教区の歴史

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尊者エリザベト・マリア北原怜子記念ミサ説教

2016年01月24日

2016年1月24日 年間第3主日 潮見教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

今日のルカの福音は、イエスがお育ちになったナザレの会堂で、イザヤの預言を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」(ルカ4・21)と宣言した、という場面を告げています。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イエスはこのイザヤ書の言葉を自分に当てはめ、この「貧しい人に福音を告げ知らせるために油を注がれたしもべ」は自分を指している、としたのです。
ここで言われている「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことです。レビ記によれば、50年ごとに祝われ、一切の負債が免除され、奴隷は解放されることになっていました。カトリック教会はヨベルの年にならって『聖年』という制度を設けています。
いまわたしたちは『いつくしみの特別聖年』を過ごしています。教皇フランシスコは、わたしたちが神のいつくしみを深く知り、また実行するよう願って、「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」という大勅書を発布し、2015年12月8日より2016年11月20日の一年を特別な聖年、と定めました。
教皇はこの大勅書のなかでこのルカの福音の箇所について次のように述べています。

「恵みをお与えになる年(いつくしみの年)」――これこそ主が告げておられる年、わたしたちが過ごそうとしている年です。
この聖年は、その預言者のことばに響くイエスの使命の豊かさをもたらすものとなるでしょう。すなわちそれは、貧しい人をことばと行いで慰めること、現代社会における新しい奴隷制の犠牲者に解放を告げること、自分のことだけを見て何も見えなくなっている人に見る力を回復させること、尊厳を奪われた人にそれを取り戻すことです。
イエスの教えが、キリスト者があかしするよう招かれている信仰に基づくわたしたちの反応を通して、もう一度目に見えるものとなります。「慈善を行う人は快く行いなさい」(ローマ12・8)。使徒のこのことばを、いつも心に留めることができますように。(大勅書16項)

「新しい奴隷制」とは何でしょうか。よく考えてみたいです。
「自分のことだけ見ている」とはまさにそうで、自分のことで心がいっぱいになってしまう、ということがあります。
またなんと多くの人が人間としての尊厳を奪われていることでしょう。

さてきょうわたしたちは尊者エリザベト・マリア北原怜子の記念を行います。北原さんは58年前1958年1月23日に帰天されました。北原さんはこの「神のいつくしみ」をよく実行した人であると思います。
わたしは最近、粕谷甲一神父さんが「アリの町のマリア」について語った記録を読みました。(『どこでトランペットは鳴ったか』女子パウロ会)
ご存知のように粕谷神父さんは皆さんの潮見教会の前身の「アリの町教会」の司牧者でした。1959年に就任しているので生前の北原さんには会ってはいないと思いますが、彼女のことをよくお聞きになったことと思います。こう言われています。

北原さんの目というのは、非常に印象的な目ですね。どういう目かというと、下からちょっと見上げているような目です。いつも下から見上げているような目をしている。…対人関係でもいつも下から見上げている。・・・

彼女はかわいそうな人を助けてあげる、というような、いわゆる〈上からの目線〉の人ではありませんでした。
日本語の「憐れむ」という言葉には、どこか「見下し、蔑む」という意味合いが隠されているように感じてしまいます。
北原さんはアリの町に住んで一緒に廃品回収の仕事をし、若くして病気になってなくなりました。キリストに倣って生きた人であったと思います。

わたしたちも神のいつくしみをより深く悟り、実行できますように、祈りましょう。