愛は決して滅びない(連載5)

    image_pdfimage_print
    ペトロ岐部と187殉教者の列福にあたって

    ・・・カトリック新聞」 2008.11.23 第3981号掲載

    5 羊のためにいのちを差し出す

    今回、列福される人々の大半は信徒ですが、その中に4人の司祭が含まれています。

    潜伏司祭・潜入司祭

    中浦ジュリアン像(島原教会) 中浦ジュリアンは天正少年使節としてローマに派遣された4人の少年の一人でした。あまり目立たない人で司祭になったのは40歳のころでした。1614年、徳川家康による全国的な禁教令によって宣教師や司祭がみな国外に追放されることになったとき、中浦ジュリアンは潜伏司祭として日本に残ることになりました。そこから彼の活躍が始まります。九州各地を回って信徒たちを訪問し、ゆるしの秘跡と聖体を授けて力づけました。1614年から捕らえられるまでの約18年間、中浦ジュリアンは司祭として働き続けました。

    ディオゴ結城了雪は司祭になるための勉強を終えていた1614年に追放されてマニラに行き、翌年そこで司祭に叙階されました。彼はすぐに日本に帰ってきて、近畿地方を中心に日本各地の信徒を訪れて励ましました。京都の大殉教の際にも信者たちを支え、殉教を見届けました。20年間の潜伏の後、1636年に大阪で殉教しました。

    トマス金鍔次兵衛は1614年に追放されてマカオに行き、そこでイエズス会の司祭になるべく勉強していましたが、そのマカオの神学校は閉鎖されてしまいます。その後、日本の信徒のためにどうしても司祭が必要だと考えてマニラに渡り、アウグスチノ会に入り直して、1628年セブ島で司祭に叙階されました。そして、日本に潜入し、1631年から1636年までの5年間、さまざまな姿に変装しながら、各地の信者を励まし、信者でない人にも教えを伝え、洗礼にまで導いたと言われています。長い拷問の末、1637年11月に殉教しました。

    ペトロ岐部神父は188人の中では最後に殉教した人です。岐部は金鍔次兵衛たちとともに神学生としてマカオにいて、神学校が閉鎖されると、一人でローマまでの長く厳しい旅をしました。1620年、ローマにたどり着いた岐部は、そこで司祭に叙階されます。岐部神父はそれから10年の歳月をかけ、ようやく日本への潜入を果たしました。東北の水沢を拠点にして密かに活動を続けましたが、最後は捕らえられ、1639年7月、江戸浅草で殉教しました。

    良い羊飼いとして

    この4人は、なぜそれほど苦労して司祭になろうとしたのでしょうか。なぜそれほど、日本に潜入・潜伏することにこだわったのでしょうか。

    この4人の目的は「司祭叙階を受け、司祭という地位を手に入れること」ではありませんでした。もしそうならば、迫害が厳しくなる一方の日本で働かなくとも、他に活動の場所があったことでしょう。日本で司祭として働くことは殉教を意味することでした。しかし、4人が日本で働いたのは「殉教の冠を受けたいと思ったから」でもありませんでした。彼らは捕まらないように隠れ続け、一日でも長く生きようとしたのです。

    何のために? それはただひたすら信徒のためでした。牧者を失った羊のため、秘跡をもって彼らを力づけるためだったのです。

    司祭たちは捕らえられると、だれが司祭に宿を貸し世話してきたか、信者たちはどこに潜んでいるか、厳しく問われました。この司祭たちが他の人のことを何も語らずに殺されていったということは、恩人や信徒たちをいのち掛けで守ったということでもあります。

    ヨハネ福音書10章11節に「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」という言葉があります。「良い」はギリシア語では「カロス」ですが、この言葉は「善良である」というよりも「役に立つ」という意味での良さを表します。本当に羊の役に立つのが「良い羊飼い」なのです。「捨てる」と訳される「ティテーミ」は本来「置く」という意味の言葉です。「いのちを差し出す、投げ出す」と訳したほうが正確ではないかと思います。このたび列福される4人の司祭は、まさに良い羊飼いであるキリストの姿を映し出した人々でした。

    4人の司祭の列福にあたり、現代の司教・司祭にも、この「牧者としての愛」が真剣に問われていると感じます。