チェレスティーノ・カヴァニャ神父葬儀ミサ説教

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    チェレスティーノ・カヴァニャ(Celestino CAVAGNA)神父 葬儀ミサ説教
    1953.10.20生 1977.6.18司祭叙階 2014.4.14 帰天 (60歳)
    (聖書朗読:エレミヤ1・4—8a、マタイ6・26—33)

     

    2014年4月21日 東京カテドラルにて

     

     

    (Celestino CAVAGNA撮影)

     

    わたしが教区本部に来たのは2003年の春で、それから8年間、同じ教区本部でチェレスティーノ神父と一緒に働かせていただきました。

    来たときは古い司教館の1階が教区本部事務所でした。事務局長のチェレスティーノ神父が夜中まで事務所で働いていたのをよく覚えています。わたしは驚きました。わたしは勝手に、イタリア人って残業なんかしないはずと決めていたからです。彼は本当によく働く人でした。イタリア人と言っても、彼は北部の人。ロンバルディア州ベルガモ県ボナテの出身でした。ミラノの北東40キロにある小さな町。陽気なイタリア人のイメージとは違う真面目な北部の人間でした。子どものころ、家ではイタリア語ではなく、その土地の言葉を話していて、お母さんはイタリア語が話せなかった、そんな話も聞いたことがあります。ちなみにベルガモと言えば、ヨハネ23世教皇の出身地でもあります。

    カトリックの素晴らしい信仰が息づいた地方の町で、チェレスティーノ神父は生まれ育ちました。10歳のとき、たまたまその町に来たミラノ外国宣教会の神父の誘いで、小神学校に入ることになりました。東洋という知らない世界で働く宣教師の話に心躍らせただけでなく、神からの呼びかけに応えたいという思いが強くあったそうです。

    ミラノでの神学生時代、日本で働いていた宣教師の指導で、座禅に出会いました。何も考えずにじっと座っているその座禅に、それまで経験してきた祈りにはない、心が落ち着くものを感じたそうです。そして彼は日本に行きたいという希望を持つようになりました。

    23歳で司祭に叙階され、イギリスで一年間の英語の勉強、東京六本木での二年間の日本語の勉強。それから佐賀県の鹿島教会に赴任。次に甲府の教会で助任司祭をしながら、駒沢大学大学院で仏教の勉強をしました。座禅の修行も続けました。1990年に府中教会の主任司祭になり、2000年まで働きました。そして白柳枢機卿と森司教に呼ばれて、教区本部事務局長として働くようになりました。わたしが補佐司教になる前は、司教総代理も務めていました。府中時代から、白百合女子大などで宗教学の講師の仕事も続けていました。

    教区本部事務局長としての彼の仕事はとてもたいへんなものでした。忙しすぎて、大学の仕事も仏教の研究もできなくなり、趣味の写真撮影に出かけることもまれになりました。小教区の再編成、外国との交流の窓口、教区のさまざまな問題や課題、病気の司祭のお世話。目に見える大仕事としてはカテドラルの大改修工事、ペトロの家の建設。3年前に立川教会主任司祭になり、そこでの司牧活動とともに、司祭館・信徒会館の建築にも尽力しました。

    東京教区のために身をささげて働いてくれました。ほんとうにいつも教区のことを考え、大司教を支え続けたと、一緒に働いた者として断言できます。本当にお疲れさまでした。多くは目立たない仕事でした。ですが、今日、お話しする時間はありません。

    一つだけお話したいと思います。このカテドラルは50年前に建てられた建物ですが、建築当初から雨漏りがするので有名でした。でも今は雨漏りしません。それはチェレスティーノ神父の功績です。長年、ステンレスの隙間から水が入り込み、ステンレスの外装を留めていた鉄のボルトがさびて、ステンレスの板が浮いてはがれるようになり、危険なので全部をやりかえる以外にないということになりました。莫大なお金のかかるたいへんな工事でした。工事の専門家たちは、40年前と同じやり方でステンレスの外装を葺き替えようと考えていました。ところがチェレスティーノ神父は一見、前とまったく同じように見えて、絶対に水が入らないステンレスの組み方を考えて提案しました。その提案が採用された結果、ステンレスの継ぎ目から水が入り込むことは完全になくなったのです。わたしはどれほど彼が苦心したかを知っています。そしてそこに、チェレスティーノ神父の教会に対する深い愛を感じました。

    東京教区への貢献は多大でしたが、今日は特に二つのことを思い起こしたい。それはチェレスティーノ師が宣教師として生きたこと。そして、仏教と出会って信仰の豊かさを深めていったことです。

    宣教師であること。ミッショナリーとして自分の人生をささげること。それは彼にとって、神の呼びかけに応えることでした。10歳のとき、小神学校に入る時から、彼はこの道を歩み始めました。しかし、故郷と家族の深い信仰の中で生まれ、おそらく「母の胎から生まれる前に、選ばれていた」という第一朗読の預言者エレミヤのようだと思います。チェレスティーノ神父は1977年、24歳で日本に来ました。一世代前の宣教師の使命は教会のない土地に教会を建てることでした。でも彼が日本に来たとき、教会はもうたくさんありました。彼は自分が日本で司祭として、宣教師として働くことの意味をずっと考えていたと思います。日本人の中へ、日本の文化の中へ、深く入っていき、そこに骨を埋める。ミラノ外国宣教会から東京教区司祭に移籍したのも、ミッショナリーとして最後まで生き抜くためだと言っていました。チェレスティーノ神父をとおして、カトリックの豊かなすばらしい伝統にわたしたちが出会えたことを心から神に感謝したいと思います。

    禅との出会いもチェレスティーノ神父にとって大きなものでした。

    チェレスティーノ神父は駒沢大学でアシジの聖フランシスコと曹洞宗の道元の比較研究をして、論文を書きました。チェレスティーノ神父が感銘を受けた道元禅師の歌があります。

    「峰の色、谿(たに)の響も皆ながら我が釈迦牟尼の声と姿と」

    山の峰の姿も谷の小川のせせらぎもみんなお釈迦様の声に聞こえる、その姿に見えてくる、という意味です。彼の中でそれはキリスト教信仰と結びついていました。あらゆるものの中に神のいつくしみを見る。すべてのものに神の子の輝きを見る。そのチェレ師の思いを表す福音の箇所として、先ほどの「野の花、空の鳥」の箇所が思い浮かびました。神のいつくしみは、一輪の花にも、一羽の小鳥にも注がれている。それが禅をとおしてチェレ師が新たにした眼差しでした。その目で自然を見て、写真を撮りました。その目で人を見て、人を大切にし、どんな人にもやさしく接しました。

    人間的に見ればあまりにも早すぎる死でした。友として思えば、あまりにも辛く悲しいことです。東京教区としてはあまりにも、あまりにも大きな痛手です。でもすべては神のみ手の中にあります。神さまは天からチェレに向かって「帰っておいで」と呼ばれ、彼は帰っていきました。それに早すぎるとか、まだやり残したことがとか、そんなことは関係なかったのだと思います。

    きょうの式次第の写真(上の画像)はチェレスティーノ神父が撮った写真です。「チェレスティーノ」は「空、天」を表す名前です。名前のとおり、天への憧れを表わしているかのような写真だと思います。チェレスティーノ神父を天の神さまのもとにお見送りしながら、彼がわたしたちに残していったもの、神に対する信頼、イエスの招きへの忠実さ、教会への深い愛、人々へのやさしさを一人一人が深く受け止めたいと思います。