聖パウロ女子修道会創立100周年記念 感謝の祭儀・説教

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2015年6月27日 聖パウロ女子修道会にて

[聖書朗読箇所]

説教

聖パウロ女子修道会創立100周年、おめでとうございます。聖パウロ女子修道会は福音宣教のために創立されました。
教会の使命は福音宣教です。わたしたちはこの使命の遂行の途上で、種々の問題・課題に直面しています。また、自分を躓かせ転倒させる悪の力に出会います。弱く脆いわたしたちは誘惑に陥ることもあります。
わたしたちは肉なるものであり、弱く脆い存在です。「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」という、主の祈りの結びの祈りは、実にわたしたちの心からの願いであります。
ミサの中で司式司祭は主の祈りの後の副文で次のように祈ります。
「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い
現代に平和をお与えください。
あなたの慈しみに支えられ、罪から解放されて、
すべての困難にうち勝つことができますように。
わたしたちの希望、救い主イエス・キリストがこられるのを
待ち望んでいます。」
この祈りはわたくしにとって切なる日々の祈りであります。
使徒を宣教に派遣した主イエスは言われました。「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。」(マタイ28・20)
このイエスの言葉に信頼し、主イエスへの信仰を深めながら、日々福音宣教の努めに励んでまいりましょう。

きょうの福音で主イエスは言われました。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(ヨハ14・9-10)
確かにイエスを見る者は父を見るのです。イエスは天の父と一体である方です。
それではわたしたち教会の場合はどうでしょうか。わたしたちを見る者はキリストを見るのである、と言えるでしょうか。
わたくしたちは聖霊降臨によって設立された神の民、キリストの体です。しかし、キリストと完全に一つとなっているという意味での神の民でありません、罪に汚れた、汚れもある存在です。
とはいえ、わたしたちにキリストの霊が宿り、キリストがいつも共にいてくださるのです。わたしたちにからだは聖霊の神殿であるのです。
その意味で、わたしたちはキリストの体であるのです。このことを固く信じなければなりません。

さて、聖パウロ女子修道会創立100周年を祝うきょう、わたしたちは異邦人の使徒パウロの生涯を思い起こしましょう。パウロは自分をどのようなものと考えていたのでしょうか。
パウロの出合った困難な実に多大なものでした。プロは自分の蒙った労苦を列挙しています。(二コリ2、11・16-30)
それは筆舌に尽くし難い試練の数々でした。パウロは不屈の力をもってこの困難に耐え抜きました。何が彼を試練に立ち向かう動機と力となったのでしょうか。
それはパウロの自己理解、すなわち、「自分は復活した主イエスと出合った者であり、イエスから使徒の召命を受けた者であり、キリストによって異邦人に派遣されている者である」という強い自覚であったと思います。
パウロは断言しています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ2・20)
パウロは生前の地上にイエスには出会っていません。それどころか、激しく神の教会を迫害したものです。
イスカリオテのユダの後継者を選出する際の選ばれうる者の資格は「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上がられた日まで、いつも一緒にいた者の中」(使徒・21-22)の者でなければならなかったのです。
明らかにパウロはこの条件に該当しません。それゆえ、パウロの使徒としての正統性を認めない人たちもいたのでしょう。
しかしパウロは復活したイエスを見たと主張し、さらにそのイエスから「異邦人の使徒」に任じられたと主張し、使徒としての正統性を主張しました。ペトロを初めとするイエスの使徒たちはパウロの使徒職の正統性を認めることになったのです。
それではわたしたちは自分を何者と認識しているでしょうか。自分の召命は何であると考えているでしょうか。
わたしたちも主キリストに「選ばれた者」です。21世紀の日本で、首都圏で、福音を宣べ伝え、キリストの弟子をつくるために選ばれました。
主イエスは、ご自分が再臨する決定的なときまで、わたしたちと共にいてくださいます。弱いわたしたちを強め、罪深いわたしたちに赦しと癒しを与え、悪との戦いへと励ましてくださいます。
きょうの第二朗読でパウロは言っています。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」(二コリII、1・8)
東京教区は、現代の荒れ野における泉、オアシスであり、また迷い悩やむ人々のための「地の塩」「世の光」であるという使命を受けている、わたしは考えます。
この使命をよく果たすことができますよう、聖霊の照らし、導き、助けを求めて祈りましょう。