カテドラルでの合同追悼ミサ(ヨハネ6・37-40)

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    2010年11月7日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

    昨日、わたしは下落合にある聖母病院の聖堂で行なわれた追悼ミサに行ってきました。毎年11月、この死者の月に、聖母病院に入院されていた方で、一年間に亡くなった方々を追悼するミサをささげているそうです。名簿に100人ぐらいのお名前がありました。その中には、昨年末に亡くなった白柳誠一枢機卿の名前もありました。わたしは枢機卿の遺族という扱いで、そのミサに招かれ、司式することになったようです。わたしだけでなく、大勢の遺族の方々が集まり、ミサに参加し、ミサの後でシスターや看護士さんと話をしていました。ほとんどの方はカトリック信者ではありませんでした。ずっと病院にお見舞いに来ていたり、ほとんど付き添っ
    たりしていた方々でしたので、看護師さんたちとはよく知っている間柄です。涙を浮かべている方もおおぜいいました。でも看護スタッフと遺族の方が亡くなった人の思い出を語り合うというのは、とても素晴らしいことだな、と感じました。ほんとうに辛かった思いを分かってくれる看護スタッフの前だから涙が流せたのかもしれません。

    実は、このような追悼の式をキリスト教以外の病院で行っていることはほとんどないそうです。病院というところは人の命を救うことが言わば至上命令ですから、ともすると「死」をあってはならないことのように見てしまうようです。そして患者が亡くなったら、すぐに霊安室に移され、遺体は葬儀屋さんの手に渡る、そうなると、もう病院とは関係ない、というのが普通のようです。

    亡くなった方の遺族に向かって「力及ばず、申し訳ありませんでした」と言うのが病院の普通の姿勢だと言えるでしょうか。しかし、昨日の聖母病院のシスターや看護師さんたちは違いました。「最後まで心を込めて看護させていただくことができて、感謝しています」と言いました。

    この違いは、やはり復活への信仰があるからだと思いました。

    肉体の死はすべての終わりではない、とわたしたちキリスト信者は信じています。死はあってはならないことではなく、すべての人に訪れることです。そして死は滅びではなく、すべての終わりではなく、死を超えてわたしたちは神のもとに行くと信じています。それが復活の信仰です。復活というのは、ときどき誤解されているようですが、本当は「生き返る」という意味ではないのです。この世のいのちのレベルを超えた、神のいのち、永遠のいのちを生きることです。この世のレベルを超えたことを表すのに人間の言葉は不十分ですが、「復活する、天国に行く、神のもとに行く」というのは本質的に同じことです。

    復活の希望、それは単なる気休めや慰めではありません。

    現実には本当につらく悲しい別れがあります。幼い子どもの死があります。事故や犯罪、病気や災害で、人生の半ばで突然、断ち切られてしまったような死もあります。それは、もちろんあってはならないような死です。

    そういう死に直面したときにわたしたちはイエス・キリストの死を思い起こします。イエスはすべての人の救いのために生き、すべての人を愛して生きました。しかし、その生涯は十字架上の死というむごたらしく、惨めな死に方で終わりました。イエスの弟子たちにとって、それはあってはならない死でした。彼らは絶望のどん底に突き落とされました。しかし間もなく、彼らは、イエスが死に打ち勝ち、神のもとで、神とともに生きていると信じるようになりました。それはイエスがご自分の弟子たちに、自分が生きていることを知らせるために、弟子たちに分かる仕方で、ご自分を現したからです。

    「なぜあってはならない死があるのか?」キリスト教は、その質問に理論的に答えることはできません。言葉で説明することはできません。聖書は、イエスの受難と死の物語を語ります。イエスが死を前にして最後の最後まで、すべての人に対する愛を貫いたこと、神に対する信頼を貫いたことを語ります。そしてそのイエスの歩みは死で断ち切られたのではなく、死を超えて神のもとで完成したと語ります。そしてそこから、あのイエスの苦しみと死は無意味ではなかった。わたしたちの救いのためだったという信仰が生まれるのです。

    イエスの歩みも、わたしたちの歩みも、この世の生涯で完成するのではなく、神のもとで完成する、キリスト教はそう信じます。その「完成」は別の言い方をすれば絆の完成と言ってもいいでしょう。

    1つは、神との絆の完成です。わたしたちは神を信じていると言っても、地上で生きている間、神から離れて生きている面があります。神を忘れることもあるし、神のみ心に反することをしてしまうこともあります。どんな人でもそうです。しかし死を超えて、神のもとに行き、神とわたしたちの絆がそこで完成します。これがわたしたちのキリスト信者の希望です。

    もう1つは人と人との絆の完成です。わたしたちはきょう、それぞれに親しい人を思い起こしています。生きている間、深いつながりがありました。それでも人間同士ですから、すれちがってしまった面、理解し合えなかった面、傷つけてしまった面、本当に大切にできなかった面があると思います。そのわたしたちと亡くなった人との絆は死によって断ち切られてしまうのでしょうか。そうではなく、死を超えて本当に絆が完成していく、そう感じられないでしょうか。世を去った人はわたしたちの心の中に生き続け、生前よりももっと近くにいてくれるように感じられることがあるのではないでしょうか。わたしは自分の父を亡くしたときに、本当にそれを実感することができました。いろいろな人からもそう感じるという話を聞きます。死を越えて完成するもの、それは人と人との絆だと思います。わたしたち自身が死を通って神のもとに行くとき、そこで、この絆の完成を本当に味わうことができるでしょう。

    わたしたちは今日、亡くなった家族や友人のために祈ります。亡くなった人が神のもとで安らかに憩うことができるように祈ります。亡くなった人とわたしたちの絆が神のもとで完成されていくという希望を新たにしましょう。そして、だからこそ、神との絆を、人と人との絆を精一杯大切にしながら、日々生きていく決意を新たにしましょう。