教区の歴史

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諸聖人の祭日(教区合同追悼ミサ・五日市霊園)

2015年11月01日

2015.11.1 あきる野教会にて

聖書朗読箇所

第一朗読 黙示録7・2-4, 9-14、 10ab
第二朗読 一ヨハネ3・1-3
福音朗読 マタイ5・1-12a

 

ホミリア

今日11月1日は諸聖人(すべての聖人)の祭日です。11月2日にすべての死者のために祈るのは、もともと諸聖人の祭日の余韻のように生まれた習慣です。今、日本では11月1日の諸聖人の祭日の前夜のハロウィンのほうが有名になってしまいましたが、一番大切なのは、この諸聖人の祭日です。

この祭日の特徴として、「天上の教会(天にある教会)」という考えがあります。第一朗読は黙示録でした。黙示録は古代ローマ帝国のキリスト教に対する厳しい迫害の中で、迫害されているキリスト信者を励ますために書かれました.目の前には悲惨なことばかり、苦しみと死がこの世を覆い尽くしている。でもこの目に見える地上の現実を超えて、神はわたしたちに救いを、栄光を用意してくださっている、そのビジョンを語るのです。ヨハネが肉眼で見ていたのは、迫害におびえている小さなキリスト教会の姿でしたが、「幻」というか心の目で、神のもとに完成する天の教会のイメージを見、それを語っているのです。そこには地上で苦しんだ者、キリストに従って生きた人々が神とともに喜びを味わっています。どうでしょう。イメージが湧きますか?

わたしたちは日々、地上のことを考えて生活しています。いろいろな計画があり、悩みや心配があり、地上のことを考えるのがほとんどの時間かもしれません。キリスト信者であれば、この地上の生活は神によって守られ導かれていると信じていて、その中で精一杯神のみこころにかなう生き方をしようと努力していることでしょう。でも、だからこそ、わたしたちの関心は、日々地上のこと(仕事や人間関係、家族のことなど)に向かっていると思います。それは当然と言えば当然のことです。

でも今日は、特別に天上のことに思いを馳せる日です。わたしたちの人生は地上で完結するのではなく、天において完成される、そのことを思うのです。もともと聖人とはほとんど殉教者のことでしたから、地上の苦しみを経て、天で神の栄光にあずかるということが大切に考えられてきました。この人たちは確実に天において神とともに永遠のいのちに生きている、そしてわたしたちのために祈っていてくれる、カトリック教会ではそう信じてきたのです。

諸聖人の翌日が死者の日です。列聖された聖人や殉教者だけでなく、亡くなったすべての人は同じ天の栄光、神との完全な一致、永遠のいのちへと向かっています。完全な神との一致のために、人は愛に反する一切のものから清められなければならない。第二朗読のヨハネの手紙で、「御子が現れるとき、御子に似た者となる」という表現がありましたが、わたしたちが神と(キリストと)出会うとき、わたしたちはすべてのエゴイズムから愛へと清められていくのです。わたしたちに先立って亡くなった人たちはまだその清めの途中にいるかもしれない。だとしたら、完全な神のいのちにあずかれるように、生きているわたしたちがその人たちのために祈ることができる。それも古くから大切にされてきたことです。しかし現代では、もっともっと神のいつくしみに信頼して、亡くなった家族や友人をそのいつくしみ深い神にゆだねながら祈ることができる、ということが強調されていますし、それは本当に大切なことです。

そして、もう一つの大きなテーマは、やはりわたしたち(地上に生きているこのわたしたち)も天の栄光に向かっているということです。わたしたちの歩みも地上の生涯の最後で終わるのではなく、それを超えた神との出会い、神との一致に向かっているのだ。これがわたしたちの信仰です。

ふだんはあまり考えないかもしれません。まあ考えなくても良いのかもしれません。でも11月の死者の月・死者の日を迎え、わたしたちに先立って逝った親しい方々のことを思い起こしながら、本当にわたしたちの歩みも最終的に神に向かう歩みなのだということを思い起こしたいと思います。

最終的に天で実現すること、それは「絆の完成」です。わたしたちは神さまを信じています。でもその神さまとのつながりは、どこか不完全なものでしょう。その神さまとのつながりは死を超えて、神と顔と顔を合わせて出会うときに完成する、これがわたしたちの希望です。またそのときにわたしたち人間同士の絆も完成する。わたしたちは家族として、友として、人との絆を大切にして生きていますが、それも地上ではどこか不完全な面があるでしょう。わたしたち同士の絆は死によって断ち切られてしまうようにも感じられます。でもそうではない、本当はわたしたち人間同士のきずなも死を超えて神さまのもとで完成していく、わたしたちはそう信じるのです。

そう信じながら、神への歩みをしていくのです。その歩みはわたしたちの先輩である聖人たちが歩んだのと同じ道です。今日の福音にはその道がどういうものであるか、よく表れています。

「貧しい人は幸い、悲しむ人は幸い、柔和な人は幸い、義に飢え渇く人は幸い、憐れみ深い人は幸い、心の清い人は幸い、平和を実現する人は幸い、義のために迫害される人は幸い」

目先の利益ばかりを見ていたら、愚かに見える生き方かも知れません。

しかし、最終的に天に向かって、神さまに向かって歩んでいくということの中で、この幸い(真福八端)の道を確かなものとして見つめ、精一杯歩んでいきたいと思います。