教区の歴史

教区の歴史

主の昇天・レジオマリエ聖母奉献式の説教

2016年05月08日

2016年5月8日、松原教会

[聖書朗読箇所]

説教

レジオマリエ聖母奉献式に際して、今日、主の昇天のミサをささげます。昇天のミサの意味は今日の集会祈願の祈りによって次のように要約されています。

「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。キリストにむすばれるわたしたちをあなたのもとに導き、永遠のいのちに入らせてください。・・・」

死と罪に打ち勝ったイエスは復活し、40日間弟子たちに現れ、40日目に、弟子たちの見ている前で天に上がられました。イエスはわたしたちのために新しい天と地を開き、そこにわたしたちを招いてくださいます。

「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されている」のです。

わたしたちもイエスと同じ恵みにあずかり、天に昇るという喜びを与えられると信じ、希望することができます。

ところで「昇天」というと普通日本語としてはまず「亡くなること」を意味するようですが、わたしたちカトリック信者はそれを「帰天」と呼んでいます。

「天に昇る」とか「天に帰る」というと「喜ぶ」という心の動きを連想します。

人は大きな喜びを感じると躍り上がったり踊ったりします。「手の舞い足の踏むところを知らず」といいます。人が天に向かっている状態が「喜ぶ」ということでしょうか。

もっとも、「有頂天」とか「舞い上がる」とも言いますが、こういういい方にはどこか「自分だけの勝手な思い上がり、思い込み」というような意味合いが込められているような気がします。「昇天」の喜びは地上においては一時的に、また例外的に一部の神秘家や聖人が味わう喜びであるようです。使徒パウロは「第三の天に挙げられた人」のことを語っています。*

しかしわたしたちも地上において信仰において、そのような神秘体験の喜びではないにせよ、信仰の喜びを受けることができます。

そのためには地上にことに心が捉われ覆われていてはいけません。心を地上から上にあげ、また自分から抜け出す必要があります。それはつまり、「離脱」ということではないでしょうか。これはやさしいことではありませんが、それは十分に可能であります。

そのためにはそれなりの心掛けが必要です。そのための時間と場所を必要とします。祈りに専心しなければなりません。

日本のカトリック教会はNICE(福音宣教推進全国会議)を開催し、社会の現実に目を向け、社会を福音の精神によって変革するよう呼びかけました。これは第二ヴァチカン公会議の精神、とくに『現代世界憲章』の教えに基づいた結論でした。しかしそれは、わたしたちがこの世の精神に飲み込まれてもよいということを言っているわけではありません。「世も世にあるものも、を愛してはいけないのです。(一ヨハネ2・15)

本日のアレルヤ唱をわたしたちは次のように唱えました。

「全世界に行きすべての人をわたしの弟子にしなさい。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。」

次の日曜日は「聖霊降臨」の主日です。

わたしたちがこの世にあっても天に属するものとして生きることができるのは実に聖霊が派遣されているからです。天上から注がれる光、それは聖霊の働きです。パウロの次の言葉を深く味わいましょう。

「いつも喜んでいなさい。絶えずいのりなさい。どんなことにも感謝しなしなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。〝霊″の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」(一テサロニケ5・16)

この言葉に励まされ、聖母の取次により、聖霊に導かれて歩むことができますよう、祈りましょう。

 

* 以下を参照。

「 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
(Ⅱコリント12・2-4)