教区の歴史

教区の歴史

「インタビュー 「今、教会はどうしましょう?―共同体の再生を求めて」

2007年05月01日

・・・月間「福音宣教」2007年5月号 掲載

東京教区補佐司教幸田和生 (以下幸田)

聞き手 ダニエル・ホーガン (以下H)

幼稚園はどうしましょう

H:今日はお忙しい中、インタビューのために時間を割いていただきまして、ありがとうございます。よろしくお願い致します。東京の補佐司教になってからもう
2年になりますが、お気持ちはいかがですか。

幸田:ええ、難しい事だらけで大変ですね。やはりいろいろな問題があって、問題を処理するためにすごくエネルギーを取られているという感じなので、積極的に何か新しい事をすることができないと感じています。

H:例えばどのような問題が今一番大きいですか。

幸田:日本の教会、東京の教会には、戦後作られた物が多くて・・・。幼稚園の建物もそうですね。もう
40年も50年も経つような建物が東京教区にもいっぱいありますので、そういうものが老朽化しているってことが問題としてあります。

今までは、幼稚園はそれぞれの小教区に付属していて、その小教区の主任司祭が園長をして、そして、信徒の方が実際の幼稚園の教育を担当してきたのですが、そういう方たちがどんどん高齢化しているので、そこでもやはり後継者の問題がすごく大きいですね。社会のニーズがどんどん変わってきているので、本当に今、幼稚園に求められているものに応えるのはものすごく大変です。

優秀な人材とエネルギーが必要になっているので、それに対応するためにはやはり小教区だけではできなくて、教区としてサポートしていくことが非常に必要になっているのです。

H:今、子どもの人数も減ってきていますし、また司祭の人数も少なくなってきています。教会が経営している幼稚園は将来どのようになっていくと思われますか。

幸田:もちろん、子どもの数は地方ではすごく減っていますけれども、でも東京はそれほど減っていないようです。その面ではきちんと幼稚園をやっていけば、幼稚園の子どもがいなくなることはないと思います。ただ、私たちが一番問題に感じているのは、宗教法人が運営する幼稚園というのが多いのですが、国では幼稚園は学校法人でやるべきだという考えが、どんどん強くなっていて、そして学校法人でないと補助金がどんどん減らされていくという状態なのです。これからもそうだと思います。そうすると、たとえ子どもが集まっても経営は非常に難しくなっていくのですね。ですから条件さえ整えばやはり学校法人にしていかなければいけない。でも実際には教会の小さな庭でやっているわけですから、きちっと宗教法人と学校法人とを分けるということは難しい。そんな問題が教区にはいっぱいあるのですよね。

典礼はどうしましょう

H:次に、今の日本のカトリック教会の典礼のことについて、お聞きしたいのですが、日本の典礼は西洋化しすぎていると言われることがあります。一部の司祭と神学者はもっと和式典礼などを望んでいるようですが、司教さまはどのように思っていますか。信者の間にも、そのような気持ちの方々がおられると思いますか。

幸田: 和式典礼とはどういうものなのか・・・。例えばお能の何かを取り入れるとか、それから茶道、日本の畳の上で行っている茶道の作法を取り入れるとか。・・・そういうようなことをいくつか聞いてはいますけれども、どうでしょうかね、そういう日本的な何かを取り入れるっていうのは。私ぐらいのジェネレーションになるとかえってそれに違和感を覚える。普段の生活では畳の生活をしているわけでもないし・・・。能なんていうのも茶道もほとんど関係のない生活をしているわけで・・・・・・。

 そんな中でミサの時だけ日本的にすると、何かすごく不自然な感じを受けることもありますね。だから表面的に日本文化を何か典礼に取り入れるっていうことに私はあまり関心がないですね。

H:現在の典礼はどうですか。これでいいとお思いですか。

幸田:これでいいとは思いませんけれども、表面的に教会の典礼と日本文化を合わせるみたいなことではなくて、やはり日本人の信仰体験の表現としての典礼というのは本当に長い時間をかけて作っていかなければいけないと思いますね。

言葉の問題もすごくあって、日本語というラテン語などとは全然違う言葉で、日本語でどのように自分たちの信仰を表現していくかというのは、それはすごく時間のかかる作業ですけれども、大切なことだと思っています。

私自身はミサの祈願の作成に関わったことがあります。集会祈願などをまったく独自に日本人が日本語で作ったのです。3年周期の日曜日の朗読配分に基づいて、それぞれの主日にふさわしいミサの祈願を作ることを何年かやってきました。それは今、「聖書と典礼」などに載っていますから、実際に日本の教会で使われています。

典礼に用いる祈願などは、ほとんどがラテン語からの翻訳でした。私たちは、その祈願を自分たちの生活と信仰体験に基づいて作ることを試みてきました。でもそれを使う認可をローマ教皇庁に求めたときに承諾されるかというと、多分無理だと思うのです。実際に、ヨーロッパのフランスとかイタリアなどでも
3年周期の朗読にふさわしい祈願文を作ってきたのです。英語の版もありましたけれども、ローマは全部にネガティブな返事をしていますね。

だから今の時点では、正式なものとしては使えない。でもとにかく私たちが日本にいて、日本で神に出会うという信仰体験をして、それを自分たちの言葉でどう表現できるかというようなことは、すごく大切だと思っています。

諸宗教対話はどうしましょう


H:最近、宗教対話が非常に大事だとよく言われます。カトリック教会が日本では仏教、まあ、他の国ではイスラム教と対話することが非常に大切だと言われますが、日本のカトリック教会はあまり積極的ではないように見えますが・・・。たとえば、霊性、司牧活動、社会活動、神学的論評などで仏教の方々と対話することはありますか。

幸田:実際本当にそこまで余裕がなくて・・・、なかなか無いですね。

H:あればいいと思いますか。

幸田:あればいいと思いますけれども、まあ、地道にやっていらっしゃる方もいると思うのですが、私なんか本当にそこまでの余裕がなくてなかなかできない。

去年の秋にカリタス・ジャパンのセミナーがあって、そこでは暴力の問題が扱われました。DV(ドメスティック・バイオレンス)とか児童虐待とか、そして教会の中の暴力の問題も含めて、セミナーがあったのです。そこに千葉で児童虐待のことに取り組んでいる一人の方、柏女霊峰さんという方ですけども、その方が講師として来て児童虐待についてお話をしてくれたのです。その方は実は浄土真宗の僧侶の方でした。彼はこのようなカトリックのセミナーに招かれてお話をさせていただけることはすごくありがたいことですと、言ってくれました。

その方がですね、最初にちょっとだけ浄土真宗の話をさせてくださいと言って、お話されたのです。「浄土真宗の教えは3つです。1つは意のままにならない人間存在をしっかり見つめる。この、意のままにならぬ人間存在っていうのを浄土真宗では宿業と言いますけれども、我が心の中に宿る罪、それをしっかりと見つめる。これが
1つ。そして、それでも私たちを救ってくださる、助けてくださる、阿弥陀如来の存在に気付く。これが2つ。そして3番目に有縁の人びとと言って、縁のあった人びとを大切にして、その人びとと一緒に精一杯生きて行こう。この
3つ。これが浄土真宗の教えです」とって言ったのですよ。私はそれを聞いた時に、私たちの信じていることとほとんど変わらないではないかと思ったんですね。

まあ阿弥陀さまがキリストにあたるかも知れないけども、でも特に浄土真宗、大乗仏教というものでは、やはり超越的な救いをはっきり意識していて、そしてその中で人間の罪の問題、そして本当に愛して生きるという生き方の問題に触れていて、根本的なところでものすごく共通するものがあるなって思いましたね。

そして、ちょうど実際の社会問題に取り組む中で協力しあうことができるし、そういう現実の人間の問題にかかわりながら、お互いの信仰を理解したり、共感し合ったりして行くってことがすごく大切なことかなあと思いました。

H:そうですね。そういうようなことがもっとあればいいですか。

幸田:あればいいですね。

H:でも、小教区ではむずかしいでしょうか。

幸田:そうですね、小教区のレベルでは。

H:たとえば近くのお寺か神社の方と一緒になにか社会問題を考えて、お互いがやっている活動を協力し合うことはできますか。

幸田:でも、地域によってはそういう話も聞きますね。たとえば、その町のホームレスの人たちをなんとか支援しようということを、あるプロテスタントの方が始めて、カトリックの教会もそれに協力して、そして仏教の方もそれに協力してくださって、そういうホームレスのことを考える宗教者の集まりみたいなものが生まれたそうです。

深い霊性とか神学とかについての対話よりも、現実的に本当に困っている、苦しんでいる人がいるところで、仏教もキリスト教もそこで何ができるかって、考えることのほうが、実際の現場ではやりやすいのかなあと思っておりますね。

外国人信徒はどうしましょう


H:最近日本だけではなく他の国でも、移民、難民も非常に増えていますね。外国から移住した信徒は日本のカトリック教会の信徒数を大いに増やしました。日本人の信徒と外国人の信徒はうまくかかわりあっていると思いますか。

幸田:まあ、うまくいっている所もいってない所もあるでしょう。結局は外国人の信徒が集まる場もほとんどが小教区ですね。ですから小教区の司祭の理解はすごく大切だと思いますね。でも、日本人の司祭は外国語が苦手だったり、いろいろなことがあって、必ずしも良いコミュニケーションが取れているとはいえない所もあると思います。そしてもちろん国民性、生活習慣の違いから生じる小さなトラブルはたくさんあると思いますけども。

H:ありますよね。これに関して司教としてはどういうふうに司祭たちを指導しますか。

幸田:まあ、先程の話ですけれども、司教としてという以前に、私は千葉で5年間働いていて、そして千葉の教会が皆共通に抱えていた問題が(問題と言っては失礼ですけれども)、どこの教会にも外国人の信徒が多いことでした。東京の都心の教会よりも千葉のほうが多いのです。それでその人たちのお世話は司祭あるいは一つの小教区だけではできないということを感じていて、ずっと前から千葉では千葉ブロックとして、フィリピンのレイ・ミッショナリー(信徒の宣教者)を招いていたのです。千葉の教会がお金も負担して招いていた。そしてその人たちが小教区を回って洗礼のセミナーとかをしてくれていた。そして千葉の教会ではそのセミナーを受けなければ幼児洗礼は受けられないというようなことを皆で申し合わせていた。

そういうことをずっとして来て、ある面で発展したのがCTIC千葉(カトリック東京国際センター千葉事務所)なんですね。けれども今、少し、CTIC千葉と小教区の司祭との距離が少し広がってしまっているというような感じがあります。それはすごく残念なことなので、もう一度本当に司祭たちが司祭として小教区で感じていることと、それからCTIC千葉で働いているフィリピン人の司祭やレイ・ミッショナリーの人たちが感じていること、体験していることを分かち合って、これからどういう協力ができるかっていうようなことを話し合って、進めて欲しいと思いますし、そのために司教として力を入れて行きたいと思っています。

H:まあ、日本人の信徒と外国人の信徒が関わり合うということは東京教区だけではなくて日本全国の課題です。司教団としてはどういうふうに考えているのですか。

幸田:必ずしも全ての教区で外国人が多いわけでもありません。多い教区も少ない教区もあります。そして司教団としては難民移住移動者委員会という組織で対応しています。特に外国人の多い教区の司教たちは関心がありますし、本当に協力しようと思っていると思います。

H:日本人の信徒と外国人の信徒が、もっと関わりあえば良いと思っているのでしょうね。

幸田:そうですね。

H:たとえば午後には英語のミサがあって、午前中、日本語のミサがあってというやり方は望ましいでしょうか。

幸田:まあ、いろんな事情が違いますから、日本全国、司教団レベルでどうこうするっていうところまではまだ行っていないと思いますけどもね。ただ、東京教区、あるいは東京教会管区、特にさいたま教区、横浜教区はすごく近いですし、ある面で共通した状況もあるのでそんなことを何年も前から話されてきてはいますね。

教区としては日本人の共同体と外国語のミサの共同体の人たちをもっと近づける、ということは考えきました。ただ、そこにはさまざまな事情があるので難しいところもあるみたいです。もちろん、そういう意識は少しずつ、皆持ってきていると思います。特にいわゆるダブルの子どもたちの問題があるからです。その子どもたちは、親に連れられて英語のミサとかタガログ語のミサに行っていても何も分からないです。そしてその子たちが初聖体を受けるころになった時に、今までわけの分からない外国語のミサしか出たことのないそういう子どもたちを、どうするのかというと、日本に定住している外国人は日本語のミサ、日本語の教会学校、そういうものを必要とするようになるわけです。そういう子どもたちのレベルから日本人と外国人が近づいていくことはあると思います。

社会問題はどうしましょう


H:先ほど、いじめの問題とか青少年の問題にはちょっと触れましたけども、最近日本の社会で起こっている問題、たとえば、家庭内暴力、自殺、政治汚職、右翼団体の政治的勢力、あるいは、ますます広がりつつある社会格差などに対して、カトリック教会、カトリックの司教団は他の宗教者と共にそれらの問題を考え、たとえば共同声明を出したりするような動きはありますか。

幸田:共同声明・・・・・・ですか。

H:他の宗教と一緒に社会問題に対応するというか、コメントするような・・・。

幸田:うーん。私は司教になってまだ2年なので知らないのですけども、そういう話はあまり聞かないですね。日本のカトリック教会はすごく小さな存在ですし、やはり発言力も小さいですね。

H:だから他の団体と一緒に発言すれば・・・。

幸田:はい、そうですね。でもなかなか司教団としてというのは難しくて・・・・・・。現場のほうがもっと動いていますね。先ほども言ったようなドメスティック・バイオレンスやチャイルド・アビューズとか、そういうことに取り組んでいる人たち、その中にはやはりカトリックの人もいればプロテスタントのキリスト信者もたくさんいますし、仏教の方もいるし、そういう中での協力というのはすごく大きい。

かつてカトリック教会では、やはり何か社会の必要(ニーズ)に対して、そのために働く修道会ができて、その修道会が事業としてやっていくことが戦後の日本では多かったですね。結核の問題とか知的障害者のお世話とか養護施設とか、そういう社会の問題に対して、修道会が何かやって来たってことが多いですけども、今は修道会がやるという発想があまりない、現実に修道者が高齢化して少なくなっているということもありますけども・・・。

むしろ、そうではなくて、そういうことに関心を持って作られたNGOとかNPOとかに人が集まる。別にそれ自体はキリスト教でもカトリックでものないわけですけども、その中に大勢のプロテスタント、カトリック、そして仏教の人たちが参加しているというそういう動きはどんどん広がっていると思いますね。

H:日本の司教団はどのような社会問題について、積極的に考えて発言をしていますか。また、カトリック教会の中で、どのようは人びとの声が司教団の耳に届いていますか。

幸田:そうですね。何年か前に『いのちへのまなざし』というかなり長いメッセージを出しましたね。私はその経緯は知りませんが、でも、今の日本の中にあるさまざまな問題、特に生命に関するような問題について、カトリックの司教たちはこう考えるというものを出しました。もう一つはやはり平和に関することです。それはすごく私たちにとって今、大きなテーマですね。特に今の与党が憲法改正ということを考えている、そういうことに関連して特に戦争放棄という問題とそれから政教分離の原則の問題ですね、この点に関して私たちは非常に重大な問題だと考えています。それについては一昨年ですかね、
2005年に戦後60周年の司教団のメッセージを出しましたし、それから今年になって政教分離に関するメッセージを出しました。

H:そういうメッセージを出すと日本の政治家は読んでいると思いますか。

幸田:ああ、読んでないのではないでしょうか。

H:カトリック教会の信徒以外に誰が読むのでしょうか。

幸田:「憲法改正」というのでしょうか、憲法第9条と言えば日本が武力を持たないということが今決められていて、でも現実には自衛隊というものがあって、だから必要最低限の防衛の為の軍隊をちゃんと憲法でも認めようというような動きがあるわけですね。それに対して、やはりその憲法
9条を変えてしまったら、これまでずっと築き上げてきた、日本が60年以上の間戦争してこなかった、その大切な根幹が揺らいでしまうということで心配している人はカトリック教会だけではなくて、他にも日本の中には沢山いるわけです。そういう人たちのネットワークが結構ありますね。そういう中には政治的にいろいろな立場の人、政治団体とか労働団体とかそういう人たちも多いので、意外とそれに関係ない宗教者というのに大切な役割があるようですね。そんなネットワークの中でカトリックの司教や司祭も関わっているので、その関係の人たちには多分読んでいると思います。

H:そういうような社会問題を積極的に取り組んでいるネットワーク、労働組合、宗教者など、そういう人たちとカットリック教会の信徒はもう少し積極的に関われば良いでしょうか。

幸田:そうですね。まあ、でも難しいのは、カトリック信者の中にも憲法問題、靖国問題、いろいろな立場、いろいろな意見がありますね。だから一つの考えで司教や司祭が動いていくと、ものすごく強烈に抵抗する人たちもいます。

環境問題はどうしましょう


H:環境問題にもちょっと触れてみたいと思うのですけども、温暖化が進んでいる、そして環境破壊も進んでいると毎日のように報道されます。環境破壊に対して、教会はもう少し真面目に発言したり、ライフスタイルなどを見直したりすることが必要ではないでしょうか。

幸田:そうですね。でも、大きな動きは聞いていません。もちろん小さな所で、小教区の中の小さなグループでそういうこと考えたり、実行したりしている人たちはいますけども、なかなか大きな動きにはならないですね。

H:どうしてでしょうか。

幸田:ええ、どうしてでしょうか。まあ、難しいですよね、本当に日本の教会って社会の中で小さなグループですよね、だから本当にそういう問題を感じた場合に教会の中で何かをするってよりも、その地域のコミュニティーの中で実際にいろいろな動きが、ムーブメントかがありますよね。そこにカトリック信者が参加するっていう形になっていて、それが日本の現実なんですね。教会として何かをするというのは難しい。

H:そうです、難しいですね。でも、司祭はもう少し説教の時とか勉強会の時にも環境問題に触れるといいと思うのですが。

幸田:はい、そうですね。まあ、この環境問題は日本だけでは考えられない問題ですよね。

H:人類の問題ですから、やはり人間としてこの地球に住んでいる者として、無関心でいられないでしょう。

幸田:はい、そうですね。

外国人宣教師はどうしましょう


H:では今、海外の宣教師、修道士も最近少なくなってきています。東京教区としては、外国の宣教師に何を望んでいますか。

幸田:日本という国は、歴史から考えると大変な国ですね。豊臣秀吉はまず、バテレン追放令と言って、日本の教会全体を迫害するとき、一番最初に外国人の宣教師を日本から追放しました。それから、昭和の初めですね、どんどん日本が軍国主義化してナショナリズムが強まっていった時に、やはり外国人の宣教師を排斥していきましたね。そういう国ですね。日本という国にはやはりそういう危険がある。何か極端なナショナリズムに走るという傾向があります。政府だけではなくて、日本人の多くの人の意識の中にもそれに通じるものがあるし、もしかすると日本の教会の中にも、どこかで何か閉鎖的な意識があるかも知れない。

でも私たちの信仰は、国とか民族を越えてこの世界の全ての人と連帯していく、それが信仰の根本的なテーマですので、それを目に見える形で表すものとして、やはり外国からの宣教師はすごく大切だと思います。別に司祭の数が足りないから来て欲しいとか、あるいは、キリスト教をもっと日本人に広めるためにということよりもですね、本当に私たちが日本の教会として孤立してしまわないために、外国から来る宣教師、そして外国から来る信徒はすごく大切だと思っています。だからまあ、遠慮なく日本の教会のおかしなな所、日本の社会のおかしな所を指摘してくれると良いかなあと思います。

夢と希望


H:では、これからの日本の教会について、司教さまはどんな夢や希望をもっていますか。

幸田:長くなるかも知れませんけど、よろしいですか。先程もお話したように、さまざまな社会の問題がありますね、暴力の問題、犯罪の問題、自殺の問題、たくさんありますけれども、やはりその根本にある問題は、伝統的なコミュニティーが崩壊して、人間が孤立していくということではないかと思うんです。それはもちろん日本だけの問題ではなくて、世界中の問題ですけれども・・・。その孤立した人間が結局どこかで行き詰ってしまうとか、本当にすごいストレスを感じて、どうにもならなくなって暴力に向かってしまうとか、自殺も孤立ということとやはり関連があると思います。この現代の社会の中で孤立した人間が、どうやってコミュニティーを取り戻していくかって、それはすごく大きなテーマだと思っています。

もちろん日本の社会の中でも結構あちこちの地域で、もう一度地域のコミュニティーを作ろうという動きが始まっています、それは特に日本では高齢化や、少子化が進行していることが理由でしょう。私は思うんですけれども、人間元気で働いているうちは地域のコミュニティーなんかあんまり必要としないんですよね。しかし高齢になって、会社を辞めてその地域で生きるようになった時、そして身体が弱ってきた時に、地域のコミュニティーの支えが必要になるのです。それからもう一つ、子育てっていうことですよね、子育てっていうのはマンションの一室で、母と子どもが向き合ってできるようなことではなくて、本当はもっといろいろな地域のつながりの中で、子育てっていうのは成り立って行くと思う。そういう面で、地域のコミュニティー作りっていうようなことが今盛んに叫ばれていますね。どこまでうまくいっているのか分かりませんが。

まあ、そういう中でこの私たちの信仰を見つめ直すと言った時に、私たちの信仰というか、キリスト教というものは、やはりコミュニティーの中で、受け継がれてきたのではないかと思うのです。

「私と神さま」っていう信仰、これはもしかしたらものすごく近代的な信仰観ではないでしょうか。本当はコミュニティーの中心に目に見えない神さまがいてくださるっていう信仰のあり方が大切なのではないでしょうか。その中で人と人とが繋がっているっていうのが、教会の歩みの中ですごく大切だったのではないか。特に日本の場合は、明治以降、東京の教会なんかはそうですけども、外国人の宣教師によってキリスト教がもたらされてきて、当然その中では、結構、「私と神さま」という関係での信仰が大切にされてきました。もちろん皆、自覚した成人として洗礼を決断するわけですから、どうしても「私と神さま」っていうものになりますけども、でもやはり、コミュニティーの信仰ということも大切なのでしょう。

また、家族の信仰ということがすごく強い面がありますけれども、その家族いうものの絆や機能が、今の社会ではどんどん弱まっていて、だから家族の信仰というものもなかなか受け継がれて行かない、といった現実があると思いますね。そういう中でやはりもう一度、信仰のコミュニティー的感覚を取り戻していくことが、すごく大切なことだと思っています。東京のような都会で何百人、何千人という小教区では、なかなかコミュニティーというものを感じにくい。もっと小さな、スモール・コミュニティーと言うのでしょうか、そういうものを作っていくことが、すごく大切だというように思っています。

そこで、今、私は、信徒の人たちだけで一緒に集まって、聖書を読んで一緒に祈る、というような「聖書の集い」というものを皆さんに紹介して、広めていこうとしています。もしも、
10人、20人くらいの人びとの集いとして、そういうことがどこでも当たり前に行なわれるようになったらば、ものすごく大きい力になると思っています。