松原教会創立50周年記念ミサ説教

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2015年4月26日 復活節第4主日

[聖書朗読箇所]

説教

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(一ヨハネ3・1)

御父はどれほどにわたしたちを愛してくださっているでしょうか。実に「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)のです。御子イエス・キリストは良い牧者であり、自分の羊のために命を捨ててくださいました。

イエスは罪人(つみびと)のわたしたちのために十字架にかかってくださいました。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、キリストが罪人(つみびと)のわたしたちのために死んでくださったことにより、わたしたちへの神の愛が示されたのです。(ローマ5・7-8参照)愛する者のために命を捨てるほどの大きな愛はありません。

実際わたしたちは、自分が誰かを大切に思い、その人のための愛を生きる時に、自分がそのようにされたことを、すなわちどんなにか愛されていたのかを、悟ることができます。それは、わたしたちが親になって子どもを大切に思い、いとおしく思う時に、はじめて自分の親が、どんな思いで自分を育ててくれたのかを悟ることに似ていると思います。(よく、子をもって知る親の恩、といいます。)

ある人を愛する愛とは、その人のために苦しむ力、痛みを担う力です。天の父は御子イエスが十字架にかかることを忍ばれました。その父の愛を「神の痛み」と言うことができるでしょう。神の愛は愛する罪人(つみびと)のための神の痛みです。

さて牧者と言えば、まず、司教、司祭ですが、神の民はみな牧者の召命を受けています。

まず牧者の務めは、教え導くことです。正しい道を示し正しい道を一緒に歩くことです。

たとえば親であれば、親の務めは、歩むべき正しい道を知り、自分自身その道を歩き、その道を子どもに示すことであります。そのためには常に神の教えをよく知り、また神の言葉をよく聞き、神に善く祈らなければなりません。

また、牧者の務めは、人を受け入れ大切にすることです。特に、自分とは異なる文化の人々、他国の人々、自分とは異なる言語、国籍、背景を受け入れ、助けることです。

教会は本来、国際的で多国籍の団体です。主イエスの霊によって同じキリストの「からだ」を造っている神の民です。聖霊降臨の日の教会の成立を思い起こしましょう。互いに、異なる文化、言語、背景、国籍の人々が兄弟姉妹として受け入れ合い、助け合い、相互の理解を深めるという努力が教会のあるべき姿であります。

そして、牧者の務めとは、平和のために働くことです。

復活したイエスは弟子たちに言われました。「あなたがたに平和があるように。」(ルカ24・36)

山上の説教でイエスは言われました。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)

日本の司教たちは戦後70周年に当たり、メッセージ『平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を』を発表しています。(2015年2月25日)

第二次世界大戦の悲惨な体験から、二度と戦争を起こしてはならない、という堅い決心をし、わたしたちは戦争を放棄し、紛争解決のためには武力を行使しないという決意を全世界に向かって表明してこの70年を歩んできたのです。

戦争放棄という理想はキリストの福音そのものがすべての人に求めている、すべての人がめざし守るべき目標であります。

戦後60周年を迎えたときには「非暴力による平和への道~今こそ預言者としての役割を~」を発表して、「キリスト者は、悪に対するのに悪をもって対抗するのではなく、悪に対して善をもって対抗し、悪に対して善によって打ち負かすよう、求められている」と述べました。 

この非暴力の精神は日本国憲法第9条によって具現しています。9条のおかげでわたしたち日本国民は、この70年、戦争によって誰も殺さず、戦争によって誰も殺されずに済んできたのです。

戦争、軍備、武器のためにどんなにか多くの軍事費が使われていることでしょう。武装を解除し、武器を平和と幸福のための道具に転換すべきです。

武器を放棄するということには心の武装解除が伴わなければなりません。心の武装解除とはわたしたちの間での信頼と友情を生み出し育てること、醸成であります。イエス・キリストの十字架は民族の間の隔ての壁を打ち壊しました。

わたしたちは同じ神の子として、ともに祈り、ともに学びます。そのためにもまずわたしたちは異文化の人々、異なる文化を生きる人々が互いに「触れ合い、助け合い、理解し合う」(1995年の司教団メッセージ『平和への決意』より)よう努めなければなりません。

平和のために働くことは日常の祈りと行為の積み重ねです。キリストに倣い、互いに痛みと苦しみを担い合い、喜びと希望を分かち合って歩んでまいりましょう。

それがキリスト者の平和への道であると信じます。