古郡忠夫助祭叙階式の説教

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    2012年3月25日 潮見教会にて

    四旬節第5主日 ヨハネ12・20-33

    古郡さんはこれから助祭になります。助祭は英語ではdeacon。これはギリシア語の「ディアコノスdiakonos」という言葉から来ています。ディアコノスの本来の意味は「食卓で給仕する人」「仕える人」「奉仕者」でした。「助祭」という日本語は祭りの中で助ける人、という感じで典礼の中での役割が強調されてしまいますが、本来はそうではありません。使徒言行録6章にステファノやフィリポたち7人の奉仕者が立てられる話があります。この人たちは最初の助祭とも言われていますが、彼らの務めは何よりもまず共同体の中の貧しいメンバーに配慮し、貧しい人の世話をすることでした。古代の教会では助祭の活躍が目立っていましたが、それは特に病人や貧しい人に対する教会共同体の愛と奉仕を助祭が身をもって生きていたからです。キリスト教共同体の姿を目に見える形であらわすのがミサ・典礼です。助祭は、共同体の中で人々の世話をしていたからこそ、典礼の中でも説教という形で人々の信仰を励まし、主の食卓を整え、聖体を配るという奉仕の務めが与えられているのです。大切なのは、助祭になったからミサの中で何ができるようになったか、じゃないんですね。本当に日々、奉仕者として生きることが助祭の使命です。

    さて、きょうの聖書朗読は叙階式のための特別な箇所ではなく、四旬節第5主日の箇所です。しかし、ヨハネの福音朗読の中に、この「ディアコノス」という言葉が出てきました。26節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」この「仕える者」がディアコノスです。「わたしに仕える者」と訳されている箇所は、直訳では「わたしのディアコノス」となります。この文脈では、確かに「わたし(イエス)に仕える者」という意味ですが、同時にそれは「わたしに従う者であり、わたしとともにいる者」とも言われていますから、イエスと共に仕える者という意味でもあると思います。

    古郡さんは今日から助祭=ディアコノス=奉仕者になります。単に便利な奉仕者というのではありません。イエスが仕える者であったように、仕える者になる。これが教会のディアコノスの本質的なことです。

    マルコ10章に有名なイエスの言葉があります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

    イエスはどのように仕えたのでしょうか。イエスは確かにパンを裂いて飢えに苦しむ人々に配りました。病気の人の手をとって立ち上がらせました。見捨てられていた人に近づき、神がその人を大切なかけがえのない人として愛してくださっていることを伝えていきました。でもイエスの究極の奉仕は十字架でご自分のすべてを人々の救いのためにささげることでした。今日の福音でいえば、「一粒の麦」として地に落ちて死ぬことでした。

    そんなことができますか? もちろん助祭叙階を受けたらみんな命を捨てなければならないということではありません。しかし、今日の福音でイエスは「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と言われます。最終的に十字架に至るまでイエスに従っていく覚悟をもって、日々を生きること、これがわたしたち教会の奉仕者に求められていることです。

    最初の助祭であり、最初のキリスト教殉教者であるステファノはまさにそのような「仕える者」として生涯をまっとうしました。人々に取り囲まれ、石を投げつけられてステファノは死んでいきました。その最後の言葉は印象的です。

    「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」

    「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」

    イエスを愛し、イエスを見つめ、イエスと共に神への信頼を貫き、イエスと共にすべての人を愛する。これがわたしたち教会の奉仕者に求められることです。たいへんなことです。でも、きょうの福音には本当に大きな約束の言葉があります。

    「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」

    古郡忠夫さん、この約束に信頼しながら、「イエスの助祭=わたしのディアコノス」として歩んでいってください。