小金井教会創立40周年記念ミサ説教

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2015年11月23日 小金井教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

きょうの福音は「イエスの宮清め」と呼ばれる出来事を伝えています。実は四つの福音書がすべてこの同じ出来事を伝えています。人々の目にはよほど強く印象づけられた出来事であったのでしょう。

イエスはこの自分の言動の根拠をイザヤ書とエレミヤ書の言葉に置いています。

すなわち、イザヤ書では、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ56・7)となっています。

またエレミヤ書では、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる」(エレミヤ7・11)とあるのです。

イエスの言動は非常に過激であり、当時の神殿の在り方を真っ向から否定する行為であると受け取られました。このイエスの、この行為にユダヤの宗教指導者たちは躓きました。

きょうのマルコの福音に続く個所(11章18節)では次のように言われています。

「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」(マルコ11・18)

このような乱暴なことをすれば当然神殿の関係者には強い反感と敵意を引き起こします。

同じ場面をヨハネの福音は次のように伝えています。

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」(ヨハネ2・15-16)

神の家である神殿は祈りの家であるのに商売の家、あるいは強盗の巣にしてしまっている、と言って、神殿を自分たちの利益のために利用している祭司や律法学者たちを痛烈に非難しているのです。

イエスの時代、異邦人の広場と呼ばれる神殿の境内では、神に奉げられる動物のいけにえ、羊、牛、鳩などが売買されていました。

また神殿に納める貨幣の両替が行われていました。神殿の納める通貨は外国の通貨ではなく、シュケルというユダヤの通貨でなければならなかったのです。

こういった決まりには、それなりの理由があって、始められたのでしょうが、結果的には、境内はすっかり金儲けの場所となっていました。祈りの家である神聖な神の家が、神殿に詣でる貧しい巡礼の人々の必要に付け込んでの商売と搾取の場となっていることに、イエスは強い怒りを覚えたのでした。

わたしたちはこの世にあっては一緒に祈るための場所と建物を必要としています。その建物が聖堂であり教会堂であります。聖堂は適切に管理され維持されなければなりません。その維持、管理の仕事は、神の言葉を聞き、神の言葉を学び、神へ祈りをささげるための礼拝のために行われます。

建物は礼拝のためであり、建物のために礼拝があるのではありません。

イエスは自分の命を賭して行った「宮清め」を行いました。この機会にわたしたちは、イエスのこの行為の意図を思い起こし、神の家である自分たちの教会の建物がより真にふさわしい神の礼拝の場所となるよう努めているのか、という点で、振り返る必要があると思います。

また、教会の維持・管理、活動には経費が必要ですが、その経費が神のみ心にかなった経費となるよう、現状を反省し、注意を払うようにしなければならないと思います。

次に第二朗読を見たいと思います。

パウロは言います。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(1コリント3・16-17)

また同じコリントの信徒への手紙で次のように言っています。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(1コリント6・19-20)

実に、わたしたちの体はもはや自分のものではないのです。わたしたちの体が実は聖霊の神殿であるのです。ですから「体によって、神の栄光を現しなさい」とパウロは言っているのです。

自分の体で神の栄光を現すとはどんなことか、自分にとってどうすることが神の栄光になるのか、この機会に黙想してみなければならないと思います。

聖霊の神殿であるわたしたちが日々の生活を通して神の栄光の輝きとなることができますよう、聖霊の導きを祈りましょう。