森一幸助祭叙階式の説教

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    2012年3月4日 荻窪教会にて

    (四旬節第2主日 マルコ9・2-10

    森一幸さんは5年間の神学院での養成を経て、今日、助祭に叙階されようとしています。古代からの伝統に従って、教会には司教、司祭、助祭という3つの奉仕職がありますが、その中で最初に受けるのが助祭職です。助祭はギリシア語の「diakonos」の訳ですが、今の日本語訳聖書では「奉仕者」と訳されています。目に見えやすいのはミサ・典礼の中での役割ですが、古代の教会の実践から見れば、特に貧しい人々や病人への奉仕者でした。貧しい人に必要なものを分け与えたり、病人を見舞い力づけるというのが助祭の役割だったのです。それは物質的な奉仕の働き、身体的な奉仕の働きに見えるかもしれません。もちろんそういう面もあります。しかし、本当はそれが一番大切なことではないのではないかと思います。

    昨年秋、大震災の被災地の1つである釜石というところに行きました。その町にあるカトリック釜石教会がボランティアのベースになっていました。釜石教会は1階まで津波の水が入ってきた教会です。つまり周りに住む人々は皆、被災者という教会で、震災直後から被災者救援のさまざまな働きをしてきました。水や食料ほかさまざまな物資を配り、周囲の人々がお茶を飲みながらゆっくりと話をできる場を提供し、本当によい働きをしています。でもわたしが訪問したとき、その釜石ベースのスタッフの1人はこう言いました。「わたしたちはモノや場所の提供はしてきました。でも本当にしたいことは、津波で何もかも失って、生きる希望と力を見失っている方々に、私が受けたあのイエスの希望の福音を伝えることなんです」わたしはその言葉に深く共感しました。

    震災ボランティアはもちろん宗教を宣伝するためにするのではありませんし、それはしてはいけないことです。カトリック教会のボランティアが信頼されているのは、宗教の勧誘をしないからです。

    でも一方でただ単に物質的な、心理的なお世話をするだけで本当によいのか、という面もあると思います。ただ人に親切にするのが信仰者の役割でしょうか。むしろ、どんな絶望的な状況の中にも希望があるということを伝えるのが本当の信仰者の役割なのではないでしょうか。難しいです。どうやって伝えるか。それは地震や津波のときだけの問題ではないと思います。

    まず第一に自分自身がその希望を生きる人になること。どういうことでしょうか。苦しみを避けるのではなく、むしろ進んで人々ために苦しみを引き受けること。打算で物事を見たり、行なったりするのではなく、本当に神と人のために、自分のすべてをささげること。なぜそんなことができますか?どうしたらできますか?それは神に希望を置くからです。何があっても神はわたしたちを決して見捨てないと信じ、だから希望を持つのです。

    そして、次に人々のために祈ること。実際、わたしたちが出会う貧しい人や病人の現実は厳しいものがあります。なんとかしてあげたいと思っても、どうにもならないことがあります。だからってその時に合理的な説明をつけて、自分を正当化するのではなく、その苦しみに寄り添いながら、それでもその人々を神にゆだねて祈るのです。この祈りは必ず通じます。

    そして最後に、希望について語ることです。ペトロの第一の手紙の中にある有名な言葉を思い出してください。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(Ⅰペトロ3・15)難しい神学の言葉ではなく、本当に心に届く言葉で希望を語ることができるように、これは生涯かけてわたしたち教会の奉仕者が求め続けるべきことです。

    森さんはとてもいい人。みんなそう思っています。誠実だし、人のために働くし、でも、それだけでは足りない。いったいどうやって、キリスト教の希望を伝えることができるのか。

    今の社会で本当にわたしたち信仰者が示していかなければならないのは、「本物の希望」ではないかと思います。科学技術や経済活動がもたらす希望があります。あらゆる病気や老いが克服されて人間は無限に生き続けるのだ、これが本当の希望でしょうか? 経済は無限に発展し、エネルギーは無限に手に入れることができる、これが本物の希望でしょうか? そうじゃないことに現代の人々は気づき始めています。どうにもならない限界が人間にはある。だから結局のところ絶望しかない、というのではなく、それでも希望がある。そう信じて生きるのが信仰者の生き方です、そのすべての根拠は、わたしたちのいのちを生かしてくださる神がいる。その神はどんなときにも決してわたしたちを見捨てない、ということです。

    今日の福音の場面はそのことを感じさせます。イエスが受難の道、十字架への道を歩み始めたときにこの出来事が起こりました。この中で、十字架の道も神の子としての道であることが天からの声によって示されます。表面的には神に見捨てられるように見える道、でも本当は神と共に歩む道であり、神はこの十字架の道を歩み続けるイエスを決して見捨てることなく、最終的に、この山の上で示されたように、ご自分の栄光にあずからせてくださる。このイエスの死と復活の中にこそ、わたしたち皆の希望があります。

    このような希望を見いだせなく、闇の中にいる人々がわたしたちの周りにはおおぜいいます。神は今日、森一幸助祭をその人々のために選び、聖霊によって強め、派遣されるのです。ここに立ち会っているわたしたちはその神のみわざの証人です。この神のみわざに信頼し、この神のみわざが本当にわたしたちの中に力強く実現することを願いながら、心を合わせて祈りましょう。