教区の歴史

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習志野教会ミサ説教

2017年03月05日

2017年3月5日、四旬節第一主日

[聖書朗読箇所]

説教

みなさん、今日は、四旬節第一主日です。
復活祭を迎えるための準備の期間、40日が与えられて、わたしたちは、とくに祈りをささげ、節制をし、犠牲をささげて、主イエス・キリストの復活を喜び祝うことができますよう、心がける期間です。
今日の聖書の朗読を読んで、わたしが感じましたところを少し述べて、分かち合っていただきたいと思います。

第二朗読はローマ書5章です。
「ひとりの人のおかげで、この世の中に罪が入ってきた」と述べています。ひとりの人というのは、第一朗読で述べられている、「アダム」のことを指しています。そして、「ひとりの正しい人のおかげで、すべての人に救いが与えられる」と述べられています。この、ひとりの正しい人とは、わたしたちが信じている、主イエス・キリストのことです。
「ひとりの人が神様に背いたので、残りのすべての人に罪が及んで、死が入ってきた」と聖書は教えています。この教えを、みなさんは「なるほど」と思いますでしょうか。人々に説明するときに、難しいように感じます。更に、「ひとりの人がすべての人のために命をささげてくださったので、神の恵みはすべての人に及ぶのです」というように、わたしたちは信じ、説明します。この、ひとりの人というのは、イエス・キリストのことです。ひとりの人が悪いことをすると、残りのすべての人が、その結果を受ける。逆に、ひとりの人がよいことをすると、その結果も、すべての人に及んでいく。簡単にいうと、そのようなことなのでしょうか。

こちらに集まっているわたしたち、同じ習志野教会に属するみなさんですけれども、それぞれの場所で、それぞれの生活をし、お仕事など、いろいろなことをしていらっしゃいますが、自分のすることについて、その結果を自分で引き受けなければならないということは分かります。しかし、自分のすることが、他の人にまで及んでいくということは、どのようなことだろうか。「連帯責任」ということばがありますが、聖書の教えで、分かりにくい点があるとしたら、今日申し上げている、この2つの点である気がいたします。

「アダム」とは、「最初の人間」を指していますが同時に人間一般を割いています。塵で造られたために、アダムと呼ばれていますが、「アダマ」ということばが「塵」を意味するので、語呂合わせのようになっています。
「人は塵から造られて塵に戻る」。先日、灰の式がありました。そのときに、人間は塵から造られた者であるということを思い起こさせられます。しかし、その人間に、神様が息を吹きかけたので、命が宿った。その人間は、造り主である神様のことばに従って、日々生きるべき者であります。しかし、だんだん、自分で自分の思うように生きたいと思うようになり、神様のいいつけに背いて、神様とのつながりにひびが入ってしまった。まともに、神様の顔を見ることができなくなってしまった。そのような話が、創世記に出てきます。ひとりの人が神様との親しい交わりを失ってしまうと、その結果は、他の人にまで及んでいく。アダムとエバは、神様の目を避けなければならなくなった。その結果は、人類すべてに及んでいる。

わたしたちは、自分自身を見ると、自分の中に、どうしてもうまくいかないところがある。このようにしなければならないと思うが、なかなかそのようにはできない。このようにしてはいけないが、ついそのようにしてしまう。あるいは、もっときちんと分かっていなければならないのに、どうしてそのようなことが分からないのかなど、うまくいかないところがある。それを、誰しも自覚すると思います。
そして、わたしたちは、日々いろいろな誘惑に出会い、その誘惑に負けてしまうことがある。どうして、わたしたちは、このようにもろく、弱いのでしょうか。

今日の福音は、四旬節の起源を示す話ですが、イエス・キリストが40日間、荒れ野で悪魔の試みを受け、そして、その誘惑に打ち勝たれた次第を話しています。わたしたちも、そのようにしなさい、そのようにできるはずだということを、今日、わたしたちは、よく黙想したいと思います。イエス・キリストは神の子であり、神の力をもっていましたが、人間として誘惑をお受けになった。石をパンに変えたらどうか、苦労して働いて、労働の糧を得るよりは、ひと言、「パンになれ」といえば済むことだと、そのような誘惑を受けても、イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、パンも必要であるが、神のことばによって生きるのだ」といわれた。

あるいは、かつて、イスラエルの民が40年間、荒れ野を放浪しなければならなかった。それは、神様が本当に、自分たちの中にいてくださるかどうかということを疑ったことがあったからです。「メリバ」というところで、「まっさ」というところで神を試みたことがあったため、神は40年の間、荒れ野でイスラエルの民を放浪させて、神への信仰を強くもつようにおさせになった。

わたしたちの場合はどうか。現代の日本、東京とその周辺は、本当に生きることが大変なところではないだろうか。砂漠のようなところではないが、精神的に非常に生きづらい環境の中で、本当に神様は居てくださるのだろうか。神様は何をしてくださるのか。どうしてこのようなことが起こるのだろうか。神様はいないのかもしれない。そのような思いをもってしまうかもしれない。それよりも、もっと簡単に、自分を慰め、楽しませてくれる、いろいろなものがあるので、そちらの方に手が伸びてしまう。そのような思いを、わたしたちはもっていないだろうか。そのような誘惑を感じていないだろうか。

引退なさった教皇ベネディクト十六世は、教皇に就任されたときにいわれました。「わたしたちの住んでいるこの世界は、現代の荒れ野である。現代の荒れ野において、本当に神のことばによって、毎日生きるように努めなければならない。目を神以外のものにそらして、そちらの方にすがりつくようなことがあってはいけません。どんなに難しく、辛い状況があっても、神はいつもわたしたちと一緒にいてくださり、わたしたちを支え、導いてくださる」。

東京教区の現状を見ますと、わたしたちが越えていかなくてはならない、いろいろな課題があります。他人ごとではなくて、わたしたち、ひとりひとりが、力を合わせて、現実を見ながら、その問題を越えていかなければならないと思います。

今日のミサの集会祈願は、今日のミサの主旨をよくあらわしていると思います。
「主イエスは、40日の荒れ野の試みをとおして、悪への誘惑に打ち勝つ道を示してくださいました。四旬節の歩みを始めるわたしたちを導き、日々あなたのことばによって生きる者としてください」。
日々、神のことば、キリストのことばを味わいながら、忍耐と希望をもって歩んでいくようにいたしましょう。