教区の歴史

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復活節第4主日・世界召命祈願の日、説教

2016年04月17日

2016年4月17日 東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

今日は世界召命祈願の日です。
召命はすべてのキリストの弟子の課題です。わたしたちはだれでも、「主のぶどう畑」で働くよう召されています。召命はすべてのキリストの弟子の課題です。
とはいえ、今、日本の教会では、司祭、奉献生活者(修道者を含む)への召命が非常に少なくなっています。司祭、あるいは奉献生活者として生涯をささげる人が豊かに与えられるよう、このミサで特にお祈りいたしましょう。

さて、今日の福音は「善い牧者」イエスを告げています。
ヨハネの福音でイエスは言われました。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。」(ヨハネ10・27)
わたしたち教会はそれぞれの立場と召命に応じ、それぞれ、善い牧者イエスに倣い、牧者の務めをはたさなければなりません。
最近わたくしは、自分に与えられている牧者の務めについて、二つのことをしきりに思い起こしています。
まず「ことば」についての教えです。
ヤコブは言っています。
「誰でも、聞くに早く、話すに遅く、また起こるのには遅いようにしなさい。」(ヤコブ1・19)
「ことばで過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」(同3・2)
ことばは神を賛美し人を祝福するため使うべきであり、人を呪うために使うことのないようにしなければなりません。自分の口に轡をはめ、ことばで過ちを犯さないように注意しなければなりません。(ヤコブ3・1-12参照)
先日、仏教の真言宗のお坊様とお会いしました。
真言宗では「十善戒」、十のよい戒め、ということを教えています。十の中で実に四つがことばに関することです。
・不妄語(ふもうご)、これは嘘をつかない、正直に話しなさい、という戒めです。
・不綺語(ふきご)、これは、無意味なおしゃべりはしない、よく考えて話しなさい、ということです。
・不悪口(ふあっく)、これは汚いことばを使わない、優しいことばを話そう、という戒めです。
・不両舌(ふりょうぜつ)、これは他人の中を裂くことばを使わない、思いやりあることばを使おう、という教えです。

さて、今日は牧者の務めについてさらに一つのことをお話しします。それは、人々を「平和を実現する人」となるよう教え導き励ます、という務めです。
日本の司教たちは戦後50年、60年、70年という節目の年にそれぞれ平和を訴えるメッセージを発表してきました。(本日配布の小冊子『平和を実現する人は幸い』を再読してください。)

さらに、2016年4月7日、日本カトリック司教協議会常任司教委員会は「今こそ武力によらない平和を――安全保障関連法の施行にあたって――」という文書を発表しました。(配布資料を参照ください。)
ぜひこの文書を皆さんに読んでいただきたいと思いますが、今日は以下に、その要点をお伝えします。

1.戦後70年司教団メッセージに関して、なぜ司教団が政治的な発言をするのかという批判や、政教分離の精神に反するのではないかという指摘があります。
カトリック教会は、特定の政治的立場に立つものではありません。ただ、司教団には、最近の日本の政治の流れが、将来わたしたちの生活の場で「人間のいのちと尊厳に関する問題」となる危険をはらんでいることに関して注意を喚起する必要があると自覚しています。

2.「政教分離」とは「政治と宗教の分離」ではなく、「国家と教団の分離」を意味しています。
特定の宗教団体が国家と権力支配・被支配の関係に入ることを禁じ、宗教団体が国家権力を行使したり権力と癒着したり、便宜の提供を受けたりしてはならない、といっているのです。

3.わたしたちは信者としての良心に基づいて政治活動を行うべきであり、その権利と義務を持っているのです(第二バチカン公会議「現代世界憲章」75参照)。
教会の権威者は政治についても、信仰と道徳に関することであれば、必要に応じ、適宜、教えと見解を表明する義務と権利を有するのです(同76参照、教会法747条第2項)。

4.日本の司教団は、特別に平和のために働く使命を自覚しています。
この使命の自覚は、戦前・戦中に日本の教会がとった姿勢に対する深い反省と、広島と長崎で核兵器の惨禍を体験したことから生まれてきたものです。

どうかよろしくお願いします。