キム枢機卿について語ってくれた(カン司教はもともとソウル教区司祭で、ソウル教区の補佐司教として長い間、キム枢機卿のもとで働いた)。

「キム・スーハンの家は貧しく、病気の母親の薬を買う金がなかった。少年キム・スーハンの夢は、大人になったら商人になって金を儲け、母親のために薬を買う、というものだった。しかし、その母親から『お前は神父になりなさい』と言われて小神学校に入った。キム神学生は司祭になりたいという思いがはっきりしないまま、神学校での生活を続けた。彼が助祭になったとき、朝鮮戦争が起こった。キム神学生はソウルの神学校にいたが、他の人々ともに一緒にプサンまで逃げた。戦争の最初のころ、北の軍隊は圧倒的な力で南下してきて、南の人々はプサンに追い詰められた。完全に北側の勝利に終わるかもしれなかった。そのプサンでキム・スーハンが聞いたのは、北の軍隊の侵攻により、多くのカトリック司祭が殺害されたということだった。そして、その話を聞いたとき、キム・スーハンは初めて、自分の意思で司祭になりたいと思った」。

この話を聞いて、キム・スーハンにとっては司祭になるということは、死を覚悟するということだったのをわたしは知った。そして、キム・スーハンにとって司祭職受諾とは、「今のこの状況の中でどうしても司祭が必要であり、自分がそれを引き受けるべきだ」ということを意味していたのだと理解できた。

独裁政権下で、人間を守るために発言し、行動したキム枢機卿の司祭職・司教職の原点にはこの覚悟と自覚があったのだと思う。それはまさに、「羊のために命を投げ出す」羊飼いとしての道であり、それこそが司祭が司祭であることの意味だと言えよう。

良い羊飼いは羊のために・・・

2008年11月24日に長崎で列福されたキリシタン時代の188人の殉教者の中には4人の司祭がいた。この司祭たちの姿も「司祭が司祭であることの意味」を考えさせる。

1597年、豊臣秀吉の命により殉教した日本26聖人殉教者の殉教録を読むと、そこには与えられた殉教のチャンスを天国の喜びにあずかるための最高の道として喜び、進んで殉教者になろうという司祭・修道者・信徒の姿が鮮明に伝えられている。しかし、1614年の徳川家康による全国的禁教令(及び、司祭と主だったキリシタン指導者の国外追放令)以降の状況の中で、潜伏司祭として生きた4人の福者司祭は、進んで殉教を求めることはなかった。彼らは日本で司祭として働くことは、最終的に殉教の死で終わるということをよく知っていた。しかし、彼らの使命は一刻も早く殉教することではなく、司祭としての姿を隠しながら、一日でも多く、迫害下のキリシタン信徒のため、そして日本人の救いのために働くことであった。

中浦ジュリアン、イエズス会司祭。1608年、長崎で叙階。1614年以降、「潜伏司祭」として日本に残り、18年間、隠れて旅をしながら、九州各地で活動。1633年、長崎・西坂で殉教。ディオゴ結城了雪、イエズス会司祭。日本に司教がいなくなったため、マニラで叙階された後、1616年に日本に潜入し、20年間にわたって、日本各地のキリシタン信徒を訪れ、励ました。1636年、大阪で殉教。トマス金鍔次兵衛、アウグスチノ会司祭。セブ島で叙階され、1631年、日本に潜入して各地で活動。1636年、長崎・西坂で殉教。ペトロ岐部カスイ。ローマで司祭叙階、イエズス会員。1630年、日本に潜入。長崎、京都を経て東北の水沢に拠点を置いて活動。1638年に江戸で殉教。

彼らは、殉教の栄冠を夢見ながらも、日々、司祭としての地道な奉仕を続けた。司祭は自分の求道のために司祭になるのではない。羊のために命をささげて生きるのが司祭なのである。

羊飼いの働き

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11)。有名な言葉であるが、この日本語には問題もある。新共同訳が「捨てる」と訳す言葉は、ギリシア語では「ティテーミ(置く)」である。ここでは「命を捨てる=死ぬ」ということだけが考えられているのではない。必死で自分の命を守ろうとするのではなく、羊たちのためにそれを差し出すこと。イエスの場合は、実際に「命を捨てた」のだから「捨てる」という訳でよいのだろうが、これを教会の牧者にあてはめようとすれば、「捨てる」よりも「命を差し出す」のほうが適当であろう。これこそが良い羊飼いの生き方の基本である。

カトリック教会で使われている「司牧」という日本語の響きも、問題を含んでいる。「司牧」というと「司祭が信徒の世話をすること」というイメージが強い。「宣教司牧評議会」とか「共同宣教司牧」というように、日本ではよく「宣教司牧」という言葉が使われるが、この場合に「司牧」は教会の内向きの働き、「宣教」は外向きの働きを指しているようである。しかし、本来の「司牧」(パストラル・ワーク)とは教会の牧者としての働きであって、ウチかソトかは関係ない。特に貧しい人、弱っている人、助けを必要としている人のための働きを指すのが「パストラル・ワーク」である。身体的にも霊的にもその人々を助け、命に導くのが、パストラル・ワークであり、その「羊」とは決して信徒だけのことではない。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(ヨハネ10・16)と言われるとおりである。

19世紀に日本に来たパリ外国宣教会の司祭たちは、人々の霊魂の来世における救済を信じ、そのために働く宣教師として極東を目指したはずである。しかし、彼らが実際に出会った病人や貧しい人を、信者であるか否かを問わずに世話していったことは、大切な牧者としての働きであった。

なお、パストラル・ワークの主体は決して司教や司祭だけでないことも忘れてはならない。教会が牧者としての働きをこの世界の中で果たすのであって、信徒も含めて教会共同体全体が、キリストの「良い羊飼い」としての働きに参加するように呼ばれている。その中に司祭の「パストラル・ワーク」もある。「司牧」は司祭の仕事であり、司祭の司牧職とは信徒の霊的な世話だけだと考えるならば、そのような司祭職理解には、根本的に偏っていると言わざるをえない。

問われていることは?

司祭の高齢化、司祭召命の減少が問題だと言われる。だが本当に「羊飼いが足りない」ことが問題なのだろうか。そうではなく、むしろ、自分が命をささげるべき羊が見えないことが問題なのではないだろうか。朝鮮戦争の中で自分の司祭職を見いだしたキム・スーハン、中浦ジュリアンやペトロ岐部には、はっきりと羊の姿が見えていたのではないか。今、ヴェトナムやミャンマーなど、司祭志願者が多い国では「飼い主のいない羊のような有様」の人々の姿がはっきりと見えているのではないか。

逆に、先進国と言われる日本のような社会(消費社会・情報社会)の中では、自分が司祭になるということが、本当に人々の救いのために必要だということが感じにくいのではないか。そういう社会では「司祭が司祭であることの意味」が見えないのだ。それが司祭召命の少ない根本的な理由であろう。

だとすれば問われているのは、わたしたちの教会が、本当に人々の救いに真剣に向き合っているかどうかということである。

第二バチカン公会議文書の『司祭の役務と生活に関する教令』6項に次のような言葉がある。「美しい儀式も盛んな会も、キリスト者としての成熟に達するよう人々を教育するものでなければ、たいして有益ではない」。そして、この箇所の註には次のようなヒエロニムスの手紙が引用されている。「壁が宝石で輝いていても、貧しい人のうちにおられるキリストが餓えているのであれば、何の役に立つであろうか」。

『神学ダイジェスト』 「上智大学神学会神学ダイジェスト編集委員会」発行

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白栁誠一枢機卿 追悼ミサ及び納骨式説教

2010年2月13日 カトリック府中墓地にて

先週、わたしは用があって長崎の大司教館に行ってきました。長崎の町に行って、やはり思い出したのは一昨年2008年11月24日の「ペトロ岐部と187殉教者の列福式」での枢機卿様のお姿でした。

あの日、長崎の県営スタジアムには3万人の人が集まっていて、雨の降る中、ミサが始まりました。何百人という司祭団の行列の後、司教団の入堂の時になってようやく雨が上がりました。しかし、今日のように、非常に寒い日でした。その中で白_枢機卿様はしっかりとミサの主司式司教の役を務め、力強い説教でわたしたちの信仰を励ましてくださいました。

わたしは個人的には、3時間を越える式の最後に枢機卿様がおっしゃったことが強く心に残りました。祝福のためにミトラを付けて、こう言われたのです。

「皆さん、儀式もいよいよ終わりに近づきました。寒い中皆さんよく頑張りましたね。皆様の冷えた心の中に、神様の愛の炎が燃え立ちますように、神様の祝福を祈ります」そして3万人の会衆を祝福してくださいました。

誰が見ても、あの寒空の中で一番たいへんだったのは、枢機卿様ご本人でした。でも、その暖かい心遣いが、その場にいた3万人の心をほんとうにあたためてくれたと思います。

思い起こせば、やはり心遣いの方だったと思います。わたしも神学生のころから、いろいろな心遣いをしていただいた覚えがあります。そして、最後に入院されてからもそうでした。脳出血の後遺症である高次脳機能障害は厳しいものでした。ご自分の置かれた状況が把握できない。ここが病院なのかどこなのか、自分はなぜここにいるのか、今がいつなのか、そういうことがお分かりにならず、たいへんお苦しみになりました。そんな中でも訪ねてきた人に実に見事なあいさつをなさいました。あいさつだけでなく、それぞれの人に応じて励ましの言葉を実に適切にかけてくださいました。10月7日に初台の病院で、わたしは枢機卿様と何人かのお見舞いの方々と一緒にミサをしました。ちょうどロザリオの聖母の祝日でした。ところどころ動作を間違えたりはなさいましたが、覚えておられるミサの式文は正確でした。それ以上に驚いたのは、「マリア様は教会の信仰の中でとても大切です。マリア様を大切にしましょう」というお話をなさったのです。

ご自分がこの場で、ここにいる人々に向かって、どんな神様からのメッセージを語るべきなのか、そういう点でいつも的確な話し方をなさる方でしたし、あの病気の中でもそうだったということは驚くべきことでした。でもそれは非常に疲れることでもあったようです。たいへんつらい思いをしながら、12月30日にその生涯の歩みを終えられました。

第一朗読の言葉は使徒パウロがテモテに宛てた手紙の一節ですが、白_枢機卿様がおっしゃっているような言葉だと思いました。

「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(Ⅱテモテ4・6-8)

神様が枢機卿様のこれまでの労苦に報いてくださいますよう、きょう、この納骨にあたってご一緒にお祈りしたいと思います。ここにお骨をお納めします。お墓には、亡くなった方が安らかに憩う場という面もありますが、わたしたちキリスト信者にとって、お墓は安住の地であるよりも、通過点です。イエスが十字架の死の後、墓に葬られ、そこから復活されたように、墓は復活のいのちへの通過点であり、神の救いの完成を待つ場なのです。枢機卿様はそう信じておられましたし、同じ信仰をもって、今日、枢機卿様をお送りしましょう。

もちろんお墓には、亡くなった人を思い出す場、生きているわたしたちとのつながりを確認する場という意味もあります。皆様、それぞれに枢機卿様のことを思い出しておられるでしょう。今日特に、あの枢機卿様のおだやかな、いつくしみに満ちた態度や言葉を思い起こしたいと思います。

今の世界、今の社会、わたしたちの周りには暴力が満ちています。暴力的な態度、暴力的な言葉。なぜこんなに人間同士が傷つけあわなければならないのか、なぜこれほど憎しみを抱いたり、復讐心をいだいたりし合わなければならないのか。本当に悲しい現実があります。白_枢機卿様は、対立した人間同士の和解とゆるしのために働かれました。そのために、おだやかな心を、やさしい言葉をいつも示してくださいました。

そのすべての力を枢機卿様はどこから得ていたのでしょうか? それは聖体の秘跡の力であったと思います。このミサの福音でイエスはおっしゃいます。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6・56-57)

聖体の秘跡は、わたしたちを変えます。キリストとのもっと深い一致へと変えます。そしてわたしたちがキリストの愛に生きることができるように変えてくれるのです。この秘跡に支えられて白_枢機卿様は、55年の司祭生活を、33年の司教生活を生き抜かれました。わたしたちもこの聖体の秘跡を大切にして生きることができますように。聖体の秘跡が表している、キリストとの完全な一致に到達することができますよう、ご一緒にこのミサの中で祈りましょう。




東京カテドラル献堂記念ミサ説教

2010年8月8日 立川教会にて

今日のミサは東京カテドラル聖マリア大聖堂献堂記念のミサですが、同時に「無原罪の聖マリア」、もっと正確に言えば「おとめ聖マリアの汚れなき御宿り」の祭日のミサです。マリアさまのことを思うとき、わたしはいつも相馬信夫司教のことを思い出します。相馬司教はもともと東京教区の司祭でしたが、1969年に名古屋の司教になり、正義と平和協議会などで活躍され、1997年、81歳で天に召されました。

わたしが神学生だったころ、月に一度「静修」という黙想の日がありました。神学院の外から講話の講師を招くこともあり、相馬司教をお招きしたことがありました。そのお世話をする係がたまたまわたしになりました。

「正義と平和の話をしようか、それとも、マリア様の話をしようか」講話の始まる前に相馬司教は係のわたしに尋ねました。びっくりしました。ぜんぜん話の準備していないということでしょう。「何の準備もなく講話をすることができるというのは、さすがに司教様だ」と感心する思いと、「全然準備なしに話すなんて、なんといい加減な」という思いと、両方ありました。もちろん、「どちらでもかまいません」としか言いようがありません。そうしたら、相馬司教は「そうだな、正義と平和の話はいつもしているから、マリア様の話にしよう」とおっしゃいました。とにかく、わたしは内容にはまったく期待しないで、その講話を聞くことになりました。でも、それが30年後の今でも忘れられない話になったのです。

相馬司教はこうおっしゃいました。

「Ave Maria, gratia plena
って、いい言葉ですね。めでたし聖寵満ち充てるマリア。『あなたは恵みで満たされているんだよ』この言葉は、マリア様にだけ言われたんじゃなくて、わたしたちみんなに言われていると思ってみてください。そう思ったらすごくいい言葉でしょう。そしてさらにDominus
tecum(主、御身と共にまします)。これもわたしたちにも言われている。だとしたらすごいことじゃないか。本当にうれしくなりますね」

「めでたし、聖寵満ち充てるマリア。主、御身と共にまします」

わたしはそれまで、この言葉を自分に向かって言われている言葉だと感じたことは一度もありませんでした。だからすごく新鮮でした。でも本当にそう思ってみると、やはりすごいことですね。

今の聖書の訳では「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」

祈りの言葉では「恵みあふれる聖マリア、主はあなたと共におられます」

相馬司教は、マリア様に対してすごい親しみを感じていて、それで、そのマリアに対する天使の言葉を自分に向かって言われているのだと受け止めるようになったのでしょう。さらに言えば、彼がかかわっていた、東チモールやいろいろな国で人権を抑圧された人々、圧迫された貧しい人々に向かっても、天使は同じように言ってくださっているはずだ、相馬司教はそう感じていたのではないでしょうか。

今日、マリア様の無原罪の御宿りを祝っていますが、「無原罪」というのは、言葉を変えて言えば、「Gratia plena(恵みに満たされている)」ということです。マリア様はその生涯の最初から「恵みに満たされていた」それが聖マリアの無原罪という教えです。マリア様が「恵みに満たされていた」からそのマリアから生まれたイエスが神の子だというのではありません。逆です。神の子イエスを産んだ方だから、キリストの救いを最初から受けていた、だから「恵みに満たされていた」ということです。

だから本当はマリアさまだけが「恵みに満たされていた」というのではないのです。キリストの救いにあずかっている、という意味で、わたしたちも皆「恵みに満たされている」のです。「恵みに満たされている」というのは教会の本来の姿であり、それを典型的に表すのがイエスの母マリアなのです。

エフェソ書5章27節の言葉で言えば、「しみも、しわも、汚れもない」教会の本来の姿。それをマリア様の中に見るのが、今日の祭日の意味です。

現実のわたしたちの教会はどうでしょうか。カテドラル献堂45周年、2年前に大改修工事も行って、外見はきれいになっています。でもやっぱり内側には「しみや、しわや、汚れ」がいっぱいあるというのがわたしたちの教会の悲しい現実でもあります。だからこそ、わたしたちはいつもいつもキリストの救いの原点に立ち返りたいのです。神だけが、キリストだけが、わたしたちを「しみも、しわも、汚れもない」者にしてくださいます。

「おめでとう、恵みに満たされた者、主があなたと共におられる」この言葉を今日、あらためてわたしたち一人一人に向けられた言葉として受け取りましょう。そして、その原点に立ち返って、わたしたち東京教区の教会が、司教をはじめ、司祭・助祭・信徒・修道者みなが一つになって、罪と悪の力に打ち勝つことができますように、キリストの体である共同体として成長していくことができますように、心から祈りたいと思います。




帰天司祭合同追悼ミサ説教

2009年11月30日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

第一朗読 Ⅰコリント13・8-13
福音朗読 マタイ25・31-40

このミサは、亡くなられたすべての司祭の追悼のためにささげるミサです。今年は1月14日に「心のともしび」のジェームズ・ハヤット神父様が86歳で亡くなられました。今年亡くなられた東京教区司祭はハヤット神父様だけでしたが、他にもわたしたちに親しい司祭として3人の方を思い出します。1人は、仙台教区の今野東志男神父様。2月18日、仙台でお亡くなりになりました。66歳でした。もう1人はスカボロ外国宣教会のフランシス・ハクシャ神父様。5月14日、82歳でカナダで帰天されました。さらに、7月24日にはアイルランドで、コロンバン会のウィリアム・スパイサー神父が59歳で亡くなられました。3人とも長く東京教区の教会で働いてくださいました。わたしが存じ上げないだけで、きっと他にもいらっしゃるかもしれません。

わたしにとってもう1人、強い印象を残した方の死は、韓国の金スーハン枢機卿の死でした。2月16日のことでした(86歳)。亡くなってから葬儀までの数日間で数十万人の韓国市民がミョンドンのカテドラルに弔問に訪れたそうです。カトリック信者だけでなく、イ・ミョンバク大統領始めとする他の教派、他の宗教の人もおおぜい金枢機卿を偲んで訪れました。何人もの人が言っていたことが印象的でした。「本当に惜しい人を亡くした」ではなく「本当に大切なものを残してくれた」。それは、ただ単に立派な人だったというのではなく、彼が残したものをわたしたちは受け継いでいきたい、という思いだったようです。

先々週、日韓司教交流会が大阪でありました。今年のテーマの一つは金枢機卿の残したものを学ぶということでした。ソウル教区の司祭、そして補佐司教として金枢機卿のもとで長く働いたチェジュ教区のカン司教さんが金枢機卿についての講話をしてくれました。

金スーハンは子どものころ、母親に「お前は司祭になりなさい」と言われて小神学校に入ったそうです。でも、神学生でありながら、ずっと司祭になりたいという思いは起こらなかったそうです。神学校をクビになるためにわざと規則を破ったこともありました。またある時は神学校の院長のところに行って、「わたしは母親に言われて神学生になりました。もう十分やりましたので、そろそろ辞めようと思います」と申し出たそうです。でも神学院長は認めてくれませんでした。そうこうしているうちに神学校の最終学年になりました。そして、そのとき、朝鮮戦争が起きました。最初、北の力が圧倒的に強く、南はどんどん追い詰められ、釜山しか残りませんでした。ソウルの神学校にいた金スーハンも釜山に逃げました。そしてそこで、北の軍隊によって、多くの司祭が殺されたということを聞きました。そのことを聴いた時、初めて、金スーハンは自分の意思で司祭になろうと決意したのだそうです。そのときはじめて、何のために司祭にならなければならないかが、分かったのだと思います。司祭の数が減っていく。釜山が落ちたら自分も殺されるに違いない。でもだからこそ、自分は司祭にならなければならない。そう感じていたのでしょう。

70-80年代のパク大統領の独裁政権下で、すべての人が沈黙を強いられる中で、人間を守るためにいのちがけで発言し、体を張って行動したという話を今更、繰り返して紹介する必要はないでしょう。カン司教の講話を聞いて、金枢機卿の生き方の根本には、叙階のときの決意があったからではないかと思いました。

わたしたちに先立っていった司祭たちのことを思います。みんなどのような思いで司祭になったのでしょうか? 皆どのような思いで司祭職を生き抜いたのでしょうか?

すべての司祭は、人を愛するために司祭になり、愛を生き抜こうとしたのだと信じます。人間的な弱さがあって、足りないところもあったでしょう。神様、どうかその罪をおゆるしください。でも精一杯愛して生きようとしたのです。その生涯の労苦と愛に、神よ、目を注いでください。そして、顔と顔を合わせて、あなたを仰ぎ見たときに、「お前が愛そうとしたことは、決してむなしいことではなかったのだ」とおっしゃってください。「信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは愛である」とおっしゃってください。

わたしたち司祭はそのあなたの言葉を聞くために、生涯をささげたのです。

アーメン。




教区「こころのセミナー」最終回ミサ説教

2009年11月7日 麹町教会にて

年間第32主日(マルコ12・38-44)

エルサレムの神殿でイエスはさまざまな人に出会いました。商売をしている人、金持ち、サドカイ派の人や祭司長、ファリサイの人や律法学者。富や権威を持っている人たちが神殿で幅を利かせていたのです。しかし、イエスの心を動かしたのは、最後に出会ったこのやもめの姿だけでした。必死の思いで神に向かっていったこのやもめの姿にイエスは感動します。そして弟子たちに彼女の姿に目を留めるように促します。イエスは「やもめ」がかわいそうな人だから、彼女に目を注ぐようにと言っているのではありません。だれよりも真剣に神に向かう姿勢を特別に評価しているのです。しかしここで、イエスとこのやもめの間には、それ以上の出会いはありませんでした。それは受難の時が迫っていたからでしょうか。この「やもめ」というテーマは初代教会に受け継がれていくことになります。

旧約聖書でも「やもめ」は孤児や寄留者と並んで弱者の代表であり、心にかけるべき存在と見なされていました(申命記24・19-22参照)。初代教会では、もっと積極的に、教会の大切なメンバーとして受け入れる姿勢が見られます。

使徒言行録6章にこういう箇所があります。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」(使6・1)。この分配のために立てられたのが最初の助祭といわれるステファノやフィリポたちでした。「やもめ」と呼ばれる人々が教会共同体の中で特別に保護されていたことが分かります。

Ⅰテモテ5・3以下にはこうあります。「3身寄りのないやもめを大事にしなさい。4身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます。・・・9やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、10善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」

「やもめ」の役目は特に清い心で祈りに専念するということでした。3世紀のローマの教会でヒッポリトという司祭が書いた『使徒伝承』という本がありますが、そこにも「やもめ」が出てきます。そこでも「やもめ」には祈るという役割が与えられ、同時に教会が彼女たちの生活の世話をしていました。他の信者には、やもめを食事に招く務めがあると考えられていたようです。弱い立場のやもめたちをただ一方的に保護するというのではなく、彼女たちには共同体の中での大切な役割があるというのが古代の教会の見方でした。このような見方、かかわり方の根底には、きょうの福音のイエスの、やもめに注がれた眼差しが大きく影響していたはずです。

ところで、わたしは教会で働いていたときに、DV被害者の女性や、虐待を受けた子どもたちと出会い、トラウマのことを自分なりに勉強するようになりました。彼らはまさに、聖書に出てくるやもめや孤児のように孤立無縁の人たちでした。そして、現代の「孤児」とは、まさに虐待を受けた子どもたちであり、現代の「やもめ」とは、DV被害女性だと思うようになりました。よく知られていることだと思いますが、今、養護施設にいる子どもたちの多くは孤児(親のいない子ども)ではなく、親から虐待を受けた子どもたちです。古代社会の「孤児」は自分を守ってくれる親のいない子どもなので、非常に弱い立場ですが、現代の被虐待児童は、その自分を守ってくれるはずの親から虐待を受けているのです。同じように、聖書の中で、自分を守ってくれる夫のいない女性がやもめであるなら、現代のDV被害女性はその夫によって危険にさらされているのですからもっと悲惨かもしれません。

暴力の話は聞くのはつらいことです。まともに聞いてしまうと、聞く側にとっても大きなダメージになります。だからついつい「そんなひどいことあるはずがない」「たいしたことじゃないよ」「気にしすぎないで早く忘れればいいのに」・・・そういう思いが生まれます。でもそれはトラウマを負った人をさらに孤立無援に追いやっていくことでもあります。

また、苦しんでいる人に同情するあまり、「どうせあなたは弱くて、傷ついていて、何もできないから」と言って、いろいろ世話をしすぎる、とんでもないお節介をしてしまうことも、実は結構あります。これはその人の持っている最後の力まで取り去ってしまうことにもなります。

わたしたちはトラウマを負った人々にどうかかわるべきでしょうか?古代の教会共同体の人々が、孤児や「やもめ」に手を差し伸べたように、何かできることがあるのではないでしょうか。もちろん現代では、生活を保障するのは国や行政の役割でしょう。しかし、先ほどの講義で井貫(正彦)先生がおっしゃったように、「よりそう、つきそう、気にかける、手伝う、話を聞く」ということは、まさにわたしたち教会共同体のテーマなのではないでしょうか。

きょうの福音のイエスの、やもめに対するまなざしを思い出しましょう。古代の教会の、やもめに対する関わりを思い起こしましょう。イエスや古代教会の人々が、やもめを「ただかわいそうな人」と見るのではなく、その人たちの中にほんとうに素晴らしいものを見ていたことを思い起こしましょう。そして今、暴力や虐待によって傷ついている人々に対して、あるいは、他のさまざまな理由で心の傷を負った人々に対して、わたしたちができることを少しずつでも見つけ、実行していくことができますように、その勇気と力が与えられるように、このミサの中で祈りたいと思います。




教区合同追悼ミサ(府中墓地)説教

2009年11月1日 カトリック府中墓地にて

諸聖人の祭日(マタイ5・1-12a)

きょう、亡くなった方々の合同追悼ミサにあたって、わたしたちキリスト者の、死を超える希望をご一緒に確認し、新たにしたいと思います。

キリスト教的に言えば、人間はあるとき生まれ、あるときに死んでいくという、ただそれだけのものではありません。わたしたちは皆、神から来て、神のもとへと帰っていくものです。地上に生きている間、人間的に見れば、ある人の人生は成功、ある人の人生は失敗に見えるかもしれません。経済的に恵まれている人も、貧しさのうちに一生を終える人もいます。健康な人もいれば、病気や障害を持った人もいます。この世では、ラッキーな人もいれば不運な人もいる、そう見えます。

しかしわたしたちは、人生を肉体的な誕生から死までのものと見ないのです。目に見える世界がすべてではないし、生物学的ないのちがすべてではないし、カウントできる数の世界だけがすべてではない。もっと大きな歩み、神から来て、神のもとに帰っていく大きな旅があって、この世のいのちはその一部だと見ています。いいですね。今日わたしたちはお墓まいりに来ていますが
、ここが人生の終着点ではないんです。お墓は、神のもとにいく最後の停留所と言ったらいいでしょうか。お墓はもちろん、亡くなった方と残されたわたしたちの絆を思い起こす場所ですが、それだけでなく、ここから最終の目的地である神のもとへ旅立っていったことを思い起こす場所なのです。そしてむしろ、亡くなった方々が神の永遠の世界に入っていると信じるからこそ、亡くなった方とわたしたちの交わりが今もなくなっていないと信じられるのです。

 
神から来て神へ。そういう人間の大きな旅を思うとき、地上の成功や不成功、損や得、幸運や不運がすべてではなく、根本的に永遠の神との関係がどうか、ということが一番大切なことだということになります。この世的にどんな幸せそうに見えても、神との関係がおかしければその人の人生はおかしいし、逆に、どんなに苦しみに満ちた人生であっても、神としっかりつながっていれば、素晴らしい人生だとわたしたちは考えるのです。

 
きょうの福音で「貧しい人、悲しむ人、飢え渇く人は幸い」と言います。なぜなら、そこにこそ神との豊かなつながりがあるから、ということですね。

 
そして「あわれみ深い人、心の清い人、平和をもたらす人は幸い」とも言います。なぜなら、その人々は、その生き方をとおして神につながっているからですね。大切なのはこの神とのつながりです。なぜなら、この世のものはすべて過ぎ去りますが、神とのつながりは永遠に過ぎ去ることがないからです。

その神とのつながりを考えた時、一番大切なのは「愛」です。「神は愛」(Ⅰヨハネ4・8,16)であり、「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13・8)、これがキリスト教の確信ですね。わたしたちは永遠の神の愛に生かされ、永遠の愛に応えて生き、永遠の愛に帰っていくのです。だから地上で精一杯愛して生きようとするのです。聖人とはまさにそういう歩みをした人たちでした。

では聖人じゃない「凡人」はどうか?凡人の道はどういう道なのか。凡人の道も、神から始まり、最終的に神に帰っていく道です。でもその間、地上で生きている間は、神のことを忘れて迷ったり、道を踏み外したりして、最後の土壇場になって、神との決定的な出会いを前にアタフタするという歩みではないでしょうか? だから死んでから凡人は清めを受けなければならない、そのために煉獄というところがある、そう昔から教えられてきました。確かに、何からしらそういう清めが必要だというのは実感として分かるような気がします。

この清めとは、別の言葉で言えば「愛の完成」です。凡人だって一生懸命愛して生きてきました。親しい友を、家族を、せめてわが子を・・・。もちろん純粋な愛かといえばそうはいえないかもしれない。人を傷つけたり、裏切ったこともあるわけです。でも決して自分のことだけを考えて生きてきたわけではない。

そのわたしたち凡人の道も死で終わる道ではなく、死を超えて完成していく、そこに大きな希望があります。その意味で、今日の第二朗読は大切な箇所です。

「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(Ⅰヨハネ3・2)

御子に似たものとなる(別の解釈では「神に似たものとなる」)。それは、わたしたちの不完全な愛が、キリストの愛に変えられていくということではないでしょうか。決定的なキリストとの出会いによって、わたしたちは罪から清められ、愛そのものになっていくのです。

今日、亡くなった家族や知人のことを思います。それはわたしたち人間みなの、この長く、大きな旅路を思うことだと思います。わたしたちに先立って世を去った人々は、もう神のもとに行きました。わたしたちも同じ旅路を歩んでいます。その中で問われているのは、神とのつながりです。亡くなった人はわたしたちにそのことを教えてくれているのです。そのことを見失わないように。毎日毎日、仕事やお金やいろいろな思い煩いでいっぱいになりそうになっても、一番大切な神とのつながり、神の愛に気づき、感謝し、その愛に応えて精一杯生きることができますように。そう願いながらこのミサをささげましょう。