司祭パウロ古川正弘(1943.10.25-2011.8.8)通夜説教

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    2011年8月11日 高輪教会にて

    ヨハネ14・1-6「わたしは道であり、真理であり、命である」

    古川正弘神父さんは今年6月の聖ペトロ聖パウロの祝いの集まり・東京教区に住むすべての司祭、男子修道者の集まりに参加するために、カテドラルに来ていらっしゃいました。ずいぶんやせておられましたが、「どうですか」と聞くと、「まあ、できるところまではなんとかやるよ。でもXデーはいつか来るからね。よろしく」とおっしゃいました。もうそんなに長くないと感じておられたのでしょうか。それが6月27日のことでした。その次の日曜日、7月3日(日)には8時と10時のミサをささげられたそうですが、具合が悪く、説教はできなかったそうです。そして5日に入院し、いったん退院しましたが、7月29日に再入院。それから徐々に弱られて、8月8日(月)午前5時22分入院先の国際医療福祉大学三田病院において帰天されました。67歳でした。

    6年前に舌ガンが分かってからずっとガンと戦いながら、宣教司牧の務めを果たしてきて、最後まで力を振り絞り、司祭としての生涯をまっとうされました。

    わたしは20年ほど前から古川神父様にはたいへんお世話になりました。司祭になって4年目でわたしは日野市の高幡教会を一人で担当することになりましたが、本当に経験不足で未熟な司祭だったわたしは、となりの立川教会の主任司祭であった古川神父さんにいろいろと相談し、教えてもらいました。おいしい酒とおいしい食べ物をご馳走してもらいながら、いろいろな話を聞かせてくださいました。皆さんよくご存知ですが、古川神父さんは東京下町の人で、表現はぶっきらぼうだったり、テレで悪者ぶったりするところもありましたが、根はすごく真面目な人でした。今でもよく思い出すのが、当時日野のラサール会の修道院で行われていた多摩地域の司祭の集まりです。当時の多摩地域の司祭たちは毎週集まって、一緒に聖書を読み、それからいろいろな相談をし、昼食を一緒に食べるということをしていました。その中心にいたのが古川神父さんでした。毎回、次の日曜日の福音書のギリシア語原文のテキストに手書きで文法的な解説と訳語をメモした細かいプリントをみんなのために作って来てくださいました。その聖書についての熱心さにわたしは大きな影響を受けました。もちろん、わたしは神学校でギリシア語の初級文法は習っていましたが、本当に毎週毎週のミサの福音をきちんと原文で読むことは古川神父さんから学んだことでした。

    古川正弘神父様は1943年10月25日のお生まれで、洗礼は1958年4月5日、浅草教会で宮内神父様からお受けになっています。14歳です。そして、まっすぐに司祭職への道を志し、高校を卒業して神学院に入り、28歳で司祭に叙階されています。同時にこの時代は社会も教会も激動の時代でした。カトリック教会では1962年から第二バチカン公会議が始まりました。長い歴史と伝統を持つカトリック教会を現代社会に適応させることを目指した公会議では、古くからのカトリックの堅固なものが揺らいでいく面もありました。その中で古川神父さんもいろいろ考え、悩みながら、司祭としての道を探していたのだと思います。そして本当に頼りになるものとして、聖書のみことばを見いだし、それを大切にすることをとおして司祭として生き続ける道を見つけていったのだと思います。それは生涯、貫かれた生き方でした。

    今、読みました聖書の言葉は最後の晩餐の席でのイエスの言葉です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」有名な言葉です。でも古川神父さんの生涯を思い返しながら、本当にそのイエスの言葉を噛みしめたいと思います。わたしたちの歩みはイエスが約束されたように父である神に向かう歩みです。イエスの歩みと同じように、決して肉体の死で終わる歩みではなく、道であるイエスの後をついて、イエスとともに、神である父のもとに向かってわたしたちは歩んでいる、それがわたしたちキリスト者の信仰であり希望です。

    あの6月の集まりの時の古川神父さんの言葉、「やれるところまでなんとかやるよ」という言葉は、その後のことは、神様に全部ゆだねるということだったのでしょう。後は神にゆだねる、だからこそ、今は今で自分にできる精一杯をするのだ・・・。

    古川神父様、あなたは今、信頼した聖書の言葉が実現し、神の約束が成就するのを味わっておられることでしょう。どうか父である神さまのもとで、永遠の救いの喜びのうちに安らかに憩われますように。

    古川神父様、本当にお疲れさまでした。