サン・フランシスコ号御宿漂着400年記念ミサの説教

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    2009年9月30日 千葉県御宿町メキシコ記念塔(屋外)にて

    このミサはメキシコ人であるマルコ神父やダビデ神父が司式したらいいと思いました。しかし、わたしが司式することになりましたので、この400年前の御宿での出来事の、キリシタン史の中での位置付けを少しお話ししたいと思います。

    1887年に豊臣秀吉はバテレン追放令を出しました。1897年、秀吉の命令で26人のキリシタンが長崎・西坂の丘で処刑されました。これが日本26聖人の殉教です。その中にはフェリペ・デ・ヘススというメキシコ人がいました。彼はフランシスコ会修道士としてフィリピンで勉強し、司祭叙階を受けるためにメキシコに帰ろうとしていました。その途中、台風にあって、難破して土佐に流れ着きました。そして京都に行き、他のキリシタンと一緒にされて殉教していったのです。この人は、メキシコの最初の聖人になりました。

    1603年に徳川幕府が成立しましたが、家康は最初、キリスト教を黙認していました。ポルトガルやスペインとの貿易が必要だったからでしょう。この時代に起こったのが、今日記念しているサン・フランシスコ号の御宿漂着という出来事でした。今からちょうど400年前。1609年9月30日のことでした。

    それは本当に感動的な話です。わずか300人の御宿・岩和田(スペイン語の発音では「ユバンダ」)の住民が総出で300人以上の外国人を助け、着るものと食べ物を提供したのです。遭難者の中にはドン・ロドリゴという前フィリピン総督もいました。彼らは大多喜城主・本多忠朝から手厚いもてなしを受け、将軍徳川秀忠に会い、将軍を引退した後も最高権力者だった徳川家康にも会いました。家康に会ったとき、ロドリゴは、「キリシタンの保護」「スペインのフェリぺ国王との親交」「スペインと対立していたオランダとの断交」を求めたと言われます。これを聞いた家康は、ロドリゴが自分のために何も望まず、宗教と国王のためだけに望みを述べたことをほめたと伝えられています。家康は「サン・ブエナベントゥーラ号」という船を貸し与え、ロドリゴたちは無事にメキシコに帰っていきました(1610年8月)。そして、ロドリゴは日本での体験に感激して、それを本に書き、この出来事はメキシコやヨーロッパで知られることになったそうです。

    ところが、日本では1612年、キリシタン岡本大八の事件をきっかけにキリシタン禁制の動きが強まり、1614年には全国的な禁教令・追放令が出されることになっていきました。この背景には、宗教色なしに日本と貿易をしようとしたオランダとの関係が確立し、もはやスペインやポルトガルとの関係を断絶してもよいという判断が幕府にあったからでした。そして、250年にも及ぶ過酷なキリシタン禁制の時代が始まっていったのです。そしてこのサン・フランシスコ号と御宿の出来事も日本では忘れられてしまいました。

    少し後の時代に、ロレンソ・ルイスというフィリピン人が日本に来ました。聖トマス西と15殉教者の1人ですが、この人は普通の信徒で、たまたま日本に来て、1637年に長崎で殉教した人です。もうその時代にはたとえ外国人であっても、カトリック信者だというだけで、絶対に日本に存在することが許されなくなっていたのです。

    そのように時代が変化していく、なんともいえないタイミングに起きたのが、この御宿の出来事だったのです。そう考える時、御宿の話はなんとも言えずにあたたかい、美しい、素晴らしい話だと思います。

    メキシコ人であるマルコ神父やダビデ神父は素直に感謝する気持ちでこのミサに参加していることでしょう。当時のキリシタンの子孫だという方もある程度そうかもしれません。しかし、わたしも含め、ここに集まっているわたしたちの多くはメキシコ人でもないし、昔のキリシタンの子孫でもありません。わたしたち多くの者の祖先は、むしろキリシタンを迫害した側の人間だったのです。そういうわたしたちにとって、400年前の御宿の人々の愛の物語は、何か非常にほっとする話ではないでしょうか。昔の普通の日本人がキリスト教に対して攻撃的であったり、外国人に対して排撃的であったりしたというのではなく、本当に困っている人を見て、できるかぎりの助けの手を差し伸べようとした。キリストの名前を知らなくても、キリストの愛を実行した。そのことを大切なこととして今日、思い起こしたいと思います。

    そして、そのことを記念しながら、世界中の人々の中に、また、わたしたち一人一人の中にこのキリストの隣人愛の心がもっともっと実現していきますように、心を合わせて祈りたいと思います。