2015年カテドラル合同追悼ミサ説教

image_pdfimage_print

2015年11月1日、諸聖人の祭日 カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

今日は11月1日、主日ですが諸聖人の日であります。今日のミサは諸聖人の記念のためですが、併せて亡くなられたすべての方々のための追悼をいたします。

今日ここカテドラルにお集まりになれたご遺族、親族、友人の方々とご一緒に、この世を去られた故人を偲び、その霊魂の平和のためにもお祈りをお献げ致します。

今日の福音朗読はマタイによる福音のなかの山上の説教で、「幸いである」という言葉で始まる八か条、いわゆる「真福八端」が告げられています。

八か条の中の6番目が、「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」であります。

「心の清い人」とはどんな人でしょうか。本日の答唱詩編によれば、「心の清い人」とは「手にけがれなく、空しいことに心を向けず、いつわりを口にしない人」です。(詩篇24・4)

また、今日の第二朗読を見ますと、次のように言っています。

「愛するものたち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れる時、御子に似たものとなるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのまま見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(一ヨハネ3・2-3) ※1

人は御子イエス・キリストと似たものとなり、御父である神様の御前に出て、神様を目の当たりにすることができるようになる、と言っているのです。

ふつう、罪に穢れた人間は神の前にたつことができない、と考えられています。聖なる神の聖性と罪人の罪と穢れは両立しない、と考えられるからです。神を見たものは生きてはおられない、と言われます。

使徒ペトロもイエスの不思議な漁りの奇跡を目の当たりにして、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5・8)と言っています。

創世記の中に、ノアの洪水の話が出てきますが、ここでも神は言っています。「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」(創世記6・5)「人が心の思うことは、幼い時から悪いのだ」(創世記8・21)

ダヴィデ王は姦通と殺人という大罪をおかした後、主に祈ってゆるしを願いました。

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」(詩編51・12-14)

わたしたちは神の前に立つ準備ができているでしょうか。神のみ顔を仰ぎ見ることのできる清い心の状態にあるでしょうか。

だれも死を免れ得ません。必ずわたしたちは神の前に立つ時を迎えます。その時に神に迎え入れていただけるよう、神の憐れみを願わなければなりません。

人はだれでも自分の人生の責任を問われます。わたしたちは自分の人生に対して責任があります。隣人への責任、社会への責任、教会への責任が問われるのです。

イエスは、「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」と言われました。そのイエスは、律法学者、ファリサイ派の人々に対してその偽善を暴いて次のように言っているのです。

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。

このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイ23・27-28)

それでは、わたしたちのなかに「偽善」という悪徳は存在しないでしょうか。わたしたちも「白く塗った墓」と言われないでしょうか。

「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」

清い心、それは主なる聖霊によって与えられる神の恵みです。聖霊による清めを祈りましょう。罪からの清めを願う、悔い改めの祈りをお献げいたしましょう。

さて本日はなくなったすべての人のためにミサをささげます。なくなった方々の霊魂の清めを願って祈ります。今日はなくなった方々の霊魂の清めを願って祈りましょう。

カトリック教会では「煉獄」という教えがあります。煉獄は人が自分の責任をと問われて果たすべき償いを意味します。

地上のわたしたちは、煉獄で生涯の責任を果たすために償いをしている霊魂のために祈りをもって助けることができます。「聖徒の交わり」と言いますが、わたしたちの教会には次の三段階の聖徒が属しています。それは、地上で旅をしているわたしたち、地上を去って神のもとにあって清めを受けている煉獄の状態の人々、そして清めを受けて神のもとに憩っている人々です。

主に召されたすべての人々、とくにわたしたちの家族、知人、友人が、主の憐れみに与り、罪のゆるしと罪からの清めを受け、主なる神の懐で、永遠の安らぎに入ることができますよう、諸聖人の取次によって祈ります。アーメン。

 

※1:以下を参照。
「だが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。」(一コリント13・12)