復活節第4主日 世界召命祈願の日のミサ

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    2015.4.26 東京カテドラルにて

    聖書朗読箇所

    (一) 使徒言行録4・8-12 (二) 一ヨハネ3・1-2 (福) ヨハネ10・11-18

     

    ホミリア

    復活節第4主日のミサの福音では、毎年、ヨハネ福音書10章から羊と羊飼いのたとえ話が読まれます。「良い牧者の主日」と言われますし、そこから、わたしたちの教会に良い牧者が与えられるように願う「召命祈願の日」とも言われるようになりました。今日は、東京教区の一粒会主催でこの召命祈願のミサが行われています。東京教区の神学生は今たった三人、他の修道会の司祭・シスターの召命も本当に少なくなっています。ですから、もっと多くの司祭・修道者の志願者が出るように祈りたいと思います。

    ところで、教会の司祭は「牧者」と呼ばれます。羊の世話をするのが羊飼いである司祭の仕事。分かりやすいイメージですが、ちょっと誤解もあるように感じています。

    一つには日本語の「司牧」という言葉の問題があります。日本語で「司牧」というと、司祭が教会の信者の霊的な世話をすること、という意味で使われることがほとんどです。司牧の対象は信者である、これが第一の誤解です。司牧というのは英語で言えば「pastoral work」です。これは教会の羊飼いとしての活動全体を指す言葉で、その対象は決して信者だけではありません。今日の福音で「わたしにはこの囲いに入っていない羊もいる。わたしは彼らをも導かなければならない」とイエスがおっしゃるとおりです。たとえば、フランシスコ教皇は、アフリカや中東からの移民、難民に対するヨーロッパ社会と教会の無関心を批判し、もっと真剣にその人々のことを考えるべきだとおっしゃいますが、これはpastoral=羊飼いとしての働きです。相手はほとんどキリスト教徒以外の人です。でもその人たちに対しても羊飼いとしてお世話をする、それが教会のpastoral workです。東京教区ではカトリック東京国際センターが外国人のお世話をしています。もちろんフィリピンやラテンアメリカのカトリック信者のお世話も大きな仕事ですが、入管に収容されている外国人を訪問したり難民申請している人のお世話をしたりもします。相手のうち多くの人はカトリック信者ではありません。これもpastoral workです。

    日本語の「司牧」はどうしても内向きで狭いイメージなので、よく「宣教司牧」という言葉が使われます。司牧が教会内に向けての働き、宣教が外に向けての働き。でも「宣教司牧」という言葉だけでは教会の働きのすべてを表すことはできません。ふつう「宣教」と訳される言葉は英語ならmissionですが、この言葉も本来は「派遣」という意味で、日本語の「宣教」よりもずっと広い意味を持っています。

    今年のフランシスコ教皇の「召命祈願の日」のメッセージは、vocation(呼ぶこと、召命)とmission(派遣、宣教)の結びつきを強調しています。イエスは何のために人を呼ぶのか。それは派遣するためです。「貧しい人に福音を告げる」そのためにイエスは弟子たちを呼ぶのです。だから呼ばれた者は出かけていかなければなりません。教皇は「エジプト脱出」の脱出exodusという言葉を使って、教会の中の安全地帯に自分の居場所を見つけるのではなく、イエスの派遣に応えるものになることがvocation(召命)なのだと言います。根本的な「召命」(イエスの招き)は、イエスの弟子になるよう呼ばれることです。だからイエスの弟子としてイエスのもとから出かけていくのは当然なのです。そして派遣される先は、信者のところだけではなく、すべての人のところ、特に貧しい人、苦しむ人のところです。

    司牧についてのもう1つの誤解。それは司牧とは司祭がすることだという誤解です。本来は神様ご自身が牧者でした。神様がどういう意味で牧者なのか、それはイエスの「100匹の羊のたとえ話」(ルカ15章)にもっともよく表されています。すべての羊を愛し、だからこそ、最も弱い、迷い出た羊に特別のいつくしみを注ぐのがこのたとえ話の羊飼いです。これがイエスの示した父である神の姿でした。

    イエスは「わたしは良い羊飼いである」と言われます。それは、本当の羊飼いである神の愛を目に見える形で表すからこそ、イエスも良い羊飼いだと言えるのです。同じように、司祭も神の愛、イエスの愛を表すための奉仕職なので羊飼いと言われます。でも神の愛、羊飼いとしての愛を表すべきなのは、司祭だけではありません。キリスト信者皆が、神が羊飼いであるように、イエスが羊飼いであるように、羊飼いの働きをするように求められています。マタイ福音書18章にはルカ15章と同じ100匹の羊のたとえ話があります。マタイは同じたとえ話を別の文脈の中に置きます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言って、その根拠として100匹の羊のたとえ話を語ります。神様はこの迷子の一匹の羊をも見捨てない羊飼いのような方なのだから、だからあなたがたも小さい人一人一人を大切にしなさい。つまりあなたがたもこの羊飼いのようになりなさい、と言っているのです。

    大切なのは、わたしたち皆が「わたしの弟子になりなさい」というイエスの呼びかけを聞き、それに応えることです。何も皆が司祭やシスターにならなくとも良いのです。

    逆にいくら司祭やシスターになりたいという人が増えても、その人たちが本当にイエスの弟子になろうとするのでなければ、それはまったく無意味です。

    良い羊飼いであるイエスは今もすべての人に向かって「わたしの弟子になりなさい」と呼びかけています。その呼びかけを今日、わたしたちが、特に若い人たちが真剣に聞き、それに応えることができますように、ご一緒に祈りましょう。