召命祈願の合同ミサ

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    2010年9月12日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

    第一朗読 イザヤ6・1,6-8
    第二朗読 Ⅱコリント4・5-11
    福音朗読 マタイ9・35-38

    きょうの福音は一粒会の皆さんにとっても、神学生の皆さんにとってもおなじみの箇所でしょう。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」このキリストの呼びかけに応えて、わたしたちは召命のための祈りをしています。

    ところで、「収穫のための働き手」とはどういう人のことでしょうか。今日、あらためて皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。今日の箇所の前半にこういう言葉があります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」イエスの目の前にいた人々というのは、病気や患い、いろいろな苦しみに悩む人(マタイ4・24参照)、飼い主がいない羊のように、弱り果てたボロボロの人々のことでした。イエスはこの人々を見て、胸を痛め、そして「収穫は多いが、働き手が少ない」と言ったんです。イエスの目から見たらその人々が神の国の豊かな実り・収穫でした。どうしたらこのような人々が豊かな収穫になるのでしょうか。それはイエスの特別なかかわり方によります。マタイ8章にこういう言葉があります。

    「16夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

    彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」

    わたしは最近、改めてこの箇所の大切さを感じています。マタイが見ていたイエスの姿はまさにこの姿、第二イザヤの「主のしもべ」の姿だったのだと思います(イザヤ53・4参照)。「わたしたちの患いを負い、病を担う」このイエスと出会ったとき、うずくまり小さくなっていた人々は神の国の豊かな収穫になったのです。

    だからイエスは「貧しい人々は幸い」(マタイ5・3)と言いました。

    だからイエスは「あなたがたは地の塩である、世の光である」(5・13,14)と言いました。

    だからイエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(11・28)と言ったのです。

    そして、だからイエスは「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(25・35)と言ったのです。

    イエスは、十字架の死に至るまで、徹底的に人々の病と重荷、痛みと苦しみを担う方として、生き抜かれたのです。

    この「人々の病・重荷・苦しみを担う」ということは、キリストに従うすべての人のテーマですが、特別に、司祭や奉献生活者の生き方の中心でもあると思います。

    「人々の病を身に負う」と言ったとき、ダミアン神父のことを思い出す人もいるでしょう。昨年10月11日、ダミアン神父は、ベネディクト16世教皇によって列聖されました。ダミアン神父のことはここで紹介するまでもありませんが、ちょっとだけ思い起こしたいと思います。

    ダミアン神父はベルギー生まれ、イエズス・マリアの聖心会の司祭で、19世紀の後半、ハワイで活動しました。当時、ハワイに欧米人が入ってきたのと同時に、それまでハワイになかった病気も入ってきました。ハンセン病もその一つで、ハワイの人々はまったく抵抗力がなくて、どんどん病気が広がりました。そして当時は有効な治療法がなく、患者はモロカイ島という島の一部に隔離されました。まったく見捨てられた絶望的な状態でした。ダミアンはそこを訪れ、結局、そこに住み込み、ハンセン病者のために働きました。最後は自らもハンセン病にかかって、1889年に49歳で生涯を終えました。彼は特別な仕方で、人々の病を共に担い、ハンセン病者のほんとうの意味での「兄弟」となりました。もちろん、ダミアン神父は、特殊な例かもしれません。しかし、すべての司祭、修道者(奉献生活を生きる人)の召命は、このためにあると言ってもいいのではないかと思います。

    どんな時代にも、人は苦しみの中にあって、誰かが、本気で胸を痛め、本気で近づいてきて、本気で重荷を共に担ってくれることを待ち望んでいます。それぞれの時代に生きた司祭、助祭、ブラザー、シスターはその重荷を共に担ってきました。今の時代にも特にそういう人が必要ではないでしょうか。「無縁社会」と言われ、人がどんどん孤立していく。うまく行かないのは「自己責任」だと言われてしまう。その中でおおぜいの人が行き詰っています。今だからこそ、この社会だからこそ、本当に弱さや苦しみを共に担ってくれる人が必要なのです。教区司祭は教区司祭として、修道会・宣教会司祭は修道会・宣教会司祭として、活動修道会の修道者は活動を通して、観想修道会の修道者は祈りをとおして、この時代の病と患いを担う、人々の痛みを苦しみを共に担う。そういう司祭・奉献生活者でなければ、その存在は無意味なんじゃないかとさえ思います。

    ずいぶん前ですが、山崎努さんがダミアン神父を演じた一人芝居がありました。その芝居の中で、ダミアン神父がモロカイ島に派遣されることを願って上長に反対された時に言った言葉が、今も心に残っています。

    「神がこの人々を見捨てていないしるしとして、一人の神父がモロカイ島にいることがどうしても必要なのです。」

    そういう司祭と奉献生活を生きる人を、今の時代も必要としています。その必要に応える人がわたしたちの教会の中から生まれ、育ちますように、心を合わせて祈りたいと思います。