合同追悼ミサ(ヨハネ6・37-40)説教

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    2011年11月6日 府中墓地聖堂にて

    わたしは今年4人の兄弟をこの世から神様のもとに見送りました。3人はこの墓地に眠る東京教区の司祭です。2月9日に亡くなった粕谷甲一神父。87歳。3月24日に亡くなられたのはジョルジュ・ネラン神父。フランス人ですが長く東京教区の司祭として働きました。91歳。このお二人は、教区の病気や高齢の司祭の家「ペトロの家」でお付き合いさせていただきましたから、特別な思いがあります。8月8日には古川正弘神父。67歳。司祭としての良き先輩でした。もう一人はまったく個人的なことではありますが、実の兄を8月29日に亡くしました。古川神父さんと同じすい臓がんで、58歳でした。子どものころから仲の良かった兄弟でしたから、やはり大きな痛みがあります。

    こうして親しい人たちを次々と見送りながら、最近感じているのは、やはり死はすべての終わりではないということです。「何を今更」と言われるかもしれません。キリスト者として当然の信仰だといえばそのとおりです。まして神父ですから、当然それを信じてきましたし、その信仰と希望を語ってもきました。でも、今年、特に、本当に肉体の死は滅びではなく、死をとおって、わたしたちは神のもとに行く、そのことを何か、深く、じんわりと感じるようになりました。もちろん、東日本大震災で、今も遺体の見つからない人を含め、2万人近い人が亡くなったということも、死といのちについて改めて深く考える契機になっています。

    わたしたちキリスト者は肉体の死がすべての終わりではないと信じています。なぜでしょうか。神がわたしたちのいのちを生かしてくださっていると信じているからです。わたしたちにいのちを与え、日々生かしてくださる神の大きな愛を信じるからです。その神は、ご自分の独り子をこの世に与え、しかも十字架の死に至るまで与えつくし、神によって生かされるいのちが死にも打ち勝つということを示してくださったからです。そして死を超えたキリストのそのいのちをわたしたちにも与えてくださると約束してくださったからです。目に見えるものは終わります。手で触れたり、耳で聞いたりするものはいつか終わりが来ます。しかし、神の愛はどんなことがあってもなくなりません。神の愛は、わたしたちを、死をも超えて生かし続けるのです。その信仰を今日、新たにしたいと思います。

    わたしたちの周りには、この神の愛を知らない人が大勢います。肉体の死ですべてが終わってしまうと考えている人がいます。だから喜びと苦しみを天秤にかけて、苦しみのほうが多ければ生きている意味などないと感じている人が少なくないのです。もし、人生が神の永遠の世界とつながっていなくて、そこから意味を与えられるのでなければ、「人生はいかにラクして楽しく生きるかだ」というむなしい世界になってしまうのではないでしょうか。

    わたしたちはそうじゃないと信じます。すべての人は神の愛によって生かされている、だからどんな人生も意味があるし、どんな苦しみも何かの意味がある。どんな状況であっても、神に信頼し、人を愛して生きようとすることには意味がある。そしてどんな人のどんな死にも意味がある。わたしたちはそう信じ、宣言します。

    これが死を前にしてのわたしたちの確信であり、希望です。

    お墓は亡くなった人が静かに眠る場だと考えられています。まあ、そう言えないこともないと思いますが、それだけでは足りないでしょう。キリストが墓から復活されたように、ここが最終的な到達点ではなく、ここから神のもとに行く、という通過点なのです。神のいのちと愛に包まれるのを待つ場だと言ってもいいでしょう。ここから復活のいのちに、永遠のいのちに旅立つ出発点だとも言えるでしょう。そしてまた、お墓は生きているわたしたちが亡くなった人を思い起こす場です。亡くなった人と生きているわたしたちの絆が今も亡くなっていないことを思い起こす場です。先祖、家族、親しかった人との絆は、死によって断ち切られてしまったのではない。目に見えない形でその絆は続いていているし、いつか神様のもとでその絆は完成する。そのことを思い起こすのがお墓です。

    どうか皆様、きょうのミサの中で、お墓参りの中で、この信仰を新たにし、日々わたしたちが神の愛によって生かされているという喜びを深く味わうようにしていただきたいと思います。