教区の歴史

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復活節第5主日ミサ説教

2016年04月24日

2016年4月24日、高円寺教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

今日のヨハネの福音は、わたくしどもが何度も聞いている非常に有名で、そして非常に重要な教えの箇所であります。
「あなたがたに新しい掟をあたえる。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」。  
この言葉は、教えの中心、真髄ではないかと思います。  
「わたしがあなたがたを愛したように愛し合いなさい」。  
今日は「いつくしみの特別聖年」ということでお招きを頂いております。イエスは、目に見えない神、天の父の、目に見える御顔である。「いつくしみの特別聖年」は、この目に見える神の御顔であるイエスをより深く知るようにと呼びかけております。  
イエスが示した愛は、天の父である神の愛に他ならない。神の愛は、罪人を愛し、罪をゆるす愛でございます。 「愛」という言葉はだれでも知っていますが、その内容は非常に多様であります。
たとえば、まず、アガペーという言葉があります。新約聖書では、愛はアガペーという言葉で表されています。  他方、エロスという言葉もあります。よく言われていることは、このキリスト教の愛、アガペーは与えるという愛であり、エロスというのは求める愛。アガペーは価値のないものへ向かう愛であり、エロスは価値あるもの、自分に必要なものを与えてくれる、そういう人に向かう愛と言われることがあります。  
しかし、そのようにはっきりと分けて良いのだろうか。実は、わたくしはこの問題にずうっと捉われて、あるいは、悩んできました。  
今日は、ご一緒にこの問題を分かち合いたいと思います。わたくしが「こうだ」と宣言して教えるのではなく、「こうではないだろうか」というわたしの考えを申し上げますので、皆様も考えてください。  
旧約聖書からこの問題を見るといいのではないかなあと思います。「知恵の書」という教えがございます。  
旧約聖書の中では続編、あるいは、第二正典という分類に入っていまうすが、主日のわれわれのミサの朗読でも登場する、わたしにとっては非常に大切な教えであります。それを今読んでみます。(知恵11・23-26)

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。  

この箇所は、わたくしが一番好きな箇所で、こんなに膨大な聖書の教えの中で、わたくしの心に一番強く響くのがこの言葉なのです。  
「神様は存在するものを全ていとおしんでくださる」と述べていますが、「存在するもの」と述べているのですから、当然、人間だけではないです、この世界は神様がお造りになったものです。そして、人間はすべて神様の御心によって存在している。  
存在させた方が、自分の作品を嫌ったり、あるいは、退けたりするはずがない。その信仰を語っています。  
この世界にはなかなか認めにくい、あるいは受け入れがたい現実があります。そして、わたしたち人間、人のことを言う前に、自分自身を見ると、自分でも認めたくない嫌な、あるいは、みじめな部分がある。  
このような自分を神様はどう見てくださるのだろうか。そのような罪ある弱さ、惨めさにまみれた自分であっても、神はこのわたしを愛してくださる。そして、いつくしんでくださる。こういうメッセージだとわたしは思うのであります。  
もう一箇所ありますが、これを全部言うと長くなるので、続きは講話のほうに移しますが、「ホセア書」11章8~9節です。  
どういう箇所かというと、神様はイスラエルの民に激しい怒りを発するのですね。  
「憤られます。度重なる背信行為、裏切り、怒りにのたうち回るような思いをする。しかし、その思いを鎮める。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」という趣旨内容です。

これは、特別聖年の大勅書にも引用されておりますが、「神様が、神様ともあろう方が」と言っていいでしょうか、「わたしは人間ではなくて神なんだから、怒りによって人間を滅ぼすということはしない」と自分にあたかも言い聞かせているような教えであると言えます。  
さて、わたしたちは神様によって造られたもの。わたしたちは神の姿を写す神様の子ども。そこには、神ご自身のすばらしさ美しさが与えられております。  
残念なことに、通常、わたしたちは他の人についても自分についてもそれをよく見ることが難しくされている。「いつくしみの特別聖年」、わたしたちは自分自身も神の作品であり、神に愛されているということをもう一度深く思う、そういうときではないかと思うのであります。  
もっとこの辺を詳しく話したいので、是非講話を聴いてください。