教区の歴史

教区の歴史

年始の集い・講話

2017年01月20日

2017年1月9日、カテドラル

今日は、「主の洗礼」の日です。先ほど、ミサの中で、説教いたしましたが、準備のときに、言おうかと思ったが言い忘れてしまったと言うことがあります。
第一朗読は、イザヤの預言の「主の僕の歌」と呼ばれる箇所のひとつです。「主の僕」と言うのは、イエスが御自身を重ねて、なぞらえて、自分のことをあらかじめ述べた箇所として、ナザレの会堂で人々にお話になった、有名なイザヤの預言の言葉に登場する人物ですが、本日の箇所では、
「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく」
と言う言葉が、今日、読まれました。

「傷ついた葦」。昔、確か、「傷ついた葦」と言う題名の小説がございまして、わたくしが、まだ、若かったときですが、大変興味深い内容でした。
最近、「心が折れる」と言う言い方を聞きますが、もう少しで折れそうな葦に、葦は人間を指していると思いますが、細心の注意、優しさを持って接する、という「主の僕」の生き方を示しています。

「今にも消えそうな灯心」。こちらも、同じように、細心の注意を払って、命の灯が消えないように接する。そのような表現だと思います。
わたしたちの周りには、その言葉が当てはめられるような方々がいらっしゃると思います。そのような方が、何かにつけて、訴えたり、求めてきたりするわけでありまして、そのような方々に、わたしたちは、どのようにすれば良いだろうか。せめて、ぽっきりと折れてしまうことのないように、火が消えることのないようにしたい。そのように思いますが、なかなか難しいことであると思います。

今日、新しい年を迎えて、東京教区の教会としての歩みを進めるに当たり、いま、わたくしの念頭にありますことを、少しお話して、みなさまのご理解、ご支援をお願いいたしいと思います。

わたしたち教会は、主イエスから、使命を受けました。「全世界に行って福音を述べ伝えなさい。わたしの弟子を作りなさい。」。そのように言われて、キリストの弟子たちは、世界中に赴き、その使命を行いながら、わたしたちの教会を、つくってくださったのであります。
イエスの言葉はまず第一には、使徒たちに告げられたものでありますが、すべての信者、信徒が、このイエスの言葉を受けて、それぞれの立場、場所、環境において、イエスのご命令を実行しなければならないのであります。

さて、わたくしたちは、東京教区の神の民でありますが、東京教区は、東京都、千葉県からなります。そして、わたくしは、千葉県出身で、最近たびたび千葉県に赴きますが、千葉県と言う県が、東京教区に所属していることは、本当に良かったと思います。

かつて、東京教区は大きく、いまの、さいたま教区、新潟教区、仙台教区、札幌教区も一緒だったのですが、教会の発展と共に教区が独立し、いまは、16教区の形態になっております。
この首都東京は、東京教区として残った。東京は、政治、経済の中心でありますが、教会にとっても、非常に重要な拠点であります。
そして、そこには、困難な問題も、たくさん集中している。そのような場所であります。

そこで、みなさんは、洗礼を受けられ、信者になられ、教会の使命を果たすようにと、励ましを受けています。わたくしも、励まされていますが、励ます側であると言うことでもあるのでございます。何よりも、司教はもちろんのこと、司祭は、主イエスから、特別な使命を受けておりますが、更に、修道者、奉献生活者の方も、それぞれの創立の精神に従って、ご自分の役割を果たしていかなければならない。

そのような教会のメンバーの中で、信徒のみなさまに、是非、改めて、みなさまの使命を自覚していただき、みなさまにできる使徒職を、すぐにでも、実行していただきたいのでございます。

福音を述べ伝える、「福音宣教」、あるいは、「福音化」、ラテン語で「evangelizatio」、英語で「evangelization(英語)」と言う、われわれには少し肌触りの良くない言葉もございます。

昨年、10月下旬、カテドラル構内におきまして、司祭集会を行いました。東京教区内で、司祭の仕事をしておられます、司祭のみなさん全員に呼びかけて、集まっていただき、教会の使命の中で、司祭の役割が何であるかと言うことを話し合いました。司祭は、信徒のみなさまにお仕えし、信徒のみなさまが、教会の使命をもっと善く果たすように励ます、そのようにできるように、養成することが司祭の務めであります。

「養成」と言う言葉が適切であるかどうか、少し迷いますが、そうできるように信徒を教育し準備する、ということです。「やりなさい。」と言われても、そのようにできるような準備をしていなければ、実行できません。
そこで、当面、三つの分野を考えております。

第一点は、教会に来て、聖書の勉強をしたい、洗礼を受けたい、教えを学びたいと言う方がいたとします。幸いいらっしゃる訳すが、日曜日などですと、司祭は忙しいので、その方々のお相手をすることが難しい。そこで、司祭ではない方が、代わりに、福音のお話をすると言うことになります。
もちろん、日曜以外の時間でも、信仰講座、入門講座を開いて、希望の方に、わたしたちの信仰をお伝えする。これは、第一に、司祭の役割でありますし、修道者の方にもしていただきますが、実は、信仰の恵みを受けたすべての人は、自分の立場で、自分の言葉で、信仰を求めておられる方に、話をしていただきたい。
小教区などで行う、入門講座、信仰講座のお手伝い、神父様を助けて、あるいは、そのようなチームを作っていただいて、その中で、直接的、間接的に信仰を伝える、そのようなお仕事をしていただきたい。そのような体制を作りたい。

しかし、これは、既に行われていることなのです。みなさまの中には、非常に善く勉強していらっしゃる方がいます。わたしたちよりも、神学や聖書学、その他、哲学など、善く勉強し、専門家になっておられる方も、決して珍しくない昨今でありまして、是非、小教区で、信仰講座、入門講座に協力する、あるいは、担当する、そのような信徒の方が、もっと増えて欲しいと願っております。

第二点は、教会に接触する人の、案内をする準備をして欲しいと言うことです。教会によっては、「よくいらっしゃいました。どうぞ、こちらでお茶でも召し上がってください。」、あるいは、「どのようなことでも、お尋ねください。説明申し上げます。」という受け皿があります。
また、ある教会では、「よく来てくれた、どうぞゆっくりしていってください」と言う意味合の、「ウェルカムテーブル」と言うものがあるそうです。

最初から勉強したいとか、ミサに出たいとか、洗礼を受けたいとか言うわけではないが、何となく、あるいは、他の目的を持って来られることがあります。あるいは、誰かに誘われて来たと言う場合など、最初はそのような場合が多い。

みなさんは、どのようなきっかけで、教会に来られ、洗礼を受けられたのでしょうか。最初の接触が、非常に大事で、ここに、自分の求めているものがあるのではないか、自分のためになる何かがあるのではないか、現代の大都会で、何となく行暮れてしまうと言うか、どうしたら良いかと思ったり、寂しく思ったり、暇だから覗いてみようとか思ってみたり、いろいろな動機の方がいますけれども、そのような方を優しく受け入れる受け皿が必要ではないでしょうか。

わたしたちが、どのように言われているかと言うと、「入りにくい所」、「敷居が高い」と言われています。わたしは中にいるからわかりませんが、昔は外にいたわけで、「何となく行きにくい所」でした。
しかし、いまだに「何をしに来たのだ。」、「何の用があるのだ。」と言われそうな、そのような体質は直っていない。

ナイス(NICE)というものをいたしました。福音宣教推進全国会議。誰にでも開かれている、あなたの場所がありますという、開かれた教会作りです。森一弘司教様などが、一生懸命になさっていました。
「生き暮れている。」、「寂しい。」あるいは「どのような所だろう。」という気持ちの人が、何となく来た場合に、その人たちを温かく受け入れるという教会に、もっと変わりましょう。そして、わたくしが何度も申し上げてきたことですが、教会は、荒れ野のオアシスでありたい。

ずいぶん昔の話ですが、今は引退している、教皇ベネディクト十六世が、就任のミサの説教で言われたことの中に、「現代の荒れ野」という言葉がありました。

「われわれは、荒れ野に呼ばれている。」荒れ野と言うのは、生きることが難しい、厳しい環境。本当に疲れるし、危険でもある。そういう環境の中で、ほっとする所、癒される所、生きる力がまた与えられる所、励ましを受ける所、そのような所が欲しい。そのような人間関係が欲しい。生きるということは大変なことでして、人間の悩み、苦しみの大半は人間関係であって、助けられもすれば、傷つけられもする。教会に行けば、慰められ、励まされるかと思い、教会に行くと、前よりも更にひどい目に合ったと言う訴えが、ないわけではない。

聖体拝領に関することですが、先ほど丁寧に説明がありましたが、外から来た人には、聖体拝領が何なのかが善くわからないのですね。それで、胡散臭く、「あなたがたが来る所ではない。」と言われ、傷つく。人は傷つきやすいですね。
言った人には、全然そのようなつもりがなくても、そのように言われたと思い、我慢ができなかったのか、手紙を書いた。どちらに出すかと言うと、一番目にする名前は「岡田武夫」。わたくしに送られて来るのですね。手紙には、教会の名前まで書いてあります。わざわざ手紙に書かないまでも、嫌な思いをする人は、たくさんいるのだろうと思います。

わたしたちの在り方というものは、現在の社会の中では、かなり違う、わかりにくいわけです。扉から中に入るということは、大変勇気のいることです。誰かが誘ってくれなければ、なかなか行ってみようとは思わない。

ともかく、教会との接点において、わたしたちが、いかに人々を優しく、温かく迎えるかと言うことについて、もっと考えて、提言する。あるいは講座を開く。そのために、教区で委員会を立ち上げました。

以上が、信徒のみなさんによる、信仰講座、教会案内の進め方についてです。

第三点は、ベネディクト十六世というお話が出ましたので、思い出していただきたいのですが、ベネディクト十六世は、第二ヴァチカン公会議開始50年の年に、「信仰年」を宣言されました。第二ヴァチカン公会議は、1962年から1965年まででしたので、2012年がちょうど50年目に当たる年でした。

一昨年から昨年までの「いつくしみの特別聖年」は、閉幕から50年目ということでしたが、「信仰年」、それぞれの人が、自分の信仰を確かめましょう、深めましょう、もっと信仰を確かなものにしましょう、そのために、カトリック教会の教えをもっと学ぶようにしましょう、という説明でした。

日本にキリスト教が伝えられたことは、誰でも知っていますが、1549年、聖フランシスコ・ザビエルによります。それから、400年、500年と、長い迫害の時代がありました。
禁教、迫害の中で、信仰を守り、伝えた人たちがいたと言う、奇跡的な日本の教会を、全世界は、驚嘆をもって、見ていたと思います。ともかく、日本に福音が伝えられてから、そろそろ500年になろうとしています。
キリスト教禁止が解かれて、キリシタン禁制の高札が撤去され、更に、大日本帝国憲法ですが、限定つきながら、信仰の自由、宣教の自由が保障されて、長い年月が経ちました。そのような状況の中で、多くの優れた宣教者、修道者の努力、犠牲があり、いまわたしたちがおります。

宣教は、大変難しいと思います。どこが、難しいのか。400年前の方が栄えていました。
一昨日でしたでしょうか、麹町教会で、東京教区の修道女連盟主催の集会があり、高山右近についてのお話が、長崎教区の古巣馨(ふるすかおる)神父様からありまして、わたくしも聴講しましたが、(キリスト教は)昔の方が本当に栄えました。

比率から言えば、今の10倍、あるいは、それ以上の信者がいたかもしれない。社会の中での存在感と言うのが、圧倒的だった。国の支配者が、「このままにしておいては、危ない。」と脅威を感じていました。
今は、われわれ日本の司教がいろいろと言っても、あまり脅威を感じているようには見えない。当時は、社会の有力者がキリシタンになり、キリスト教は非常に栄えていました。

それでは、同じ日本という国で、いまは、どうして難しいのか。その理由、原因は何だろうか。あるときは、社会全体が禁止する方向にあったわけですね。いまは自由です。
わたしたちの努力は、どのように人々に響いているのか。どのような点が、受け入れがたいのか。

そのあたりについて、もちろん、わたしたちは、研究し、議論を重ねてきましたが、みなさんにも、一緒に考えていただきたいのです。

先日、カトリック東京国際センターCTICで、お話を聞く会がありました。アジアでカトリック信者が多い国と言うと、南の隣のフィリピン、北隣の韓国、挟まれた日本では信者は、外国から来て滞在しておられる方を入れて100万人、登録信者40万人と言われていますが、この日本で信者として、信仰を守っているということは、大変なことです。

日本人のこと、日本の教会のことを、どのように思うかと聞いてみました。なかなかお話になりませんでしたが、少し経って、口がほぐれてきて、正直に感じていることを、いろいろとおっしゃいました。まだ、正確には理解していないのですが、まず、「わたしたちは、どのような存在として見られているのか。」ということを、気にするとか、へつらうということではなく、本当に主イエスから授かった使命を適切に行っているかと言うことを、反省しなくてはなりません。

寂しい思いをしている人、あるいは、後回しにされている人、障害者、そして、最近は、「子どもの貧困」という問題があります。この豊かな日本の社会の中で、なぜ生きづらい人が多いのか。そして、家庭の、子どもを産んで育てるという、人間にとって一番大切なことが、きちんとできない。親による子どもへの虐待、あるいは、虐待を通り越して、子どもを殺してしまうということが起こる。

そのような中で、わたしたちカトリック教会の使命と言うのは何なのか。人々にとって、励まし、助け、安らぎ、わたしたちも、そのような共同体になっているのだろうか。難しいことを教えるよりも、ひとりひとりの人とのつながりを作っていくことが大切なのではないだろうか。そして、「あなたのことを、わたしたちは大切に思っている。」というメッセージを伝えなければならないと思います。

さて、フランシスコ教皇様が、「家庭のことついての回勅」、環境汚染については「ラウダート・シ」という教えを発行されました。そして、信仰の喜びを伝えるように「福音の喜び」という教えも出されました。

そのような教皇様の教えを、敏速、正確にお伝えすることが、わたしたち、司教、司祭の役目であるとは思っておりますが、信徒の方にも、是非、信仰講座、入門講座での協力をお願いしたい。それから、教会に、何かを求めて来る人を、優しく、温かく迎え入れて欲しい。
そして、「福音宣教」、「福音化」に伴う困難な点について、もっと分かち合いをし、そして、人々にわかりやすく、心にしみるような宣教ができる教会の態勢を整えていきたいと思います。

どうぞ、みなさん、それぞれ、ご自分の所属される小教区等で、この課題を話し合い、できることから始めていただけたらと思います。