教区の歴史

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こどものミサ説教

2015年10月11日

2015年10月11日(年間第28主日)午後2時半 カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

ことしのこどもミサのテーマは「だれがいちばん偉いか」(マルコ9・34)-すべての人に仕える者となりなさい-です。

人は「自分がどのくらい偉いのか」ということに大きな関心を持つものです。イエスの弟子たちも同じ問題に関心を持っていました。イエスが弟子たちに、「自分がエルサレムで殺されるであろう」という重大な内容の予告をしたときでさえ、弟子たちは自分たちの間の順位をめぐる議論に熱中していたのです。

そのとき弟子たちは、師であるイエスの心を理解しておりませんでした。イエスの復活と聖霊降臨の後で、弟子たちはやっとイエスの受難の言葉を思い出し、理解したのでした。

さて、「偉い人」とは普通どんな人であると考えられているでしょうか。世間では普通「偉い人」といえば「多くの人に仕えられえている人」ではないでしょうか。多くの部下、家来、召使いを持っている人が「偉い人」です。お金持ち、人の上に立って命令する権力者、多くの人を支配している人が「偉い人」です。

このわたしも、「偉い人」とよばれることがあります。「いや、そうではありません」と言いながら、自分の心の中のどこかで、「自分は偉い」という思いが残っています。

実際、その思いに反することを誰かがしたり言ったりすると、不快になり、むっとしたりしています。そういう自分に気が付きます。やはり自分は、自分がどのくらい偉いのか、ということを気にしている俗物なのだと思い、情けなく感じることがあります。イエスの弟子たちも実にその俗物でありました。

イエスの教える「偉い人」とは「多くの人に仕えられる人」でなく、「多くの人に仕える人」です。他の多くの人のために善いことを考え善いことを実行する人です。心を無にして、自分の利益、評判のためではなく、他者のためになることを大切にする人です。別な言葉でいえば、それは愛の人、神の愛を実行する人です。

人は自分によくしてくれた人にはよくすることが易しいのですが、自分にとって利益にならない人には冷たくする、という傾向があります。権力者にはペコペコして従いますが、力のない人には「上からの目線」で横柄な態度をとるようになります。

しかしイエスはだれに対しても、誠実で柔和・謙遜な人でした。主イエスに倣い、多くの人によく仕えて生涯をささげた方々は少なくはありません。そのような人々は聖人と呼ばれます。そのなかにマザーテレサがいます。

福者マザーテレサの祈りに次のような祈りがあります。

イエスよ、わたしを救ってください。
評価されたいという思いから、愛されたいという思いから、救ってください。
重んじられたいという思いから、褒められたいという思いから、
好かれたいという思いから、相談されたいという思いから、
認められたいという思いから、有名になりたいという思いから、
馬鹿にされる恐れから、見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、中傷されることへの恐れから、
忘れられることへの恐れから、誤解されることへの恐れから、
からかわれる恐れから、疑われることへの恐れから。

おそらくマザーテレサも、「自分が人にどう思われているのか」というこだわる心からの解放を願って祈っていたのでしょう。

ここでわたくしは主の祈りを思い出します。「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。」

わたしたちは、自分の望みを神様が実現しているように願うのでなく、神様のみ心が自分を通して実現するように、と祈っているのです。この祈りによってわたしたちは、自分がほかの人に何を期待するのか、という問題ではなく、ほかの人のためにわたしは何をしたらよいのか、を課題にして、神様にお望みをたずね、お望みを実行するための恵みを願うのです。

わたしたちも、自分のことを後回しにして他の人によく奉仕できるイエスの弟子として生涯を歩むことができますよう、祈りましょう。