教区の歴史

教区の歴史

司祭月例集会追悼ミサ説教

2017年11月27日

2017年11月27日、カテドラル

[聖書朗読箇所]

説教

11月、死者の月を迎え、わたしども、東京教区で働く司祭は、亡くなられた先輩の司教、神父様方を思いながら、今日、ご一緒に、合同の追悼ミサをお献げします。
特に、この1年間、主のもとに召された、神父様方の生涯を思い起こしましょう。
東京教区の教区司祭、修道会、宣教会の司祭のみなさん、それぞれ神様のお召しを受け、司祭としての生涯を、主なる神様にお献げになりました。
この司祭方の生涯に、いつくしみ深い神様が、豊かな報いを与えてくださるよう、お祈りいたしましょう。

教区司祭として、わたしの心に浮かんできます、おふたりは、ディオニジオ 内山賢次郎神父様、ペトロ 小川拓郎神父様です。
わたしたちと、親しく生活し、そして、宣教司牧の任務を果たされた、このおふたりのことを思い起こし、おふたりの霊に、心からの感謝を申し上げるとともに、永遠の安らぎが与えられますよう、重ねてお祈り申し上げましょう。

さて、今日の第1朗読は、ローマ書8章から採られています。
「すべての被造物は虚無に服していますが、主イエス・キリストが現れるとき、その再臨のとき、隷属から解放され、贖(あがな)いの恵みを受けて、神の子の栄光にあずかることができる。その日が来る」とパウロは教えています。そして、わたしたちは、この信仰、この希望によって、既に救われているのであると断言しています。

11月、個人としても、人類としても、その最後のときを、特に思うときです。わたしたち、ひとりひとりが、死という最後のときを迎えるだけではなく、この世界も、やがて、神の創造の計画の完成のときを迎え、すべての悪から解放されるときが来るという、使徒パウロの教えを、今日、改めて、深く、心に刻みたいと思います。

福音朗読は、去年と同じ箇所、ヨハネの14章です。この箇所は、葬儀のときなどに、よく選ばれる箇所です。毎回読んで、よく分からないと思うところがありますが、みなさまは、いかがでしょうか。

「わたしは、道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。
この言葉は、わたしたちの宣教の主題の、いわば、根幹と言うべきものであって、わたしたちは、いつも、この言葉に基づいて、イエス・キリストを宣言しています。

その前のところですが、
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」。これは、その通りなのだと思います。

問題は、その次です。
「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」。

これが、どのような意味であるのか。毎回、戸惑いを覚えます。
「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」。
あまり、いろいろと考える必要はないのかもしれませんが、これから、イエスが主のもとに行って、わたしたちが入ることができるように場所をつくっておくという意味だと、いままで思っておりました。普通は、そのように考えられています。
しかし、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」。これは、既にあるという意味だと思います。
そして、「用意しに行くと言ったであろうか」の「か」が、分かりません。専門家がどのように言っているのか、じっくりと腰を落ち着けて調べる余裕はありませんが、見てみると、いろいろな説があるということが分かりまして、ほっとしました。

「か」は、必ずしも、疑問文になっているという訳ではありません。解釈によって、「か」を付ける人と付けない人がいるのだそうです。
今日の司祭の集まりでは、司祭の研修会の部門で、説教についてのお話を聞くので、このような説教は良くないのでしょうが、わたしが信じますに、イエスがおっしゃった、「父の家には、誰でもが、受け入れられる場所がある」という言葉は、「既にあって、わたしは、そちらに、すべての人を案内します。わたしが案内人です。わたしを信じて、わたしと一緒に行きましょう」というメッセージではないでしょうか。
わたしたちは、主イエス・キリストを宣言し、宣教する道を選んで、司祭として歩んでいます。その生涯、いつかは終わりになりますが、この地上において、この使命を、できる限り、精一杯務めたい。そして、もう、あまり時間がありませんので、大切なこと、どうしても、これを伝えるべきだということを、精選して、そこに、心と力を込めて、わたしたちの仕事を行わなければならないのではないかと思います。

今年、2017年は、NICE―1、福音宣教推進全国会議が開かれてから30周年でして、30年前の、ちょうど、いまごろ、京都で、この会議が行われました。「開かれた教会づくり」という目標を掲げて、すべての人が、主イエス・キリストの福音にあずかることができるような、そのような教会の姿をつくろうと決心しました。
わたしと東京教区も、特に、この大都会で、生きづらさを感じている人々のために、いつも開かれていて、そこに行くと自分の場所があり、温かく迎えられ、何らかの喜び、安らぎが得られるという、教会共同体でありたいと願い、努力しています。
ぜひ、このイエスの言葉に基づく、教会のあり方を、さらに、一生懸命追求していきたい、追求していただきたいと願います。

結びとして、昨年も唱えました、司祭のための祈りをお献げいたします。

司祭のための祈り

おお、イエスよ!
あなたに選ばれた司祭たちのために祈ります。
忠実で熱心なあなたの司祭のため
生ぬるく不忠実なあなたの司祭のため
宣教地で働くあなたの司祭のため
誘惑に苦しんでいるあなたの司祭のため
孤独と寂しさで苦しんでいるあなたの司祭のため
若いあなたの司祭のため
病気になったあなたの司祭のため
臨終の床にあるあなたの司祭のために祈ります。
しかし何よりも
私たちにとって身近な司祭たちを委ねます。
私たちに洗礼を授けた司祭
私たちの罪をゆるした司祭
あなたのミサの中で、私たちにあなたの御体と御血を授けた司祭
私たちに教え、助言を与えた司祭
私たちが感謝しなければならないすべての司祭を
この世においても、永遠の世界にあっても
あなたの祝福で豊かに満たしてください。
アーメン。
(幼きイエスの聖テレジアの祈り)