教区の歴史

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カトリック美術協会追悼ミサ説教

2016年11月01日

2016年11月1日、17:45、東京カテドラル小聖堂

[聖書朗読箇所]

説教

本日、追悼申し上げる、帰天された方々、お名前を拝見し、何人かの方は、生前存じ上げていた方でありまして、白柳枢機卿様のお名前も名簿に出ております。  

今日、11月1日は、「諸聖人の祭日」であり、明日が「死者の日」であります。  
わたしたちは、まず、永遠の「いのち」を受け、神のもとで憩っておられる諸聖人を思い起こし、諸聖人の取り次ぎを願って祈ります。そして、さらに、わたしたちのもとから旅立たれた方々が、永遠(とわ)の安息に入れますようにと、お祈り申し上げるのであります。  

わたしたちの信じる、父である神は、すべての人が救われることを、すべての人が永遠の命に入ることを望んでおられる神であります。すべての人の救いのために、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。そして、すべての人が、御子イエス・キリストの復活に与ることを望んでおられます。  
望んでおられるのですから、すべての人が、神のいつくしみに与ることができるように、取り計らってくださっているはずであります。  

今日の第一朗読は、「知恵の書」であります。今週の主日のミサの第一朗読も「知恵の書」でありました。  
今日、読まれた箇所を、もう一度見ていただきますと、次の言葉がわたしの目に留まったのであります。  

神が彼らを試し、  
ご自分にふさわしい者と判断されたからである。  
るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、  
焼き尽くすいけにえの献げ物として受け入れられた。  
主に依り頼む人は真理を悟り、  
信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。  
主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、  
主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。  

「主に清められた人々」という言葉に、特に注意を向けたいと思います。  

「知恵の書」はわたしが調べたところによると、主イエス・キリストの到来の数十年前に成立した、旧約聖書の中では一番新しい、新約の時代に一番近い聖書であって、プロテスタントでは、旧約聖書続編で、正式な聖書の正典に数えていないのですが、カトリック教会は、昔から正典と認めてきた聖書の巻物であって、ギリシャ語で書かれたものだそうです。  

すべての人の救いを望まれる神は、すべての人がご自分のもとに来られるように、そして、神の「いのち」に与ることができるように計らってくださる。そのために、「浄め」ということが必要だと。  
この「浄め」という考えが、だんだん明確にされて、「煉獄(れんごく)」という言葉になったと考えられます。  
最近は、あまり「煉獄」ということは言いませんけれども、「煉獄」は原文から考えても、「浄める場所」という意味であります。そして、亡くなってから「浄め」を受けると通常考えていたのですが、わたしが神学生のときに学んだ先生の意見では、この地上に於いて、わたしたちは既に、「浄め」を受けている。  
人間の生涯は、試みと苦しみの連続であると言っても良いわけです。それは、それぞれの人が、自分の行いに責任を取る、取らされるということと共に、不完全な、罪を犯すわたしたちが、「浄め」を受ける機会になると。  
「きよめ」という字は、さんずいに「青」という字だけではなく、さんずいに「争(あらそう)」という字の方が、意味に合っているのかもしれません。  

それはさておき、みなさんの務め、召命は、この世に於いて、人々に神の麗しさ、神の恵みを目に見える形であらわし、伝えることではないかと思います。  

「神の美しさを仰ぎ見る」と詩編の作者が言っていますが、みなさんの作品を通して、神様の恵み、神の美しさが人々にあらわされ、伝えられますようにと願っております。