教区の歴史

教区の歴史

岸神父金祝ミサ説教

2015年04月29日

2015年4月29日 荻窪教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

イエスは言われました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。(ヨハネ12・44-45)

わたしたち教会は聖霊の派遣をとおしてイエスによって創設された神の民です。聖霊の神殿、キリストの体と呼ばれます。しかしそのわたしたち教会は同じ言葉を言えるでしょうか。即ち、「教会を見る者はイエスを見るのである」という言葉です。ある程度は実現している言葉です。

初代教会の人々を見て、「なんと彼らは互いに愛し合っていることだろう」と教会の外の人が感嘆した、と言われています。そうでありたいものです。

誰も神を見たものはいません。神の愛が実行されているなら其処におられるのです。神を信じていると称しても困っている人がいるのに無関心である人がいます。他方、神を信じないと言いながら、苦しんでいる人のために献身する人がいます。そうなると、神を信じるとはどういうことが、分からなくなってきます。

「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12/45)

光であるイエス。復活の光であるイエス。正直に言えば教会の現実は光と闇の交じり合った状態。わたしたちの中には闇がありますが、同時に、闇の中に輝く光、灯火を指し示す存在でもありたいと願います。

そのためには光であるキリストから光を受けなければなりません。それはある程度実現していることであります。光を見ながら歩みましょう。光を見失わないように気をつけましょう。

子どものころ「光を掲げた人々」というラジオ番組があったと思います。そのなかには、キリスト者はでない人が多数、含まれていたように憶えています。

「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」(ヨハネ12・49)

わたしたちもそう言えるようでありたい、「わたしは勝手に語っているのではなく、わたしを遣わした方イエスの言葉を語っているのだ」と。

わたしは「言葉の重み」というか「言葉の力」ということを思います。言葉は人を活かし、人を支えます。祝福する、という言葉は、ご存知のように、ラテン語ではbenedicereです。 benedicereという言葉は、直訳するならば、「良く語る」という意味であり、転じて、「祝福する」、「善い事を語る」ということを意味するようになった、と考えられます。

祝福は、言葉はその内容を実現する、力をもっているという考え方にも連なります。挨拶などは祝福の典型です。現在、挨拶は、多分に形式化し、形骸化していますが、言葉に命を吹き込みたいものです。

他方、言葉は人を傷つけ苦しめ悩まします。言葉において過ちを犯さないように気をつけたものです。

新約聖書のヤコブの教えを思い起こします。

「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。・・・舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。

・・・舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。」(ヤコブ3・2,3・5、3・8,9)

実に身につまされる教えであります。

さて後半の話として、司教団の出した三つの「平和メッセージ」に触れたいと思います。

イエスは言われました。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)

日本の司教たちは戦後70周年に当たり、メッセージ『平和を実現する人は幸い―いまこそ武力によらない平和を』を発表しています。(2015年2月25日)

第二次世界大戦の悲惨な体験から、二度と戦争を起こしてはならない、という堅い決心をし、わたしたちは戦争を放棄し、紛争解決のためには武力を行使しないという決意を全世界に向かって表明してこの70年を歩んできたのです。戦争放棄という理想はキリストの福音そのものがすべての人に求めている、すべての人がめざし守るべき目標であります。

実は、司教団は、戦後50年にあたり、『平和への決意』というメッセージを発表しています。(1995年2月25日)この中で司教たちは言いました、
「当時のカトリック教会には、当時の民族主義の流れのなかで日本が国をあげてアジア・太平洋に兵を進めていこうとするとき、そこに隠されていた非人間的、非福音的な流れに気がつかず、尊いいのちを守るために神のみ心にそって果たさなければならない預言者的な役割についての適切な認識に欠けていた。」

また、戦後60周年を迎えたときには「非暴力による平和への道~今こそ預言者としての役割を~」を発表して、「キリスト者は、悪に対するのに悪をもって対抗するのではなく、悪に対して善をもって対抗し、悪に対して善によって打ち負かすよう、求められている」と述べました。 

この非暴力の精神により、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、また戦力を保持しない事をわたしたち日本国民は決意したのであります。憲法9条のおかげでわたしたち日本国民は、この70年、戦争によって誰も殺さず、戦争によって誰も殺されずに済んできたのです。

戦争、軍備、武器のためにどんなにか多くの軍事費が使われていることでしょう。武装を解除し、武器を平和と幸福のための道具に転換すべきです。

現実はこの理想から程遠いのですが、この理想に向かって歩んでいかなければなりません。

武器を放棄するということには心の武装解除が伴わなければなりません。心の武装解除とはわたしたちの間での信頼と友情を生み出し育てること、醸成であります。

イエス・キリストの十字架は民族の間の隔ての壁を打ち壊しました。わたしたちは同じ神の子として、ともに祈り、ともに学びます。

そのためにもまずわたしたちは異文化の人々、ことなる文化を生きる人々が互いに「触れ合い、助け合い、理解し合う」(1995年の司教団メッセージ『平和への決意』より)よう努めなければなりません。

平和のために働くことは日常の祈りと行為の積み重ねです。キリストに倣い、互いに痛みと苦しみを担い合い、喜びと希望を分かち合って歩んでまいりましょう。

それがキリスト者の平和への道であると信じます。