愛は決して滅びない(連載4)

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    ペトロ岐部と187殉教者の列福にあたって

    ・・・カトリック新聞」 2008.10.12 第3975号掲載

    4 証しに反するもの

    愛は決して滅びない

    前回、キリシタン時代の教会が信仰と愛を生きようとした姿を見ましたが、もちろんその時代の教会のすべてが理想的な姿であったわけではありません。特に現代の目から見ればいろいろな疑問も沸き起こります。

    たとえば、あの時代のキリスト教宣教はポルトガルやスペインの国家政策と結びついたもので、経済活動とも結びついていたのではないか。当時のキリスト教信仰はキリスト教を絶対視したもので、他の宗教に対する尊敬に欠け、対話の姿勢がなかったのではないか。来世の救いを強調して現世のいのちを粗末に考えていた面もあるのではないか、などなど。

    岡本大八事件

    当時の教会にとって最大にスキャンダルになった事件がありました。それは岡本大八事件と呼ばれる事件で、この事件の結果、徳川家康はキリシタン弾圧の方針を決定的にしたと言われます。

    有力なキリシタンであった岡本大八は、徳川家康の側近である本多正純の家臣でした。1610年、キリシタン大名であった有馬晴信が長崎でポルトガル船マードレ・デ・デウス号を沈没させた時、大八は幕府の目付役としてそこにいました。そして、日本国の威信を守った晴信の手柄を家康が喜んでいるので、晴信の失った旧領地を取り戻すことができるように自分が働きかけよう、と申し出たそうです。晴信は同じキリシタンであった大八を信じ、多額の運動資金を大八に預けました。ところが大八はそれを着服してしまいます。

    このことが発覚し、家康の知るところとなり、1612年、大八は他にも罪が発覚して火刑に処せられることになります。この時、大八は晴信を道連れにしようとして、晴信が家康の側近であった長崎奉行長谷川藤広を殺害しようとしていたと訴えました。取調べの結果、晴信はこの罪を認めさせられ、流罪となります。

    家康の禁教令

    徳川家康はこの事件を見て、キリシタンに対して激しい怒りと不信感を抱くようになったと言われます。そして自分の部下の中でキリシタンであった人たちに棄教を命じました。このときに信仰を捨てなかった人として有名なのが、おたあジュリアと今回列福される188殉教者の一人、原主水です。

    おたあジュリアは朝鮮半島出身で、豊臣秀吉の朝鮮侵略のときに日本軍に拉致されてきた少女でした。キリシタン大名小西行長の家で育てられ、行長夫人の影響で熱心なキリシタンになりました。関が原の戦いで小西行長が破れた後、徳川家康にその美貌と才能を見初められ、侍女として寵愛を受けたと言われています。彼女は家康の棄教命令を拒み、伊豆諸島に島流しになりました。

    原主水は千葉県臼井城主の子として生まれましたが、戦乱により幼くして父を失い、徳川家康に引き取られて育ちました。13歳のときに洗礼を受けましたが、若くして旗本としての地位が与えられていました。原主水は家康による棄教命令を知って姿を消すことになり、結局は2年後に捕らえられて、体を傷つけられ、障害者にされて追放されてしまいます。主水はさらに潜伏生活を続け、1623年、品川・札の辻で殉教しています。

    家康は1614年には、全国的な禁教令を出し、宣教師や司祭をすべて国外に追放しました。そしてこの家康のキリシタン禁教の姿勢が、江戸時代250年間に渡って続いていくことになりました。このような結果から見れば、岡本大八事件の影響がいかに大きかったが分かるでしょう。もちろん、だから幕府によるキリシタン弾圧が正当であったとは決して言えません。迫害されたほとんどのキリシタンは何の罪もない人々だったのです。

    岡本大八事件を取り上げたのは、キリスト信者の生き方が、まったくイエスの証しにならないことがありうることを教えてくれる一例だからです。一方には今回列福される殉教者たちのように周囲の人々から尊敬されるキリシタンの生き方がありました。逆に金銭をめぐる不正やキリスト者同士の争いは殉教者たちの証しの正反対にあるものです。このことをわたしたち現代の教会は、大きな警告として受け取らなければなりません。