四旬節第二主日・パウロ野口邦大助祭叙階式

2016/02/21成田教会にて

聖書朗読箇所

第一朗読 創世記15・5-12、17-18
第二朗読 フィリピ3・17~4・1
福音朗読 ルカ9・28b-36

 

ホミリア 

今日は四旬節第二主日。この日のミサの福音は毎年、山の上でイエスの姿が真っ白に光り輝いた、いわゆる「主の変容」の場面です。今日、このミサの中で助祭叙階を受ける野口邦大神学生は、変容のイエス様のように光り輝いて見えるでしょうか?五年間の神学院での修練を終え、助祭叙階の日を迎え、まさに「ピカピカの新助祭」という感じですね。  
ただし、このイエスの光り輝く姿はただ単にピカピカしていたというのではありません。本当のイエスの輝きがどこにあるのか、そのことを今日の福音をとおしてご一緒に考えてみたいと思います。  
この出来事は受難予告の後、すぐに起こりました。ルカ福音書によれば、イエスが旧約聖書を代表する二人の人物、モーセとエリヤと話し合っていた内容は、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」だったと言われています。この出来事はイエスのこれからの受難の道、十字架の死に至る道と結ばれています。そこから分かることは、このイエスの栄光の姿は受難と死をとおしてイエスが将来受けることになる復活の栄光だということです。四旬節のはじめに、この復活の栄光のイエスの姿を見つめながら、イエスとともに精一杯神に信頼し、人を愛する道を歩んでいこう、それが今日の典礼の呼びかけです。  
野口さんも今日は「おめでとう」とみんなに言ってもらえるけれど、これからたいへんですね。神学生のうちはどの教会に行っても期待され、だれからも愛されます。でも助祭になり、司祭になるに従って、だんだん困難なことに直面します。そんなとき、「仕えられるためではなく仕えるために来られた」キリストにしっかりと従っていきなさい。そうしたらイエスとともに栄光に入ることが約束されています。もちろんその通りです。じゃあ、その歩みの中で何を大切にしていったらいいのか、今日のイエスはなぜ光り輝いているのか、今日の福音には大切なヒントがあります。  
イエスは「祈るために山に登られた」とあります。また「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に光り輝いた」とあります。この祈りがヒントなのです。実は今日の変容の場面とよく似た場面があります。それはイエスの活動の出発点になったヨルダン川での洗礼の場面です。  
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(ルカ3・21-22)  
今日の箇所で雲の中からの声は「これはわたしの子、選ばれた者」でした。洗礼のときの天からの声とよく似ています。内容としては同じことだとも言えるでしょう。洗礼のときもイエスが「祈っておられる」とこの「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえたのです。  
洗礼の出来事は、イエスのこれからの歩みが神の愛する子としての歩みであることを表しています。そして、変容の出来事は、イエスの受難への道もまた神の子としての歩みであることをはっきりと示しているのです。そしてこれをイエスは祈りの中で受け取りました。本当にこの祈るイエスにならいたいと思います。祈りの中で受け取るべき大切なこと、それは2つあります。  
一つは「おまえはわたしの愛する子だ」という神の声です。父である神がわたしを愛してくださっているということ。何があろうと神はわたしを決して見捨てないこと。このことをいつも祈りの中で受け取りたい。  
もう一つは「神はわたしを選んでくださっている」ということ。今日の福音では「選ばれた者」という声がありました。「神の選び」については、預言者イザヤの召命の場面を思い出します。イザヤは神の栄光の現れに接し、そこで「誰を遣わすべきか。誰がわれわれに代わって行くだろうか」という神の声を聞きました。イザヤは答えます。「わたしがここにあります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)。それは預言者イザヤが祈りの中で神の選びを感じた体験だったと言えるでしょう。  
フランシスコ教皇のモットーは「あわれみ、そして選んだ」という言葉です。これは徴税人マタイの召命の箇所からインスピレーションを得た言葉です。イエスは彼をいつくしみに満ちた愛をもって見つめ、そして彼を選ばれ、ご自分の使徒として使おうとされたのです。フランシスコ教皇にとって、自分が司祭として、司教として、教皇として選ばれたことはそういうこと。祈りの中でそう感じ、受け止め、教皇職を引き受けておられるということでしょう。  
わたしたちは祈りの中で、いろいろ神に訴えます。現実はこんなに悲惨です。人々はこんなに苦しんでいます。わたしは罪深く無力な人間です。神様なんとかしてください。…でも祈りの中の答えは、「おまえがいる。わたしの救いを人々にもたらすためにおまえが必要だ」というものではないでしょうか。預言者イザヤも、徴税人マタイも、フランシスコ教皇も、その神の呼びかけを聞いて応える道を選んだのだと思います。野口邦大さんもこの神の呼びかけに答えて、司祭になろうと思い、今日まで歩んできました。これからもずっとその思いを大切にしてください。祈りの中で、自分が神から愛されていること、自分が神から必要とされていること。そのことをしっかりと受け取りながら、歩み続けてください。  
お集まりの皆さんに是非、分かってほしいと思います。野口邦大さんが光り輝いて見えるとしたら、それは彼が「神はわたしを愛し、わたしを必要としている」と気づいたからです。本気でそう受け取った時、その人の人生は光り輝きます。わたしたち皆が、特に若い人たちが、その神の呼びかけ、「わたしはあなたを愛している、あなたが必要なのだ」という声を祈りの中で受け取ることができますように。アーメン。




諸聖人の祭日(教区合同追悼ミサ・五日市霊園)

2015.11.1 あきる野教会にて

聖書朗読箇所

第一朗読 黙示録7・2-4, 9-14、 10ab
第二朗読 一ヨハネ3・1-3
福音朗読 マタイ5・1-12a

 

ホミリア

今日11月1日は諸聖人(すべての聖人)の祭日です。11月2日にすべての死者のために祈るのは、もともと諸聖人の祭日の余韻のように生まれた習慣です。今、日本では11月1日の諸聖人の祭日の前夜のハロウィンのほうが有名になってしまいましたが、一番大切なのは、この諸聖人の祭日です。

この祭日の特徴として、「天上の教会(天にある教会)」という考えがあります。第一朗読は黙示録でした。黙示録は古代ローマ帝国のキリスト教に対する厳しい迫害の中で、迫害されているキリスト信者を励ますために書かれました.目の前には悲惨なことばかり、苦しみと死がこの世を覆い尽くしている。でもこの目に見える地上の現実を超えて、神はわたしたちに救いを、栄光を用意してくださっている、そのビジョンを語るのです。ヨハネが肉眼で見ていたのは、迫害におびえている小さなキリスト教会の姿でしたが、「幻」というか心の目で、神のもとに完成する天の教会のイメージを見、それを語っているのです。そこには地上で苦しんだ者、キリストに従って生きた人々が神とともに喜びを味わっています。どうでしょう。イメージが湧きますか?

わたしたちは日々、地上のことを考えて生活しています。いろいろな計画があり、悩みや心配があり、地上のことを考えるのがほとんどの時間かもしれません。キリスト信者であれば、この地上の生活は神によって守られ導かれていると信じていて、その中で精一杯神のみこころにかなう生き方をしようと努力していることでしょう。でも、だからこそ、わたしたちの関心は、日々地上のこと(仕事や人間関係、家族のことなど)に向かっていると思います。それは当然と言えば当然のことです。

でも今日は、特別に天上のことに思いを馳せる日です。わたしたちの人生は地上で完結するのではなく、天において完成される、そのことを思うのです。もともと聖人とはほとんど殉教者のことでしたから、地上の苦しみを経て、天で神の栄光にあずかるということが大切に考えられてきました。この人たちは確実に天において神とともに永遠のいのちに生きている、そしてわたしたちのために祈っていてくれる、カトリック教会ではそう信じてきたのです。

諸聖人の翌日が死者の日です。列聖された聖人や殉教者だけでなく、亡くなったすべての人は同じ天の栄光、神との完全な一致、永遠のいのちへと向かっています。完全な神との一致のために、人は愛に反する一切のものから清められなければならない。第二朗読のヨハネの手紙で、「御子が現れるとき、御子に似た者となる」という表現がありましたが、わたしたちが神と(キリストと)出会うとき、わたしたちはすべてのエゴイズムから愛へと清められていくのです。わたしたちに先立って亡くなった人たちはまだその清めの途中にいるかもしれない。だとしたら、完全な神のいのちにあずかれるように、生きているわたしたちがその人たちのために祈ることができる。それも古くから大切にされてきたことです。しかし現代では、もっともっと神のいつくしみに信頼して、亡くなった家族や友人をそのいつくしみ深い神にゆだねながら祈ることができる、ということが強調されていますし、それは本当に大切なことです。

そして、もう一つの大きなテーマは、やはりわたしたち(地上に生きているこのわたしたち)も天の栄光に向かっているということです。わたしたちの歩みも地上の生涯の最後で終わるのではなく、それを超えた神との出会い、神との一致に向かっているのだ。これがわたしたちの信仰です。

ふだんはあまり考えないかもしれません。まあ考えなくても良いのかもしれません。でも11月の死者の月・死者の日を迎え、わたしたちに先立って逝った親しい方々のことを思い起こしながら、本当にわたしたちの歩みも最終的に神に向かう歩みなのだということを思い起こしたいと思います。

最終的に天で実現すること、それは「絆の完成」です。わたしたちは神さまを信じています。でもその神さまとのつながりは、どこか不完全なものでしょう。その神さまとのつながりは死を超えて、神と顔と顔を合わせて出会うときに完成する、これがわたしたちの希望です。またそのときにわたしたち人間同士の絆も完成する。わたしたちは家族として、友として、人との絆を大切にして生きていますが、それも地上ではどこか不完全な面があるでしょう。わたしたち同士の絆は死によって断ち切られてしまうようにも感じられます。でもそうではない、本当はわたしたち人間同士のきずなも死を超えて神さまのもとで完成していく、わたしたちはそう信じるのです。

そう信じながら、神への歩みをしていくのです。その歩みはわたしたちの先輩である聖人たちが歩んだのと同じ道です。今日の福音にはその道がどういうものであるか、よく表れています。

「貧しい人は幸い、悲しむ人は幸い、柔和な人は幸い、義に飢え渇く人は幸い、憐れみ深い人は幸い、心の清い人は幸い、平和を実現する人は幸い、義のために迫害される人は幸い」

目先の利益ばかりを見ていたら、愚かに見える生き方かも知れません。

しかし、最終的に天に向かって、神さまに向かって歩んでいくということの中で、この幸い(真福八端)の道を確かなものとして見つめ、精一杯歩んでいきたいと思います。




平和旬間2015講演「日本の教会の平和に対する使命〜戦後70年司教団メッセージをめぐって〜」

日本の教会の平和に対する使命〜戦後70年司教団メッセージをめぐって〜

2015年8月8日 麹町教会にて
東京教区補佐司教 幸田和生

(1) 戦後70年メッセージの採択まで

皆さん、こんにちは。今日は東京教区の平和旬間行事にお集まりくださいまして、ありがとうございます。暑い中ですが、8月を迎え、平和について考え、平和のために祈り、平和のためにできることをしようという、この平和旬間を大切にしたいと思います。今年も例年のようにこの麹町教会ヨセフホールで講演会があり、その後、平和巡礼ウォーク、カテドラルでの平和を願うミサという流れです。

講演会にはこれまでいろいろな人を呼んできていますね。先日、日比谷野外音楽堂で、安保関連法案に反対する集会に参加しましたが、そのとき高田健さんとか落合恵子さんとか、そういう人が壇上にいらっしゃいました。それを見て前に平和旬間に呼んだ方だなあと思っていました。これまでそういう有名な方を呼んでお話を聞いたりしましたが、今年はなぜか私です。司教を呼べば講師料がかからない、そういう理由でしょうか? 冗談はさておき、今回呼ばれたのは、戦後70年の司教団メッセージの草案を書いたということで、このメッセージについて話してくださいということでした。

70年のメッセージは、小さなパンフレットになっています。ぜひお読みいただきたい。もちろん読んでいらっしゃるとは思いますが、今日終わったら、もう一度読んでほしいと思います。

この戦後70年にあたり、司教団メッセージを出そうということは去年から話し合っていました。どのように準備しようかということで、社会司教委員会に準備が任されました。社会司教委員会は、難民・移住移動者、カリタスジャパン、部落差別・人権、正義と平和というような、日本の司教団のなかで社会的な働きをする司教の集まりです。私はたまたま、この委員会の副委員長でしたので、草案を準備する役目を仰せつかりました。

去年から、社会司教委員会で何度か話し合い、この草案を準備し、できれば早く出したほうがいいだろう、ということになりました。6月に定例司教総会があるので、そこで決めてもいいのですが、日本の政治の動きがあまりに急だから、できるだけ早い方がいいだろうということで、2月の臨時司教総会に草案を提出、採択、発表できるように準備しました。臨時司教総会は、臨時と言いながら結局毎年あるんです。この2月で合意に達しなければ、6月までかかってもいいからと、とにかくメッセージを出す準備をしてきました。2月の臨時司教総会で出したところ、いくつかの修正意見がありましたが、短時間の審議で決まり、採択されました。

司教団メッセージというものは多数決でなく、基本的に司教全員が同意しないと、司教団メッセージにはなりません。ですからそう簡単には決まらないのでは?と思っていたのに、今回はあっという間に決まりました。それは日本の司教たちが、今の政治状況に非常に危機感を強くしているからだと感じました。

時々、司教団は随分、左寄りのことを言うようになった、と言われます。そんなことないと思います。日本の政治があまりにも急に右寄りになっただけじゃないでしょうか。私たちは変わっていないつもりですが、日本全体があまりにも右傾化してしまったので、目立つのかもしれません。とにかく、今の日本の動きに対する大きな危機感から、できるだけ早くこのメッセージを出そうということになりました。

★ 日本の教会・司教団の平和への取り組み

日本の教会、カトリック教会、司教団の平和への取組みがどう進んできたのか、まず、お話します。

もちろん、1945年の敗戦そして原爆などの経験から、いろいろなところで平和への取り組み、平和への祈りが続きました。それは忘れてはならないことです。しかし、大きく日本の教会、司教団として平和に取り組むようになったきっかけは、1981年にヨハネ・パウロ二世教皇が日本にいらして、広島で平和アピールを出されたことです。これが大きな刺激になりました。

「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。このヒロシマほどこの平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。」(冒頭の言葉)

ヨハネ・パウロ二世教皇はこのメッセージの中で、核兵器だけではなく、戦争そのものにはっきり「ノー」と仰いました。こういうメッセージをわたしたちはいただいたのです。カトリック信者だけではなく、日本の社会に大きな印象を残したメッセージでした。

カトリック教会の司教団では、このメッセージにこたえるように、次の年から「日本カトリック平和旬間」というものを始めました。広島の原爆の日、8月6日から長崎の原爆の日(9日)をはさんで終戦の15日までの10日間を特別な祈りの期間として、実行するようにしたのです。

次の流れとしては1986年が大切な年です。東京でアジア司教協議会連盟(FABC)総会がありました。そこにアジアの司教が大集合しました。アジアの司教たちを迎えて、当時の司教協議会の会長、白柳誠一東京大司教がミサの説教をしました。そのなかで、日本の戦争責任についてはっきりと語ったのです。一番、中心のところはこの部分です。

「わたしたち日本の司教は、日本人としても、日本の教会の一員としても、日本が第二次世界大戦中にもたらした悲劇について、神とアジア・太平洋地域の兄弟たちにゆるしを願うものであります。わたしたちは、この戦争にかかわったものとして、アジア・太平洋地域の二千万を超える人々の死に責任をもっています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に今も痛々しい傷を残していることについて深く反省します。」

1986年の白柳大司教の言葉です。私はこの言葉を引用しようと思って、インターネットで探しました。「白柳誠一」とかで検索をかけたら、「反日」って出てきてびっくりしました。白柳誠一という人は、こういうことを言った、とんでもない、日本の威信を傷つける人間だ、と言われていたのです。すごくショックを受けました。大司教さんは、およそ反日と呼ばれるような方ではありません。でも、この言葉、当たり前に私たちは受け取りますが、時代によって、特に最近はこういうことを言えば反日だと言われてしまう、そういう動きもでてきているのですね。

時代の流れとしては、この時代は特に、戦争責任ということを見つめ直す時期だったと思います。プリントにも書きました。1985年、ドイツ敗戦40年にあたって、ワイツゼッカー大統領が「荒れ野の四十年」という演説をしました。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」という有名な言葉をおっしゃいました。ナチス・ドイツの大きな人道的罪があり、その反省をもとに、戦後ドイツは歩んできたが、40年たつと、ネオナチのような動きも出てきて、過去をなかったかのようにして、悪がなかったように、動き始める現実もある。そういうなかで、もう一度過去としっかり向き合わなければ、その過去の罪に向き合わないといけないと、語られたのです。この演説は日本でも大きな反響を呼びました。

日本でもこの頃、日本の戦争における加害責任について、はっきりと考えられるようになってきました。今もいろいろなことで原点になっていると思います。河野談話が出されたのは1993年です。これは従軍慰安婦について国家の関与を認めた官房長官としての談話でした。村山談話はもちろん、戦後50年の1995年のことでした。日本の加害責任をきちんと見つめようという動きがありました。

教会でも白柳大司教の言葉に代表されるように日本の国の加害責任、またそのなかで、教会としての責任もきちんと見つめようという動きが強くなったと思います。この白柳大司教の言葉は、アジアの司教たちが来たから何か言わなければ、と1人で考えたのではありませんでした。総会の前に司教たちが集まり、どのようにアジアの司教に話すか、一緒に考えてこのように謝罪、反省することになったのです。個人ではなく、司教団の代表としての言葉です。

プリントに1988年、本島等長崎市長の「天皇の戦争責任」発言のことも書きました。本島市長は、「天皇に戦争責任があると思う」とはっきりと市議会で言い、それが問題になり、その後銃撃され、死にかけました。幸い、命をとりとめました(残念ながら去年亡くなられました)。「天皇の戦争責任」ということで話題になりましたが、本島市長は天皇だけではなく、日本全体に、戦争の加害責任があると考え、当時の日本の制度上、天皇に責任がないとは言えないと言ったのです。日本に戦争の加害の責任があるということをきちんと見つめようとした。でも、この本島市長の発言に暴力的に反対する人もいたわけです。

このように1980年代から90年代にかけて、加害責任が見つめられました。1995年に司教団は「平和への決意〜戦後50年にあたって」という平和メッセージを出しました。そして、60年、70年と出しました。

★ 特別に平和についての使命を感じる理由

日本の司教団は、特別に平和についての使命を感じています。平和という問題について、特に自分たちが何かしなくてはならないという想いが強いです。それには理由があります。日本のこれまでの歩み、日本が広島、長崎、という原爆の悲惨な経験をしているだけではなく、ほんとうに大きな戦争の惨禍を経験した。同時に、それ以上に加害の歴史をもっている。周辺の、アジアの国々を傷つけた侵略と植民地支配の歴史を持っている。そして心ならずもその戦争に対して教会が積極的に協力してしまったこともありました。その反省があるので、日本の司教団としては平和のことについては、何もせずには、黙ってはいられないと強く感じてきているのです。

今年のメッセージは最初のほうで第二バチカン公会議の言葉を引用しています。司教団は社会問題について発言し、特に戦争や平和のことについては多くのメッセージを語りますが、ときどきお叱りをうけます。「なぜそんな政治的な問題について発言するのか?」これに対する答えが『現代世界憲章』の冒頭の言葉にあります。

「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」(『現代世界憲章』1)

70年メッセージのこの部分の「注」には、フランシスコ教皇の文章も引用しました。

「司牧者には、科学の貢献を受け入れつつ、人間の生活に作用するすべてのことがらについて意見を表明する権利があります。もはや、宗教は私的な領域に限定されるべきもので、天国に行くために霊魂を整えるためだけにあるなどと主張することはできません」(使徒的勧告 『福音の喜び』182)

今の教皇は、社会・経済の問題、特に貧しい人たちや環境の問題に、積極的に発言し関わっています。人間の生活のことがらの全てのことに意見を表明する権利があると。私たち日本の司教団も政治的問題というよりは人間のいのちの問題として、特に平和の問題については沈黙できないと考えています。

 

(2) 戦後50年〜70年メッセージ・主な論点

これまで司教団はメッセージを出してきました。大筋には、平和を大切にしようということがあり、それは当たり前のことです。そのために祈り、それが神様のみ旨だからあくまで平和を求めていこう、ということにも異論はない。でも、微妙に論じられてきた点、変化してきた点があると思います。

★ 戦前の日本の戦争責任と教会の戦争責任について

そのひとつは、戦前の日本の戦争責任と教会の責任をどのように表現するか、ということ。特に教会が戦争のときに、本当に正しい態度をとったかどうかということ、戦争に協力してしまったという問題をどのように見ていくのか、という問題。年配の司教たち(私よりも20年~30年年長の司教たち)は、自分の身近な先輩や同年代の人たちが戦争に深く関わっていたことを知っています。そのなかで、苦しんでいたことも知っている。教会が被害者だった面もあります。特にカトリック教会は外国の宗教とか、外国とつながった宗教と見られ、スパイのように疑われたこともある。そういう面で、教会は被害者だった、教会も苦しんだのだ、という見方もできます。その時代の先輩たち、同世代の人たちへの配慮もありました。戦争した人も好きでしたわけでないという思いもあり、戦争責任について、あまり強く言うのはどうだろう?という考えがあったと思います。一方では、やはり率直に、日本の加害責任を認めなくてはという考えもあり、せめぎ合いがあった。戦後50年の時は司教団の中でそういう意見のくい違いがあったそうです。私はもちろんその場にはいませんでしたが、戦後60年のメッセージを決めるとき、私は司教になったばかりで、司教総会に参加していました。そのときも、大きく対立、というか思いの隔たりがありました。私は議論を聞いていて、これは絶対にまとまらないと思いました。これだけ思いがずれて、開いているのなら、1つのメッセージにするのは不可能だと思いました。でも最終的に、6月の司教総会で採択されたのです。ある司教は半ば「棄権」のようになりましたが、でも反対はしなかったのです。思いの違いはある、でも、今この時点で、日本の教会として平和に対するメッセージを出すべきだ、という点では全員一致していました。そのとき私は、すごいな、と思いました。こういう司教団に入れてもらえてよかったとそのときは神様に感謝しました。いや、そのときだけ、ってことはないですよ…。でもこのときが本当に初めての司教総会で、感動したんです。

日本の司教団メッセージとして、一貫して述べていること。まず加害者としての日本の確かに責任はあった。でも、日本人にも大きな被害があった。そのなかで、教会共同体として、戦争について責任があった、ということ。それは、50年、60年、70年のメッセージで、一貫して引き継がれています。

★ 平和憲法と福音の教えの関係について

これは、50年、60年、70年と少しずつ違ってきています。戦後50年には、平和憲法については何も述べていません。そこには、政治的問題に入り込まないように、という配慮があったでしょう。それ以上に1995年の時点で、今ほど平和憲法が脅かされるという危機を感じていなかったのでしょう。だから、平和憲法については述べられていませんでしたが、その後何があったか。9.11以降のアメリカの戦争、対アフガニスタン、対イラク、など。世界は暴力の連鎖に陥っていく。

そういう中で戦後60年(2005年)のメッセージを出すことになりました。戦争によって、安全を確保しよう、平和を実現しようとする、というのは私たちの道ではない。そのことを60年メッセージは、はっきりと言いました。それを「非暴力」という言葉で強調しています。非暴力を貫き、対話によって平和をつくることが大切だと言ったのです。その例としてガンジーの非暴力による抵抗の精神、そして日本国憲法のことを言っています。そこには危機感があったと思います。世界が暴力の連鎖に向かう中で非暴力ということを強調したのが60年メッセージです。

70年メッセージはもっとはっきりと日本国憲法について触れています。

日本はかつての戦争の加害の体験、そして被害の体験、というひどいことを体験して、そのうえに平和憲法というものを持つことになったと言ったあと、

「一方、世界のカトリック教会では、東西冷戦、ベルリンの壁崩壊などの時代を背景に軍拡競争や武力による紛争解決に対して反対する姿勢を次第に鮮明にしてきました。

ヨハネ二十三世教皇は回勅『地上の平和』において「原子力の時代において、戦争が侵害された権利回復の手段になるとはまったく考えられません」と述べています。第二バチカン公会議の『現代世界憲章』は、軍拡競争に反対し、軍事力に頼らない平和を強く求めました。1981年、ヨハネ・パウロ二世教皇が広島で語った平和アピールのことば、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」にも、はっきりとした戦争に対する拒否が示されています。

以上の歴史的経緯を踏まえるならば、わたしたち日本司教団が今、日本国憲法の不戦の理念を支持し、尊重するのは当然のことです。戦争放棄は、キリスト者にとってキリストの福音そのものからの要請であり、宗教者としていのちを尊重する立場からの切なる願いであり、人類全体にとっての手放すことのできない理想なのです。」

このように述べるようになりました。そして、「注」の部分で、日本国憲法の前文と9条をそのまま引用しています。

この本文の中で、「軍拡競争や武力による紛争解決に対して反対する姿勢を次第に鮮明にしてきました」と言っていますね。カトリック教会は戦争に対して絶対的にノーと言って来たかというと、必ずしもそうではありませんでした。伝統的に「正戦論」というのがあり、「正しい戦争もありうる」という立場をとってきました。しかし、それは戦争を肯定するための理論ではありませんでした。止むをえず戦争するとしても、最低限これこれこういう条件が必要だと述べる、つまり安易に戦争させないために、厳しい条件が必要だと言ってきた理論がこの「正戦論」でした。もう一つは、戦争をしたとしてもその中であまりにも非人道的なことがないよう、「戦争の中であってもこういうことだけはしてはいけない」「これをしたら正しい戦争とは言えない」そういう制限をつくろうとした、それが「正戦論」です。正戦論は戦争を肯定するための理論ではなかったのですが、戦争というものをある程度、やむを得ないという見方があったのも事実です。

しかし、1945年以降の軍拡競争、核兵器の時代となり、教会はどんどん、戦争そのものに反対する姿勢を鮮明にしていくようになりました。ヨハネ23世教皇の「地上の平和」は1963年の4月11日に発表されました。その前年にキューバ危機がありました。核兵器を積んだと思われるソ連の艦船がキューバにやってきて、アメリカがそれを迎え撃とうとする、という核戦争の一歩手前のたいへんな危機がありました。そういうなかでヨハネ23世が仲介をして危機が回避されたとも言われています。とにかく、この現実を見て、ヨハネ23世はこの時代、戦争が物事を解決することはあり得ない、とはっきりと言いました。軍事力によらず、対話によって平和を築くことが絶対に必要だと言いました。その姿勢は第二バチカン公会議『現代世界憲章』にも受け継がれていきます。

ヨハネ・パウロ二世教皇はいつも強く戦争に反対し続けました。『カロル』というヨハネ・パウロ二世(本名:カロル・ヴォイティワ)の伝記映画をご覧になったでしょうか。ヨハネ・パウロ二世は、ポーランドで青春時代を過ごし、その中で、ナチス・ドイツの侵攻、戦争の悲惨さを経験したので、教皇在任中、あらゆる戦争にノーと言い続けた、そういう方です。そのようにカトリック教会は戦争にはっきりと「ノー」と言うようになったのです。

戦争が変わったという面もあります。20世紀に経験した戦争は軍隊と軍隊が戦うような戦争でなく、「全面戦争」とか「総力戦」と言われるものでした。国中のすべての国民を巻き込んだ戦争で、都市の空爆など、犠牲になるのは兵士だけではなく、すべての国民、男性・女性・子どもすべてが犠牲になります。そういうなかでは戦争そのものに「ノー」と言わざるをえません。それが現代の教会の姿勢です。

その中で、「日本国憲法の平和主義が、福音的」だとか、「イエスの教えにかなっている」という言い方はどうかなと思います。平和憲法にキリスト教の教えが影響している、という話もありますが、むしろ平和憲法は1945年までの、日本のあのひどい体験を基にして、生みだされた憲法だとは思います。そして1945年以降、教会の教えのほうがある意味、日本の憲法に近づいてきたというべきなのではないでしょうか。

そういうところから、70年メッセージでは、私たちは日本の司教団として、「日本国憲法の不戦の理念を支持します」とはっきりと表明しています。今までよりももっとはっきりと、この憲法を守るという姿勢を鮮明にしているわけです。その理由はもちろん「危機感」です。今の安倍首相の集団的自衛権の行使容認という憲法解釈の変更、閣議決定によって憲法解釈をかえて、実質的に憲法を葬り去るやり方。そういうやり方、そして今の安全保障法案の問題、その中で、この憲法を守るという姿勢をはっきりさせるべきだと考えています。

そして、これは「キリストの福音そのものからの要請」だと言っています。これについては、今更かもしれませんが。でも、福音のイエスの言葉を思い出したいと思います。

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26・52)

山上の説教ではこうありました。

「『目には目を、歯には歯を』と命じられ「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5・38,39)

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5・43-45)

イエスのこれらの言葉を真剣に受け取るならば、やはり、戦争ということは本当に考えられない。攻撃されたから攻撃するとか、攻撃されそうだから前もって相手をたたくとか、そういうことにはならないですよね。

パウロのエフェソの手紙の中には、こうあります。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2・14-16)

二つのもの、とはユダヤ人と異邦人。当時どうしようもないと考えられていたこの対立をキリストが十字架によって乗り越え、一つにしてくださった、その十字架による平和ということがパウロの語っていることです。そう考えると、私たちはキリスト者として、戦争によって、軍事力によって、物事を解決するということには重大な疑問をもたざるを得ないし、やはり、それは違うはずだと思い続けているはずです。

(3) 今、安全保障法案を前にして

本当に切迫しています。

安倍内閣の出している安全保障法案ですけれども、この法案が憲法違反であるということは、ますます明らかになってきています。国会によばれた憲法学者3人が与党側の呼んだ学者も含めて、みんな憲法違反だと言った。そこから大きく流れが変わりました。

本当に誰が考えてもやっぱり「これは憲法違反だ」と多くの人が思うようになり、大きな反対運動になっています。これほど多くの国民が反対し、疑問を呈し、議論が尽くされていないと感じ、でも、敵はなぜこうも強い?(「敵」って言っちゃった!)「相手」はなぜこうも強い?

「廃案に」と言う声がこれほど高まっているのに、そう簡単に廃案にしないのはなぜ?

私が最近特に思っているのは、やっぱり戦争で儲かる人がいるということです。軍備増強で、儲かる人がいる。子どものころから、大人に教わってきました、「世界中すべての人が平和を願っている」と。子ども心に不思議だったのは、そうだとしたら、なぜ、戦争はなくならないの?ということ。大人になってわかったのは、世界中すべての人が平和を願っているのではないということです。戦争によって儲かる人がいて、儲かる企業がある。それがすごく大きな問題だと思います。

その点はもっと真剣に考えないといけないですね。戦争することで儲かる人がいるんです。原発再稼働で儲かる人がいる。オリンピックで儲かる人がいる。それが現実。そこを見ながら、それでも「ノー」という必要があると感じます。

私たち自身はどこに立っているか? 微妙なところかもしれません。もしかしたら、戦争で儲かっている人たちと、私たちはつながっているかもしれない。軍需産業とまでいわなくても、大企業とつながっているかも。その社員の人がいるかもしれません。いろんなかたちでつながっているかもしれない。私たちは、どこかで、戦争でもうかる人とつながっているかもしれない、ということは認めないといけないのではないでしょうか。

それでも、やっぱり、目先の利益ではなく、大きな目を持たなくてはいけないわけです。目先の利益ばかりを追い求める、こういう動きがあまりにも大きな犠牲を生む。特に次の世代に、取り返しのつかない犠牲を強いるのだから、やはり「ノー」と言わなくてはいけない。真剣に考えなくてはなりません。

目先の利益だけでなく、信仰者として、この世の、この世界のことだけでなく、本当に神様との関係の中で、現実を見て、今、何を決断すべきかをいつも問い返す必要があると思います。こういうことを言っていると、理想論のように聞こえるかもしれない。「お前は司教だから、そんな理想的なことを言う」と。でも、私は、あまり理想論を言うつもりはないです。いきなり自衛隊や軍隊をゼロにしろ、とか言うつもりはありません。軍隊で勤めている人のことを、『現代世界憲章』でも認めています。「祖国への奉仕に専念して戦線に従事している者は、自分が諸国民の安全と自由のための奉仕者であると考えるべきである。この任務に正しく従事している間、彼らは真に平和の確立に寄与している」(GS79)そういう面も100%否定はできません。ですから理想論でなく、今、この国の決断が平和に向かおうとしているのか、戦争に向かおうとしているのか? もっとはっきしているのは、軍拡なのか軍縮なのか? そういう点をはっきり見なくてはならないと思うのです。この安全保障法案の次には、来年度予算がある。予算は、この法律にもとづき、防衛費が確実に増えていく。そういう方向性になっているのではないか?だとしたらノーと言わざるをえません。

もうひとつ、最近悩ましく思うこと、難しいと思っている問題は格差と貧困の問題です。フランシスコ教皇が言うように、今この世界には格差が広がっている、ある人々は社会から排除され、まったく切り捨てられている。これが今の時代の状況です。日本にも、そういう格差はあり、広がっている。そういう中で、自衛隊が若者をリクルートしているという話を聞きます。高校3年生の子どもに、防衛省から手紙がきて、自衛隊について誘うようなことが書かれている、そういう現実があるわけです。

格差が広がり、非正規雇用がどんどん広がっています。非正規雇用というのは、結局、今はなんとか食べられる程度の収入はあるが、将来にわたって安定した生活の保証がないということ。そういう中で不安定な状況の若い人がたくさんいます。それが、もしかしたら戦争につながる面もあるかも、と感じます。これは難しい問題です。

あまりすっきりとまとまらないまま話していますが、一方で、景気がよくなれば、なんとかなるだろう、右肩上がりで日本はよくなる、というのはもはや考えられないと思います。「アベノミクス」というのは、目くらましみたいなものだったのではないか(こんなこと言っていいか、わかりませんが)。確かに一部の企業は儲かったと言っている。でも国民の底辺の生活が上向いたとはとうてい思えない。そういう中で、格差社会の底辺におかれている若者の多くは自尊感情を持てなくなっているかもしれません。自分が価値のある人間で、社会から尊重されていると思えない。そこから、他の民族への嫌悪感、自分たちのほうがすぐれているという優越感、日本という価値に固執する、というような扇動に乗りやすくなってしまうことがあるのではないか。

そう考えると、どうしたらみんなが仕事をきちんともって、安定した暮らしをできるのか。こういうことも平和のためにものすごく必要なことです。この社会で生きていて、安定して将来の自分の生活を思い描ける状態、そういう状態がどんどんなくなっていったら、やっぱり、変な方向に行ってしまうとすごく感じます。

ある人は、欲と情念が、国や政治を動かしていると言っていました。「欲」とは「損得」ですよね。損得ばっかりが今の政治を動かしているように感じられます。それから、「情念」というのは「好き嫌い」。あの国はいやだ、嫌いだ、そういうことで、国の政治が動くのはものすごく危険だと思います。ここに集まる私たちは、「人権や平和、ひとりひとりの人間の尊重が大切。国籍、民族による差別は絶対によくない」と当たり前に思っているけれど、欲や情念が、あまりにも大きな力になっている現実を見つめなくては、結局そちらの力に押し流されてしまうかもしれません。

ヘルマン・ゲーリングの言葉もプリントに載せました。

ある時に読んで、本当に恐ろしいと思いました。ゲーリングはナチスの高官でした。戦後生き残って、ニュルンベルク裁判にかけられたんです。そこで、ギルバートという心理分析官に語った言葉です。皆さんもよくご存知かもしれません。

「もちろん、普通の人間は戦争を望まない」とゲーリングは言うのですね。普通の人間にとって、戦争がいいことのはずがない。戦争にいった若者は、運が良くても無傷で帰るくらいで、何も得なことはない。そう言っています。

「しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。」

恐ろしい言葉です。でも私たちの政府がいま、やろうとしているのはこのことではないでしょうか。政府のいうことにだまされないように。

日本人は戦時中、さんざん政府にだまされていました。だから戦後、政府にだまされないように、と思ったはすです。しかしいつの間にか、日本人は政府のいうことを信じるようになってきたように思います。55年体制というものがありました。社会党が合同したのに対抗して、保守勢力も合同して自民党ができました。社会党に政権が渡らないようには、55年体制で自民党は、なるべく国民のすべてがうまくいくようにと、国民政党のような柔らかな政策をとってきました。その中で皆、なんとなく政府の言うことを信じるようになりました。政府に任せておけば、そんなにひどいことにはならない、と。

でも今、ほんとうに政府の言うことを疑ってみることが必要だと思います。

オリンピックのスタジアムを見直そうなどと言っています。戦後70年の首相談話でこれまでの政府見解を踏襲するとか、最低賃金を引き上げるとか、沖縄で辺野古の基地建設を一ヶ月中断するとか。なんとなくご機嫌取りみたいなことをいろいろ言っていますね。

すべてはこの安全保障法案を通すまでじゃないでしょうか。これさえ通せば、もう戦争する国のほうに向かっていく。後戻りできなくなる。そんな感じで必死にこの法案を通そうとしているように見えませんか? 

確かに戦争に向かって動き始めれば止められなくなります。いま、私たちはかろうじて戦争反対を叫ぶことができます。しかし、戦争をしようとする人たちから見れば、第一の敵は外国ではないのです。国内の戦争反対の声です。邪魔なのは国内の戦争反対者だから、その声を抹殺しようとする。民主主義も何もかも、戦争になってしまえば全部吹っ飛びます。それは覚悟しなくては。後になって「だまされた」では済まないと思うのです。

日本国憲法には遵守義務があり、憲法が最高法規だと言っています。このことも言っておきたいです。

「第98条。この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」

本当に力強い言葉です。首相が憲法に反する法案を作って、国会がそれを成立させても、その法律は憲法違反ならば無効なのです。だから、たとえ何があっても「あれは違憲です」と言えます。「あれは無効」と言ったらいい。通っちゃったら仕方ない、と諦めるべきではありません。

「第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」

そう考えれば、今の安全保障法案はありえない話です。その中で圧倒的に多くの人が反対しているのは当然ですし、たとえ成立したとしても無効だと言い続けることができます。

しかしまた、法案が成立するとその方向に向かって動き始めてしまうというのも現実なのです。それを考えながら、法案に対して真剣に向き合っていかなくてはいけません。

 

(4) 「時間は空間にまさる」

こういう話をしていても、「それでも自衛は必要ではないか」とおっしゃる方がいらっしゃいます。気持ちはわかります。「最低限の自衛は必要。とくに、日本をめぐる安全保障環境は変わったと。いまは厳しくなったのだ」という人もいます。

確かにそうかもしれませんが、では、アメリカの戦争はどうだったか? アフガニスタン、イラクでの戦争は安全保障、平和に役立ったか?ということには疑問を感じます。アメリカがどれほど多くの民間人を殺し、それにより、どれほどの憎悪や復讐心が生まれたか。それによってテロがどれほど拡大したか。そう考えると軍事力でものごとを解決しようとするアメリカのやり方に、はっきり「ノー」と言いたくなります。安全保障関連の法律というのがアメリカの戦争に加担することになるということを、もっと真剣に問わなくてはならないです。

また「島も守る」っていうのも、私にはわかりません。あの小さな島のために、自衛隊員が死んだり、中国の若者が死んだりしないでほしいと思います。中国があの島をとりにきた。それに対して日本の自衛隊が奪い返した。それで物事は終わるわけありませんね。武力衝突は一度起こればどんどん拡大し、悲惨なことになるに決まっています。あの島を守るってなんなのか。本気で考えれば、そんな簡単なことではないです。まして、アメリカが日本と一緒にその島を守ってくれるなんて、誰も本気で思っていないと思います。

京都大学の教職員有志の言葉ではありませんが、戦争っていつも防衛を理由に始まるのです。岡田大司教が紹介した太平洋戦争開戦の詔勅にもありましたね。いつも防衛を口実にして始まる。それをやっぱり考えて、その上で判断しなくてはいけない。

今ここで私が言いたいのは、武力によって物事は解決しないということ。たしかに悲惨な、ひどいことは起こるかもしれません。しかし、それは武力によっては解決できないことをはっきりと私たちが見なくてはいけないことです。逆に、武力によらない解決方法があるか? 対話を続ければなんとかなるのか?そう問われたら、それだって、そんな簡単なことでないと分かっています。

武力によって問題を解決することはできないし、武力によらなくても問題を解決することはできない、だとしたら、その中でどう生きるか、これが私たちに問われていることです。

そんな中で、私が示唆を与えられたのはフランシスコ教皇の使徒的勧告『福音の喜び』の中の言葉です。フランシスコ教皇はこの勧告の終わりのほうで平和について語っています。第4章です。

平和についてのフランシスコ教皇の見方は、私たち日本にいる人間とは、ちょっと感覚が違うところもあります。「とにかく戦争をしてはいけない」ということが日本人には強いですが、彼が強調するのは別の面です。プリントに引用した言葉はこれです。

「平和な社会とは、融和でも、あるいは単に、他の一部の社会を支配することによって暴力がなくなることでもありません。平和が、貧しい人々を黙らせ鎮める社会組織の正当化の口実となるならば、それは偽りの平和も同然です。」(218)

彼は、ラテンアメリカ、アルゼンチンの現実で生きてきたから、たとえば、軍事政権があって、その力で国内の平和が保たれる、というような平和には「ノー」と言っています。そういう面で私たちとは少し感覚的に違うところもあるでしょう。

しかし、フランシスコ教皇も平和を願っています。そして、平和のための4つの原理、そこで最初に言うのが「時間は空間にまさる」という原理なのです。

「空間を優先させることは、現在の時点ですべてを解決しようとする、あるいは、権力と自己主張が及ぶ空間のすべてを我が物にしようとする愚かな行為へと人を導きます。」(223)

今、この世界を空間的に見るとですね。すると、あそこにはあんな危険な国家がある、あそこにはテロリスト集団がいる、ひどいことをしている、なんとかやめさせよう、ということになり、ではあそこを空爆するしかない、これが空間的発想です。空間だけを見て物事を解決しようとすると、何とか、力を使って悪いことを止めなければ、となる。でも、それは愚かな行為だというのです。

「時を優先させるということは、空間の支配よりも、行為の着手に従事するものです。」(223)

今、この瞬間の世界を空間的にみるのでなく、時間の流れ、時のプロセスを大切にする。今すぐには解決できないかもしれないが、それでも今できることを少しずつ、少しずつ、積み重ねていくこと、そのほうが平和のために大切である、と言うことだと思います。

それがヒントになりました。70年メッセージの草案の中では、「時間は空間にまさる」って書いたのですが、他の司教たちから「それは通じない、なんだかわからない」と言われて削られてしまいました。ですからこの言葉は使いませんでした。しかし、メッセージの中にその考えを取り入れたつもりです。

メッセージの終わりのほうにこうあります。

「平和の実現のためには、このような状況を変えること、世界の貧困や環境の問題、格差と排除の問題に取り組むことが不可欠です。わたしたち一人ひとりにも地球規模の問題に対する無関心を乗り越え、自分の生活を変えることが求められています。わたしたちにできることは、すべての問題を一気に解決しようとせずに、忍耐をもって平和と相互理解のための地道な努力を積み重ねることです。」

これは本当に大切だと思っています。この世界の問題を一気に解決する、魔法のしかたがあるわけじゃないのです。この私たちの今の歩みが平和につながるかどうか、それが問われると思います。

東京教区の平和旬間委員会で作成した「平和のための祈り2015」も同じ考えです。これは、戦争に反対するという言い方をせずに、平和のために祈ろうと思って、そう考えた祈りです。今読んだメッセージの箇所と内容は同じです。積極的に平和な世界に歩むというのはどういうことなのか、平和な世界の実現のために努力するとはどういうことか? そのことを祈りの中で表そうとしているのが、この「平和のための祈り2015」です。

そして、この祈りは、昨年までの祈りと違い、「わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」というような結びの言葉を省きました。70年メッセージの終わりにも書かれていますが、わたしたち日本のカトリック教会は小さな存在だから、わたしたちだけで働くのでなく、他の教派、他の宗教、平和を願うすべての人と連帯しながら平和の道を歩もう、と。それが司教団の呼びかけている姿勢です。そのために、この祈りもできるだけ多くの人と一緒に祈ることができるようにと考えました。祈りですから、「神よ」という言葉は使ってあります。しかし、その後は平和を願うすべての人が一緒に願う、祈ることができるようにということで考えてあります。

 

(5) 結び:平和のためのキリスト者の使命

最後に、平和のためのわたしたちキリスト信者の使命について、お話しします。

戦前の教会が戦争に協力してしまったことをお話しました。戦前の教会の指導者、司教や司祭は、戦争に協力したくてしたのではないかもしれません。多くの場合は信者を守るためだったのではないでしょうか。小さな小さなカトリック教会が、日本でただでさえ肩身の狭い思いをしていた。その中で教会が戦争に反対するとどれだけ信者が迫害にあうかということで、信者を守るために戦争に協力せざるをえなかったかもしれません。しかし、結果的にはそれは悪かったと言わざるをえないのです。それがアジア・太平洋地域のものすごい数の人々に大きな被害を与えることに協力したのだから、大きな反省をしなくてはならない。

しかし、かつてと今で大きく違うのは、戦前の戦争には反戦思想がなかったということです。「戦争そのものが悪だ」という想いがそれほど強くなかったかと思います。でも今、日本のカトリック司教団、多くのキリスト者はみんな戦争そのものが悪であり、絶対に拒否すべきと考えています。その時に、これから先、本当にどんなことがあっても、戦争に対して「ノー」という、そう言い続けることが私たちの大きな使命だと思います。

祈りによる心の変革。

わたしたちは、やはり平和をただ人間の力で実現するものというのでなく、平和は神のたまものであって、祈りを通してしか実現しないと知っています。その祈りの中で、わたしたちは平和を願うのです。戦争のない平和な世界を願うのです。わたしたちの心が、憎しみ、暴力、復讐、人を差別する心、排斥する心、そういうものから解放され、本当にキリストの心に結ばれなくてはならない。それも祈りによってしか実現しないことです。

そして、あくまでも、人間を守るというところに立ち続けることです。どんなことがあっても、「人間を守る」。「命を守る」と言ってもいいです。本当に神さまに造られた、かけがえのない存在である「人間」というものを大切にする。この信仰の確信に基づく態度をわたしたちは取り続けなくてはならない。そのために極端なナショナリズムに対しては、はっきりとノーと言わなくてはならないし、民族差別、国籍による差別に対して、はっきりとノーと言う必要がある。そういう使命を与えられています。

小さな、小さな教会ですが、それでも、わたしたちは、人権と平和のために神さまから大きな使命を与えられています。神さまはすべての人をご自分の子どもとして大切にしておられる。だとしたら、わたしたちはどんな国の、どんな民族も、お互いに兄弟姉妹として尊重し合う。この信仰の核心を曲げることはできません。

前にどこかで聞いた瀬戸内寂聴さんの言葉で、「たとえ殺されても戦争に反対する」という言葉がありました。それを聴いたときはそんな状況が間近にあるとは思えませんでした。でも、もしかするとそういう時代に向かおうとしているのかもしれません。そういう面ではすごく怖いです。でも、やっぱり、「たとえ殺されても戦争には反対する」。わたしたち、キリスト信者はそうでありたい。本当にそういう思いで、すべての人の平和と一人ひとりの人間の尊重のために、これからも祈り続け、働き続けたいと思います。皆さん、一緒に歩んでいきましょう。

それでは、「平和のための祈り2015」をご一緒に唱えて、結びといたします。

 「神よ、戦後70年にあたり、心からの願いをささげます。
 あらゆる差別をなくし、いのちと人権を尊重する社会をつくることができますように。
 国と国、民族と民族が、対話と相互理解の努力を続けることができますように。
 無関心を乗り越え、格差と貧困の問題に取り組むことができますように。
 地球環境を大切にし、すべての生きものと共存することができますように。
 神よ、わたしたちに、武力によらない平和への道を歩ませてください。」

アーメン。ありがとうございました。




聖母の被昇天・平和を願うミサ

聖書朗読箇所

第一朗読 黙示録11・19a,、12・1-6、 10ab
第二朗読 一コリント15・20-27a
福音朗読 ルカ1・39-51

 

ホミリア

第一朗読は黙示録です。古代ローマ帝国がキリスト教を迫害している中、迫害されている信徒を励ますために書かれたのが黙示録です。今は、どうしようもない悪の力が猛威を振るっているが、この悪の時代はいつか終わる。いつか必ず神の勝利が表される、そう語って、迫害のさなかにいるキリスト信者を励ますために書かれた文書です。ただ、それをストレートに語ることはできないので、すべてを象徴的な言葉で語っているのです。

今日の箇所、12章に一人の女が登場します。この女性は12の星の冠をかぶっています。12の星はイスラエルの12部族、そしてイエスの12人の使徒を連想させます。この女性は神の民である教会のシンボルのようです。悪のシンボルである「竜」が女に襲いかかろうとします。「竜」は教会を迫害するローマ帝国のイメージなのでしょう。

5節に「女は男の子を生んだ」とあります。そして「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」とあります。これはやはりイエスのことでしょう。だとしたら、この女性の姿はイエスの母である一人の女性、マリアの姿とも重なってきます。「子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」と言いますが、その前には本当は十字架の受難と死があります。イエスの母マリアは一人息子を十字架で殺された母なのです。

この女性は、一方で教会のシンボルでもあり、一方でマリアさまのことでもある。不思議な仕方で描かれているのですね。

女は荒れ野に逃げ込みます。そこは神に保護される場所です。非常に厳しい状況ですが、それでも神は女を見捨てず、守り続けてくださいます。

今日の箇所では省略されていますが、天において、天使ミカエルと竜との間の闘いがあり、神の勝利が天で宣言されます。さらにその続きがあって、竜は地上に投げ落とされ、さらに女を攻撃しようとします。そして竜の怒りは、女だけでなく、女の「子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たち」(17節)に向かいます。ここには教会の母、わたしたちの母であるマリアのイメージが出てきています。試練の中でわたしたちとともに試練にあい、試練に耐えるマリアの姿。苦しみの中で、苦しむ子どもたちと苦しみをともにし、支えとなってくださる母の姿です。

福音はマリアのエリサベト訪問の場面とそこで歌われたMagnificat(マニフィカト)と呼ばれるマリアの賛歌です。救い主を身ごもったマリアは洗礼者ヨハネを身ごもっている親類のエリサベトを訪問しました。お互いのうちに神の救いの計画が始まっていることを確かめ合いながら、神に向かって賛美と感謝をささげます。この賛歌の特徴は単なる個人的な感謝と賛美を超えて、貧しい人、身分の低い人、苦しむすべての人と連帯して神に救いをよろこびたたえる賛歌であるということです。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

マリアさま、ちょっと過激過ぎませんか? そう言いたくなるほど、苦しむすべての人とつながっているマリアの姿がここに表れています。

マリアはわたしたちとつながっています。それこそ、被昇天のマリアの特徴です。「マリアが天に上げられた」というとき、それは決してマリアだけの栄誉の問題ではないのです。今日の第二朗読にあるように、わしたち皆が罪と死の支配から解放されて、最終的にキリストの救いに完全にあずかるものとなる。その先駆けとして、第一人者として、マリアは天に上げられた。教会は次第にそう信じるようになったのです。

第二バチカン公会議の『教会憲章』には、こういう言葉があります。

「キリストに次いでもっとも高く、またわれわれにもっとも近い位置を占めるマリア」(LG54)

これこそが被昇天のマリアなのです。

先日、ある集会で「安保関連法案に反対するママの会」の方がお話しされたのを聞きました。話のおわりのシュプレヒコールが心に残りました。普通、シュプレヒコールと言うと「戦争法案、絶対反対」「9条壊すな」「安倍政権は即時退陣」とか固い言葉で要求を述べる。叫ぶ。ところがそのママさんは普通のような話し方で「ママは戦争しないと決めた」と言いました。最初、参加者は皆、それがシュプレヒコールだとは気づきませんでした。でも、気づいてみんな答えるようになりました。

「ママは戦争しないと決めた。」「ママは戦争しないと決めた。」

「パパも戦争しないと決めた。」「パパも戦争しないと決めた。」

「みんなも戦争しないと決めた。」「みんなも戦争しないと決めた。」

「70年間決めてきた。」「70年間決めてきた。」

「だれの子どもも殺させない」「だれの子どもも殺させない」

これは訴えや主張というよりも、決意表明だと感じました。子どもを持つ者として、いのちを守り育む者として、絶対にこれだけは譲れない。そういう決意がこの言葉に込められているのです。

今日、おとめ聖マリア被昇天の祭日を迎え、この決意表明は、聖母マリアの決意表明でもあるとも感じています。「被昇天のマリア」――キリストの救いに完全にあずかり、天の栄光に挙げられたマリアは、同時にわたしたちの母として、わたしたちすべてのいのちを見守ってくださるマリアです。一人の人間が苦しめば、自分も苦しみ、一人の人間が殺されれば、自分も槍で胸を貫かれる。一人息子を十字架で殺されたマリアは、すべての人の母として、数知れぬ子どもたちを戦争によって殺されてきたマリアでもあります。そのマリアは、わたしたちの中にいて、今、「だれの子どもも殺させない」と固く心に誓いながら、祈ってくださっているのではないでしょうか?

聖母マリアの平和への祈り、いのちへの祈りに心を合わせて、今日、祈りましょう。

戦争で亡くなったすべての人が神のみもとに受け入れられますように。亡くなったわたしたちの先祖や家族が神のもとで安らかに憩うことができますように。本当にすべての命が尊重される世界が実現しますように。憎み合い、殺し合う世界から解放されて、平和な世界が実現しますように。




多摩西宣教協力体・平和を願うミサ 

2015/8/9 年間第19主日 (ヨハネ6章41-51節)
八王子教会にて

 

ミサのはじめに

長崎原爆の日。70年。原爆と戦争で亡くなられたすべての人のために祈りましょう。この夏は特に安全保障法案が参議院で審議されています。多くの人が憲法に反し、日本が再び戦争への道を歩むのではないかと危惧している中、心から平和を願いましょう。

 

ホミリア

今日の福音にマンナという食べ物のことが出てきます。わたしが子どものころから、日本には「森永マンナ」というビスケットがありました。離乳食のようなお菓子で、赤ちゃんでも食べられるものでした。今もあります。ただパーケージのデザインが変わってしまいました。以前は「マンナ」という名前の説明が書いてありました。マンナとは「旧約聖書にある、“神が荒野をさまよえる民に与え給うた愛の食べ物”」その説明がなくなってしまったのはとても残念です。いいカテケージスになったのに!

さて、マンナの特徴は二つです(出エジプト記16章参照)。

一つは「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。」すべての人に必要なだけ与えられたということですね。

もう一つの特徴は翌日までとっておけない。翌日まで取っておくと腐ってだめになってしまう。その日の分をその日に集めなければならない、ということ。

荒れ野は厳しい環境です。ぎりぎりの食べ物しかなかった。神はその中でいつも一人一人を養い、そこにはある意味で平等な世界があった。しかし、約束の地に入り定住生活を始めると事態は変わります。人は土地を耕して作物を収穫し、それを蓄えるようになる。そしてだんだんと貧富の差が広がっていく。そこからものを奪い合う争いも起こる。マンナの世界はある意味、理想の世界なのです。マンナの世界は決して物質的に裕福な世界とは言えない。しかし、神に生かされ、人と人とが分かち合って生きる世界。これが本当に大切な世界。イエスが五つのパンと二匹の魚の出来事をとおして示してくださったのもその世界。いや、これはイエスが生涯かけて人々の伝えようとしたメッセージの核心と言ってもいいでしょう。

人はいつの間にか神を忘れ、自分の力で生きている、と思い込むようになります。そうすると、あの人は自分より劣っていると人を見下してみたり、逆に自分なんかやっぱりダメ、どうせ救われないんだ、と絶望したりする。イエスの時代の社会を支配していた律法主義の問題はそれでした。イエスはそうじゃない世界を示しました。どんな人も例外なく大切にしてくださる神(アッバ)がいること。だから、わたしたちはその神に感謝し信頼することができるということ。そして与えられたものを皆で分かち合って生きる喜び。人と人との間にあるのは、競争心や勝ち負けや憎しみや差別、そんなものではなく、神が与えてくださったものを皆が分かち合い、互いに尊重し合って生きること。神はアッバであり、わたしたちはみな、神の家族、兄弟姉妹なのだ。社会の中で罪人のレッテルを貼られていた人、汚れているとされていた病人、一人前の人間と見なされていなかった女性や子ども、差別されていた外国人。その人々にあなたも同じ神の子だ、兄弟姉妹なのだ、イエスはそう語りかけていきました。だから本当にお互いを、人種や民族、性別や職業の違いを超えて一人一人を、誰一人例外なく、尊重し合って生きていこう。それが神の国だ。わたしたちはみんなそこに招かれているのだ。———イエスはこのことを命がけで人々に伝えました。

今日、わたしたちはこのミサの中で、心を合わせて平和のために祈ります。平和を実現するためには、本当にこのイエスのメッセージを心に刻んで歩むことが大切です。今年2月、日本の司教団は戦後70年を迎えるにあたって『平和を実現する人は幸い〜今こそ武力によらない平和を』というメッセージを発表しました。「武力によらない平和」を強調しています。軍事力によって国の安全を確保しようとする考えではなく、すべての人、一人一人を尊重し、対話と相互理解を求め続けることによって、平和を実現しようと呼びかけているのです。

このメッセージにはフランシスコ教皇が『福音の喜び』の中で述べている平和のための原則の中の「時間は空間にまさる」という考えが反映しています。

「空間を優先させることは、現在の時点ですべてを解決しようとする、あるいは、権力と自己主張が及ぶ空間のすべてを我が物にしようとする愚かな行為へと人を導きます。・・・・時を優先させるということは、空間の支配よりも、行為の着手に従事するものです。」(『福音の喜び』223)

あまりにもひどいテロや人権侵害が横行し、対話の可能性が見えない状況の中で何もしないでいるのはとても不安なことです。問題を空間的に見て、今のことだけを考えたら、一気に武力で物事を解決しようとしたくなる、そういう誘惑は大きいのです。しかし、それは結局、憎しみが憎しみを生み、敵意が敵意を生む暴力の連鎖を拡大させるだけです。対話と相互理解を求め続け、格差や差別をなくしていくこと、環境を大切にすること。今できることを探していき、そこから平和への歩みを始めること。わたしたち一人一人、身近なところからできることがきっとあるはずです。

神からいただくものを感謝して分かち合う、このマンナの世界に向かって、五つのパンと二匹の世界に向かって歩み始めること、それが平和への道です。その道をほんとうにわたしたちがしっかりと歩むことができますように祈りましょう。




復活節第4主日 世界召命祈願の日のミサ

2015.4.26 東京カテドラルにて

聖書朗読箇所

(一) 使徒言行録4・8-12 (二) 一ヨハネ3・1-2 (福) ヨハネ10・11-18

 

ホミリア

復活節第4主日のミサの福音では、毎年、ヨハネ福音書10章から羊と羊飼いのたとえ話が読まれます。「良い牧者の主日」と言われますし、そこから、わたしたちの教会に良い牧者が与えられるように願う「召命祈願の日」とも言われるようになりました。今日は、東京教区の一粒会主催でこの召命祈願のミサが行われています。東京教区の神学生は今たった三人、他の修道会の司祭・シスターの召命も本当に少なくなっています。ですから、もっと多くの司祭・修道者の志願者が出るように祈りたいと思います。

ところで、教会の司祭は「牧者」と呼ばれます。羊の世話をするのが羊飼いである司祭の仕事。分かりやすいイメージですが、ちょっと誤解もあるように感じています。

一つには日本語の「司牧」という言葉の問題があります。日本語で「司牧」というと、司祭が教会の信者の霊的な世話をすること、という意味で使われることがほとんどです。司牧の対象は信者である、これが第一の誤解です。司牧というのは英語で言えば「pastoral work」です。これは教会の羊飼いとしての活動全体を指す言葉で、その対象は決して信者だけではありません。今日の福音で「わたしにはこの囲いに入っていない羊もいる。わたしは彼らをも導かなければならない」とイエスがおっしゃるとおりです。たとえば、フランシスコ教皇は、アフリカや中東からの移民、難民に対するヨーロッパ社会と教会の無関心を批判し、もっと真剣にその人々のことを考えるべきだとおっしゃいますが、これはpastoral=羊飼いとしての働きです。相手はほとんどキリスト教徒以外の人です。でもその人たちに対しても羊飼いとしてお世話をする、それが教会のpastoral workです。東京教区ではカトリック東京国際センターが外国人のお世話をしています。もちろんフィリピンやラテンアメリカのカトリック信者のお世話も大きな仕事ですが、入管に収容されている外国人を訪問したり難民申請している人のお世話をしたりもします。相手のうち多くの人はカトリック信者ではありません。これもpastoral workです。

日本語の「司牧」はどうしても内向きで狭いイメージなので、よく「宣教司牧」という言葉が使われます。司牧が教会内に向けての働き、宣教が外に向けての働き。でも「宣教司牧」という言葉だけでは教会の働きのすべてを表すことはできません。ふつう「宣教」と訳される言葉は英語ならmissionですが、この言葉も本来は「派遣」という意味で、日本語の「宣教」よりもずっと広い意味を持っています。

今年のフランシスコ教皇の「召命祈願の日」のメッセージは、vocation(呼ぶこと、召命)とmission(派遣、宣教)の結びつきを強調しています。イエスは何のために人を呼ぶのか。それは派遣するためです。「貧しい人に福音を告げる」そのためにイエスは弟子たちを呼ぶのです。だから呼ばれた者は出かけていかなければなりません。教皇は「エジプト脱出」の脱出exodusという言葉を使って、教会の中の安全地帯に自分の居場所を見つけるのではなく、イエスの派遣に応えるものになることがvocation(召命)なのだと言います。根本的な「召命」(イエスの招き)は、イエスの弟子になるよう呼ばれることです。だからイエスの弟子としてイエスのもとから出かけていくのは当然なのです。そして派遣される先は、信者のところだけではなく、すべての人のところ、特に貧しい人、苦しむ人のところです。

司牧についてのもう1つの誤解。それは司牧とは司祭がすることだという誤解です。本来は神様ご自身が牧者でした。神様がどういう意味で牧者なのか、それはイエスの「100匹の羊のたとえ話」(ルカ15章)にもっともよく表されています。すべての羊を愛し、だからこそ、最も弱い、迷い出た羊に特別のいつくしみを注ぐのがこのたとえ話の羊飼いです。これがイエスの示した父である神の姿でした。

イエスは「わたしは良い羊飼いである」と言われます。それは、本当の羊飼いである神の愛を目に見える形で表すからこそ、イエスも良い羊飼いだと言えるのです。同じように、司祭も神の愛、イエスの愛を表すための奉仕職なので羊飼いと言われます。でも神の愛、羊飼いとしての愛を表すべきなのは、司祭だけではありません。キリスト信者皆が、神が羊飼いであるように、イエスが羊飼いであるように、羊飼いの働きをするように求められています。マタイ福音書18章にはルカ15章と同じ100匹の羊のたとえ話があります。マタイは同じたとえ話を別の文脈の中に置きます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言って、その根拠として100匹の羊のたとえ話を語ります。神様はこの迷子の一匹の羊をも見捨てない羊飼いのような方なのだから、だからあなたがたも小さい人一人一人を大切にしなさい。つまりあなたがたもこの羊飼いのようになりなさい、と言っているのです。

大切なのは、わたしたち皆が「わたしの弟子になりなさい」というイエスの呼びかけを聞き、それに応えることです。何も皆が司祭やシスターにならなくとも良いのです。

逆にいくら司祭やシスターになりたいという人が増えても、その人たちが本当にイエスの弟子になろうとするのでなければ、それはまったく無意味です。

良い羊飼いであるイエスは今もすべての人に向かって「わたしの弟子になりなさい」と呼びかけています。その呼びかけを今日、わたしたちが、特に若い人たちが真剣に聞き、それに応えることができますように、ご一緒に祈りましょう。




主にささげる24時間・結びのミサ(四旬節第4主日)

聖書朗読箇所:歴代誌下36・14-16,19-23、エフェソ2・4-10、ヨハネ3・14-21

 

今年の四旬節にあたって、フランシスコ教皇が呼びかけていることははっきりしています。それは「無関心のグローバル化を乗り越えよう」ということです。

この世界にはたくさんの問題があります。毎日毎日ニュースをとおして世界の悲惨な状況、たいへんな問題、多くの人の苦しみをわたしたちは知らされています。しかし、わたしたちはそれらの問題があまりに大きくて、解決不可能に思えて、自分にはどうすることもできないと感じてしまって、いつの間にか何も感じなくなっている。無関心になってしまっている。これが無関心のグローバル化、というものです。

このような無関心を乗り越えて、苦しむ人々に目を向けよう、心を向けよう、これが今年の四旬節にあたっての教皇の呼びかけです。そのために頑張れ、頑張れでしょうか?

この四旬節メッセージのはじめのところで教皇は一つの大切なことをおっしゃいます。

「神は、ご自分がまだお与えになっていないものを、わたしたちに求めることはありません」とにかく頑張って無関心を乗り越えろ、じゃないんです。神がわたしたちを愛してくださった。その神の愛に心を向けよう。すべてはそこから出発するのです。だからこの「主にささげる24時間」のテーマは「あわれみ豊かな神」です。この言葉は今日のミサの第二朗読から採られています。福音も同じく神の愛を強調します。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

どうしたら、神の愛に気づくことができるでしょうか?今朝のミサの中で一つのヒントをもらいました。福音は、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの話(ルカ18・9-14)でした。

祈るために神殿にのぼった二人の人がいました。ファリサイ派の人と徴税人です。ファリサイ派の人は、律法を忠実に守ろうと日々努力していました。そこでこう祈ります。「わたしは常々悪を避け、信心深く生活しています。このことを感謝します」彼は自分には何の落ち度もないと思っています。自分に大満足しています。そして神様の前にも自分を誇ろうとしました。一方の徴税人は律法の基準から言えば、どうしようもない罪人でした。彼は聖所から「遠く離れて、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」言いました。「神様、罪人のわたしをあわれんでください」そして、イエスは当時の人の常識をくつがえすような宣言をなさいます。「義とされたのは徴税人のほうであって、ファリサイ派のほうではない。」この「義とされる」というのは人間的な善悪ではなく、神との正しい関係を持つということです。こちらのほうが神の前に正しい態度だとイエスはおっしゃったのです。なぜでしょう。それはこの徴税人のほうが神の愛に気づくことができるからだと言えるのではないでしょうか。ファリサイ派の人は自己満足しています。彼は自分の力でちゃんとやっていけると思っていたのですから、彼には神の愛は必要ないのです。それに対して、徴税人は神の愛なしには生きることができませんでした。イエスをとおして彼が立ち上がることができたとすれば、そのとき彼は神の愛を知ることになります。

わたしたちは弱い存在です。もともと塵に過ぎず、いつかは塵に帰っていく存在です。自分の力で自分を成り立たせることはできないのです。どうしようもなく神から遠く、罪の中に生きています・・・こういう言い方は、今時、流行らないかもしれません。しかし、これが人間の真実の姿です。四旬節はその自分の姿を見つめる時です。自分の弱さと罪深さを見つめます。それは落ち込んで絶望するためではありません。その自分をそれでも見捨てず、限りなく愛し、生かしてくださる神の愛に気づくためなのです。

自分の弱さの中から十字架のイエスの無力さを見つめます。自分の苦しみの中から十字架のイエスの苦しみを見つめます。自分の罪深さの中から、十字架のイエスのゆるしを見つめるのです。そこに神の愛の最高の現れがあることに気づくのが四旬節のテーマです。

そして、神の愛に気づいたとき、わたしたちの人生は変わります。

本当に神の愛に気づいたら、わたしたちの生きている世界は変わります。

本当なんです。イエスと共に十字架にかけられた2人の犯罪人のことを思い出しましょう(ルカ23・39-43)。

イエスに向かって1人はこう言いました。「お前はメシアではないのか。自分自身とわれわれを救ってみろ」しかし、もう1人はこう言いました。「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」彼に向かってイエスは約束しました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」これは彼の人生が変わった瞬間です。苦しみのどん底にいて、彼はそれでも共にいてくださるイエスを発見しました。彼の人生は神がともにいてくださる人生になったのです。この瞬間、彼の世界は変わりました。ゴルゴタの十字架の上が彼にとって楽園=パラダイスになったのです。回心をとおして、彼は人生の最後の瞬間に神の愛に出会ったのです。そのことは彼の人生と彼の生きていた世界を完全に変えてしまいました。

わたしたちも神の愛に気づいたら、人生が変わります。自分の周りの世界が変わります。今日の福音の言葉で言えば、「光が世に来る」のです。この世界は、神の注がれる光に満ちた世界だと気づきます。闇がどんなに深くあろうとも、神の愛が、神の光が、神のいのちがわたしの人生を導き、わたしのいる世界を照らしていることに気づくのです。そして、そのとき、わたしたちの人生への関わり方、この世界への関わり方も変わります。絶望やあきらめや無関心ではなく、信頼と希望と愛をもって、自分の人生に、まわりの人々に、この世界に関わっていくことができるようになるのです。

第二朗読の言葉をもう一度読みます。

「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ2・4-6) アーメン。




年始の集いミサ(ヘブライ1・1-6、マルコ1・14-20)説教

2015年1月12日 東京カテドラルにて

ホミリア

主の洗礼の翌日(今日)から「年間」になります。週日のミサの福音ではイエスの活動の歩みを追っていきます。毎年、マルコから始まります。第一朗読は、福音書以外の旧約新約の大切な箇所を読んでいきます。今年はヘブライ人への手紙から始まりました。今日の聖書朗読から新しい年の歩みを始めたわたしたちへの励ましとして、3つの箇所をご一緒に味わいたいと思います。

 (1)  ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1・14-15)

イエスの活動は福音を告知する活動でした。「福音」は「よい知らせ」であり、喜びに満ちた知らせです。フランシスコ教皇は使徒的勧告『福音の喜び』の中でそのことを強調しています。わたしたちはまずこの福音の喜びを受け取りたい。福音の内容は神の国の到来でした。2千年前のガリラヤの人々にイエスはこの喜びのメッセージを告げました。今のわたしたちにとっての福音は?『福音の喜び』の中にある次の言葉が分かりやすいのではないかと思います。「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたの救いのためにいのちをささげられました。キリストは今も生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます」(EG164) このイエスと出会うこと。日々、このイエスと共に生きること。それが福音の喜びです。祈りをとおして、みことばをとおして、秘跡をとおして、このイエスとの交わりを深めたい。どの年も同じことですが、年の初めに、このことを心に刻みながら、新しい年をスタートさせたいと思います。

(2)  神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブライ1・1-2)

神様の人間に対する語りかけ、働きかけの頂点がイエス・キリストなのだとヘブライ人の手紙は語ります。そこで考えられているのはたくさんのイエスの説教のことでしょうか?もちろんイエスはたくさんの言葉を語りました。しかし、ヘブライ人の終わりのほうにおもしろい表現があります。「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」というのです。

血が語る?なんかすごいイメージですが、背景にあるのは創世記4章の物語です。カインが兄弟アベルを殺したとき、神はカインに言われました。「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。」兄弟によって殺された義人アベルの血が土の中から叫んでいる。それは呪いの叫びでした。それに対して、それよりも「立派に語る注がれた血」があるというのです。この血はもちろん十字架のイエスの血です。アベルの血が呪いの叫びであったのと違い、イエスの血は、愛を語っている。だからもっと優れている、というのです。

大切なのは、生き方のあかしです。神の国の福音は言葉で告げられただけでなく、むしろ、イエスの生き方、人との関わり、十字架に至るまでの徹底した愛の中で、その福音は告げられていきました。わたしたちの福音宣教も、決して巧みなセールス技術のようなものではない。今年は第二バチカン公会議が終わって50年という年です。奉献生活のあり方、教会の宣教活動のあり方、教会の社会との関わり方、いろいろなことを見つめ直す年だと言えると思います。その中で、イエスの十字架の血が語りかける神の言葉をしっかりと受け取りながら、わたしたちもそれぞれの場で神の愛をあかししていきたいと思います。

(3)  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。(マルコ1・16-17)

イエスが神の国の福音を告げ知らせる活動を始めたとき、最初にしたことは、弟子を呼ぶということでした。仲間を作ると言ってもいいかもしれません。神の国は具体的な人と人との出会いと関わりの中で始まるのです。

東日本大震災と福島第一原発事故から4年たちます。大きく悲惨な災害、事故でした。復興のペースは遅く、福島では先の見えない状態が続き、追いつめられていく人がいるのが現実です。この震災は、しかし、教会にとって大きな転機となる体験でもありました。もうすぐ阪神淡路大震災から20年の記念の日を迎えます。あの震災を経験した大阪教区の司祭の言葉で、「震災によって、教会と地域を隔てていた壁が崩れた」という言葉がありました。今回の東日本大震災も同じようなことがありました。岩手、宮城、福島の教会は、被災者に寄り添おうとする活動をしてきました。全国からのボランティアもおおぜい参加しました。その中で見えてきた教会のビジョンは「地域とともに歩む教会」です。被災地の教会のある信者がこう言いました。「地震と津波が押し寄せてきたとき、周囲のだれも教会に助けを求めて来なかった。でもわたしたちはこの3年間、地域の人たちと一緒に歩んできた。今度、災害があったときに、思い出してもらえる教会になりたい」

最初に呼ばれた四人の弟子は、内向きのグループを作るために呼ばれたのではありません。フランシスコ教皇がおっしゃるように、出かけていって、出会った人との間に神の国の喜びを分かち合うために呼ばれたのです。わたしたちは日本の中でほんとうに小さな存在です。でもわたしたちはそれぞれの地域の、周りの人々の中に派遣されているのです。地域とともに歩む教会という観点でわたしたちの小教区のあり方を見直してみていただきたいと思います。

わたしたちの教会が、イエスとともにいる喜びを深く味わい、イエスと共に生き、福音の喜びを周囲の人々と分かち合う教会として成長することができますように。アーメン。




死者の月 教区合同追悼ミサ 説教

2014年11月2日 カトリック府中墓地にて

聖書朗読 ヨハネ6章37-40節

〔そのとき、イエスは人々に言われた〕「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

ホミリア

昔、ノンフィクション作家の柳田邦男さんの本で「二人称の死」という言葉に出会い、心に残りました。「一人称の死」というのは「わたしの死」。いつかわたしが必ず迎えなければならない死、あるいは余命半年とか1年と宣告されたわたしの死というもの、それはわたしたちにとって大きなテーマです。「三人称の死」というのは、一般的な「人の死」というもの、災害で何十人の人が死んだとか、肺ガンで毎年、何万人の人が死ぬというような人の死。自分から距離のある客観的な「人の死」、そういうのは「三人称の死」と言っていいでしょう。「二人称の死」というのは「あなたの死」です。愛する人の死、本当に大切な人の死。他でもないあなたの死、これを二人称の死と言うのです。「二人称の死」をどう受け止め、どうそこから立ち上がるか、それはわたしたちにとってたいへんな問題です。大切な人がいなくなってしまった、自分の一部が失われてしまったほどの喪失感。「あなたがいない」ということはわたしにとって世界が変わってしまうほどの出来事です。立ち直るのに何年もかかることもあります。

今日、この墓地に集まった方の多くは、そういう二人称の死ということを感じながらお集りのことと思います。中には、本当に辛い思いのまま、ここにいらしている方もいらっしゃると思います。

2千年前、イエス・キリストの死を経験した弟子たちは、まさにこの「二人称の死」を体験しました。イエスを救い主と信じ、すべてを捨ててイエスに従ってきたのに、そのイエスが十字架にかかって殺されてしまったのです。彼らのすべての希望はこなごなに砕けました。彼らには、罪悪感もありました。自分たちのせいで先生はあんな目にあったのではないか。なぜ、わたしは最後までついていくことができなかったのか、本当に苦しい「二人称の死」に直面したのです。

その中で、彼らはイエスの死の瞬間にまで至る歩みをていねいに思い起こしました。そこで見えてきたのは、最後の最後まで徹底して神に信頼し、神のみこころに忠実に従って歩まれたイエスの姿。最後の最後まで徹底して人を愛し抜かれたイエスの姿、弱い弟子たちをとことん愛し抜き、自分を十字架にかける人々までも愛し抜かれた姿でした。そのイエスの姿を見つめたとき、あのイエスの神に対する信頼は、人に対する愛は、決して死によってほろんでしまうようなものではなかったという確信が生まれました。肉体は死んでも、信頼という神とのつながり、愛という人とのつながりは決してなくならない。ほろびない。それは不滅のもので、むしろ死を超えて完成して行った。彼らはそう確信し、その確信を「復活」という言葉で表現しました。

聖書は「イエスは三日目に復活した」と伝えます。確かに三日目に、弟子たちを変える何かしら強烈な体験があったのは事実でしょう。でもその弟子たちが復活の信仰のうちに立ち上がるのは心の中のこのような変化をとおしてのことだったと思います。

キリスト者はあのイエスの復活を信じます。イエスの愛と信仰は決してほろびるものでなかったと信じます。だからわたしたちも、不完全ではありますが、イエスの信頼と愛に結ばれて生きるとき、死を超えた希望、決してほろびない、永遠のいのちの希望をもつことができる。そう信じるのです。

なくなった方と残されたわたしたちの絆も決して断ち切られてしまったのではない。決してほろびないものがある。死によって、決して断ち切られないものがある。むしろ死を超えて確かなものになって行く絆がある。

目に見えるもの、ほろび去るものにばかり目を向け、それに振り回されているのが今の時代かもしれません。その中でほろびないものをしっかりと見つめながら生きる。それが愛する者の死を経験し、残された者にとっての大切なテーマであると思います。

今年7月27日に帰天され、この府中墓地に埋葬された佐久間彪神父が、ある葬儀のミサでおっしゃったことを思い出しています。

「キリスト教の葬儀の特徴は三つある。一つは亡くなった方の人生について神に感謝すること。神がその人生の中で与えてくださったすべての恵みに感謝すること。二つ目は罪のゆるしを願うということ。弱い人間であったこの人を神がいつくしみをもってゆるし、受け入れてくださるように祈ること。そして三つ目は残されたご家族のために神の支えと助けを祈ること。」

わたしは司祭になりたての頃、その説教を聞きましたが、年を経るに従って、本当にそうだと思うようになりました。

この三つの祈りを込めて、今日の追悼ミサの祈りをささげたいと思います。




ペトロ岩橋淳一神父(1940.3.21-2014.10.24)通夜の祈り 説教

2014年10月29日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

聖書朗読 ヨハネ15章12-17節

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


ホミリア

岩橋淳一神父が上野教会の司祭館の階段で転倒したのは、今から4年前の2010年12月終わりのことでした。日本医科大高度救命救急センターに運ばれましたが、頸椎損傷ということで、それ以来、ほぼ全身マヒの状態になりました。呼吸も難しく、気管切開して、人工呼吸器が取り付けられました。つまり、口から食べ物を摂取することも、言葉を話すこともできなくなりました。その状態が半年以上続きました。その後、千住桜木病院に移りましたが、人工呼吸器をはずすことはほとんど不可能と言われました。この状態で人工呼吸器をはずすリハビリをしてくれる病院はほとんどないということでしたが、幸い、横浜市青葉区にある昭和医大藤が丘病院に転院することができました。そこで人工呼吸器をはずすことができ、話すことと口から食べ物を摂取することができるようになりました。さらに国立村山医療センターで、さまざまな訓練を受け、あごだけで操作する電動車椅子に乗れるようにもなりました。

治療やリハビリが一段落して、長く暮らせるところと考えて、2012年夏からイエズス会のロヨラハウスで、さまざまな介護を受けながら生活することになりました。ロヨラハウスの館長リベラ神父やスタッフの皆様、隣の教区神学院の皆様にも、本当にお世話になりました。しかし、昨年夏ごろから介護だけでなく、医学的ケアが必要になってきました。桜町病院に移られ、治療を受けたり、療養されたりしていました。桜町病院にも本当にお世話になりました。しかし、少し前から肺の機能が落ちて行き、先週木曜日の夜、病状が急変し、24日(金)午前0時18分に死亡が確認されました。

3年10ヶ月。本当によく耐えられたと思います。「もしもこれが自分だったら」今日、お集りの皆様も一度ならず、そうお考えになったことがあるのではないでしょうか。わたしはたまにしかお見舞いに行けませんでしたが、岩橋神父さんの苦しみは想像を絶するものだったと思いますし、何と声をおかけしていいかも分からないことが多かったです。

その中で、ご兄弟、妹さんご夫妻、弟さんご夫妻が、ずっと付き添い続け、岩橋神父さんのために最善を尽くそうとなさっている姿に接し、本当にすばらしい家族愛だと思いました。家族や親しい皆様が、岩橋神父さんを支えてくださったのだと思います。東京教区として、司祭仲間としては、行き届かなかった点もあったと、申し訳なく思っています。

個人的な思い出ですが、わたしが岩橋神父と初めて出会ったのは、今から40年も前の大学生の時です。そのころ岩橋神父は関町教会の主任司祭をなさっていました。若々しいとても元気な神父でした。当時、わたしは洗礼を受けて間もないころでしたが、「ぶどうえん」というボランティアグループで活動していました。年に2、3回、仲間と一緒にその機関誌を印刷するために関町教会の印刷機を借りていたのです。当時としては最新鋭の印刷機でした。いやな顔もせず、食堂を使うことまで許してくださったのでとてもありがたく思いました。印刷作業はだいたい徹夜になりましたが、それでも温かく見守ってくれていました。教会で朝を迎えて、他の仲間がホールで仮眠しているとき、わたしは教会の朝ミサにあずかったのを覚えています。その姿は、岩橋神父の目にも止まっていたようで、わたしが神学校に入った後も、いろいろな場面で理解し、応援してくださいました。とても感謝しています。

岩橋神父はロヨラハウスでの療養中に『東京教区ニュース』の「教区司祭紹介」のインタビューを受けていらっしゃいます。その内容は、2013年3月号に掲載されています。

その中で、若いときに、「死ぬ瞬間、満足して死ねるために何をして生きて行った良いだろうか」という疑問が起こり、「命を削ってまでできる仕事」として司祭への道を選んだ、とお話しになっています。

岩橋神父さんは実にたくさんの、いろいろな働きをなさいました。教会の神父として、カトリック学校の先生として、中央協議会の事務局長として、その他、活動は多岐にわたっておられました。最後の3年10ヶ月の闘病・療養生活も司祭として生き抜かれたと思います。どうですか、岩橋神父さん。司祭として生きて、司祭として死んで、後悔ないですよね。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

先ほど読まれた福音のイエスさまの言葉です。イエスがあなたを選びました。人間的に見れば、こんなはずじゃなかったと思うようなこともたくさんあったでしょう。あまりにも困難で苦しみの多い道に導かれたと言ってもいいでしょう。でも、その中でイエスさまは最後まで一緒にいてくださって、守り導いてくださいましたし、今、岩橋神父さんを天の御父のもとで迎えてくださっていますよね。

今日、ここに集まるわたしたち一同、岩橋神父さんの生涯を思い、その生涯をとおして示された神の大きなはからいに感謝しながら、通夜の祈りをおささげしたいと思います。




2014インターナショナルミサ 説教

English(英訳)

2014年9月28日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

聖書朗読 I. エゼキエル18・25—28 II. フィリピ2・1—11 E. マタイ21・28—32

 

ホミリア 

今日9月28日は聖ロレンソ・ルイスの記念日です。彼が殉教したのは1637年9月29日ですが、29日は三大天使の祝日なので28日が記念日になっています。この日は日本で殉教した16人の聖人を一緒に記念する日で、日本での祝日の名前は「聖トマス西と15殉教者」ですが、世界的には「聖ロレンソ・ルイスと同志殉教者」と呼ばれています。

ロレンソ・ルイスについて、フィリピンの方々はよくご存知でしょう。中国人を父とし、フィリピン人を母として、1600年頃マニラで生まれ、幼い頃から教会によく通い、大人になってもロザリオ会員として教会の活動に参加していました。妻と子どもがいて家庭にも恵まれた男性でした。しかし1636年、彼はある事件に巻き込まれ、フィリピンにいることができなくなり、たまたま外国に行く船があったので、その船に飛び乗りました。

その船は日本を目指している船で、乗っていたのは宣教師たちでした。日本では徳川幕府によるキリシタン弾圧が激しかった時代です。宣教師たちはいのちがけで日本を目指していました。全員が沖縄で捕らえられ、長崎に連行されました。

ロレンソ・ルイスは信仰を捨てればいのちを許してやると言われましたが、信仰を守り抜き、殉教者の1人になりました。

彼がマニラで船に乗り込んだとき、殉教することになるとはまったく考えていなかったでしょう。むしろ、自分の命を守ろうという一心で、母国を捨てて外国行きの船に乗り込んだのでした。しかし、彼は自分でもまったく予想しない形でイエスをあかしすることになりました。

このロレンソ・ルイスの姿は、日本に住んでいる外国人の姿と重なるように思います。皆さんの多くは宣教師や証し人になるために日本に来たのではないでしょう。皆さんの多くはたぶんカトリック信者が多い国から来たと思います。カトリックの信仰は当たり前だと感じてきた方が多いと思います。でも来てみたら、日本はそうではありませんでしたね。日本の社会ではキリストを信じていることは特別なことです。皆さんもそういう目で見られたことがあるでしょう。「なぜ、あなたは神を信じていますか?なぜ、あなたはクリスチャンですか?なぜ、あなたはカトリック教会に行くのですか?」もしかしたら日本に来て初めて自分の信仰が問われたという方もいるのではないでしょうか。

ロレンソ・ルイスが神の証人として選ばれたように、皆さん一人一人も、日本という国でキリストの証人になるよう、神によって不思議な仕方で呼ばれたのではないでしょうか。

今日の福音は二人の兄弟のたとえ話です。

父親は二人の息子に、「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言いました。1人は「はい」と答えながら、結局、行きませんでした。もう1人は「いやです」と答えながら、後で考え直して、でかけました。

わたしたちも神の呼びかけに応えるかどうか、問われています。ただ口先で答えるのではなく、心から、自分の生き方をもって答えるかどうか、問われています。「悔い改めて、悪を離れ、正義と恵みのわざを行うこと」、これが第一朗読のエゼキエル書で求められていることです。「利己心や虚栄心を捨て、イエスにならってへりくだり、他の人のことに注意を払う」これが第二朗読のフィリピ書で求められていることです。神の望みはこれです。厳しくて難しい要求でしょうか。いいえ、神は決してわたしたちに苦役を課そうとしているのではありません。

「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」

ぶどう園に行って働くこと。そこにはもちろん、いろいろな苦労もあるでしょうが、むしろ収穫を共にする大きな喜びがあります。神は福音の喜びを共に味わうようにわたしたちに呼びかけているのです。

今日、このミサの後に、小さなグループで分かち合いをします。その分かち合いのテーマは、フランシスコ教皇の使徒的勧告『福音の喜びEvangelii Gaudium』からとりました。

「あなたが見つけたもの、あなたを生かすもの、あなたに希望を与えているもの」です。 フランシスコ教皇の元の文章はこうなっています。

「イエスなしの人生は違ったものになることを、皆さんの心は知っています。あなたが見つけたもの、あなたを生かすもの、あなたに希望を与えているもの、これこそあなたが他者に伝えるべきものです。」(121)

教皇はこうも言っています。

「イエスを知っているのと知らないのとでは大違いですし、イエスとともに歩むのと手探りで歩むのとではまったく異なります。」(266)

信じているわたしたちに何が実現していますか。わたしたちは、イエスから生きるのにどんな助けを与えられ、どんな希望を与えられていますか。フィリピン人も韓国人も、アメリカ人も中国人も、その他の国の人々も日本人もここにはいます。わたしたちは皆、イエスを知っています。信仰の恵みをいただいています。それはわたしたちの人生をどのように輝かしているでしょうか。そのことを分かち合えたら素晴らしいと思います。  

「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」

「主のぶどう畑」はどこにあるでしょうか。わたしたちが日々生活している場が、主のぶどう畑です。そこでわたしたちが福音の喜びを生き、日々で会う人々とその喜びを分かち合うことができますように。アーメン。




ルカ荒井金蔵師 通夜の祈り

ルカ荒井金蔵師 通夜の祈り
(1918年1月8日〜2014年8月23日)

 

2014年8月25日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

聖書朗読(ヨハネ6・30-40)

〔そのとき、〕イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

ホミリア 

ルカ荒井金蔵神父は、8月23日(土)午前1時59分、飯田橋の東京逓信病院で96年を超える地上の旅路を終え、神のもとへと旅立って行かれました。

近年はペトロの家で比較的おだやかに過ごしておられましたが、3ヶ月前の5月21日(水)の午前中、急に言葉がしゃべれず、意識も遠のいた状態になり、東京逓信病院に入院することになりました。救急車を待つ間に、病者の塗油の秘跡をお授けしました。ほんとうに危ない状態だと思ったからです。しかし、その後、意識を取り戻し、「今回は死なないと思っていた」とおっしゃったそうです。それから病状はやや落ち着き、一時、病院からペトロの家に戻られたこともあります。ただ、8月3日の日曜日には重篤な状態になり、ペトロの家の浦野神父、ご家族・ご親戚が病室に集まる中で、もう一度病者の塗油の秘跡をお授けしました。それでもさらに3週間、いのちの火を燃やし続けておられました。ご家族ご親戚や逓信病院の緩和ケア病棟のスタッフの皆さん、ペトロの家のスタッフに支えられて最後の日々を過ごされました。わたしが最後にお会いしたのは亡くなる2日前でした。浦野神父から、ラテン語の聖歌を歌うと反応されるという話を聞いていたので、枕元でラテン語の聖歌を歌って差し上げましたが、少し反応があったようなご様子でした。 

関口教会の主任司祭やカテドラルの担当司祭を長くお勤めになりました。1999年に引退後もカテドラルの構内にある司祭の家にお住みになり、最後の4年間はペトロの家でお過ごしになられたのですから、たいへん長い間、このカテドラル構内にお住みになったことになります。

この数年、わたしはペトロの家で一緒にミサや食事をさせていただくことになりましたが、たくさんの昔話を聞かせていただきました。 

浅草教会のすぐそばに家があったこと。生まれたとき、非常に弱かったので、生まれたその日に浅草教会の外岡金声神父から洗礼を授けられたこと。外岡神父の名前から一字もらって「金蔵」という名がつけられたこと。5歳のとき体験した関東大震災の記憶。パリ外国宣教会のリサラグ神父の勧めで、暁星中学に行くことになった話。フランス語の世界に驚いた話。若い頃、出会って影響を受けた宣教師や司教のこと。昔のカテドラル構内の桜並木の話や、江戸川橋や飯田橋界隈のこと。軍隊の話。中国に送られて負傷し、召集解除になって日本に帰って来た話。爆撃で亡くなった神学生のことなど。

戦後では、関口教会の主任司祭の時代に建てられた東京カテドラル聖マリア大聖堂のこと、そしてその後、教会での結婚式がブームのようになって、カテドラルで年間500組も結婚式があったという話。本当に昔のことをよく覚えておられて、話し始めると止まらないのです。

一つ質問すると、それに答えて何十分でも話し続ける。その話からいつも感じさせられたのは、荒井神父の東京教区の教会に対する愛でした。愛を込めて、とても楽しそうに話されるのです。ですからさえぎるのが辛かったです。こちらに時間の余裕がないときには、うっかり聞けませんでした。でも本当に東京教区の教会の歴史の生き証人のような方ですので、もっともっとお話を聞いておけばよかったと思っています。 

あまり聖書の話をした記憶はないのですが、2010年1月の『東京教区ニュース』のインタビューに答えて、好きな聖書の言葉として上げておられたのが、先ほど朗読した箇所の結びの言葉です。

「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

神はいのちの与え主、その神の恵みによってわたしたちは日々生かされている。そのいのちは地上の生活で終わってしまうものではなく、神のもとに至り、最終的に神のもとで永遠の神のいのちにあずかることになる。荒井神父は長い人生、長い司祭生活をその神の約束に信頼しながら生き抜きました。忠実に司祭として歩みとおしました。

もういろいろなお話が聞けないと思うと残念で、淋しい思いがします。でも今日、わたしたちは荒井神父を偲んで一つに集まり、祈ります。神が荒井神父の至らなかった点をゆるし、みもとで永遠のいのちの喜びに与らせてくださいますように、と。そして、残されたわたしたちも日々、神の恵みといのちに支えられ、感謝をもって、神に忠実に生きることができるよう、心を込めて祈りたいと思います。




安房上総宣教協力体平和を願うミサ

2014年8月10日 木更津教会にて

 

〔I〕列王記上19・9a, 11-13a 〔II〕ローマ9・1-5 〔福〕マタイ14・22-33 

ホミリア 

今から5年前、外房の御宿町で、「サン・フランシスコ号御宿漂着400年記念ミサ」をささげました。この中には、そのとき参加された方もいらっしゃるかもしれません。1609年9月、フィリピンからメキシコに向かうサン・フランシスコ号という船が嵐にあい、御宿沖で座礁し、乗っていた人々が海に投げ出されました。わずか300人ほどの御宿の人々が総出で、船に乗っていた300人以上の人を助けたというのです。その中にはドン・ロドリゴというフィリピン総督代理もいました。彼らは、大多喜城主や将軍徳川秀忠、駿河に引退していた家康に丁重にもてなされ、幕府から代わりの船を与えられて、メキシコに帰ることができました。この話は、日本では忘れられていきますが、メキシコではずっと語り継がれていったそうです。

この出来事はキリシタンの歴史の中で微妙な(あるいは絶妙な)タイミングで起こりました。1597年、豊臣秀吉はキリシタン26人を長崎で処刑しました。その中にフェリペ・デ・ヘススというメキシコ人の修道士がいました。彼はサン・フェリペ号という船でフィリピンからメキシコに向かっていましたが、やはり嵐にあい、船は土佐に漂着しました。フェリペ・デ・ヘススは京都に行き、そこで捕らえられて、日本26聖人の一人として殉教しました。御宿の出来事の12年前のことです。御宿の出来事の後、1614年から徳川幕府はキリシタン禁制を非常に強くし、日本にキリシタンがいることは絶対にゆるさないという姿勢になりました。1633年、たまたま日本に来る船に乗って琉球に来たフィリピン人、ロレンソ・ルイスは捕らえられて、長崎に連れて行かれ、そこで殉教します。彼は聖トマス西と15殉教者の一人として列聖されています。厳しい迫害の間の、わずかな平和の時代に起こったのが、この御宿の出来事だったのです。

難破した船の外国人たちを助けた御宿の人々はおそらく皆、キリストを知らない人たちだったでしょう。彼らは、福音書の中の「善いサマリア人」のように、目の前の人が困っているのを見て、ほうっておけずに手を差し伸べたのです。人間にはこういう心があります。人間はすばらしいことができる、誰の中にもそういう心があるはずだ。イエスは善いサマリア人のたとえ話の中で、そういう隣人愛を高く評価し、これがもっとも大切なこと、神のこころにかなう最も大切な行為だとしています。 

でも一方では人間はとんでもなくひどいこともします。

徳川幕府のキリシタン弾圧は過酷でした。何万人ものキリシタンがキリシタンだというだけで殺されました。ナチスドイツのユダヤ人虐殺もひどいものでした。何百万人ものユダヤ人が殺されたと言われています。戦前の日本のアジアへの侵略戦争もひどいものでした。朝鮮半島の人々に対する扱いもひどかった。アメリカが日本の一般市民に対して行った空襲もひどいこと、特に広島、長崎への原爆投下はほんとうにひどいことでした。そして今、イスラエルがガザ地区で一般の市民、子どもや女性達を殺しています。ある国では、イスラム教徒がキリスト教徒を殺しているという話も聞きます。

何でこんなことが起こるのでしょうか。なぜこれほどひどいことを人間はできるのでしょうか。国が違う、民族が違う、宗教が違う。あいつらは敵だ。そう決めつければ、どんなひどいこともできるのが人間なのでしょうか。人として当然持っているはずの、相手の痛みに対する共感を妨げるものは何でしょうか。それは、人間である前に、何国人、どの民族、どの宗教、そうやって人を十把一絡げにくくってしまうことではないでしょうか。

民族と民族が敵対している、と言われます。それはほんとうでしょうか。国と国とが敵対している、ほんとうでしょうか。宗教と宗教とが敵対している、これも本当はウソなんじゃないか。誰かが人と人とをグループ分けして、その間に敵対の構図を作って、人間に憎悪と敵意を植え付けているのではないか。騙されてはいけない。そんなものに絶対に騙されてはいけない。

わたしたちはキリスト信者なのですから、すべての人の父である神を信じているのですから、キリストがすべての人のすくいのためにご自分のいのちさえもささげてくださったことを信じているのですから、絶対にこの敵対の構図を受け入れることはできません。 

今日の第一朗読は「山の中で主の前に立ちなさい」というエリヤへの呼びかけでした。神は暴風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられなかった。本当に「静かにささやく声」の中に神はおられたというのです。その声で、主はわたしたちになんと呼びかけているでしょうか。答唱詩編で「神の語られることばを聞こう。神は平和を約束される」と歌われます。暴力や経済力や政治力で、戦争をあおる声は大きいのです。平和を語る声は弱くか細く聞こえるかもしれません。でもわたしたちは主の前に立って、何がほんとうに主が語られることかを、聞き分けたいと願います。主が語るのは、詩編にあるように「正義と平和」です。今の言葉でいえば、「人権と平和」と言うほうが分かりやすいかもしれません。ほんとうに一人一人の人間を尊重する、そこに実現する平和。これこそが神のみこころであるに違いありません。その静かな声に耳を傾けたいのです。

決して簡単な道ではありません。

今日の福音はイエスが水の上を歩き、ペトロがそれにならって自分も歩こうとする箇所です。「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」「わたしのところに来なさい」。主はわたしたちにそう呼びかけています。「愛と平和」の道を歩く、それは水の上を歩くようなあぶないことに見えるかもしれない。でも、同時に400年前の御宿の人々が示したように、人間として本来、当然のことであるはずです。

今日の第二朗読を見ると、使徒パウロの時代も、今のわたしたちが抱えているような国や民族の対立の問題を抱えていました。ユダヤ人と異邦人の間の問題、キリスト教とユダヤ教の間の問題。パウロはそのことで自分自身が引き裂かれるような痛みを感じていました。パウロはしかし、そのすべてを超えて、わたしたちに救いをもたらすキリストの救いに信頼しています。今年の平和旬間の祈りの言葉は、そのパウロのエフェソの教会への手紙2章からとられています。

「御子イエス・キリストはすべての人に平和の福音を告げ知らせ、十字架によって、人と人、民族と民族の間にある敵意という隔ての壁を打ち砕いてくださいました。」

わたしたちもこのキリストに信頼して、平和のために祈り続けましょう。




使徒ヨハネ宮内薫行神父通夜の祈り

使徒ヨハネ 宮内薫行(みやうち しげゆき)神父 通夜の祈り
1920.2.24生 1955.12.21司祭叙階 2014.7.30 帰天 (94歳)

 

2014年8月4日 東京カテドラルにて

 

聖書朗読 ヨハネ14・1—6

 

ホミリア 

宮内薫行神父は、1994年9月、関町教会主任司祭の職を退いた後、「司祭の家」で過ごされるようになりました。そして4年前から新しくできた「ペトロの家」に移られました。引退司祭としての生活はちょうど20年ということになります。若い頃から病気がちで、ずいぶん苦労されたそうですが、この20年間は比較的静かな生活だったと思います。お好きな読書三昧の生活のようにお見受けしていました。わたしがこのカテドラル構内で住むようになってから接していても、健康状態も比較的よく、おだやかな日々を過ごしておられたと思います。一時期は、「人生の中で今が一番健康」ともおっしゃっていました。

何年か前から、腎臓の機能が低下し、認知機能の衰えも見られるようになりました。年齢なども考えて、人工透析はしないことになり、次第に体のむくみが大きくなりました。時間が非常に不規則になり、いろいろな意味で生活上の支障が出てきました。それでも最後まで、歩いて食堂に来られていました。傍から見ていると辛そうなのですが、「具合はいかがですか」と聞いても、いつもほとんど「別に」「大丈夫」との答え。いろいろお世話をされるのがお嫌で、看護師などは何度も「うるさい」と何度も言われたそうです。

7月30日水曜日も、午前中、一人で歩いて食堂まで来られ、朝食をとられました。部屋に戻ったところで、11時頃に看護師がバイタルチェックに行き、血液中の酸素濃度が下がっていて、上がる様子がないので、救急車で聖母病院に行くことになりました。いざという時には連れていく約束になっていたのです。「聖母病院に行きますがよろしいですか」とお聞きすると「どちらでも」とおっしゃいました。これは「行ってもいい」という意味なのです。聖母病院では、酸素吸入等の処置で状態は改善し、わたしは司教館に戻りましたが、午後、電話があり、万が一のことを考えて、病者の塗油の秘跡を受けたほうがよいかもしれないとのことでした。そこで病院のチャプレン、バレンタイン・デ・スーザ神父にお願いして病者の塗油の秘跡を授けていただくことにしました。弟さんご夫妻も駆けつけましたが、状態は安定したように見え、お話もでき、ご夫妻はお帰りになりました。その後、病状が急変し、わたしが連絡を受けて駆けつけたときには、もう心臓が止まっていて、夜8時27分に死亡が確認されました。病名は慢性腎不全でした。あまりに急なことでとても驚きました。前の週、7月25日にはペトロの家の納涼会がありましたが、その時は中庭で楽しそうにお話もできたのです。しかしとにかく、ギリギリまでまでペトロの家で過ごすことができて良かったと感じています。

宮内神父は、1920年2月24日のお生まれでしたから、今年で94歳になられていました。17歳のとき、高円寺教会で洗礼を受けられました。戦争中は軍隊にも行き、戦後はカトリック学校の先生をしていましたが、司祭の道を志し、神学校に入学。1955年に司祭叙階を受けました。いくつかの教会の助任司祭を経て、町田教会、関口教会で主任司祭として働かれました。

その後、司教館で司教総代理という仕事をなさいました。東京教区の補佐司教であった濱尾司教が横浜司教になって転出され、森司教が補佐司教になるまでの間でした。司教総代理は、神学生の養成担当司祭の責任者でもあります。わたしがちょうど神学生だった時期と重なっていましたので、たいへんお世話になりました。わたしが司祭になって数年後、関町の神学校のモデラトールになったころ、宮内神父は関町教会の主任司祭で近くにおられたので、そこでも関わりがありました。今でもよく覚えていることがあります。突然電話がかかって来たのです。そのとき宮内神父は新しく出た神学の本を読んでいて、「ここにこう書いてあるが、どういうことだろう」と電話で聞いてくるのです。別にわたしをテストするつもりではないようで、本当に率直に疑問を感じて電話して来られたのです。ずっと勉強する姿勢を持ち続けておられました。そのことはとても印象的でした。とにかく誠実、忠実に司祭として生きた方だと思います。

亡くなられて、お部屋に入ったとき、机の上に、幼いイエスの聖テレジア(リジューの聖テレーズ)の写真がありました。いつもそこに置いていらしたようです。

テレーズは19世紀の後半、カルメル会修道者として生き、若くして亡くなったフランスの女性です。1925年にピオ11世教皇によって、列聖されました。宮内神父は、病弱だったテレーズと自分自身を重ね合わせていたのでしょうか。テレーズは24歳で亡くなりました。宮内神父は94歳まで生きているのですが、でもどこかで自分とテレーズを重ね合わせていたのではないかと思います。

テレーズという人には多くの夢がありました。宣教師になって世界の果てまでキリストを伝えたいという夢、司祭になってキリストの聖体を人々に与えたいという夢、さらに殉教者としてキリストのためにいのちをささげたいという夢。でも現実の彼女は、観想修道院の中にいる病弱な修道女でしかありませんでした。そして彼女は「小さな道」を発見します。大切なのはどれだけ偉大なことをするかではなく、どれだけ自分が小さくなり、幼子のようになって、ひたすらすべてを神に委ねきるかだ、ただ愛する心を持つことだ。神のこころにかなうのはそれだということ、これがテレーズの発見した「小さな道」でした。

宮内神父はご自分もずっとこの「小さな道」を歩もうとされたのではないかと思います。その道を歩み通されて、今はもう、神のもとに行かれました。イエスが皆に先立って行った神への道、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とおっしゃるイエスの後をついて、天の永遠の国に行かれました。

宮内神父の生涯を偲びながら、94年の生涯をとおして神が与えてくださった恵みに感謝しましょう。神が宮内神父のいたらなかった点をゆるし、ご自分のもとでの永遠の安息を与えてくださるように祈りましょう。そして、わたしたちもまた、道であるキリストに結ばれ、それぞれの「小さな道」をとおって、神のもとへの旅路を誠実に歩み続けることができるように祈りましょう。




ヨハネ・マリア・ヴィアンネ佐久間彪神父通夜の祈り

ヨハネ・マリア・ヴィアンネ 佐久間 彪 (さくま たけし)神父 通夜の祈り
1928.2.25生 1956.2.25司祭叙階 2014.7.27 帰天 (86歳)

 

2014年7月30日 東京カテドラルにて

 

聖書朗読 ヨハネ14・1—6

 

ホミリア 

佐久間彪神父のお生まれは1928年2月25日。お父様は軍人で、佐久間神父が4歳のときお亡くなりになりましたが、佐久間神父は幼いころから軍人になることを夢見ていました。お母様がカトリックになり、暁星中学に行くよう勧められ、14歳でカトリックの洗礼を受けられました。1942年5月23日のことでした。ちなみに白柳枢機卿とはこのころからずっと、枢機卿が亡くなられるまで親友としてお付き合いされていました。10代のころは、戦争の真只中で、軍人になることだけを考えていたそうですが、17歳で日本の敗戦を迎えました。軍人への道を失った佐久間神父は、絵が好きだったので、美術学校に進みたいと考えたようですが、お母様の勧めがあって、司祭への道を歩むことになったそうです。ちなみにお母様は佐久間神父が司祭への道を歩むことを決めたのち、カルメル会修道院に入り、修道者として一生を終えられました。妹さんは早くからシャルトルの聖パウロ会のシスターになりました。

東京で哲学の課程を終えてからドイツに留学し、1956年2月25日、ドイツのアーヘンで司祭になりました。帰国してまず高円寺教会の助任司祭として働き、荻窪教会の主任、そして長く世田谷教会の主任司祭として働きました。

ほんとうに多才な方で、チェロを弾き、大型のオートバイに乗り、油絵を書くなど実に多くの趣味をもっておられました(趣味と言ったら怒られるかもしれませんが)。「居合い」の話も聞いたことがあります。絵本を書き、典礼聖歌などの作曲をし、著作や翻訳等でも活躍されました。白百合女子大学教授として長年、教壇に立ち、また他の学校でもお教えになりました。

しかし、特に今日、思い起こしたいのは、典礼の仕事です。荻窪教会におられた1960年代、それはカトリック教会では第二バチカン公会議の時代であり、教会が大きく変わろうとした時代でした。1962年に典礼憲章が発布され、母国語での典礼の可能性が開かれました。そして、日本で日本語の典礼を行うために、佐久間神父はたいへん大きな貢献をされました。典礼委員会の委員として、イエズス会の典礼学者土屋吉正神父などとともにミサの国語化にかかわり、荻窪教会で実験的な試みをしながら、国語化を実現して行きました。わたしたちが何気なしに唱えているミサの日本語が生まれることに佐久間神父は、深く関わっていました。最後、ホスピスに入院したのは1ヶ月半ほど前のことでしたが、その日、病室でわたしに向かって「最後に一つ頼みがある」とおっしゃいました。ミサの聖別の言葉の後の『信仰の神秘』という言葉で始まる記念唱についてでした。「あそこはMortem tuam annuntiamus, Domineで、キリストに向かって『主よ、あなたの死をわたしたちは告げ知らせます』と二人称で言っているのに、国語化のとき、『主の死を思い』と三人称に訳してしまった。どうしても翻訳し直してほしい」というのです。

典礼に対する思いは特別なものがありました。説教をよく準備し、心をこめてミサをささげました。荻窪教会やスピノラの修道院でのミサを最後まで続けようとされました。ホスピスに来てからも訪れた信者とともに何度かミサをささげました。

わたしは個人的に、福音理解、キリストへの理解の面で佐久間神父から大きな影響を受けました。わたしが神学生のころ、多摩ブロックの青年の研修会で佐久間神父がお話しになりました。わたしは実際の講演は聞いていなかったのですが、後でその録音テープを何度も聞くことになりました。講話の中で佐久間神父は、ラテン語、ギリシア語など駆使されてお話になっているのですが、その外国語の部分を正確に文字にする手伝いをしたのです。かろうじてギリシア語を学んでいたぐらいのわたしには難しい面もありましたが、これはとても心に残る作業でした。『愛を祈る』という小冊子になりました。手書きのアルファベットやギリシア文字が出てきますが、実はわたしが書いたのです。

特に「はらわたする」ということと「アッバ」の話が心に残りました。

「スプランクニゼスタイ」というギリシア語を佐久間神父は「はらわたする」と訳しました。目の前の人が苦しんでいるのを見たとき、こちらのはらわたがゆさぶられる。自分でそうしようというよりも自然に体が反応してしまう。道に倒れた人を見て近寄って手を差し伸べたサマリア人もそう、ボロボロになって帰って来た息子を迎え入れた放蕩息子の父親もそう、一人息子の死という悲しみに打ちひしがれたナインのやもめを見たイエスもそう。みんな「はらわたする」。そういう愛の力をわたしたちはいただいているのだ、と佐久間神父は強調しています。

「アッバ」。これも有名ですが、イエスが日常話していたアラム語で、子どもが父親を呼ぶ時の言葉。だから普通、「父」と訳されます。しかし佐久間神父は、これは赤ん坊が最初に出す声だと言います。それに父とか母とか意味をつけたのは大人であって、本当は神は父でも母でもない。文化、民族、言語の違いを超えて、わたしたちを生かす存在、愛の源をイエスはアッバと呼んでわたしたちに示してくださった。

そして佐久間神父はこう言いました。「要するにキリスト教って何だ、と聞かれたら、僕はあのスプランクニゼスタイ(はらわたすること)と、このアッバ、このふたつじゃないか。そういう意味では、わたしはこのふたつの言葉をキリストの福音のキーワードだと思うんです。そこからすべては始まり、そしてすべてはそこに終わる」ああ、懐かしいですね。わたしも今もほんとうにそうだと思っています。 

さて今日は通夜の祈りであります。

カードに載せたローマ書の言葉、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」最後のころまで、この箇所のことをよく話されていたそうです。わたしたちは皆、神から出て、神のもとへと帰って行く。そのことを大切にされていました。そしてご自分自身が神のもとに行くことをとてもはっきり自覚されていました。

何年か前、わたしは東京医大で、最後にガンの治療をどうするかという医師との話し合いに立ち会わせていただきました。そのとき、はっきりとご自分で「もう治療は受けません。最後はカトリックのホスピスで人生を終えたい」とおっしゃいました。そして去年だったと思いますが、桜町の聖ヨハネホスピスを受診し、ギリギリまで司祭として働きたいが、最後はよろしくとおっしゃいました。そして今年になって限界を感じておられたようで、6月にホスピスの病室が空いたという知らせを受けて、すぐ入院することにされました。印象的だったのは、どの時も司祭のカラーがついたスーツ姿で病院に行かれたことでした。「こうすると自分が何者か、説明しなくても分かってもらえるから」とおっしゃいました。最後まで司祭として精一杯生きるという気概をお持ちでいらっしゃいました。もうミサもできなくなりましたが、7月17日にわたしが伺い、病者の塗油の秘跡をお受けになりますかとお尋ねすると、はっきり「はい」と答えられました。

佐久間神父のことを思い返していると、わたしには「Ad Patrem」というラテン語が思い浮かんできました。「御父に向かって」いやむしろ「御父のもとへ」と訳したらいい言葉です。ミサを父である「神に向かって」ささげる祈りとして、信者と共にささげ続けることをとても大切にされました。そして自分の生涯も、そのすべてをとおして「御父のもとへ」と向かうものとして生き抜かれたのだと思います。

先ほど読まれた福音書の箇所は、イエス・キリストの最後の晩さんの席での言葉です。 

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

イエスに結ばれて、佐久間神父はアッバである御父のもとへ旅だっていかれました。そこで、すべての苦しみ、重荷をおろされて安らかに憩われていることでしょう。お父様ともお母様ともそこで出会われていることでしょう。

今日、佐久間彪神父を偲び、佐久間神父との出会いをわたしたちに与えてくださった神に感謝したいと思います。そして佐久間神父が語っていたように、わたしたち一人一人の人生も最終的に御父のもとへ向かう歩みであることを深く受け止めたいと思います。

それでは、佐久間彪神父と共に、「アッバ」である神に向かってこの通夜の祈りをおささげいたしましょう。




チェレスティーノ・カヴァニャ神父葬儀ミサ説教

チェレスティーノ・カヴァニャ(Celestino CAVAGNA)神父 葬儀ミサ説教
1953.10.20生 1977.6.18司祭叙階 2014.4.14 帰天 (60歳)
(聖書朗読:エレミヤ1・4—8a、マタイ6・26—33)

 

2014年4月21日 東京カテドラルにて

 

 

(Celestino CAVAGNA撮影)

 

わたしが教区本部に来たのは2003年の春で、それから8年間、同じ教区本部でチェレスティーノ神父と一緒に働かせていただきました。

来たときは古い司教館の1階が教区本部事務所でした。事務局長のチェレスティーノ神父が夜中まで事務所で働いていたのをよく覚えています。わたしは驚きました。わたしは勝手に、イタリア人って残業なんかしないはずと決めていたからです。彼は本当によく働く人でした。イタリア人と言っても、彼は北部の人。ロンバルディア州ベルガモ県ボナテの出身でした。ミラノの北東40キロにある小さな町。陽気なイタリア人のイメージとは違う真面目な北部の人間でした。子どものころ、家ではイタリア語ではなく、その土地の言葉を話していて、お母さんはイタリア語が話せなかった、そんな話も聞いたことがあります。ちなみにベルガモと言えば、ヨハネ23世教皇の出身地でもあります。

カトリックの素晴らしい信仰が息づいた地方の町で、チェレスティーノ神父は生まれ育ちました。10歳のとき、たまたまその町に来たミラノ外国宣教会の神父の誘いで、小神学校に入ることになりました。東洋という知らない世界で働く宣教師の話に心躍らせただけでなく、神からの呼びかけに応えたいという思いが強くあったそうです。

ミラノでの神学生時代、日本で働いていた宣教師の指導で、座禅に出会いました。何も考えずにじっと座っているその座禅に、それまで経験してきた祈りにはない、心が落ち着くものを感じたそうです。そして彼は日本に行きたいという希望を持つようになりました。

23歳で司祭に叙階され、イギリスで一年間の英語の勉強、東京六本木での二年間の日本語の勉強。それから佐賀県の鹿島教会に赴任。次に甲府の教会で助任司祭をしながら、駒沢大学大学院で仏教の勉強をしました。座禅の修行も続けました。1990年に府中教会の主任司祭になり、2000年まで働きました。そして白柳枢機卿と森司教に呼ばれて、教区本部事務局長として働くようになりました。わたしが補佐司教になる前は、司教総代理も務めていました。府中時代から、白百合女子大などで宗教学の講師の仕事も続けていました。

教区本部事務局長としての彼の仕事はとてもたいへんなものでした。忙しすぎて、大学の仕事も仏教の研究もできなくなり、趣味の写真撮影に出かけることもまれになりました。小教区の再編成、外国との交流の窓口、教区のさまざまな問題や課題、病気の司祭のお世話。目に見える大仕事としてはカテドラルの大改修工事、ペトロの家の建設。3年前に立川教会主任司祭になり、そこでの司牧活動とともに、司祭館・信徒会館の建築にも尽力しました。

東京教区のために身をささげて働いてくれました。ほんとうにいつも教区のことを考え、大司教を支え続けたと、一緒に働いた者として断言できます。本当にお疲れさまでした。多くは目立たない仕事でした。ですが、今日、お話しする時間はありません。

一つだけお話したいと思います。このカテドラルは50年前に建てられた建物ですが、建築当初から雨漏りがするので有名でした。でも今は雨漏りしません。それはチェレスティーノ神父の功績です。長年、ステンレスの隙間から水が入り込み、ステンレスの外装を留めていた鉄のボルトがさびて、ステンレスの板が浮いてはがれるようになり、危険なので全部をやりかえる以外にないということになりました。莫大なお金のかかるたいへんな工事でした。工事の専門家たちは、40年前と同じやり方でステンレスの外装を葺き替えようと考えていました。ところがチェレスティーノ神父は一見、前とまったく同じように見えて、絶対に水が入らないステンレスの組み方を考えて提案しました。その提案が採用された結果、ステンレスの継ぎ目から水が入り込むことは完全になくなったのです。わたしはどれほど彼が苦心したかを知っています。そしてそこに、チェレスティーノ神父の教会に対する深い愛を感じました。

東京教区への貢献は多大でしたが、今日は特に二つのことを思い起こしたい。それはチェレスティーノ師が宣教師として生きたこと。そして、仏教と出会って信仰の豊かさを深めていったことです。

宣教師であること。ミッショナリーとして自分の人生をささげること。それは彼にとって、神の呼びかけに応えることでした。10歳のとき、小神学校に入る時から、彼はこの道を歩み始めました。しかし、故郷と家族の深い信仰の中で生まれ、おそらく「母の胎から生まれる前に、選ばれていた」という第一朗読の預言者エレミヤのようだと思います。チェレスティーノ神父は1977年、24歳で日本に来ました。一世代前の宣教師の使命は教会のない土地に教会を建てることでした。でも彼が日本に来たとき、教会はもうたくさんありました。彼は自分が日本で司祭として、宣教師として働くことの意味をずっと考えていたと思います。日本人の中へ、日本の文化の中へ、深く入っていき、そこに骨を埋める。ミラノ外国宣教会から東京教区司祭に移籍したのも、ミッショナリーとして最後まで生き抜くためだと言っていました。チェレスティーノ神父をとおして、カトリックの豊かなすばらしい伝統にわたしたちが出会えたことを心から神に感謝したいと思います。

禅との出会いもチェレスティーノ神父にとって大きなものでした。

チェレスティーノ神父は駒沢大学でアシジの聖フランシスコと曹洞宗の道元の比較研究をして、論文を書きました。チェレスティーノ神父が感銘を受けた道元禅師の歌があります。

「峰の色、谿(たに)の響も皆ながら我が釈迦牟尼の声と姿と」

山の峰の姿も谷の小川のせせらぎもみんなお釈迦様の声に聞こえる、その姿に見えてくる、という意味です。彼の中でそれはキリスト教信仰と結びついていました。あらゆるものの中に神のいつくしみを見る。すべてのものに神の子の輝きを見る。そのチェレ師の思いを表す福音の箇所として、先ほどの「野の花、空の鳥」の箇所が思い浮かびました。神のいつくしみは、一輪の花にも、一羽の小鳥にも注がれている。それが禅をとおしてチェレ師が新たにした眼差しでした。その目で自然を見て、写真を撮りました。その目で人を見て、人を大切にし、どんな人にもやさしく接しました。

人間的に見ればあまりにも早すぎる死でした。友として思えば、あまりにも辛く悲しいことです。東京教区としてはあまりにも、あまりにも大きな痛手です。でもすべては神のみ手の中にあります。神さまは天からチェレに向かって「帰っておいで」と呼ばれ、彼は帰っていきました。それに早すぎるとか、まだやり残したことがとか、そんなことは関係なかったのだと思います。

きょうの式次第の写真(上の画像)はチェレスティーノ神父が撮った写真です。「チェレスティーノ」は「空、天」を表す名前です。名前のとおり、天への憧れを表わしているかのような写真だと思います。チェレスティーノ神父を天の神さまのもとにお見送りしながら、彼がわたしたちに残していったもの、神に対する信頼、イエスの招きへの忠実さ、教会への深い愛、人々へのやさしさを一人一人が深く受け止めたいと思います。




十字架のヨハネ 井上洋治 葬儀ミサ説教

1927.3.28生まれ 1960.3.18司祭叙階 2014.3.8帰天(86歳)
(ガラテヤ4・4—7、ヨハネ14・6—11a)

 

2014年3月18日 東京カテドラルにて

 

井上洋治神父は87歳の誕生日を目前にした3月8日(土)、地上の歩みをまっとうし、天に旅立っていかれました。

わたしは東京教区の補佐司教ですが、神学生時代から井上神父にはいろいろお世話になりました。しかし、身近に接したのは、晩年のほんのわずかな期間でした。2010年の秋、井上神父はカテドラル構内にある「ペトロの家」に引っ越して来られました。東京教区の高齢や病気の司祭のための家です。老いを感じ、視力も衰えも自覚し、風の家のお仕事に区切りをつけられ、周囲の人に迷惑がかからないよう、最後は教区のお世話になろうと考えられたようです。わたしはそのペトロの家でご一緒させていただきましたが、一度だけ、説教を褒められたことがありました。たまたまわたしがペトロの家のミサの司式をした時のことです。その日は2月23日、聖ポリカルポの祝日でした。それで、ほんの一言、ミサの中でポリカルポのお話をしました。ポリカルポは2世紀のスミルナの司教で、殉教者になった人です。彼はローマ帝国の役人に捕らえられ、「キリストを冒涜すれば、いのちを助けてやる」と言われたとき、こう答えました。「わたしは86年間もキリスト様にお仕えして参りましたが、ただの一度たりとも、キリスト様はわたしに対して不正をなさいませんでした。だからわたしは救い主であるキリスト様を冒涜することなどできません」。わたしがお話ししたのは「わたしたちも生涯の終わりに本当にそう言えたらいいですね」ということでした。高齢の神父たちを前にちょっと押し付けがましいかなと思いながら、でも私自身の切なる思いを込めてそういう話をしました。するとミサの後、井上洋治神父がわたしに、「今日の話は良かったです」とおっしゃったのです。昨夜本でポリカルポの殉教録でポリカルポの歳を確認しましたが、井上神父が同じ86歳で天に召されたことを不思議な感じがします。とにかく井上神父はあのポリカルポの言葉、「ただの一度たりともキリストはわたしに不正をなさいませんでした」という言葉に自分の人生を重ね合わせていたのだと思います。

井上神父はペトロの家に半年ほどしかいらっしゃいませんでした。なぜ出ていくつもりになられたのか、いろいろ理由はあったのでしょうが、そのうち1つの理由をこうお話しになりました。「ここは神父ばかりで、わたしには合わない」とおっしゃったのです(司祭の家だから当たり前なのですが)。「自分は教会ではないところで、信者でない人たちの中でずっと生きてきたので、やはりそういう所のほうが合っている。普通の人たちの中で、何か自分にできることが、まだあると思う。」その言葉を聞いてわたしは妙に納得しました。それから井上神父は三鷹のホームに移って、井上神父らしく最後のときを過ごされたと思います。 

井上神父は1927年3月28日にお生まれになり、二十歳前に洗礼をお受けになりました。シスターになられたお姉様をとおして知った幼いイエスの聖テレジア(リジューの聖テレーズ)の影響が大きかったそうです。まったく小さい者として、神への絶対的な信頼のうちに生きることによって、神のみ心にかなうことができる、という聖テレーズの「小さい道」に井上神父は感銘を受け、そこに自分を賭けようとされて、信仰の道を歩みだされました。本当はテレジアの洗礼名をいただきたかったのに、女性の洗礼名だからと反対されて、テレーズが尊敬していた十字架の聖ヨハネの名前をもらったそうです。

テレーズを追って、フランスに渡り、そこのカルメル会に入会しました。修道名はフィリポ。今日のミサの福音の中に登場する使徒の名前です。実は今日のミサの聖書の箇所は、井上神父が最後まで、聖書を読むことができなくなっても、いつも大切にしていた箇所だそうです。イエスをとおしてアッバである神を示された使徒フィリポに自分を重ね合わせたところがあったのでしょうか。フランスでの修道生活を送る中で、日本人の自分にはどうしても合わないと考え、帰国して東京教区に移籍しました。

そして1960年3月18日、司祭叙階を受けました。今日がちょうど叙階記念日ということになります。それから54年間の司祭生活を送られました。さまざまな場でさまざまな働きをなさいましたが、1986年から24年間、ライフワークと言うべき「風の家」の活動をされました。

「アッバ」。イエスが神に信頼を込めて呼びかけた言葉、「おとうちゃん」というように親しみを込めたこのアッバという呼びかけを井上神父はとても大切にされていました。「南無アッバ」という有名な言葉で、ものすごく簡単・単純・素朴に、アッバである神に対する信頼と委ねの心を表しておられました。最後は目もほとんど見えなくなり、ミサをささげることもできなくなりながら、ずっとアッバへの祈りをささげていたそうです。最期はご自分の部屋で迎えることをお望みだったそうですが、救急車で病院に運ばれ、一晩だけ入院されて、翌日、天に旅だって行かれました。わたしはその翌日、ご自分のお部屋に戻られた井上洋治神父にお目にかかりましたが、ほんとうにおだやかな、眠っているようなお顔でした。

リジューの聖テレーズは、亡くなる直前の手紙にこう書きました。「わたしは死ぬのではありません。いのちに入るのです」井上洋治神父は、信頼申し上げたアッバのもとに行かれました。天に向けて旅立ち、いのちに入って行かれました。その井上神父の生涯を思い、アッバである神さまが、キリストが井上神父の生涯をとおしてなさったすべてのことに感謝したいと思います。そして、地上に残されたわたしたちも、アッバである神への信頼と愛の道を歩んでいけるよう、心から願ってこのミサの祈りをささげたいと思います。




「思いつづける3.11」東日本大震災追悼・復興祈念ミサ説教

2014年3月11日 麹町教会にて

 

聖書朗読:ローマ12・9−17、21 ヨハネ6・16−21

 

ホミリア

3年前の3月11日、誰もが一生忘れることのできない日を過ごしました。それは東北地方の人だけでなく首都圏に住むわたしたちもそうでした。東京では九段会館などで多くの死傷者が出ました。あの日、すべての交通機関がマヒして、多くの人が帰宅困難になりました。東京湾の沿岸部などでは液状化現象がおきました。千葉県でも津波の被害で亡くなられた方がいました。津波の被害は広範囲に及び、岩手、宮城、福島、茨城、千葉で18,000人以上の方々のとうといいのちが奪われました。多くの方が、家族や親戚、友人や知人を津波で失いました。その方々の悲しみや痛みは、3年経った今も続いていることでしょう。亡くなられた方々とそのご遺族のために、今日、心から祈りたいと思います。

さらに福島では原発事故が起こりました。放射能汚染によって何万もの人が避難を余儀なくされました。避難が原因で病気が悪化したり、亡くなった方々もおおぜいいらっしゃいます。避難先は日本全国にちらばっています。東京にもたくさんの人が避難してきましたし、3年経っても、帰ることのできない方々が大勢います。

地震・津波・原発事故によって今も仮設住宅に住む人の数は10万人。それ以外の形で避難している人も含めると26〜27万人の方々が今なお避難生活を送っておられます。福島では放射能汚染のため、また岩手や宮城でも高台移転の問題、土地の嵩上げの問題、復興住宅建設が進まない問題のため、避難生活はまだまだ続きそうです。長引く避難生活は、人々に大きなストレスや苦痛、経済的な困難を与えています。孤独死や自死にまで追いつめられる人が出ています。この3年間がそうでしたし、今後もその生活が続いてきます。

一方でボランティアは減少しています。しかし、ニーズはなくなっていないのです。福島第一原発に近い南相馬市などでは、元の家への帰還に向けた民家の片付けなどの作業をするボランティアがこれからまだ必要な状態です。

カトリック教会では、震災後すぐに被災地の教会にボランティアを受け入れ、寝床と食事を提供して、ボランティアを送り出す活動を始めました。今も岩手、宮城、福島で、8つのボランティアベースがそれぞれの被災地の中で活動しています。最初のころはガレキ処理の手伝いが多かったのですが、今ではお茶を飲みながら話を聞く、というボランティアが主になっています。それは話をすることによって少しでも心の重荷を下ろしてもらうためです。そして人と人とのつながりを作って行くためです。わたしたちは、何よりも「寄り添う」ということを大切にしています。

震災後、たくさんの支援団体が被災地に入りました。一年、二年たって、多くの団体が引き上げて行きました。しかし、カトリック教会は今も小さいですが、活動を続けています。東北の太平洋岸の被災地に小さくともカトリック教会があります。その教会は今後もずっとその地域の中でその地域の人々と共に生きていきます。その教会を拠点として、全国のわたしたちもボランティアとして被災地にかかわり続けることができるのです。

わたしたちが支援活動をとおして伝えたいこと、それは「わたしたちは皆さんを決して忘れていない」ということです。その心をあらわす箇所として、使徒パウロのローマの信徒への手紙12章を読んでもらいました。その中に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人とともに泣く」という言葉があります。これこそわたしたち被災者支援活動の心だと言えるでしょう。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人とともに泣く」わたしたちにはそれしかできません。しかし、そのことをとおして、「あなたは決して一人じゃないよ」ということを伝えられたらよいと思います。「あなたは決して一人ではない」と伝えること。それは2000年前のイエスが当時の人々に告げた福音の核心でもありました。

イエスは見捨てられた貧しい人や病気の人、罪人のレッテルを貼られて排除されていた人々に近づき、あなたは決して、神からも人からも断ち切られた人間ではない、あなたは神の愛する子どもであり、わたしの兄弟姉妹なのだ、と語りかけていきました。

わたしたちはその福音のメッセージを運びたいのです。

今日のミサの福音では嵐のガリラヤ湖での物語を選びました。奇跡物語というより、1つのシンボリックなイエスとの出会いの物語としてこの箇所を選びました。荒れる湖のイメージなので、津波の悲劇を思い出す恐れがあるかもしれませんが、それでも1つのシンボリックな物語として、この箇所を選ぼうということになりました。

嵐の湖の上で、イエスの弟子たちは不安でした。頼りのイエスがいないことが何よりの不安のもとでした。イエスは不思議な仕方で近づいてきます。そして「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいました。イエスを迎え入れると舟は目指す地についた、という物語です。これは2000年前のガリラヤ湖での出来事というよりも、わたしたちがいつも経験していることです。ほんとうに助けがなく、支えがなく、先が見えず、心細い思いでいっぱいで、恐れに捕われているとき、でもイエスは必ずそばにいてくださるはず。そのイエスに信頼して、イエスと共に歩もうとする時、わたしたちは困難を乗り越えて、希望をもって歩んでいける。イエスが共にいてくださるならわたしたちは恐れや絶望やあきらめから解放されて、それでも生きる希望をもつことができる。それがわたしたちキリスト者の希望です。

もちろん、この希望を被災者に押し付けることはできません。しかし、「いつくしみと愛のあるところに神はいてくださる」わたしたちはそう信じます。思いやりと共感を持って共に歩もうとするなら、そこに神はいてくださいます。だから、寄り添いながら、共に時を過ごしながら、祈り続けながら、被災者の方々と一緒に希望を見つけていこう、これがわたしたちの被災者支援活動の根底にある願いだと思います。

どうか神さまがわたしたちの祈りを顧み、被災された方々とともに、生きる力と希望を見いだすことができるよう導いてくださいますように。そのためにわたしたちが被災された方々のことを忘れず、思いつづけることができますように。

 




死者の月・合同追悼ミサ(五日市霊園)説教

2013年11月3日 五日市霊園にて

カトリック教会で伝統的に死者の月と言われる11月を迎え、今日わたしたちはこの五日市霊園に集まりました。それぞれに家族や親しかった人のことを偲び、その人たちのために祈ろうと集まっています。

亡くなられた方のために祈ること、それはまず、亡くなった方を思い起こし、その方との生前の関わりを思い出し、追悼することです。教会では「死者の記念」という言い方がされます。忘れてしまうのではなく、思い続ける、思い出し続けること、これは大切なことです。死によって、わたしたちと親しかった人の絆はすべて断ち来てしまうのではない。目に見える肉体は滅んでも、目に見えない絆は滅びない。そう信じて思い起こすのです。

そして、この記念の中で、亡くなった方が、すべての罪と汚れから清められ、神のもとで安らかに憩うように、と祈ります。亡くなった方のために祈りを捧げ、わたしたちにできる犠牲をささげることは意味があると昔から考えられてきました。

親しかった人の死に接したとき、たぶん誰でも「あれもしてあげたかった。これもしてあげたかった。でもしてあげられなかった」、そういう後悔や負い目を感じた経験があるでしょう。特に親しかった人であればあるほどそうでしょう。でも今更もう何もできないというのではなく、亡くなった方々の永遠の救いのために祈ることはできる。それは残された者の勤めであり、残された者にできる大切なことです。

わたしたちが故人のために何かできる、ということは大切なことですが、同時に、逆に、亡くなった人が生きているわたしたちのために何かできるということも大切だと思います。

神への信仰をはっきりと持たない多くの日本人にも、そういう感覚はあるようです。たとえば、亡くなった両親がいつも天から見守っていてくれて、支えてくれる、助けてくれる、というような感覚です。特に難しい試験のとき、困ったとき、本当に苦しいときなど、亡くなった親や祖先に助けを求める気持ちは自然なものでしょう。そして、うまく行けば感謝する気持ちも当然なことでしょう。

でもこれはカトリック信仰と結びつくでしょうか。カトリックの信仰では、祈りは何より神に向けられるはずです。聖母マリアや聖人に執り成しの祈りを求めることはあっても、もっと身近な、ふつうの親兄弟に「わたしを見守っていてください。わたしのために祈ってください」と願ってもよいのでしょうか。

ちょっと不安になって、『カトリック教会のカテキズム』という本を調べてみました。するとこう書いてある箇所がありました。

「死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効に(effective)することができるのです。」(『カトリック教会のカテキズム』958)

はっきりと「死者がわたしたちのために執り成す」と書いてありました。亡くなった人は、必要な清めを受けた後、神のもと(=天)に行き、神さまのそばにいる。もちろん裁きと救いは神の領域ですから、人間が勝手に決めることはできないのですが、でもわたしたちは、親しかった者が、いつくしみ深い神の御手に包まれ、そこで救いに与っていると信頼し、確信するのも当然なことです。信頼していいのです。だから、そこ(天=神のもと)から生きているわたしたちを見守り、わたしたちのために神に祈っていてくれる、それはキリスト教の信仰と決して相容れない考えではありません。そしてわたしたちは死者を思い起こして祈るとき、そういう死者とのつながりを深く感じることができる。これが「effective=効果的」ということではないでしょうか。

亡くなった人との間で、もう具体的にものをやり取りしたり、言葉を交わしたりすることはできません。でもわたしたちはわたしたちに先立って逝かれた人とこのように祈りの中でつながっているのです。そしてこのつながりは最終的に、わたしたち自身もまた、神のもとに召されるときに完成される。それがキリスト教の永遠のいのちへの希望であり、信仰です。

亡くなった人とのつながりを思うこと、それは今の人生をもっと豊かに生きることです。わたしたちのいのちも誕生から地上の生活の終わりまでのものではありません。死を超えて神のもとに行き、そこで完成するのがわたしたちのいのちです。そう深く感じたとき、今日の日々を大切に精一杯生きることができるのです。今日の合同追悼ミサはそういう生き方への招きでもあります。

亡くなった方々が、わたしたちに先立たれた方々が、天からわたしたちを見守っていてくれる、そのことを今日、特に感じながら、このミサを捧げたいと思います。




International Day 2013 東京教区インターナショナルデーの説教

2013年9月22日 東京カテドラルにて

先日、こういう話を聞きました。

ある知的ハンディキャップの人たちの施設で、軽い障がいを持った人たちに、お金の価値を教えようとしました。社会的自立のために必要だからです。ある若者に、10円玉と50円玉の価値の違いを教えようとしました。でもいくら教えても彼は10円玉のほうが50円玉より大切だと言うのです。大きさのせいでしょうか? 彼に「なぜ?」と聞いたら、そうではありませんでした。「50円玉では電話がかけられない。でも10円玉だと電話でお父さんの声を聞くことができる。だから10円玉のほうがいい」というのです。(分かりますか? 携帯電話やプリペイドカードが普及する前は、みんなコインで公衆電話を使っていましたね。その時代の話です) 彼の考えは間違っているでしょうか? 間違っているのはわたしたちの考えではないではないでしょうか?

わたしたちはお金がたくさんあればいいと考えます。日本だけでなく、世界中の人がそうかもしれません。少しでも多くのお金を手に入れるために、みんな一生懸命です。お金があれば、あれもできる、これもできると考えるからですね。あれも買えるし、これも買える。そしてお金はいくらあっても足りない。お金を手に入れること自体が目標になって、そのことばかりを考えるようになる。これがお金が神になった状態です。これを聖書では「マンモン(mammon)」と言います。

イエスは今日の福音で「神とマンモンとに仕えることはできない」とおっしゃいます。一番大切なことはなんですか、とイエスは問いかけるのです。お金がいらないとは言いません。でもそれは何のためですか、お金が一番大切ですか、それよりも大切なのは何ですか、イエスは強烈に問いかけています。

9節には「不正のマンモンで友達を作りなさい。そうしておけば金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」という言葉があります。「友達を作る」とはどういうことでしょうか? 貧しい人を助けて貧しい人を友達にしなさい、そうすればあなたがたは神のもとで永遠の救いにあずかることができる。そういう意味でしょう。それだけでなく、そうすることをとおして「神さまを友達にする」という意味もあるかもしれません。

お金は人とのつながりを作るためなんですね。ちょうど、あの障がい者の青年のように。彼にとってお金とは、お父さんと電話で話すためのものでした。わたしたちにとっても、お金は、人とのつながりを作るためのもの、そして神とのつながりを深めるためのものだ。そのことを忘れないように、見失わないようにしましょう。

今年のインターナショナルデーのテーマは、「Migrations: pilgrimage of faith and
hope」です。これは昨年の秋にベネディクト16世教皇が2013年の「世界難民移住者の日」のために決めていたテーマです。日本語では「移住:信仰と希望の旅」と訳されていますが、「pilgrimage(巡礼)」なんですね。

移住者の多くは経済的な理由で、国を超えた移動を余儀なくされた人かもしれない。政治的な圧迫やその他の厳しい理由があるかもしれない。多くの移住者の置かれている状況は厳しいものがあります。その多くの移住者を支えているものは信仰です。神が、このわたしたちを決して見捨てないという信仰。愛である神は、どんな困難の中にあってもわたしたちとともにいてくださる、という信仰が難民や移住者を支えています。わたしはいろいろな難民や移住者の方に出会って、その人々の中に本当に強く、深い神への信頼を見つけることができました。「神さまがいるから大丈夫」何度、そう聞かされたことでしょうか。

そして「希望」。さまざまな理由で国境を越えて移動する人々にとって、希望はとても大切です。必ずよいものが与えられる、今は苦しくても、いつか神がよいものを与えてくださる、その希望が移住者を支えています。この希望ということも、多くの移住者から学ぶ機会がたくさんありました。

そして、わたしたちが信仰と希望をもって歩むとき、そこに本当の意味で神との出会いがある、ベネディクト16世教皇がMigrationをPilgrimageだというのはそういう意味です。

アブラハムは移住者でした。モーセも移住者でした。ヨセフとマリアも移住者でした。その中で信仰と希望を持って生き、神との出会いを経験しました。

ヘブライ人への手紙の11章1節にこういう言葉があります。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

目に見えるものの典型はお金でしょう。目の前の、目に見えるものではなく、目に見えないもっと大切なものに心を向けて歩む。信仰をもって、希望をもって、神に向かって歩んで行く。わたしたちの教会はそういう旅をしている神の民です。

この旅の中でわたしたち(外国から来た人も日本人も)はたまたま東京や千葉という町に滞在しています。そして今日ここでさまざまな国や地域から来た人々が出会って一緒に神を賛美しています。このわたしたちが信仰と希望と愛のうちに一つになって歩むことができますように、聖霊がわたしたちを強め、相互の理解とすべての人々の平和のために働く力を与えてくださいますように、心を合わせて祈りましょう。アーメン。




信仰年・晩の祈りと聖体賛美式(キリストの聖体の祭日)

2013年6月2日 東京カテドラルにて

コリント11・23−26、ルカ9・11b−17

この聖体礼拝は、ローマ時間で今日の午後5時にささげられるバチカンでのフランシスコ教皇の聖体礼拝に合わせて、全世界の司教座聖堂(カテドラル)で行なうように呼びかけられているものです。教皇の意向として第一に挙げられていることは、「全世界の教会の一致」です。聖体は一致の秘跡と呼ばれます。キリストと一致するしるしであり、聖体に結ばれるすべての人が一致するしるしでもあります。だから、歴史上初めてのことだそうですが、全世界で同じ時刻に聖体礼拝をするというアイデアが生まれたのです。素晴らしい考えだと思いますが、残念ながらこのアイデアを思いついた人は地球が丸くて時差があるということに気づかなかったようです。ローマ時間の午後5時は、東京では日付が変わった3日の午前0時になってしまいます。そこで岡田大司教は日本時間の午後5時にこの聖体礼拝を行なうことにしました。感謝しましょう。でも、教皇の第一の意向、「全世界の教会の一致」ということはこの時間の間、特別に、心に留めて祈りたいと思います。

フランシスコ教皇は、今日の聖体礼拝にもう1つの意向を加えました。それは「今この時も人間としての尊厳を奪われ、奴隷のような扱いをされている人。暴力によって傷つけられている子どもと女性。貧しい人、社会の片隅に追いやられている人のために祈る」ということです。いかにもフランシスコ新教皇らしい考えです。それは単なる思いつきやこじつけではありません。この貧しい人のことを心に留めるということは、まさに聖体の根本的なテーマなのです。そのことを今日、この時間にご一緒に確認したいと思います。

今日のミサで読まれ、先ほども読まれたパウロのコリント教会に宛てた第一の手紙11章は、聖体制定のもっとも古い記録と言われます。この手紙は福音書が書かれるよりも前に書かれたからです。パウロは何のために最後の晩さんの席での聖体制定について書いたのでしょうか。

コリントの教会はパウロが福音を伝え、パウロが始めたキリスト教共同体でした。パウロはそこに1年半住んで、その教会を指導しました。しかし、パウロが去ってからコリントの教会にはいろいろな問題が起こってきました。その問題を伝え聞いて、パウロがコリントの教会にいろいろと指示を与えたのが、このコリントへの第一の手紙です。

ここでの問題は、キリスト信者の集会の有様でした。今のミサは当時、「主の晩さん」呼ばれ、共同の食事を伴っていました。問題はこういうことです。

17次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。18まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。…(略)…20それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。21なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」

厳しい言葉です。仲間割れがあったら「主の晩さんを食べることにはならない」。この「仲間割れ」とは何でしょうか。「分裂」とも訳される言葉(スキスマ)ですが、パウロの言葉から具体的に考えられることは、「食べるものがあって満腹している人と、空腹の人との間の分裂」です。それは今で言えば貧富の差でしょうか? 格差社会の格差でしょうか?いや、むしろ「苦しむ兄弟姉妹に対する無関心による分裂」ではないかと思います。

そして今日の箇所になり、パウロは最後の晩さんのイエスの姿を伝えるのです。最後の晩さんの席でイエスがパンについて言ったこと、ぶどう酒の杯について言ったこと。福音書とほぼ同じように伝えていますが、特徴は「わたしの記念として」という言葉です。パウロだけがこの言葉を、パンとぶどう酒両方で繰り返しています。とても強調されているのです。

これは「わたしの記念として」つまり、イエスを思い出すためにしていることなのです。「あなたがたのためのわたしの体」イエスがご自分のすべてを人々のために与え尽くされた、その愛の記念なのだ。わたしたちの中に貧しい人、苦しむ人への愛がないのに、イエスの愛の記念を行なっていると言えるのか? 聖体はいつもイエスの愛を思い起こし、その愛を過去のこととして思い出すのではなく、今のこととして確認することではないのか。わたしたちが他人の痛みに無関心なまま、キリストの愛を記念することはできないはずではないか。そういう強烈な問いかけなのです。

聖体がキリストの愛の記念であり、わたしたちが愛を生きるのでなければ、聖体をいただくのにふさわしくない。このことは大切です。

しかし、もっと深くこの一コリント11章をうけとるべきでないかと感じています。この箇所は直接的には「愛」よりも「死」を強調しているからです。

パンは渡される体、ぶどう酒は流される血です。だから「26あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」人間性を剥奪され、暴力を受け、弱く貧しい者とされ、十字架の死に至ったイエスの姿を表すのがこの聖体なのだ、ということでしょう。

そしてそのイエスの苦しみは今も続いているのです。

マタイ25章のあの言葉を思い出します。

35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。」「40はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

聖体は十字架のキリストを表しています。そのキリストは、今わたしたちの目の前にいる苦しむ人を「わたしの兄弟姉妹」と呼び、その人々の中に自分がいると宣言されました。

フランシスコ教皇も、今日の聖体礼拝の意向の中で、「教会は、十字架につけられたキリストを仰ぎ見つつ、暴力におびやかされている多くの兄弟姉妹を忘れてはならない」と言います。これが今日の聖体賛美式の大きなテーマです。

マザーテレサもかつて二つの聖体拝領ということを言いました。

「わたしは毎日、2度聖体拝領をします。1度は朝のミサの中で。もう一度は日中カルカッタの街で貧しい人と出会うことをとおして、キリストをいただくのです」この言葉も聖体を見つめながら思い起こしたい言葉です。

先日、大阪で母子家庭の親子二人が餓死していたのが発見されたというニュースがありました。周囲の誰も何もできなかったことが悲しいし悔しいですね。

孤立して、死ぬしかないところまで追いつめられてしまう人が大勢います。

いじめや暴力の被害を受け続けている人も大勢います。

被災地の仮設住宅の高齢者。元気で力のある人から自分の家を手に入れて、仮設住宅を出て行き、取り残されるのは一番弱い人々。

原発事故で避難していて、まったく先が見えない人。健康を害したり、お金が尽きていく人もいます。

日本に難民申請をしている人が急増しています。仕事をすることも許されず、ただただ待たされていて、お金がなくなってしまってホームレスになっていく難民の人もいます。

オーバーステイの外国人の状況も厳しいです。子どもは日本で生まれ育ち、日本語しか分からないのに、親の不法滞在が見つかり、親は強制送還される。家族と離れて日本に残るか、見知らぬ国に行くか、というところに追いつめられている10代の子どもたちがいます。そういう家族に対する人道的な扱いが日本では後退しています。

最後に今日のルカ福音書も少しだけ思い起こしましょう。

「イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』」

弟子たちにはとても無理だと思ったのです。でもイエスは「あなたがたにできることがある」とおっしゃるのです。わたしたちにもできることがあるはずです。それは今、苦しみと困難の中にある人々に思いを馳せて、祈ること。今日の福音には「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え」とありますね。イエスも祈ることから始めました。そこから始めましょう。

きょうわたしたちは、顕示された聖体を見つめています。聖体を仰ぎ見ながら、今この世界の中で苦しむ兄弟姉妹のために、フランシスコ教皇と心を合わせて祈りたいと思います。




パウロ藤井泰定神父通夜(1937.8.21~2013.2.21 75歳)

2013年2月24日 東京カテドラルにて

招きのことばと説教

招きのことば

東京教区司祭パウロ藤井泰定神父は、21日の木曜日、派遣先の仙台の病院で突然神のもとに召されました。わたしたちは皆、あまりに突然の訃報にほんとうに驚かされました。

前日の水曜日の朝、仙台中央地区の司祭の集まりにいつものように参加しましたが、途中から何度かトイレに立ち、様子がおかしいというので、結局、救急車で病院に運ばれました。藤井神父は少し落ち着いたので家に帰ると言っていたそうですが、周りの人に勧められて入院することになりました。その時点ではそれほど重体ではなかったということでしょう。しかし、翌朝にはもう手の施しようのない状態になり、連絡を受けて、東京のお姉様やわたしが駆けつけましたが、間に合いませんでした。午後2時24分、非閉塞性腸管梗塞が死因でした。医者の説明によれば、下痢や嘔吐から来る脱水状態が急激に腸にダメージを与えてしまったということでした。

75歳で人生が途中でぷっつりと途切れてしまったようにも思えます。しかし、わたしたちキリスト信者は、人の歩みは生まれてから死ぬまでの地上の生活がすべてではなく、神のもとから来て、神のもとに帰って行く歩みだと信じています。わたしたち皆にとって藤井神父さんの突然の死は、悲しい別れではありますが、藤井神父さんは今、神のもとに旅立って行かれ、いつくしみ深い神のみ手に抱かれていると信じています。ですからこの通夜も、藤井神父さんの生涯をとおして示してくださった神のいつくしみに感謝する集い、藤井神父さんを神のみ手におゆだねする祈りの集いなのです。

今はもう天の神とともにある藤井神父さんを忍びながら、聖書のことばを聞きましょう。

聖書朗読(イザヤ6・1−8)

説教

パウロ藤井泰定神父は、1937年 8月
21日広島県福山市に生まれました。子どもの頃、戦争で福山の大空襲を経験したことは彼の人生に大きな影響を与えたことだったようです。東京に出て上智大学の学生のときにカトリックに出会い、イエズス会のエバレット神父から洗礼を受けました。その後、司祭への召命を感じて、神学生になり、1970年に東京教区司祭として叙階されました。以来、43年間にわたる司祭職をまっとうされました。

わたしが藤井神父に出会ったのは、今から30年以上前、わたしが神学校に入学したときのことでした。藤井神父さんは当時、神学院でモデラトールという学生指導の仕事をなさっていました。新入生は哲学科、藤井神父は神学科のモデラトールでしたが、いろいろな行事でご一緒させていただいたのを覚えています。府中墓地の墓参に行き、帰りに藤井神父さんに深大寺のそば屋に連れて行ってもらったことがありました。大食漢の藤井神父がそばぐらいで満足できるのかと疑問に思いましたが、藤井神父は大きな「そばがき」を頼んで一人で食べていました。わたしはそこで初めて「そばがき」なる食べ物があることを知りました。まあだいたいこんな食事のエピソードが多いのですが・・・。

今考えてみると、藤井神父がモデラトールだったのは40歳前後のことでした。その時代は特に難しい時代だったと思いますが、藤井神父さんはたんたんとその役目を果たしておられました。その後、いろいろな教会でも働きましたが、目立つのはドイツでの仕事でした。日本人の司牧のために司祭が必要と聞いて、ドイツに行き、約10年間働かれました。そして最後は大震災後の仙台でした.日本全国から応援の司祭を派遣することになり、昨年の春、藤井神父さんはみずから志願されて仙台に行かれました。わたしが驚くのはその身軽さです。行けと言われたところ、必要とされているところへ出かけて行く。それはあたりまえのこと、簡単なことだと思われるかもしれませんが、やはり特別なことだと思います。先ほど、イザヤ書の一が朗読されました。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」

それは藤井神父にぴったりの言葉ではないかと思い、この箇所を選ばせていただきました。そこには、神さまの派遣に対する絶大な信頼があったのだと思います。だから結果はどうでもいい、というようなところもあったと思います。自分は遣わされたところで精一杯やるだけ、後は神さまにおまかせする。それも藤井神父さんの生き方だったと思います。そういう生き方が理解されないときもあったかもしれません。でもいつも豪快に笑い飛ばしていましたね。

いろいろな病気もしてきて、74歳で仙台に行くと決断したのもすごいと思いました。空襲ですべてを失った経験しているから、大震災ですべてを失った人の役に立てるかもしれない。そんなことをおっしゃっていたそうです。そんな藤井神父にとって、派遣先で現役で倒れたのは、ある意味、本望だったのではないでしょうか。

藤井神父さん、ほんとうにお疲れさまでした。今度は神さまが藤井神父を必要として、天国に招かれたのでしょうか。だからあんなにさっさと旅だっていかれたのでしょうか。どうか天国で、あの笑顔を輝かせてください。そしてどうかわたしたちを見守っていてください。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。




マルチアリス青山和美神父(1927.7.9~2013.1.25 85歳)葬儀ミサ説教

2013年1月29日 東京カテドラルにて

Ⅰコリント15・35-37、42-45 マルコ4・1-8

青山和美神父は1927年7月9日、青山伝道士の息子としてここ関口教会で生まれ、兄である青山謙徳神父に続いて司祭への道を歩み、85年の生涯、56年間の司祭生活をまっとうして、先週の金曜日1月25日に、神様のもとに旅だっていかれました。

和美神父様、本当に本当にお疲れさまでした、と申し上げたいと思います。いろいろな意味でいつも一生懸命な方というのがわたしの青山和美神父についての印象でした。

和美神父は2年前にペトロの家ができてそこに入られてからもお元気で、ミサの司式をするため、いろいろな教会に出かけて行っておられました。一昨年の秋の教区の健康診断で胃の異常が見つかり、聖母病院で調べたところ、がんであることが分かりました。別の病院でも診てもらって、慎重に治療の仕方を考えれば良かったのかもしれません。しかし、和美神父は早く治して早く仕事ができるようになりたいと考えて、聖母病院で手術を受けることになりました。悪いところをさっさと切って仕事に戻りたい。和美神父らしい決断だと思いました。12月に手術を受け、胃をすべて摘出しました。胃がんの手術そのものは成功でしたが、それ以来、うまく食べられないという苦しみが始まりました。胃がないので少しずつ、日に何度にも分けて食事をする。そうやって慣らしていくしかないのですが、それは思ったよりも難しいことでした。「80年以上してきた食事の習慣を変えろと言われても、難しいんだ」と仰っていました。ちょっと食べ過ぎれば具合が悪くなる。食べなければどんどん痩せていってしまう。点滴で栄養を入れてもらうしかなくなったことが何度もある、でも医者は自分で口から食べなければだめだという。それは相当に苦しいことだったと思います。

最後は桜町病院でお世話になりました。1月20日(日)にお見舞いしたとき、昨日岡田大司教が紹介した手紙をお預かりしました。そしてどうしても大司教に来てもらいたいと思い、22日の火曜日に大司教を桜町病院にお連れしました。そのとき岡田大司教から病者の塗油の秘跡をお受けになりました。良いタイミングを神様が与えてくださったのだと思います。亡くなる前日は看護師さんに病院の4階にあるチャペルに連れて行ってもらったり、小金井教会のディン神父さんと一緒にお祈りの時間を過ごしていたそうです。深夜1時の見回りの時まで異常はなく、静かに眠っておられ、3時の見回りで看護師さんが心肺停止になっているのを発見したとのことでした。担当の井上先生、ペトロの家から川口神父とわたしが駆けつけて、4時46分に死亡確認がされました。最後は安らかに神様のもとに旅立っていかれました。

大先輩の司祭として、ずっとお付き合いさせていただきましたが、特にペトロの家ができてから、2年あまりの間、近くで生活させていただきました。ペトロの家での和美神父は一言で言えば、「植物担当」でした。

中庭があります。そこの中央は芝生になっています。実は中央の数メートル四方の土の部分をどうするかは建築終了間際まで決まらず、最終的に「土のままではまずいでしょう」と言って、業者が芝を並べていったのです。本当にただ並べたというだけで、まともな芝生になるとは思えないような状態でした。わたしはダメになったら、もっとちゃんとしたものを植えようと思っていたのですが、和美神父は違いました。肥料を買ってきて丹念に世話をしました。ペトロの家の職員にも手伝ってもらいましたが、体力的にはそうとう厳しかったと思います。そしてその庭は今、見事な芝生になっています。芝生だけでなくたくさんの植物が青山和美神父さんの世話になってよみがえりました。枯れかけているような植物を見るとほうっておけない、植物に対する愛情は本当に深いものがあったと感じています。

それで、今日の葬儀ミサの朗読に植物のたとえを選ばせていただきました。マルコの福音は種まく人のたとえ話です。まかれた土地が悪い土地で実を結ばないか、それとも良い土地で豊かな実を結ぶか、と問いかけるのがこのたとえ話の一つのポイントですが、もう一つのポイントは、土地が良かろうが悪かろうが、その種のいのちを信じ、成長を信じて蒔き続ける農夫の忍耐強さだろうと思います。それは時が良くても悪くても忍耐強く神の国の種をまき続けたイエスの姿に重なります。イエスの種まきはあらゆる無理解や反対を乗り越えて、最終的に豊かな収穫につながっていきました。青山和美神父も植物に対する愛情だけでなく、人に対しても司祭として、熱心にみことばの種をまき続けました。信頼を込めて、愛をもって、一生懸命、司祭としての使命を果たしました。

一生懸命やってもうまく行かないということがたくさんあったと思います。自分が考えてきたことを書き残したいという思いがありましたが、なかなかうまくまとまらなかったようです。最後のころの、食事がうまくいかないということも含めて思い通りの結果が得られなくて、悔しい思いもたくさんあったと思います。でも今はもう、その種まきの人生を終えて、神様のもとで豊かな実りを味わっておわれると思います。

第一朗読では、コリントへの第一の手紙15章を読んでもらいました。

とても大切な箇所です。わたしたちは、復活の信仰を持っています。信仰宣言で「からだの復活を信じます」と言います。でもそれは死んだ人間が生き返ってくるというようなことではありません。パウロはそのことをここで、植物のたとえを使って述べています。一粒の麦が地に落ちて死んで、豊かな大きな植物へと変身する。それはまったくレベルの違ういのちになることだというのです。

「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」

わたしたちのこの地上の体は滅びても、もっとレベルの違う豊かないのちに復活する。パウロはそれを「霊の体」soma pneumatikonと呼んでいます。それは本当にキリストと一つになり、神の永遠のいのちに生きるという希望なのです。

このミサの中で、この復活のいのちへの信仰と希望を新たにしつつ、いのちの源である、いつくしみ深い神のみ手に青山和美神父をお委ねしたいと思います。




マルチアリス青山和美(かずよし)神父通夜説教

2013年1月28日 18:00 東京カテドラルにて

青山神父の信仰告白

福音朗読 ヨハネ14・6-14

福音本文

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

青山和美(かずよし)神父様は2013年1月25日、56年にも及ぶ司祭の奉仕を全うして、主のもとに召されました。享年85歳でした。兄上である謙徳(かねのり)神父様が帰天されてからわずか2ヶ月後のことでした。

わたくしは1月22日、幸田司教と一緒に桜町病院に和美神父様を見舞い、病者の秘跡をお授けすることができました。

実は1月17日、幸田司教を通してわたくしに神父様の「手紙」が届きました。昔懐かしい「結び文」です。これは、苦しい息の中で神父様が記された遺書でありまた信仰告白です。

この文の結びは次のようです。
「何も書けなくなりました。神と教会とあなたを信じます。青山和美」

これは、神父様が最後の力を振り絞って行った信仰告白です。いまわたしたちは「信仰年」を過ごしています。神父様は信仰年のわたしたちにこのメッセージを残されました。

「神を信じます。」
わたしたちは父と子と聖霊の三位一体の神を信じています。《信条(クレド)》の構造を分析すれば、三つの部分に分かれていることが分かります。

わたしたちはまず父である全能の神を信じます。そして父から生まれた御子イエス・キリストを信じます。そして、父と子とともに神として礼拝される聖霊を信じる、と信仰告白します。

聖霊を信じるわたしたちは、聖霊が宿り聖霊が働いている教会を信じます。教会は聖霊を受けた神の民です。神の民はさまざまな聖霊の賜物をうけています。また神の民はさまざまは役割を担っています。教会はキリストの体です。(昨日の主日のパウロのコリントの教会への手紙が教えるとおりです。)

わたしたちの教会には実は多くの問題があり、困難なことがあるのです。それでも、聖霊が教会に注がれており、聖霊がわたしたちを導き助けてくれることをわたしたちは信じます。

「あなたを信じます。」

「あなた」とは不肖わたくしのことでしょうが、多分、司教であるわたし、使徒の後継者である司教のことだろうと思われます。司教・司祭は「土の器」にイエス・キリストの使命を遂行するという尊い任務を受けています。

わたしたちは、自分がどんなに弱くもろく、罪に陥りやすい存在であるのか、を日々実感しています。そのわたしたちは弱さを認め合いながら、赦しあい助け合って、任務を遂行していきます。しかしそれは聖霊の働きがあるので可能なのです。

イエスはフィリポに言いました。「わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」

イエスは見えない神の見える存在、人となった神でありました。教会はそうはいきません。まことに不完全な「しるし」、復活したイエスのしるしでしかありません。弱い人間性をまとっているわたしたちは神の栄光を現すには貧弱な存在です。しかし神の恵みは人間の弱さの中に働きます。

イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

このみ言葉に信頼し、青山神父様の信仰告白に感謝し、復活したキリストの証を立てることができますように、祈りましょう。アーメン。




エルサレムのチリロ青山謙徳(1922.3.18~2012.11.19 90歳)葬儀ミサ説教

2012年11月22日 東京カテドラル関口教会にて

青山謙徳神父は19日月曜日の午後、90年の生涯を終え、60年の司祭生活をまっとうして、天の神様のもとに帰って行かれました。

10年前、司祭叙階50年を記念して『綴りかた』という本をお作りになりました。そこに謙徳神父のお母様の最期の話が載っています。

今から40年前、謙徳神父が50歳の時に、お母様は直腸がんで亡くなられました。当時は今ほど痛みのコントロールの技術が進んでいない時代でしたから、がんの末期はたいへんな痛みと戦わなければなりませんでした。お母様はそのことを考えて、謙徳神父に、聖歌のテープを用意して、枕元で流してほしいと頼んだそうです。自分は痛みの中で祈ることもできなくなるかもしれない。でも聖歌を聞いていたら最後までせめて神に心を向けていることはできると思う。謙徳神父はお母様の臨終の枕元で、実際に聖歌のテープを流してさしあげたそうです。

今週月曜日の朝、病院からの知らせでわたしたちペトロの家のスタッフは病室に駆け付けました。謙徳神父はそれほど苦しまれている様子ではありませんでしたが、もうほとんど反応がありませんでした。わたしたちは謙徳神父の枕元で聖歌を歌いました。ご家族も駆けつけて、甥御さんがラテン語のミサの録音も流しました。聞いて分かっていらしたようです。今になってみるとお母様と同じように最期まで神様に心を向けて逝かれたのだと思います。

まだ話ができたとき、わたしに向かっておっしゃった最後の言葉は「最後まで神さまに忠実でいられるように、願っています」という言葉でした。本当に最後の最後まで信者として、司祭として忠実に歩まれたと思います。ですから、記念のカードに印刷する聖句をどこにするか相談されたとき、マタイ25章、タラントンのたとえ話の中の言葉が浮かんできました。

「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25・21)

青山謙徳神父は祖父の代からのカトリック信者でした。おじいさまは新潟でパリ外国宣教会のツルペン神父から洗礼を受けました。ツルペン神父はそのおじいさまに教会で働くよう勧めましたが、商売の関係ですぐには従えなかったそうです。商売がうまく行かなくなって、晩年は東京に出てきて教会の仕事をするようになりました。二代目の青山少年は、小さいころから司祭になりたいという望みを持っていましたが、貧しくて、かないませんでした。フロジャク神父の勧めで、結婚して伝道士になりました。それからずっとこの関口教会に住み込んで、伝道士として働きました。

謙徳神父は長男でした。この関口教会で生まれ、育ちました。自分の希望で小神学校に入りました。ご両親は息子が神父になることを望んでいましたが、謙徳神父が司祭に叙階されるまで一度もそのこと言わずに、見守っていてくれたそうです。実に三代かけて実った召命でした。そして弟の和美神父も後に続きましたし、一人の妹さんはシスターになりました。

青山謙徳神父のことは、戦争体験を抜きにしては語ることができないと思います。神学生の時に召集され、陸軍の将校になって23歳の時、中国で終戦を迎えました。その体験はその後の長い人生に大きな影響を与えました。

軍隊の中で、兵隊同士の強固な連帯感、友情を体験し、戦後もずっとそのつながりを大切にしていました。日本が中国人の地を蹂躙し、そこでさまざまな身勝手な行動をしたことを申し訳ないと反省しておられました。終戦後の日本人に対する中国人の寛大な態度には深い感銘を受けたそうです。肉体的にも戦争体験をずっと引きずっておられました。戦時中に受けた乱暴な手術の後遺症に生涯悩まされたのです。それは本当に当事者としての戦争体験でした。ですから当事者ではない後の世代の人々が日本の戦争責任とか、さらに教会の戦争責任と言って、当時の立場があった人々を責めるかのような発言をすることにたいへん心を痛めておられました。と同時に「日本は確かに悪いことをした」とおっしゃった言葉もわたしの心に残りました。そして戦争を二度と繰り返してはならないという思いを抱きながら、戦争で亡くなった人々のために祈り続けておられました。

中国で敗戦後の処理をしていたため、日本に帰ったのは1946年のことでした。そのころの話をペトロの家の食卓で話してくださったことがあり、わたしの心に残っています。

東京に帰ってきて、すぐに神学校に戻ろうとしたのですが、許可が出なかったそうです。召集されて、兵隊に行っただけならいいが、将校になったということは自ら進んで戦争に加担したことであり、そういう人間は司祭にふさわしくないというのがその理由でした。好んで将校への道を選んだわけではなかったのですが、事情を理解して復学が認められるのは簡単でなかった、そんな話をしてくださいました。

もう一つの話は復学後のことです。当時の神学院の院長が、ある日、軍隊帰りの神学生たちに向かって「残念だが君たちは司祭になれない。戦争で人を殺しているから、それが叙階の障害になる」と言ったそうです。確かに敵に向かって銃を撃っていたので、誰かを殺したかもしれない。もうこれで司祭への道は絶たれたと思ったそうです。しかし、第二次大戦後のことですから、全世界にそういう神学生が大勢いました。そこでバチカンから叙階障害の特別な免除が与えられ、やっと司祭になることができたというのです。

ですから謙徳神父さんにとって、司祭職とは本当に神の恵みでした。

その後、小岩、八王子、洗足などの教会や幼稚園でほんとうに忠実に司祭職、園長職をまっとうされたことについては、ここにお集まりの皆様がよくご存じだと思います。

この葬儀ミサの福音で、タラントンのたとえ話を呼んでいただきました。ただし、1タラントンの人の結末は省かせていただきました。5タラントン、2タラントン預かった人と謙徳神父を重ね合わせて思い起こしていたからです。謙徳神父は、自分のいのちを、自分の司祭職を神からあずかった「タラントン」のように受け取っていたと思います。自分の力で獲得したものではない。あたりまえに自分が持っているものでもない。特別な神からの恵みとして神様からあずかっているもの、だから最期の最期、神様にお返しするまで忠実に生きたい、それが謙徳神父の願いでした。今、神様のもとへ行き、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ(主人の喜びに入りなさい)」という神様の言葉をいただいているに違いありません。

「忠実」は、ギリシア語でpistosと言います。この言葉は形容詞で、「pistis=信仰」という名詞とつながっています。「信頼に値する=忠実な」という意味と「信頼している、信仰を持っている」という両方の意味があります。青山謙徳神父の「忠実さ」はこの神への「信仰・信頼」に基づく生き方でした。その信仰とはすべては神様の計らいであり、神に信頼し、すべてを神にゆだねるのが一番良い、という信仰でした。

神と教会に対する忠実さを貫いた青山謙徳神父を忍びながら、その生涯にわたる神の導きに感謝し、謙徳神父をいつくしみ深い神のみ手におゆだねしましょう。そして、残されたわたしたちが、謙徳神父の姿を思い起こしながら、神に対する忠実と信仰の道を歩んでいくことができるように、心を合わせて祈りましょう。